海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
大迫嘉昭(おおさこよしあき)
1939年 兵庫県神戸市生まれ
1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
1969〜2004年 ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務
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My Hardies in California
私の二十代
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ひと月ガーディナーの助手をやれば、日本での半年分を稼げるアメリカは後進国日本から来た者には大きな魅力だった。そのため、観光ビザで米国に入国し、ビザが切れても不法滞在する者が多かった。彼らは移民局に捕まり、日本へ強制送還されることを非常に恐れていた。だからビザが切れようが切れまいが、ロサンゼルスに滞在する多くの日本人旅行者の最大の関心ごとは、移民局に強制送還されることなく、安心して仕事の出来る「永住権(グリーン・カード)」を如何にして手にいれるかということだった。
日本人町の飲屋には米国永住権を持った日本女性のウエイトレスが多く働いていた。その多くの彼女たちは、戦後日本に駐留していた米軍兵士と結婚、その後、夫の米軍兵士と米国へ渡り離婚したいわゆる「戦争花嫁」と呼ばれていた女性たちだった。その彼女たちに三千ドル払えば「契約結婚」できるという噂をよく耳にした。外国人がアメリカ国籍を持っている者と結婚して一年後に離婚すると、その外国人配偶者はアメリカの永住権(グリーン・カード)が取得できた。
その米国永住権(籍)を持った彼女たちと「契約結婚」を望む日本人旅行者が多かった。しかし、「契約」できても、事はそう簡単には運ばなかった。「結婚」後一年が経過、「離婚手続」の段になって、契約相手の「妻」が莫大な慰謝料を請求してくるのだ。この請求を呑まないと「妻」は「移民局」をチラつかせる。秘密の「契約結婚」は公にできないので、「夫」は彼女の要求を呑まざるを得ない。
慰謝料は5,000ドル(180万円)とも10,000ドル(360万円)ともいわれ、日本では家が一軒買えるほどの額だと言われていた。
それでも、慰謝料で解決できる離婚はまだよい方だった。観光ビザでアメリカに入国し、永住権を得るため契約結婚した女性と同じ屋根の下で生活し、一年が過ぎ離婚手続きとなったとき、「契約上の妻」が離婚届のサインを拒否し、日本から本妻や子供をアメリカに呼び寄せることもできず、蟻地獄に落ち込んだような話を直接本人から聞いたことがあった。「永住権」に無関心だったオレでも、これぐらいは知っていたのだから、当時観光ビザでアメリカに入国した日本人には、永住権を獲得することがどれほど大変だったかわかる。
こうした不法なことをせずに、合法的にアメリカの永住権を獲得する近道は、アメリカの軍隊にボランティア(志願)入隊することだった。
ベトナム戦争が拡大するとともにアメリカ兵の死傷者数が増加し、ロサンゼルスのいたるところに、志願兵を募るポスターが張り出された。
志願兵は自分の希望するところに配属され、自動的に市民権が授与された。除隊後は大学の授業料が免除になるなど、いろいろな特典が与えられるので軍隊へ志願した日本奴もいた。
日本人の志願兵がアメリカ兵としてベトナムへ配属され、休暇中に日本へ逃げ帰ったニュースが当時の新聞紙上を賑わしたのもこの頃であった。
時は流れ、庭師の仕事は日系人の生業ではなくなった。戦後、日本人がアメリカへ渡り、そこでの生活基盤を築く象徴であったヒガ・ボーディングも日本が経済大国へと発展すると、その役目を終えたが、建物は今も残っている。
墓地で働く
夏の間、ガーディナーのヘルパーをして、ロサンゼルス・カウンテイー(郡)中を走り回ったオレは、九月になると州立の英語学校へ入学した。学校はボーディング(下宿屋)から車で十分程の距離にあったが、車のないオレは下宿屋からバスを乗り換え一時間のほどかかった。バス賃は二十五セントと安かったが、停留所には、行先や時刻表の表示もなく、何時どこ行きのバスが来るかわからず、車の運転できない老人やオレのような車を持たない貧乏人のための不便きわまりない乗り物であった。
英語学校は午前と午後の二部制で、学校が始まると、ヘルパーの仕事は時間的に不可能で、オレは生活費を稼ぐため、午前中の授業を受け、午後からバイトしようと目論んでいたが午後二時半から夜九時まで授業に回された。
夏の間、ヘルパーをして四百ドルほど稼いだが、これだけでは五か月分の下宿代にしかならず、オレは学校に行くまでの午前中、下宿屋の食堂で「羅府新報」の求人欄を見るのが日課になった。だが、狭い日系社会、求人広告も少なく、しかも午前中だけの仕事など皆無だった。
英字新聞「LA Times」の求人広告欄は六、七ページもあった。ベトナム戦争が拡大していく時期で「Aircaft Assembler(航空機組立工)」の募集の求人広告だけでも数ページと広告も最も多かったが、英語が話せないと採用される可能性はないと思い、問い合わせもしなかった。
学校が始まったが、仕事のない私は下宿屋の経営者、ミセス・ヒガに仕事を頼んでいた。ある朝、ミセス・ヒガが、
「ローズ・デール・セメタリィ(墓地)で午前中だけでも働ける人手を探しているが、墓だから誰も行きたがらないけど・・・。ユー、行ってみる?」と、申し訳なさそうに言った。墓であろうが何であろうが、午前中働ける仕事はありがたかった。
さっそくオレは下宿屋から歩いて十分ほどのローズ・デール墓地へ出かけた。入口を探すのも大変な広大な墓地は赤煉瓦の高い塀で囲まれ、入口から奥へアスファルト道路が墓石の間を細く枝分かれしていた。道路脇は見渡す限り緑の芝生の中に大小の墓石が整然と並び、周囲は色鮮やかなハイビスカスが咲き誇っていた。
高々と伸びたパーム・ツリーの葉は爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて風にそよぎ、車の騒音も人影もなく静寂だけが支配する公園のような広大な墓地だった。
広い墓地の中を探し探し事務所に行くとミセス・ヒガから電話で連絡があったらしく、武藤さんという七十過ぎの温厚そうな日系人が出迎えてくれた。
写真:日本人町、市の象徴、市庁舎の近くにこんなに侘しい「日本人町」があるのが、実に不思議だった。今もその想いは変わらない。草刈りした墓。三年間はお世話になり、所得税も引かれていたが年金はもらっていない。Freeway10は建設中だった。
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墓地の葬儀一切は中年の白人三人が取り仕切り、武藤さんが八十エーカー(九万六千坪)の墓地の芝刈りと清掃を契約で一手に引き受けていた。
墓の働き手は中々見つからないらしく、即、採用された。時給は1ドル70セントと悪くなかった。勤務時間は午前7時から午後4時までだが、学校があるなら12時まででもよいと、願ったり叶ったりの仕事だった。早速、翌日から働くことにした。
作業はボスの武藤さんが幅広い墓石と墓石の間を草刈り用トラックターに乗り、墓石を傷つけないように刈って行くので墓石の周りには刈り残しができる。その墓石の周りの刈り残し部分を一個、一個、手押しの芝刈り機で刈るのがオレの仕事だった。
仕事仲間は四人いた。いつも上半身裸で働くひょうきん者の鈴木は35,6歳、元は東京本社のエリート駐在員だったそうだが、当時は墓の草刈りのほうが給料がいいと会社を辞めた独身者、ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)で、彼はベトナム戦争のエスカレートとともに、いつドラフト(徴兵)されるかわからないと、まともな会社に就職する気にはないと墓でバイトしていた。
タマシロは口ひげを伸ばし、太ったメキシコ人のような風貌をしていたが、いつもニコニコして愛想の良い二児の父親であった。小柄でハンサムで物静かなナカソネは夜間大学で法律を学んでおり、弁護士になるのが夢であった。
タマシロとナカソネは沖縄からペルーへ移住した三世で、日本語はほとんど、わからなかった。鈴木以外はオレと同年代であった。
朝、出勤すると我々は事務所で、その日当番になった奴が沸かしたコーヒーを飲みながら雑談し、そのあと、小型トラックに手押しの草刈機を積込み、曲がりくねった広い墓地の道路をその日の作業場へ向かった。
作業場に着くとトラックから芝刈り機を下ろし、何百もの墓石が一直線に百メートル以上先まで並んでいる、ボスの武藤さんが刈り残した一個、一個の墓石の周りを手押しの芝刈機で押したり引いたりして刈りながら、先へ先へと進み、並んだ墓石の一列を刈り終えると次の列へと移る。仕事はデラノの葡萄畑やの作業やガーディナーのヘルパー仕事に比べると遊びのような楽な単純作業であった。
楽しみは一時間ほど働くとボスの武藤さんの合図で、全員墓石に囲まれたパーム・ツリーの木陰に集まり、墓石に腰かけ当番が買ってきたコーヒーやコカ・コーラ、ドーナツを飲み食いしながら、それぞれ好きなようにコーヒー・ブレイク(休憩)するときだった。
オレはコーヒー・ブレイク中に、戦前、日本人学校の教師だった我々のボス(雇い主はどこでもそう呼ばれていた)武藤さんが墓石に腰かけコーヒーを飲みながら、雑談の合間、合間に、戦前の日系人の生活や太平洋戦争時代の経験談を話すのを聴くのが楽しみでもあった。
戦争が勃発するとすぐ、ボスの武藤さん日本人学校の教師という理由だけでFBIに連行され、数日間スパイ容疑で厳しい取調べを受け、その後、家財道具を二束三文で売り払い、人間としての人権まで踏みにじまれ、家族ともどもマンザナ収容所へ送られた。マンザナは日米戦争中、米本土に十ヵ所設けられた日系人強制収容所のひとつで、中部カリフォルニア、シェラネバダ山麓の砂漠の真中にあった。
夏は気温五十度を超えるときもあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付ける空っ風で非常に寒いという劣悪な環境にあったようだ。その上、収容されていた粗末な建物は床板の隙間から砂塵が部屋の中へ吹き込み、夜はベッドに入ると屋根の隙間から星の輝きが、きれいに見えたもんだよと、懐かしそうに話してくれた。
日本語はまったく話せないペルー三世のタマシロは歌謡曲を唄えばプロ並みにうまく、地元の「のど自慢」で優勝した経験があるらしく、コーヒー・ブレイクになると、大きな墓石の上であぐらを組み、「並木の~雨の~♪」と、「東京の人」などをよく歌っていた。ナカソネは物静かでヤツで、休憩時間でも大きな墓石を枕に寝転んで静かに教科書を広げていた。
毎朝、我々仕事仲間は、一人他の連中より早く事務所に来て、コーヒーを沸かす当番制になっていた。この当番が実にイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤというのではなく、それを行う場所の環境に問題があった。
平屋の事務所は周りを植木に囲まれ、中は薄暗く、前に火葬用の焼却炉があり、後日、火葬された身元不明者の身元を確認するための、デスマスクが事務所の壁に十個ほど、無造作にぶら下げてあった。
この生ゴムで作られたデスマスクに囲まれて一人でコーヒーを沸すのだ。それに、事務所に隣接した作業場には、粗末な板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が積み上げられていた。このような環境のもとでのコーヒー当番は実に気味悪で嫌だった。
時々、白人の作業員たちが、事務所前にある焼却炉で火葬をしていた。彼らは機械的に黙々と焼却炉の蓋を開け、火力が強く貝殻を金槌で叩き潰したように小さな粒になった骨と灰を小さなスコップでバケツに取出し、それを地面一杯に広げ、金歯を漁っていた。彼らは集めた金歯を空ビンに溜めて、ある程度溜まると、バーナーで溶かしポーンショップ(質屋)に行き売っていた。
それは彼らのボーナスというか臨時収入であった。彼らの臨時収入はほかにもあった。葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った火葬用の棺桶にホトケさんを移し替え、上等のものは葬儀屋に引き取らせていた。
事務所の隣にある葬祭堂の奥に遺体安置所があった。時折、二十歳前後の医大生という白人女性が中古車で来て、一体三十ドルで「死に化粧」のバイトをしていた。時々、安置所の前を通ると、その奥から彼女が、
「入っておいで」と、彼女は笑顔で手招きしたが、気持ち悪くいつも我々は、
「ノ、サンキュウ」と、その場を小走りに逃げていた。
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人種差別がひどいアメリカだったが人生の最後だけは、貧乏人、金持、白人、黒人、マイノリティーの差別なく霊柩車は同じアメリカ一の高級車、黒塗りキャデラックのリムジンで墓地へ運ばれていた。
日本と違ったのは、霊柩車のあとに続く遺族関係者の車は昼間でもヘッドライトを点け、二台の白バイが先導され「天国までノン・ストップ」とばかりに赤信号でも止まらず、墓場へ直行していた。
埋葬用の穴は、白人従業員がパワーシャベルで深さ六フィート(約一・八メートル)まで掘り、そのあと棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで凸凹を削っていた。しかし、ロサンゼルス一帯の地下は油脈が通っており、穴を掘ると底の方からジワジワと真っ黒な原油が滲み出て、埋葬用の穴を掘っていると、彼らの靴や作業着は油まみれになった。
原油の滲み出る墓地に木製の棺桶を埋葬すると、棺桶の隙間から原油がしみ込み、ホトケさんが油まみれになるので、オレがこの墓地で働きだした頃は、コンクリート製の棺桶に木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。
年中、雨は降らないと言われる南カリフォルニアも、十二月から一月にかけて雨がよく降る。雨がつづくと、芝刈り作業は危険きわまりなかった。墓地全体の芝生が雨をどっぷり吸い込み、その重みで昔埋葬された木製の棺桶が壊れ陥没することがあった。オレも草刈り作業中に足元が突然陥没して、腰まで埋まった経験がある。
こうなれば、一人でいくらもがいても抜け出すことは不可能で、仲間全員に埋まったオレの腰回りの土砂を取り除き、引っぱり出してもらった。
着ている物が汚れるのは仕方ないが、棺桶の中のホトケさんが油まみれの手で埋まったオレの足を墓の下深くまで引っ張るような気がして気味悪いこと、この上なかった。
慣れとは恐ろしいもので、日々、墓地で働いていると、コーヒー沸かし当番の早朝、事務所の壁に掛かっているデスマスク以外、気味悪さは感じなくなっていった。時々、仕事仲間と戯れに事務所前で相撲を取っていた。そこには死体焼却炉と焼却後の灰を入れるドラム缶があった。ある時、相撲を取っている時、勢い余ってドラム缶をひっくり返しジンズの下半身が灰まみれになった。それを見ていた周りの者は大笑いしながら、ブラシで灰を擦り落としてくれたが、一週間ほどアパートのカーペットに白い粉が残り、掃除してもなくならなかった。
いくら無宗教のオレでも、仏教の宗教観が自然に体にしみ込んでいることを、アメリカの墓地で働いて初めて感じたというか知った。
日本では年寄りたちから、
「ホトケさんが枕元にった」という怖い話や、子供のころに見た幽霊映画、お盆の夕方、線香の煙が漂う薄暗い墓など、どれもが薄気味悪い霊の存在として無意識のうちに脳にインプットされ、オレなりの仏教感が身にしみついていた。
しかし、アメリカでは、亡くなった人の霊がベッド脇に立ったとか、雨の夜、額に三角巾を付けたあの有名な映画俳優ジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたなどという話は聞いたことはなかった。そのためか、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても、日本人のそれを見た時とは、全くと言っていいほど違う感情で怖くもなかった。
もっとも、アメリカの墓地全体が芝生を敷いた、広々とした公園のような明るい雰囲気があったからかも知れない。
それにしても、我々日本人には、決して想像さえできないことだが、タマシロとナカソネは作業中には、いつも便所代わりに墓石に向かって小便を飛ばしていた。
葬儀は洋の東西を問わず厳粛なものである。毎日、埋葬や火葬、墓石に刻まれた故人の誕生から死までの歳月を見ていると、人間の一生なんて宇宙の星が瞬きする一瞬だという思いが強くなった。「死んで花実が咲くものか」、「生きているうちが華」だという思いが強くなり、自分の人生を精いっぱい生きることの大切さを知り、感じ、学んだだけでも墓で働いた価値はあった。
日々の生活
ある週末、英語学校の高知出身の友人がオレをラスベガスへ誘った。オレはラスベガスが「博打場」であることは、映画を観て何となく知っていたが、「博打場」という言葉のイメージに、何となくヤクザの溜まり場を想像し、興味もなく、彼が誘うまでラスベガスがどこにあるかも知らなかった。しかし、彼の強引な誘いに負け、仕方なく彼の中古車で同行した。
ラスベガスのダウンタウンのホテル駐車場に車を置き、彼とホテルのカジノへ入った。彼が賭け事をしている横で、手持無沙汰のオレはボケっと彼の賭けを見ていると、オレの存在が気になり、賭け事に集中できないのか、彼は坂本龍馬のような高知弁口調で、
「お前も何かやったらドナイや」と、何度もしつこく言うので、オレは前日貰ったばかりの墓の週給四十五ドルから、1ドルを嫌々ながらポケットから間違わないように注意して抜き取った。この1ドルは頼れる人間一人もいないアメリカでは、オレには無駄にできない身を切るような大切な1ドルだった。しかたなくオレは意を決して、彼のするダイスをまねして賭け始めた。
すると1ドルチップは無くなるどころか、彼も周りも者も、オレのチップが山盛りに溜っていくので騒ぎ出した。
オレはわけがわからなかったが、
「もうやめたほうがエエで」という、
彼の忠告に従いチップを現金に換えると1,000(36万円)ドル前後あった。
アメリカの二か月分、日本の一年分の収入を三十分ほどで勝ったのである。まさにビギナーズラックであった。
ロサンゼルスへ帰った翌週、早速、700ドルの中古車(六気筒のフォード・ファルコン小型)を買った。
日本ではまだ、車はよほどの金持ちでないと買えない時代であったが、一気に、オレ中古車といえ車が手に入った。
バスしか交通機関のない広いロサンゼルスでは、車がないのは足がないのと同じで、何かと不便だったが、中古車だったが手に入り移動が簡単になりうれしかった。
ガソリンは一ガロン(3.75リットル)、20セント(72円)と安く、2ドルも入れれば仕事場の墓と学校に行くには十分であった。馴染みのガソリン・スタンドのオーナーは白いツナギの作業着に、伏しなしの眼鏡をかけ、中太りのいかにも二世という雰囲気の四十前後の男であった。
事務所のテーブルには、この二世の彼には不似合いな「小説倶楽部」、「文芸春秋」など日本の雑誌が常に置いてあった。
不思議に思い、ある時、彼に聞くと出版社が勝手に送ってくると言っていた。また、彼は戦争中、潜水艦で日本近海まで行き、ゴムボートで日本に上陸して、日本国民に接触して情報を集める仕事をしていたと言った。その話が本当かどうかわからなかったが、
「戦争中、ジャパンは二言目には『大和魂』を持ち出していたが、アメリカの『物量主義』には勝てなかった」とか、
「多くの日本軍の責任者は、多くの国民や日本兵を死にやったのに、戦争が終わる直前に詫びることなく、腹を切り、ピストルで頭を打ち抜いて死によったが、あれはサムライのすることではないわのう」と、広島弁訛りで言っていたがオレは異議なしだった。
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車が手に入ると通学時間も短縮され、墓地で働く時間がのび、月に180ドルぐらいは稼げるようになった。
そして、生活が軌道に乗り始めると、プライバシーのない下宿屋を出るため、アパート探しを始めた。今の時代では考えられないことだが、1960年代、日本人がアメリカに行き最初に考えることは、日本人のいないアメリカ人(白人)居住区に住むことだった。オレもその一人で、日本人の住んでいない所、白人居住区へアパート探しに出かけた。「For Rent(貸し部屋あり)」の立て札を掲げているアパートを何軒回っても、「外すのを忘れていた」と、立て札を外しながら、家主はオレの賃貸を断わった。
今はそんなことはないと思うが、1960年代、日本でも外国人がアパートを借りに来たら、ほとんどの日本人家主は断っただろう。
「オレは敗戦国日本人だ。白人に賃貸を断られても仕方ない」という先入観があったので、おれは「人種差別」と考えることもなく、別に気にもならなかった。そんなことにいちいち目くじらを立てていては、アメリカでは生活できない時代だった。
アジア系のおれが白人居住区に部屋を見つけることは時間のムダであるとわかり、日系人の経営するアパートを借りることにした。
日本人は日系人居住区に住まざるを得ない暗黙のルールがあり、そこに住むほうが気分的に気楽であると悟った。日系人居住区にも少数であるが、金持の黒人や、かつて白人居住区であったそこに住まざるを得ない、貧しい白人老人たちも慎ましく日系人と共存していた。
アメリカは世界各国からの移民で出来た民族国家である。だから人種、宗教、肌の色に関係なく、いろいろな人種が交じり合って住んでいるのは間違いなが、実際は人種ごとに居住区を形成して暮らしていた。
ロサンゼルスも白人居住区、黒人居住区、日本人居住区、メキシコ人居住区といった具合に、それぞれの人種ごとに住む地区が分かれていた。白人でもユダヤ人地区は別にあった。
日系人アパートも黒人に貸すのを嫌い、「空部屋あり」と、日本語の立て札を出していた。白人のアパートの賃貸は断られたが、敗戦国の日本人の入国を受け入れる懐の広さは流石、器は大きかった。
日本が戦勝国であったら、日本はアメリカ人を同じように受け入れただろうか。
オレが借りたアパートは築間もない、白ペンキ塗りの二階建てで、除隊したばかりの帰米二世、幼子を三人抱えた未亡人、白人宅でメイドをしている日本人妻とテレビばかり見ている二世の年老い主人、三十過ぎのファション・デザイナーの姉妹、それにオレと同じ年頃のヤマハ新婚駐在員Aさんなどの日系人が住んでいた。
Aさんの部屋からは、当時、アメリカでも一般の家庭にはまだ普及していないピアノがあり、新婚の奥さんが昼間よく弾いていた。あのピアノは間違いなくヤマハ製だったと思っていた。週末は同じ会社の駐在員仲間とドライブへ出かける優雅な駐在員生活に触れ、オレも将来あのような生活をしたいと刺激になった。
話が少し横道へ逸れるが、1968年のバイク世界一周した時、バイクの使用を勧めてくれたのは同じアパートに住んでいたヤマハのAさんだった。Aさんは新婚で、奥さんがピアノを弾いていたと思っていた・・・・・。オレはそのちょっとしたことが、忘れられず、帰国後、Aさんの消息を50数年間探し求めていたところ、二年前ヤマハのOBである小柳さんという方がAさんの消息を知らせてくださった。
早速Aさんにメールで連絡するとAさんは当時独身だったという。オレは認知症が進んだのかと薄気味悪くなった。記憶をたどっていくと、オレはピアノを弾いていたその奥さんを見たこともなく、その主人とは、ちらっとあいさつしたぐらいで顔も覚えていなかかった。Bさん夫婦が転勤し、そのあとに独身のAさん住んでいたのだ。
アパートの管理人は歯がほとんど抜け、話すと口と顎がクニャク
ニャと動く六十半ばの日系二世女性で、手拭いを頭にかぶれば野良仕事をしている日本のバアさんのような老女であった。
彼女は日本には一度も行ったことがないと言っていたが、流暢な日本語を話し、「平凡」や「映画の友」など月刊誌の愛読者で、特に吉永小百合の大フアンで愛想の良い管理人だった。
彼女には三十過ぎの独身の息子が一人いた。でっぷりと太った息子も愛想がよく、母親思いで、週末には母親を車に乗せ、よく日本人町へ日本の雑誌を買いに行き、日本映画専門の映画館へ行っていた。
オレの部屋は、当時の日本では考えられない、ワン・ベット・ルームに居間とキッチン、シャワー付きバス、エアコン、トイレ、駐車場付でガス電気代込み部屋代は月40ドルであった。ツー・ベッドの部屋代が90ドルぐらいだった。
キッチンには日本では見たこともないオーブンが付いており、電話代は一ヶ月5ドルで60通話かけられ、車まで持ち、日本ではできない贅沢な生活様式に私は大満足でった。
だが、オレは学校とバイトで時間的な余裕は全くなく、アパートの日系人住民とは挨拶程度の付き合いだった。
バイトと学校に追われる日々であったが、週末になると友人とボーリングや日本映画をよく観に行った。それが唯一の楽しみだった。ロスアンゼルスには日本映画を上映する映画館が六軒あった。ラブレアAve.とOlympic Blvdの一角には東宝直営の「東宝ラブレア」という映画館があった。
東宝ラブレア以外の映画館はクレンショーBlvdとエクスポジションBlvdの交わる近く、LA Times 本社近く3ed St.にあったが日本の場末にある古い映画館と同じようなものだった。違いといえば英語で書かれた看板ぐらいであった。東宝ラブレアは高級な雰囲気を持ったピアノバー「チェリー・ブロッサン 」があった。
昼間働くガーディナーの多い日系人社会、日系人経営映画館は、平日は夜七時から一回しか上映せず、週末の土、日のみ、昼過ぎから上映していた。
当時の週末の楽しみといえば、映画を観るぐらいで、週末ともなると、これらの映画館は一世の年寄りや日本からの駐在員、留学生たちで溢れかえっていた。特に東宝ラブレアで上映される日本映画は白人や黒人、それに日系アメリカ二世、三世たちにも人気があった。
黒沢監督、三船敏郎の名前はアメリカでも広く知れ渡っており、「用心棒」や「椿三十郎」が上映されたときは、アメリカ人観客が列を作るほどの人気だった。
一世たちには勝新太郎の「座頭市」や「兵隊ヤクザ」のシリーズが大好評で、二世、三世たちには加山雄三の「若大将」シリーズが大好評であった。
また、週末のこれらの映画館は日系人や日本からの留学生、駐在員の社交場でもあった。週末に映画を観に行けば下宿屋にいた頃の友人、知人、学校を去っていった友人たちとばったり会うことがあり、映画鑑賞とは別な楽しみがあった。
久しぶりに彼らに会うと連れ立ってハリウッド近くの「インペリアル・ガーデン」へ場所を代え、ホキ徳田(『北回帰線』などの文豪ヘンリー・ミラーと結婚した日本人)のピアノの弾き語り聴きに行ったりした。彼女は陽気な性格で酔うといつも適当に歌詞を変え弾き語っていた。(つづく)
写真:住んでいたアパート、東宝ラブレア
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十月に入ってもロサンゼルスは夏のように暑いインディアン・サマーが続き、それが収まると自然は正直に秋の訪れを知らせてくれた。墓地のプラタナスの葉は日々に茶色に色づき始め、一枚、また一枚と枝から放れ落ちて、墓地全体を冬の景色に変えていった。
トランジスター(携帯)・ラジオから流れるママス・アンド・パパスの「夢のカリフォルニア」を聴きながら空を見上げると、黄色みを帯びたスモッグが空全体を覆い、太陽の光も鈍いロサンゼルスでは感傷的な気分にはれなかった。
名ばかりの四季、渇ききったこの地では、人は心までドライにするように思えた。
当時の日本のマスメディアは、日本人留学生は学校も行かず、働いてばかりいると、なにかにつけ留学生をこき下ろしていた。日本でも働きながら学校に行く学生は多いのに、なぜ米国留学生は働いてはいけないのだと、オレはそのような非常識なメディアに驚愕した。オレはたとえ「アメション」(アメリカへ行って小便をして帰ってきただけという、米国留学をからかった言い方)と言われようが、会社を辞め、親に迷惑かけ米国留学したオレは、世界一豊かな先進国アメリカに来たからには、何事にも興味を持ち経験して、三十歳になるまでに自分の人生の道筋を決めるようという気持ちが強かった。
学生時代、成績の優秀なヤツは教室では、
「オレは家では勉強もせず、遊んでいる」と、いうような顔をしていたが、天才でない限り、陰では必死に勉強していたに違いないと、アメリカで留学生活する内に努力の大切さ、必要性を学んだ。だから学校と生活を支えるため、働くことだけの日々だった。
金銭的余裕もなく、働くだけための夏休み,旅行など思いもしなった。クリスマスやイースターの休みに、仲間とヨセミテ国立公園やサンフランシスコなどへ一泊ドライブ旅行に出かけるのが関の山だった。
それでも日本では出来ない「豊かなアメリカ生活」の経験できることに喜びを感じ、何の不満はなかった。
オレは二年ばかりの日本でのサラリーマン生活であったが、満員電車に揺られ、終業時間が過ぎても上司が帰らない限り退社できず、仕事が終ってからも、上司に誘われると、夜の付き合いも断ること出来ない、日本独特の会社の仕来りにうんざりしていた。がから米国での生活は全く金銭と時間的余裕はなかったが、オレにとって他人に束縛されない、自由で快適な生活を送れる国だった。だから、日本は脳裏から消え去っていた。
オレは英語学校を一年で辞め、大学へ入学した。英語学校に残っているのはアメリカ永住権獲得までの「学生ビザ」を隠れ蓑にしている連中が多かった。
大学へ入学すると授業料など出費がかさみ、土、日もアルバイトに精を出し、仲間と会う機会はほとんどなかった。お互いそんな暇はないというのが本音だった。学校とアルバイトのない時はアパートの隣の帰米の二世のガーディナー、博士号を取った高知出身の天才たちとマージャンするか、日本人町へ出かけるぐらいであった。オレが日本人町に足を運ぶのは「大阪屋」で食事しながら、船便で送られてくる一ヶ月遅れの「デイリー・スポーツ」を読み、「日本書店」で、これも一ヶ月遅れの「平凡パンチ」や本を買う、ささやかな楽しみのためだった。
それと日本からロサンゼルスにボクシング修行に来て一戦、一戦強くなり知名度が上がりだした西城正三選手の試合を見に行くことだった。西城選手に最初に会ったのは、1967年12月、日本人町のレストラン「大阪屋」であった。三人の日本人ボクサーが修行のためロサンゼルスに来ていることは日系新聞「羅府新報」で知っていた。
彼らは私の隣のテーブルに座り雑談していたので、オレから声をかけて話題の中に入れてもらった。学生時代ボクシングをやり、アメリカに来てからはテレビで毎週ボクシングの試合を見ていたオレに、
「日本のボクサーに比べ、こっちのボクサーはどうですか?」と
一人が訊いてきたので、
「日本のボクサーに比べて打たれ強いですね」と、言うと、
「倒せばいいのでしょう」と、一人の若者がアイスクリームをなめながら、表情も変えず言った。
それが後のWBA世界フェーザー級チャンピオン西城正三、21歳であった。
西城選手と知り合った翌年の2月、彼が世界フェーザー・ランカー、メキシコ人ボクサー、ルイス・ピメンテルとの試合を見に行った。勝ったと思ったが、僅差でピメンテルの勝ちになった。
その判定に観衆が騒ぎだし、一か月後再試合することに決まった。
日本人観戦者はほとんどいない時代だった。その一か月後、西條選手はKOではなかったが、文句のつけようのない判定でピメンテルを下した。
大学に入っても、日本からの留学生が白人や黒人学生と交流はあったとしても学校内だけだった。学校以外で交流関係を持つ留学生は希だった。日常的には日系人でさえ、他の人種の家を訪問することもなかった。
日本の平均年収が750ドル(27万円)ほどの時代、親許からの仕送りで映画のような「楽しい留学生活」を送れる留学生は希で、ほとんどの日本人留学生同士の交流する時間もなかった。留学生は学校と生活費を稼ぐのに必死で、オレなどアメリカ人学生と交流する時間もなく、そんな気持ちも起こらなかった。また、敗戦国からきた発展途上国、貧困の日本人学生が白人アメリカ人との友人関係を築き上げるには、途方もないエネルギーと貴重な時間を費やす必要があった。アメリカ人学生から友達になろうと近づいて来ることもなかった。
明治時代、夏目漱石や森鴎外のような著名人がイギリス、ドイツ、アメリカ等の西洋に海外留学して、その国での人々との交流録を書いている。漱石はせっかくロンドンまで来たのだからイギリス人の知人、友人を作らねばと、わざわざ英語の家庭教師を雇ったそうである。
あの当時、アジアの東の隅にある小さな国から来た背の低い彼らが堂々と留学先の西洋人と交流したとは思えない。
小田実にしても「何でも見てやろう」によると、彼は戦後すぐフルブライト留学し、多くの米国やほかの外国の知識階級の人々と交流し、英語で討論などしているが、どこまでが本当だったのだろうか。
オレは上手く英語でコミュニケーション出来ないことも事実であったが、アメリカで差別を受けた記憶は全くない。アパートを借りに行ったとき断られたのは、若い貧乏学生だったからかも知れない。
差別されていると感じるのは心の問題であり、差別を感じなかったオレは鈍感なのかも知れない。
自分の生まれた国の環境、受けた教育、文化など自分の薄っぺらな物差しで、よその国や国民を判断すべきでないと思っていた。だから、アメリカがどのような国で、アメリカ人がどのような国民であるか、意識して、アメリカはこのような国だ、アメリカ人はこういう国民だと判断する気はさらさらなかった。
アメリカの素晴らしいところは、夜間大学卒も全日制大学卒でも同じ教育を受けている限り、就職しても日本と違い昇進に差別がないことだった。
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