
Oldies’60s,&
My Hardies in California
私の二十代
(5)
入国審査場で審査官に求めに従い入学許可書、伝染病の結核を患っていないことを証明するA3サイ図の胸のレントゲン写真、それにパスポートを提出すると、
「たった100ドルしか持っていないのか?」と、
白人入国審査官は、パスポートの最後の頁に記載された、日本銀行の外貨額持ち出し許可額とオレの顔をまじまじと見た。
ほんの20年前、日本との戦争に勝った国、アメリカ人に英語で話した経験もなく、命の綱である百ドルの所持金、それに片道切符ではアメリカへの入国拒否、即、強制送還されるのではないかと不安と恐怖で心臓はパクパクと波打ち、パニック状態に陥った。
「現金を持っていると危険だから、後で父が送金してくれる」と、とっさに知っている限りの単語を必死に並べ、何とか無事入国管理所を通過し、流れ出る額の汗を拭きながら、空港ターミナルビルの外へ出た。
すると、そこには映画で見たことのある、美しく着飾ったポリネシア系美人のフラダンサーが数人、微笑みながら空港から出てくる乗客一人ひとりの首に、ハワイの綺麗な花で作ったレイをかけていた。
彼女たちは、オレにもかけようとしたが、所持金100ドルしか所持金のないオレは、情けないことに代金を取られるものと勘違いし、彼女たちが親切にオレの首にかけようとしたその綺麗なレイを断った。それはハワイを訪れた人を歓迎するタダだったのだのだが・・・・・・。
英語の話せないオレは、出発前、渡航客のビザ取得の仕事で顔馴染みになっていた神戸アメリカ領事館のスタッフから得ていた情報で、ホノルルでは日系人経営の「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。
空港から「コバヤシ・ホテル」へ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行った経験があると言った。
それを聴いた途端、子供の頃、神戸の街角を派手な化粧、ファッションの日本人女性を連れ歩いていた戦勝国、アメリカの進駐軍兵士が、今アロハ・シャツを着て運転するタクシーに敗戦国、日本の若造のオレが乗っていることに何か言い知れぬ違和感と畏れで緊張した。
その上、彼の英語もほとんど理解できず、
「オー、アイ・シー、オー、アイ・シー」と、私はわかったような生返事の連発で、ホテルに着くまで乗り心地は実によくなかった。
タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した
「コバヤシ・ホテル(現在のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで約4ドル50セントだった。
ホテル代は一泊10ドル(3,600円)と高いのに驚いた。
当時、日本の高級旅館が一泊二食付1,300円ほどだったので、手持ち100ドルしかなかったオレはこのホテルの宿泊代は今もはっきり覚えている。
当時の一般日本人には、ホテルなどという気の利いた宿泊施設は無縁なものだった。ほとんどの日本人は旅館を利用していた。オレもホテル宿泊、ベッドなる寝具に寝るのも初めての経験で、ホテルの何もかもが珍しかった。
風呂は日本のそれと違い、肩までどっぷり浸かることも出来ない狭く浅いタブで体を洗った垢が、タブから出ようとすると体中にこびりつき気持ち悪くかった。だから、今でも海外のホテルの風呂タブは嫌いである。
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