海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話



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Osako Yoshiaki (大迫嘉昭)

大迫嘉昭(おおさこよしあき)
1939年 兵庫県神戸市生まれ
1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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Oldies’60s,&
My Hardies in California 
私の二十代
(21)
アメリカ生活にもすっかり慣れた1966年、ベトナム戦争の拡大とともに忘れられない事件や事故が内外ともに多発した。
二月、北海道千歳空港発羽田行き全日空ボーイング727機が東京湾に墜落、乗員とも233人全員が死亡、一機の死者としては当時世界航空機史上最悪であった。
全日空機の事故から一ヶ月後の2月4日、同じく羽田空港でカナダ太平洋航空のDC8型機が着陸に失敗、72人中、64人が死亡する事故が起きた。翌日の5日、今度は英国のBOACのボーイング707型旅客機が富士山で墜落、113人全員が死亡した。
この航空機事故は、二日続きの航空史上例のない大惨事であった。カナダ太平洋航空機の事故は、いつも行くアパート近くのコンビニで売っている「ロサンゼルス・タイムズ」を見て知った。
その日の夕方、同じコンビニの前を通ると、航空機事故を報じた新聞が再び目に入った。
「今朝の新聞,まだ売れ残っているのか?」と、なじみの店主に訊くと、
「朝から、そんなことを訊くのはお前で8,9人ぐらいだ。無理もないけど。よく見ろよ。二日続いて同じ国で、それも100マイル(160キロ)以内でこんな飛行機事故が起こるなんて初めてだもんな」と、
ユダヤ人の店主は両手広げ、大げさに驚くしぐさをした。
時差の関係で、アメリカでは二つの事故は朝刊と夕刊に載った。
だから、このような錯覚を起こしたのだ。忘れることのできない日本の航空事故であった。
ベトナム戦争と公民権運動
当時、世界一豊かで自由な国、アメリカは国内外に抱えた問題が拡大しつつあった。内においては、黒人やほかのマイナリティ(少数民族)が教育、雇用、住居、司法などの分野における人種差別に抗議し、白人と同等の権利の保障を要求する運動が起こっていた。その代表的な運動がマーティーン・ルーサー・キング牧師の指導した非暴力による直接の抗議行動、いわゆる公民権運動であった。
外に対しては、私がガーディナーのヘルパーをしていた1964年8月に起こったトンキン湾事件である。ベトナム北部にあるこの水域で、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたとして、アメリカ空軍は北ベトナムの沿岸基地を爆撃、ジョンソン大統領は戦争遂行の権限を議会に求めた。議会は圧倒的多数でこれを承認、これを契機に北ベトナムの爆撃と地上部隊の大量派遣に踏み出した。この事件によってアメリカは、少なくとも国内的には、ベトナム戦争に介入する大義名分を得た。
この二つの歴史的事件は、毎日トップニュースとしてテレビ、新聞などで大々的に取り上げられた。だがオレの知る限り、アメリカはベトナムで戦争している一方で宇宙ロケットを打ち上げていた。戦争は本来、国全体が団結して敵に立ち向かうものだと思っていたが、アメリカは片手間にやっているような感じで、周りのアメリカ人も他人事みたいなゆとりがあり、最初の頃は戦争の緊張感もなく周りのアメリカ人は表面上、何事もなく日常生活を続けていた。
1965年三月の初め、南ベトナム空軍機とアメリカ空軍機160機以上が北ベトナムの弾薬貯蔵庫や海軍の軍事施設を爆撃、70から80パーセントを破壊したとメディアは報じた。この出撃はアメリカのベトナム戦争介入以来、最大規模だった。それから数日後、アメリカは戦車を含む重装備の海兵隊3,500名を北ベトナムのダナン海岸に上陸させた。
テレビや新聞はこのニュースを連日大々的に取りあげ、いくら直接関係のないオレでも、アメリカに住んでいると、アメリカが本気でベトナムへ介入していくのを肌で感じ始めた。
アメリカに行くまでは、アメリカの大学は中産階級の子弟が学び、卒業後はエリートとして敷かれたレールに乗りまっしぐらに出世街道を走るものであり、日本の60年安保のような過激な政治運動とは無関係なものだと思っていた。
だが、英語学校に入学した64年9月、カリフォルニア大学バークレー校で、それまで黙認されていた大学の正門前でのスピーチを学校側が禁じたことに端を発し、学生たちがそれに反発して大学は大混乱に陥り、12月に大学側が警察を導入して、800人以上の学生が逮捕されるというかってなかった事態が起こった。
この大混乱の中で学生たちは、大学というものは大学の管理エリートによって、企業が求める知識を学生に詰め込む単なる工場に過ぎないと認識し、学生の権利を少しでも侵害するすべてのものに反撃し始めた。アメリカという「豊かな社会」で育ったエリート学生たちは、同じアメリカで差別を受けている黒人を助ける運動を始めるとともに、自分たちの権利を主張する運動の拠点を大学内部に設立した。
当時、ロサンゼルス市内では、テキサスなど南部の州のナンバープレートをつけた車をよく見かけた。乗っているのは99パーセント黒人であった。
南部の州と違い、ここカルフォルニアではトイレ、レストラン、バスも白人用、黒人用という区別がなかった。南部に比べあからさまな差別のないカリフォルニアへ、多くの黒人が移動してきていた。
1965年8月12日、ロサンゼルスの南約16キロ、ワッツ地区で黒人暴動が起こった。
この暴動の発端は、ワッツ地区の路上で黒人の酔っ払い運転者を白人警官が逮捕しようとしたことがきっかけだった。黒人群衆と警官隊との間でトラブルが発生し、アッという間に大規模な暴動に発展してしまった。暴動の背景には、ロサンゼルス市警察署長が差別主義的な考えの持ち主であったため、黒人の間に警察官に対する不満がたまっていたことも一因だったようだ。
この暴動は寝苦しい夏の夜、一週間も続き、死亡34人(うち黒人に15人)、1.000人以上の重軽傷者が出て、1,000戸近くの建物が破損、破壊された。殺された者の中には日系二世の若者もいた。
暴動が収まった翌日からは、暴動で殺された黒人たちの葬儀がオレの働いていた墓でも行われ、墓堀の手伝いに駆り出され、芝刈りどころではない忙しく暑い夏の日々がしばらく続いた。
(つづく)

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Oldies’60s,&
My Hardies in California 
私の二十代
(22)
当時、日本では車を持っている人はほんの一握りであったが、ロサンゼルスの住宅は、どこもガレージ付で、どの家庭でも最低一台の車があった。
運転できない者や車を買う金のない者は、この広い土地ではまったく身動きができない。移動は総てが車で日常生活に欠くべからざる靴のようであった。
車に乗ったまま映画を見るドライブ・イン・シアターをはじめ、ドライブイン・レストラン、ドライブイン・バンクまでが、すでに当たり前にあった。
映画やテレビは、オリーブ油できれいに日焼けした若者の青春像を「サンタモニカ・ビーチ」や「車」とともに、南カリフォルニアの若者の生活様式として、アメリカはもとより全世界に伝えていた。
その映画やテレビが作り物であるにしろ、ハンドルを握り、車のラジオから流れる「ビーチボーイ」を聴きながらフリーウェイを、ビーチロードをドライブするだけで、貧乏留学生のオレでも「南カリフォルニアの青い風」が体中を吹き抜けるような爽やかな気持ちになった。
カリフォルニアはアメリカ中からだけではなく、世界中から人々が集まってくる二十世紀のアメリカ新大陸のように思えた。
そこには巨大なエネルギーと富が渦巻いており、夢が溢れているようだった。人間にとって全てのものに恵まれた南カリフォルニアで生活すれば、心身共に健康になり、夢も無限に大きくなるような気がした。
「地図を見ると、日本はソ連(ロシア)や中国から石を投げると届きそうな距離にある。核弾頭が打ち込まれる恐怖はないのか?」と、アメリカ人から時々聞かれたことがあった。
日本にいたときはソ連(ロシア)や中国からミサイルが飛んでくると考えもしなかったが、アメリカに住んで世界地図を広げ眺めると、日本列島は北のカムチャック半島か近くら南は台湾の近くまで約三千キロ細長く伸び、確かに、中国やソ連(ロシア)からの攻撃を防ぐアメリカの防波堤になっているように思えた。
それは、あたかもアメリカとキューバの位置関係のように見えた。アメリカはキューバにソ連(ロシア)のミサイルが配置され、「アメリカの喉元に刺さったトゲ」を撤去させるため、フルシチョフとケネディ大統領は第三次世界大戦の勃発を予測させるようなキューバ危機を起こした。
アメリカから見れば、日本は中国やソ連(ロシア)に対する最前線基地であったが、反対に中国やソ連(ロシア)から見れば、日本は喉元に刺さったアメリカの「トゲ」に見えただろう。見る立場が違うと考え方も違うのだ。
アメリカ生活の四年中、忘れられないのはベトナム戦争のエスカレーションとアメリカに来て三か月後の1964年10月、開催された東京オリンピックである。
日本を出発する頃は、日本中、どこのデパートのショーウインドーも華やかにオリンピック開催を祝う飾りつけをし、日本全体がオリンピック一色のにぎわいを呈していた。
ロサンゼルスの日系新聞「羅府新報」も連日のように、「受け入れ進む羽田―浜松間モノレール」、オリンピックに向け「ホテル・ニューオータニ」、「東京プリンスホテル・オープン」、「ホテル・ニューオータニの高層スカイラウンジ見物人客で大混乱、ホテル側急きょ整理券発行に大わらわ」、「伊東と熱海の旅館9万人のベッドを空け外国人客に備える」等々、国を挙げてのオリンピックムードを伝えていた。しかし、働くことと学校だけのオレにはオリンピック開催直前まで、他人事で興味もなかった。
それよりも、当時、日本ではボーリングするのに5,6時間も待たされるほどのブームだったが、ロサンゼルスでは待つことなく、すぐ出きることが嬉しかった。オレは1964年10月9日、、学校仲間と日系人の経営するボーリング場で、10セント(36円)のコカ・コーラ―を飲み、ボーリングをしながら、時差の関係で金曜日の夜中に中継された東京オリンピックの開催式を偶然観た。
テレビ画面の鮮明度は、前年の十一月、ケネディ大統領が暗殺されたときの衛星中継に比べ、格段とよくなっており、国内放送を観ているようだった。
開会式の中継は二時間ほどであったが、東京国立競技場の熱狂的な歓声とは裏腹に、アメリカ人アナウンサーが淡々と「英語」で放送する画面には、感激も感動も起こらなかった。
日本のバレーボールチームが優勝した試合もテレビで観たが、「英語の実況放送」だったので、
「ああ、女子バレーボールは日本が金メダルか」という程度のあっさりした印象だった。
オリンピック開催中、日本では一億総国民がテレビにかじりついて大盛況のようであったが、オレはアメリカでテレビを通じて、オリンピックに熱狂する日本人を冷静に観察することができた。
「日本女子バレーボール金!金!金メダル!」とアナウンサーまでが興奮して大声を上げ、それを観戦している一億総国民は日の丸が揚がり、「君が代」が演奏されると感動と感激の涙を流したと「羅府新報」に載った。
オリンピックの翌年、ロサンゼルスにある「東宝ラブレア劇場」で東京オリンピックの記録映画が上映された。観客はほとんど日系人、日本からの駐在員家族、留学生で、観客もそうであったと思うが、オレも、前年、東京で開催されたオリンピックの雰囲気を味わうため観に行った。
女子バレーボールの優勝シーンは、当日のアナウンサーの日本語実況入りであったが、英語によるテレビ放送で観たときと違って感動した。アナウンサーは視聴者を感動させ、感激を煽るのが実にうまいものだと、つくづく感心した。それに母国語というのは、感性や感情に直接訴えるものがある。
反面、一億総国民が熱狂しているのを外から観ていると、それが健全なスポーツ大会と違い、戦前のドイツのベルリン・オリンピックのようなヒットラー・ナチス党のもとでのようなものであれば、危険な方向へ走り出す可能性もなきしもあらずと、一瞬過ったのも事実であった。(つづく)


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Oldies’60s, Hardies in California 
& Around the world on motorcycle 
オレの二十代
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ベトナム戦争、ワッツの暴動、キング牧師の公民権運動、カリフォルニア大学バークレー校の「学生の反乱」はオレにとっても、無関心ではおれない出来事であったが、取り立てて切実な問題ではなかった。
朝6時に起床し、7時から12時まで墓地で働き、午後2時から9時まで大学で授業を受け、アパートに帰って、簡単な夕食を摂り、シャワーを浴び、真夜に床に就くまで囚人のような規則正しい日々の繰り返しだった。
アメリカ社会が激動する時代、アメリカ音楽は黄金時代だった。オレの心を癒してくれたのは、トランジェスター(携帯)ラジオから流れるビートルズの「アイ・ウオン・ツ・ホールド・ユアー・ハンド」、「シー・ラブ・ユー」、ダイアナ・ロスとスプリームスの「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ」、「ユー・キープ・ミー・ハンキン・オン」、スコット・マッケンジの「花のサンフランシスコ」、ビーチ・ボーイズの「サーフィン・U.S.A.」,ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」、ビー・シーズの「マサチューセッツ」など Oldies,60sのヒット曲であった。まさに音楽は黄金時代であった。
今でも「Oldies,60s」の曲を聴くと,当時のことが鮮明に思い出される。
1965年5月、中国では毛沢東指導による「封建的文化、資本主義的文化を批判し、新しく社会主義的文化を創生しよう」という名目の「文化大革命」が始まった。
イギリスのツイギーのミニスカートが流行、ビートルズ旋風、学生の反戦運動、ヒッピーの出現が世界の若者文化を変えていった。さらには、サンセット・ブルバード(大通り)界隈を旧ドイツ軍のヘルメットをかぶり、鎖をネックレスのように体にまとったオートバイ軍団「ヘルズ・エンジェルス」が我が物顔に走り回り、ジョン・バェズ、ボブ・ディランなどの反体制的なフォークソングが流行り、アウトロウたちの暴力に満ちた映画「俺たちには明日はない」が若者たちの絶大な人気を集めた。こうした若者たちによる豊かな社会に対する反逆、文化の急激な変化に、オレはアメリカという国がほころびていくように思えた。
ベトナム戦争はますますエスカレートの一途をたどり、戦死者の数は週に100人を越すようになり、米軍の苦戦は誰の目にも明らかであった。アメリカのベトナム派遣兵が47万人を越え始め、アメリカ政府はアメリカ在住外国人、すなわち、駐在員、留学生、観光ビザで滞在している者もドラフト(徴兵)の対象にすると発表した。アメリカ各地では黒人解放運動や学生運動が急進化し、政治的反戦運動も全国的な広がり、中学時代見たアメリカ映画によく描かれた「静かで豊な50年代のアメリカ」のイメージは幻のごとく消えていた。反面、トヨタ、日産、ホンダなど日本車がロサンゼルスの街角で、月に何台か見かけるようになってきた。
バイクで帰国へ
私は大学でビジネス・マネージメントという、日本ではまだ馴染みがない分野を専攻していた。企業が新製品を売る場合、商品の価格、販売戦略をどのように立てるかを目的とする学問であった。
やみくもに足と顔で稼ぐ日本式経営はもう時代遅れで、この学問は帰国し就職したら役立つと思った。
同じ頃、日本は経済発展とともに海外旅行ブームが始まった。ロサンゼルスの街角にも日本人観光客が目立ち始め、ロサンゼルスにある日米の航空会社は日本人観光客に対応する「日本語のできる社員」の募集を始めた。
オレがアメリカ留学した目的は英語を学び、将来、航空会社で働くことだった。アメリカの航空会社は給料も良いし、安く日本に行けるし、週休二日制もない、シャワーも風呂もなく、銭湯を利用し、狭い家、車も持てない日本よりも、豊かな生活が出来るアメリカに住みたいと心が揺れ出し始めた。
オレは年に一、二度しか着ない、しわだらけの背広をクリーニングに出し、墓の仕事を休み勇んでダウンタウンの日本航空、パン・アメリカン、ノースウエスト航空へ履歴書を携え訪問した。
日本で旅行会社勤めの経験あるオレは直ぐ内定したが、会社が永住権手続きをしてくれるものと思っていたのが甘かった。最終的にはグリーン・カード(永住権)がないという理由ですべて不採用になった。
永住権のあるアメリカ女性と結婚すれば、問題は簡単に解決したであろうが、単に就職のために結婚する気にはならなかった。
オレは28歳になっていた。常識的には結婚し、家庭を持つ歳頃であった。アメリカで航空会社に就職できなければ、留学の意味がなくなった。ならば帰国して航空会社の就職口を探そうと決めた。
居間の壁に掛けたアメリカの地図を眺めると、アメリカに四年住んでいたが、その間ロサンゼルス、サンフランシスコ、ヨセミテ、ラスベガスぐらいしか行ったことがないのに気づいた。
帰国して航空会社へ就活しても、たったこれだけのアメリカを見ただけでは、就職に有利な条件にはならないことは確実であった。
「一見は百聞に如かず」である。アメリカを、いや世界中を旅行し、できるだけ多くの名所旧跡、観光地を観て帰国すれば航空会社への就活には有利だろうと考えた。
それに、年齢的にも人生で長旅できる時間的余裕も今しかないし、同時に未知の国を見てみたいという好奇心がオレを大いに刺激した。それに、帰国後の人生の再出発へのターニング・ポイントとして、何か達成感を味わってみたいという思いが頭の中で渦巻き始めた。
2018年の海外出国者数は約1,900万人である。オレがアメリカへ行った1964年、海外へ出国した日本人数は約12万人だった。そのほとんどが業務渡航者で、留学や観光で出国した日本人は数万に過ぎなかった。その渡航先もほとんど香港や台湾であった。アメリカ留学の帰路、世界を観て回るなど、誰も思いつかない時代だった。
誰もが出来ないことができるチャンスが目の前にあった。何とオレは先見の明のある運の良い男だと思った。オレは大学に残るより、世界を観て回る旅のほうが自分の人生に価値はある思い、すぐ学校を辞めた。
「時は金なり」だ。
学校を辞め、働けば移民局に捕まり、日本へ強制送還される恐れはあった。しかし、オレには、もう、そんなことは問題でなかった。
移民局に捕まった時はその時だと、学校を辞めるとオレはガソリン・スタンド、ガーディナーのヘルパーなど、レストランの皿洗いと時間の許す限り昼夜に関係なく働きはじめた。
その甲斐あって、10か月ほど今までコツコツと大学の授業料に貯めていた分を合わせ3,000ドル(108万円)ほど貯まった。
いよいよ旅の計画である。同じ旅行するにしても飛行機で名所旧跡を訪ねる旅では面白味がなかった。四年間使っていた自分の中古車でアメリカ大陸を横断、ニューヨークまで行き、船でヨーロッパへ渡り、中近東、インドまで行こうと考えた。(つづく)

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Oldies’60s, Hardies in California 
& Around the world on motorcycle 
オレの二十代
(24)
当時は冷戦時代でソ連や共産圏は通過、入国できなかった。インドまでと考えたのは、そこから先はベトナム戦争で通過できないことは常識だった。
早速、ヨーロッパや中近東のことを調べようとしても、今のようにiPhone,コンピュター、日本語の世界ガイドブックもない時代、大雑把なロードマップを買い込み、ガソリン代や宿泊代など諸々計算すると、今の所持金では、とても車でインドまでは行くのは不可能とわかった。
1967年のある日、久しぶりに同じアパートの住人ヤマハの駐在員Aさんに会い、雑談の中で、オレの世界旅行計画の話したところ、
「車で行くのですか?車はガソリンを食いますよ。バイクで行ったらどうですか」と、さりげなく勧められた。
オレはバイクに乗ったこともなく、それよりもバイクに無関心で、バイクの性能に関しても全く無知で、車で世界旅行することしか頭になかった。日本のバイクの性能は非常に良く、海外のレースでも常に上位入賞を果たしており、ガソリンも車に比べ消費慮も極端に少なく、一人で旅行するならバイクですよと説得され、
「そうか、バイクという手もあったのか、それなら・・・」と、即、バイクで行くことに決めた。
1968年1月、オレは当時、最も排気量の大きかったアメリカ向け輸出用バイク305CCの「ヤマハYM1」を750ドル(27万円)で購入し、出発は雪を警戒し、アメリカ東部に春が訪れる5月と決めた。
(写真、旅のために買ったバイク。当時としては一番大型だった)。
アメリカに来て以来の四年間、学校と仕事だけという生活パターンだったオレは、この二つをやめると、刑期を終え、刑務所から出てきたような解放感を全身で感じ、初めて、自分がロサンゼルスに住んでいたのだと実感した。反面、学校と仕事のみだった生活習慣が抜け切れず、肉体的には健康だったが脳の回路が鈍くなったのか、日々の行動範囲を思うように広げられなくなっていた。
冒険というのは堀江健一や植村直己のように小さなヨットで太平洋を横断するとか、極寒の南極を単独で横断するとか命の危険を承知に、自然の猛威を相手に挑戦することだとオレは思っている。昨今、経験も知名度もない自称冒険家が自分の野望、野心を叶えるためスポンサーを探し、寄付集めする輩が多い。人間、その数だけ考え方、生き方があることは認めるが、他力本願の風潮は感心しない。
オレはバイクで世界一周したが冒険だと思ったことはない。オレのバイク世界一周のことを敢えて今流に言うなら、100ドルを懐に米国留学し、自力で学費や生活費、バイク一周旅行費を稼いだ、その努力に対する褒美だと思っている。
バイクは飛行機、客船、汽車、バス等の交通機関同様、単に旅費と利便性を考慮した上、移動手段に使用しただけである。
出発前は長距離走行に慣れる練習もせず、日々、車代わりにバイクを使っていただけである。アメリカの生活に慣れていたので、バイクでアメリカ大陸横断といっても、日本国内を旅行するような感覚で、準備らしい準備は全くしなかった。
最も大事なことは不測の事態に対し、臨機応変に対処することで、必要な物はお金さえあれば、途中で買えばいいと暢気に構えていた。
多少はヨーロッパの情報は知りたかったが、当時、日本語の海外ガイドブックなどの出版物はまだなく、行ったこともない土地や国のことを想像することもなかった。
東京ローズ
出発が近づくと少しでも節約しようと、四年間住んでいたアパートを引き払い、八十過ぎた日系人夫婦が経営する古い一軒家の安い貸間へ引っ越した。
シャワーはあったが台所はなく外食になった。家主は一階に住み、二階が貸間になっていた。階段を上がると正面が狭い私の部屋で、その隣には六十過ぎの日系二世のガーディナーが借りていた。
彼は、いつも朝早く、仕事用の道具を満載したトラックで近くの「デニーズ」へ寄り、そこで朝食を摂り、仕事に出かけ昼過ぎには帰って来ていた。そのあと、彼は窓のブラインドを降ろし、趣味である自分で撮った16mm映像をひとりで楽しむのが彼の日課,趣味だった。。
彼はアメリカ国籍だったが、戦時中、強制収容所に入れられ、アリカ政府を嫌っていたが、
「ジャパンに行ったこともないし、ここに住むしかない」と、世間とは没交渉で、最低限の生活費を稼ぐだけの孤独な老ガーディナーだった。
彼の隣の部屋には27,8歳のベトナム帰りの帰米(アメリカ生まれの日本育ち)が住んでいた。戦車の機関銃兵であった彼はブッシ、ュ(やぶ)に潜んでいるべトコン(ベトナム解放前線)を撃ち数名を殺したが、あとで、射殺したのはべトコンではなく、南ベトナム人であったことが判明した。彼の上官は事実が軍の上層部に知れるのを恐れ、その証拠隠滅のため死体にガソリンをかけ、燃やしたそうだ。彼は除隊後も、そのことが脳裏から離れず熟睡できず、気分がすぐれないと言って、ほとんど部屋に閉じこもっていた。
家主夫婦には嫁いでいる四十前後の知的な娘がいた。彼女は時々、実家に来て、年老いた両親の身の回りの世話をしていた。
あるとき家主がオレに、娘は太平洋戦争が始まる前日本へ行き、戦争が始まると米国へ帰国できなくなり、NHKラジオ「セロアワー」のDJをしていた女性アナウンサーだったと何気なく言った。
東京ローズはあの有名なアイバ・戸栗だけだと思っていたが、その娘は数人いた東京ローズの一人だったそうだ。アイバ・はアメリカの兵士を悩ますような色っぽい声ではなかったとか、アメリカ兵が聴いた声はジェーン・須山の声だよと、娘から聞いていたのか、家主の話はまんざら嘘ではないように思えた。ある時、家主に頼まれその娘の家の庭掃除に行ったら、昭和天皇によく似た主人がいいたので、家主にそのことを言ったら娘は皇族の一人と結婚していると言った。
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オレの二十代
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旅立ち 世界一周へ
年が明けた1968年初頭、身の回りの物を整理の合間に、ほとんど毎日、暇に任せアパートから三十分ほどのサンタモニカ・ビーチで竿を垂れながら、四年間の日々を思い返し解放感を満喫していた。
釣りに行く楽しみはそれだけではなかった。時々ビーチを散歩している女性、東京のファッション・デザイナーというオレと同年配の知的な美人に会うことだった。そのうちに親しくなり、マリブビーチのハイウェィR1脇にある女優や男優の大きな写真が飾ってあるウエスト・コースト風の有名なレストランで彼女と昼食をして優雅で楽しい時間を過ごした。
彼女は離婚問題で揉めている主人から、ロサンゼルスへ逃げてきた複雑な事情があった。この知的なファション・デザイナーの女性にもっと早く会っておけば良かったという思いもあったが、バイク旅行の出発が近づき良い思い出として、それで終わった。反対に思い出すと腹が立つが、四年間の間に神戸から来たという、知り合いでもない若者が三度オレのアパートに転がり込んできた。行く当てもないというのでオレのアパートに泊めたが、どのようにして、オレのアパートの居所を知ったのか、今は思い出せない出来事だった。オレも仕事と学校で奴らの世話など出来なかったのが、ある日、帰宅すると忽然と奴らは消えていた。その一人がオレの中古車とペンタックス・カメラと交換した奴だった。
バイク旅行に最適な季節五月がきた。
部屋の窓を開け夜空を見上げると、宝石を散りばめたように何億年も前に遠いところからやってきた無数の星が輝いていた。
それに比べると人間の一生なんて、せいぜいで百年である。流れ星が左から右へ移動する時間にも足らないぐらい短い。人間の寿命は宇宙の時間に比べ一瞬だと知りながら、有史以来、人間は殺し合いをやめない。主義主張と人間の命とではどっちが大切かわかっているのに人間は戦争という名のもとに限りなく殺し合う歴史の連続だ。
平和な時は虫も殺さない人間が,戦争になると平気で人を殺す。人間はどうしてこうも愚かな動物なのだろうか?地球に人間という生き物が存在する限り、人間同士の殺し合いはなくならないのだろうか?
当時、ただ世界一豊かなアメリカに住みたいがため、主義主張もなく命と引き換えに、ベトナムの前線に送り込まれる可能性の高いアメリカの軍隊に志願した日本人がいた。そこまでしてアメリカの永住権を手に入れる価値があるのだろうか?人には人それぞれの価値観がある。日本で稼ぐより数倍もある豊かなアメリカ、エアコン、風呂付のない家、車も持てない日本。だから渡航自由化後、観光ビザでアメリカに入った日本人の多くは、アメリカの豊かな生活を手に入れるため、志願兵という命と引き換えに、危険を冒してまでも永住権を取得しようとする日本人がいたのだ。
今でも紛争地で勤務するアメリカ兵は永住権獲得のための「アメリカ人」が多いと言われている。
オレは世界の名所旧跡観光地を訪れながらバイクで旅行する日が近づいてきた。
一年を通じて、ほとんど晴れのロサンゼルスに、出発前日の夜雨が降った。朝目が覚めると、太平洋からさわやかな風がロサンゼルスの大盆地を吹き抜け、街全体を覆っていたスモッグは北の丘陵地帯に押し流しされていた。そして、大都会ロサンゼルスを囲んだ丘陵や遠くの山々が驚くほどくっきりと見えた。まさに、街が名のごとく「天使(Los Angeles)の街」になった1968年5月19日、約2,200ドル(当時のレートで約80万円)のトラベラーズ・チェック、車と交換したペンタックス・カメラ、皮のズボン、下着各一枚、背広上下一着などを入れた布製の袋をバイクの後ろに括り付け、ハンドルにはテント地の水筒をぶら下げ、夜明け前、仕事に出かける親しくしていた孤独な隣室の老ガーディナーと「デニーズ」で別れの朝食を摂った。
そして、オレはこれからどこまで無事に走れるわからないヤマハYM1にまたがり、一路、東へニューヨークを目指し、ルート66をシカゴまで走る予定であったが、ルート66はオレのアパートの北20キロほどのパサデナまで行かないと入口ないので、数年前完成した近くの、ルート10を東へ走り出した。
当時は車の免許所を持っておればバイクの免許所は不要で、バイクに乗るにはヘルメットの着用という規則もなかった。
ルート66は1962年、NHKで放映されたアメリカの人気テレビ・ドラマ、青春アベンチャー・ストーリー「ルート66」で、シカゴとロサンゼルスを結ぶルート66と呼ばれるハイウェイを二人の若者がコルベット・スティングレーに乗って旅しながら、途クス・オン・ルート・シックスティーシックス」が鮮明に記憶として残っていたことも一因であった。
しかし、オレはアメリカに来た時働いた、ジョン・スタインベックの「怒りの葡」の中で描かれていた、あのルート66を旅してみたいという気持ちの方が強かった。
この小説は、カリフォルニアへ移住するオクラホマの貧しい農民一家が、偏見や貧困といった様々な問題を乗り越え、明るい未来を求め西部へ向かう内容の作品である。その中で、スタインベックは、このルート66を「マザーロード」と呼び、克明に描写している。
だから、世界旅行を思いついたときから、あの有名なサンタモニカからシカゴまでの2,347(3,755キロ)マイルのルート66を走ることは、オレには自然な成り行きだった。
それ以外のルートを走ってアメリカ横断するなどは全く考えなかった。
バイクを購入してから出発すまで、一日で最も長く走った距離は100キロにも満たなかったが、ラスベガスまで約500キロ走ることに全然何の不安も感じなかった。
大都会ロサンゼルスが目覚め始めた静かなハイウェイをヘッドライト付け、窓を閉め切った車から、声は聞こえなかったが、運転する中年男性が親指を立て、バイクのオレに顔を向け、「グッド・ラック」と旅の安全を祈っているように微笑み、ヤマハM1オレの横を通り過ぎて行った。
ロサンゼルスを抜け、東のサンバーナーディーノの山を登り切ると、そこから先は見渡す限り荒野だった。日本が今のように豊かな国になるなど考えられなかった時代だった。帰国して航空会社に就職できれば別だが、米国に比べ給料も安く、週休二日制もない、長期の休暇も取れない日本の会社に就職すれば、もう二度とアメリカには来ることはできないと思っていた。
反面、『ビギナーズラック』の夢が蘇り、これも航空会社就活の勉強?と、敢えて初日はギャンブルの歓楽街ラスベガスに宿泊することにした。
雲ひとつない砂漠の中を一直線に伸びるハイウェイ、五月のさわやかな空の下、風と太陽を浴びながら、オレの「ヤマハYM1」はエンジン音と耳元で風を切る心地よい音だけが支配する中を快走した。それはオレだけが感じる、初めての自由と解放感の心地よいツーリングの始まりだった。
ロサンゼルスとラスベガスの中間にあるバーストウはガソリン・スタンドとレストランが数軒あるだけの、西部劇に出てくるような小さな町だった。
この町からは北東のラスベガスへ向かうルート15と枝分かれして、ルート66は南東へ延びアリゾナ州のキングマンへと続く。バーストウはロサンゼルスからラスベガスやルート66を通り東へ旅する人には給油し、レストランで休憩する重要な小さな宿場町のような街だった。
ここバーストウから北東へ約10キロ行くと、昔の鉱山跡キャリコのゴースト・タウンは観光客に人気があるとレストランのウエイトレスが教えてくれた。
日本の観光客がロサンゼルスからラスベガスへ移動するとき、このゴースト・タウンを訪れることを勧める資料になると写真を撮り、案内所で資料を集め、ノートに簡単な印象などをメモし、デスバレー(死の谷)経由、砂漠をラスベガスへ向かった。
砂漠では夕日が地平線に沈んだ途端、夕闇があたり一面を覆う。すると、ラスベガスの40キロほど手前、カリフォルニア州とネバダ州の州境あたりから、東の空がまばゆいばかりに明るく輝く不夜城ラスベガスの灯りが目に入ってきた。
大陸横断初日、これから先、どれほど費用が掛かるかの不安を抱えながらラスベガス泊まり、勝つ確率の低さやブラック・ジャックに手をだし、幸運にも約200ドル(36,000円)を手に入れた。
オレは出発前にモーテル代、ガソリン代、食事代など一日15ドル、ニューヨークまで二週間かかるとして合計200ドルは必要と計算していたので、この夜は、数時間でアメリカ大陸横断に必要な費用を稼ぐ、二度目の「ビギナーズ?・ラック」だった。
翌朝は疲れで朝寝坊し、ラスベガス出発は昼前になった。
写真:R15カリコへ、カリコ・ゴーストタウン、デスバレーへ(つづく)

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オレの二十代
(26)
翌朝は疲れで朝寝坊し、ラスベガス出発は昼前になった。ラスベガスから東北へルート93を一時間ほど走ると、コロラド河をせき止めた黒部ダムに似たフーバーダムに到達した。
このダムの上も黒部ダムと同じように道路になっており、このダムそのものがアリゾナ州とネバダ州の州境になっていた。このダムを渡り切ると時差があり一時間進へ進んだ。
フーバーダムを越え、アリゾナ州へ入ると、赤土色の山肌に囲まれたルート93から先は見渡す限り眼下に草木一本生えていない本物の砂漠が南東へ広がっていた。
はるか遠くの山並みも霞み、砂漠の中は片側二車線の広いハイウェイが一直線に南へ伸び、すれ違う車も少なく思い出したように、時々すれ違った。
雲ひとつない紺碧の空見上げると、すべてのものを焼き尽くそうとしているのか、獲物を狙うように、太陽は身動きもせず熱く輝き、五月の季節感はみじんもなかった。だが風を切って走るバイクのオレにはさわやかだった。
走っても、走っても風景に変化はなく、同じ場所にバイクが停まっているような錯覚に陥った。オレは心地よいリズム感あふれるエンジンの金属音の響きの中で、米国留学を志し外務省留学試験に向け頑張っていた頃を思い出していた。
ラスベガスから約二時間、キングマンに着いた。ロサンゼルスからラスベガスへ向かう途中の町、バーストウでルート15と枝分かれしたルート66は、ここキングマンの町でルート93と交わった。
キングマンはバーストウ同様、ガソリン・スタンド、レストランなど数十軒ほどしかない小さな町であるが、グランドキャニオン、ラスベガス,バーストウ経由ロサンゼルスへの交通の要所だった。
今はどうか知らないが、当時は日本のように飲物だけを出す「喫茶店」はなかった。
キングマンの「レストラン」でコーヒーを飲み一服、ここからオレは初めて、ルート66に乗り込み東へ走り出した。
オレがバイク旅行した1968年当時、日本で中山道の馬籠宿、妻籠宿、奈良井宿などへ旅行する人が少なかったように、ルート66も今のようには注目されていなかった。ベトナム戦争の影響か、アメリカの工場製品の増加とともに、トラックの交通量の急激な増加の中ルート66は大規模な工事中で、その後ルート66の廃線が増え、1985年、「(I‐40)インターステーツ40となったが、最近、歴史的な道路として、再びルート66は世界中の愛好者に脚光を浴びている。
前夜、ラスベガスで遅くまで遊び、朝寝坊をしてラスベガスを出発したのが昼前だったので、グランドキャニオンへの入口、ウイリアムスのモーテルに着いたのは夜だった。
翌朝は気合を入れて早起きし、グランドキャニオンへ行くためルート66を離れ、ルート64を北へ向った。
砂漠地帯から、緩やかな上り下りする針葉樹の森林地帯を約一時間走ると視界が広がり、映画や写真でお馴染みの雄大なグランドキャニオンの風景が、「まさに」、突然、目の前に広がった。
コロラド河の浸食作用により、1,000メートル以上の深い大渓谷を形成した想像もつかない年月と自然の力のすごさ、そして、自分という人間の小ささを思い知らされ、人間の小さな悩みなど吹っ飛ばしてくれるような雄大な景色である。
グランドキャニオンは東の川上から西の川下まで、約450キロ、東京・京都間ほどの長さである。
グランドキャニオンの絶景を見たあと、モニュメントンバレーへ行こうと、渓谷に沿ってルート64を東へ走っていくと、次第に渓谷の幅も狭くなり、浅くなっていった。
左側の渓谷の絶景に気を取られ、覗きこむように走っていると、突然、直線道路はカーブした下り坂になり、オレはハンドルを取られ砂山に横転した。ゆっくり走っていたのでけがはないと思ったが、右片足が転倒したバイクと道路の間にはさまれ、倒れたバイクは重くて一人では挟まれた足を抜くことは不可能だった。助けを呼ぼうにも周りには人影もなく、車の往来もなかった。
足を抜こうとしばらく焦り、もがいていると、偶然、本当に偶然であった。通りがかった車が停まり、二人の中年男性が降りてきてオレのバイクを起こしてくれた。
彼らが去ったあと、緊張がほぐれたのか、足や皮ズボンのベルトあたりに激痛が走りだした。横転したとき、ふくらはぎに熱いマフラーが当たっていたのだ。皮ズボンの上からといえ、足にやけどを負い、腰を力強く捻ったようでベルトで切ったらしく、腹の回りは血だらけになっていた。
出発するとき、周りの者に
「数日走って、疲れ、またロサンゼルスへ帰ってくるんじゃないのか」と、冗談交じりに言われていたので、事故を起こした時、一瞬、その言葉がよぎった。
傷口が痛く走れないのでモニュメントバレー行きをあきらめ、右に折れフラッグスタッフへ向かい、昼食もとらずに途中のモーテルへ入った。気が付いたら朝になっていた。
初めて経験した事故のショックとツーリング疲れで、皮ジャンバー、ズボンも脱がずに眠ってしまっていた。
痛みで目が覚め裸になると右足ふくらはぎに五センチ四方ぐらいやけどを負い、ヘソの右を八センチほどズボンのベルトで擦り剥いていた。
モーテルの女主人に傷の手当を頼むと、
「医者に行った方が良いよ」と言ったが、米国では保険がないと治療費が驚くほど高いので、
「たいした傷でない」と言って、モーテルの女主人に簡単な治療をしてもらった。
バイク保険があるか、ないかも知らず掛けていなかった。痛さをこらえながら再びらゆっくりとフラッグスタッフのから再びルート66を東へ走り出した。砂漠地帯のアリゾナでもこの辺りは赤松の森林が続き走っていても気持ちがよく、傷の痛みも和らいできた。
アメリカは国土が広く、ハイウェイは一直線で道幅も広く、その上、車の往来も少なく走りやすい。ときどき給油や食事はルート66を下りて小さな町でやった。
開拓が盛んであった時代は、賑わっていたのであろう町の建物の多くは朽ち果て、死んだような静けさが漂っていた。それが、反面、古きアメリカを想像させ懐かしい気持ちにさせ大変気に入った。
ヨセミテやグランドキャニオンも観光名所としては日本の観光客には受けるだろうが、こんな寂れた町にも観光客が来てくれ時代が来るなど想像もしなかった。
ヨセミテやグランドキャニオンも観光名所としては日本の観光客には受けるだろうが、こんな寂れた町にも観光客が来てくれ時代が来るなど想像もしなかったが、それが、今やアメリカや日本でも古き良き時代の「ルート66」として蘇った。
ロサンゼルスを出発して三日目、予定通り観光資源を訪れながらすでに800キロぐらいアメリカの内陸部へ入り込んでいた。(つづく)

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オレの二十代
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ルート66
アリゾナ州フラッグスタッフからルート66を56キロほど東へ行くと、「233」と数字だけ書いた出口だ。その横に「メテオ・クレーター」と注意しないと見過ごすような小さな案内板があった。
その案内板の(Creator)に興味を持ったオレはルート66を出て、南へ10キロほど走ると、赤土色の平原にバスほどの大きさのものから、車ほどの岩が点々と赤土色の大平原に転がっていた。そして突然、平原の中に「メテオ・クレーター」という約5億年前、隕石が衝突してできたという世界最大級のクレーターが現れた。
転がっている岩は、隕石の衝突で地表からはじき飛ばされた岩であることは一目瞭然であった。小さな粉塵はハワイまで飛んで行ったと立て看板に記されていた。このクレーターはほとんど風化せず残っている世界で唯一の貴重なクレーターだそうだ。
直径40メートルほどの隕石が地表に衝突してできたクレーターは直径約1・4キロ、周り4キロ、深さ約150メートルのお椀型をしており、その大きさに圧倒された。月へ行ったNASAの宇宙飛行士たちが訓練したのもこのクレーターだったのかと、読んだことのある記事を思い出した。グランドキャニオンよりも気に入った。
アリゾナとニューメキシコの州境に来ると「Come Again」とか「Welcome To New Mexico」と一目でわかる大きな標識が立っていた。
ニューメキシコ州は標高約900メートルから3,900メートルと高低差の激しい州である。走っていると急に寒くなったり暑くなったりした。
この州の面積は日本よりすこし小さいが、人口は100万(現在約200万)と少ない。だから日本ならどこでも視界に入る民家もここでは見当たらなかった。人に出会うのもガソリン・スタンドやレストランレスぐらいであった。
時々、獲物を狙うように赤土の丘に身をひそめ、違反者を待ち受けているハイウェイ・パトロールーの警官に何度か停められた。
オレの場合はスピード違反で停められたのではなく、
「ガソリンと水は大丈夫か?」と、親切心で停められたのだ。水はテント用の布地の水筒に入れ、ハンドルに吊り下げて走っていたので、水筒は風を受け適当に冷えバイク旅行には最高の水筒であった。
ルート66沿いのレストランに立ち寄るのも楽しみだった。ルート66沿いのレストランの多くは大型トレーラーのドライバーたちの楽しみの場になっていた。
レストランに入ると、サングラス、赤のシャツ、ジンズにブルーのネッカチーフを首に巻いたオバちゃんドライバーがいた。彼女はカウンターで食事を摂りながら親しそうにウエイトレスたちと賑やかな声で話し合っていた。私と目が合うと、
「兄ちゃん、きのうも見たけど何処へ向かってんや?」と、
大阪のオバちゃんのような口調で声をかけてきた。もちろん英語である。このオバちゃんは大型コンテナを運ぶトレーラーの運転手であった。
もう数えきれないほど、このルート66を走り、アメリカを横断し、馴染みのレストランで食事を摂り、ウエイトレスや運転手たちと話すのが楽しみだと言っていた。
大型トレーラーの運転手たちは陽気で親しみやすく、何度となく途中のレストランで会った運転手たちとの会話は、英語に不自由を感じなくなっていたオレのバイクアメリカ大陸横断中の楽しみでもあった。だが、長距離をツーリングしているライダーには一人も出会わなかった。
バイクでアメリカ横断が流行りだしたのは69年、映画「イージーライダー」の公開以後である。
大平原を一直線に緩やかに上ったり下ったりと、単調な風景のルート66を一日中走るのは実に退屈であった。
時には眠気が襲うこともあったが、考えごとをして走ろうと思うが、また、グランドキャニオンで起こしたような事故の危険があるので出来なかった。
疲れ、同じような直線道路を走っていると、はるか遠くに見える山を上りきれば、景色が一変するかもしれないと期待しながら走るが、上りきると、また、はるか彼方まで緩やかに下っているだけで、変化のない同じような大平原の風景が広がっているハイウェイの連続であった。
途中で立ち寄るガソリン・スタンドやレストランで近くに旧所名跡はないかと尋ねても、大げさに両手をひろげ、
「見てのとおりだ」と、そっけなく言うだけの大平原の広がるニューメキシコ州だった
大平原のルート66と沿ってアメリカ横断鉄道が並行しておると
ころもあり、1キロ以上もあろうかと思える長い貨物列車が後ろから近づいてくると私もスピードあげ競争を試みた。機関車からは並行して走るオレに汽笛を鳴らし、手を振って応えてくれた。半日も抜いたり、抜かれたりしながら走ったこともあった。
大平原を一直線に延びる単調なルート66では、このような単純な気分転換もオレには必要であった。
ニューメキシコ州の首都アルバカーキーは丼ぶりのような盆地の底に広がる赤褐色に染まった街であった。
市街地のはるか手前からルート66は下り坂になり下方に、子供のころ観たジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇映画「アパッチ砦」、「黄色いリボン」、「リオグランデの砦」など有名なリオグランデ川と町の遠望が素晴らしかった。幅広い大きな「河」と思っていたが、有名なわりにはどこでもある平凡で小さな「川」だった。
町の人に聞いてみると、
「あれはテキサス州とメキシコの国境の境を流れているリオグランデ川で撮ったんだ」と、言っていた。
アルバカーキーは西の方から下って、街を過ぎると今度は東へ上り坂であった。ロサンゼルスからアルバカーキーまで五日間、出来る限り、観光地らしき所を訪れながら1,200キロほど東へ入った。地図を見ればわかるが、ニューメキシコ州は東にオクラホマ州とテキサス州の二つの州が接しているが、ルート66はニューメキシコ州からテキサス州を通っている。ニューメキシコ州の州境で時計を見ると午後5時を少し回っていた。日没までにはまだ時間がありそうなので、少しでも距離を稼ごうと一時間ほど走りテキサス州のレストランでコーヒーを呑みながら、ここの時計を何気なく見ると7時前である。走っているとわからないが、ニューメキシコ州とテキサス州の間には一時間の時差があった。一日中走り続け、夕方、一時間前へ進む時差は精神的にも肉体的にも耐え難いほどの疲労がオレを襲った。
西日を体全体に浴びながら西に向かって走るのとは反対に、大平原に星が輝き始めた夕闇に向かって走るのは、体力も気力も萎えてしまった。
この時、人間、太陽の恵みによって生命の活力を維持していることをはじめて知った。西へ向かうほうが時間も得するので精神的にも楽であることも知った。
テキサス州に入ると、西部劇映画に出てくる風車を広大な農家の敷地でよく見かけた。せっかくのアメリカ大陸横断旅行、ロサンゼルスを出発する前はできるだけ多くの写真を撮ろうと思っていたが、アメリカに四年も住み、アメリカの風景を見慣れていたのが原因か、テキサス州まであまり撮らなかった。だが、あのテキサスの独特な風車を見ると撮りたくなった。
それにしても、一枚写真を撮るのに、いちいち後ろの荷台に括り付けた麻袋のロープをほどき、カメラを取りだし、撮り終わるとまた麻袋に入れロープをかけるのに結構時間を取り、一日のうちで何度もこれを繰り返すのは非常に面倒だった。それも撮らなかった一因でもあった。
西部開拓時代、東部から移住者してきた開拓民が水をくみ上げるため使っていた風車は、今も利用している。中西部の田舎町のガソリン・スタンドで給油していると、バイクでアメリカ横断は珍しい時代で、若者たちが、私のバイクのナンバープレートを覗きこみ「カリフォルニアから来たのか?」と、驚いた表情をするので、
「海を見たことあるか?」と、訊いてみると、
「ない、海の水は塩辛いそうだ」と、笑った。
東へ行くほど、多くの若者がカリフォルニア・ナンバーのバイクに気づくと、オレに語りかけてきた。そのことがアメリカの東というか、奥地へ入り込んだことを実感させた。
テキサス州に入るとルート66に沿って、途切れることなく遠くまで,金網の柵が伸びた牧場には数えきれないほどの牛が放牧された風景に出会った。
(つづく)

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オレの二十代
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テキサス州に入るとルート66に沿って、途切れなく遥か遠くまで,金網の柵が伸び、その中には数えきれないほどの牛が放牧された風景があった。
どこだったか、小規模な油田のポンプが規則正しく上下してオイルをくみ上げていた。
空は透き通るように青く、ジェームス・ディーン、エリザベス・テーラー主演の映画「ジャイアンツ」に出てきた静かで広大な空が覆いかぶさってくるような雄大な風景が限りなく続いていた。
疲れると今のように車の往来の少なかったルート66の路肩にバイクを停め、生い茂った草に仰向けになり、ゆっくり流れる雲を眺めながら、帰国後の自分の人生を考えていると、疲れ眠り込んでいた。
一日中走り続け、オクラホマ州に入るとトウモロコシ畑だろうか、青々とした畑が水平線まで広がっていた。
もともと、オクラホマ州はアメリカ中のネティブ・アメリカン(インディアン)を強制的に移住、隔離したところである。隔離された彼らは、何度となく自分たちの土地への脱出を繰り返した。ヨーロッパから移住してきた白人たちは、自分たちが定住するために大昔から定住している人々を略奪し、殺害を繰り返した。16代米国大統領リンカーンも奴隷解放の反面それには積極的だったと記されたものもある。
そのため、アメリカ政府は彼らの命の綱である、バッファローを大平原から組織的に駆逐し絶滅に追いやり、「兵糧攻め」にして、強制的にこのオクラホマ州の保留地に定住させるようにした。学校という狭い世界しか知らない教師の「教える」歴史を鵜呑みに覚えるのは危険である。たまには疑うことも大切である。
雨の中西部
グランドキャニオンからオクラホマまで約1,500百キロ、この区間は大げさに表現すると、ずっと下り坂のような気がした。オクラホマ州を走っていて、やっと平地に戻ったような気分になった。
それとともに空模様がおかしくなり、テキサス州のような青空は姿を消し雲が垂れ込め始めた。空はいつの間にか夕闇のように暗くなり大粒の雨が降り出した。
雨の中をバイクで走った経験がないオレは、レストランで休憩しながら雨の止むのを待つことにした。日本とアメリカ中西部では雨の降り方まで違った。大粒の雨が勢いよく降りはじめ、止む気配もなく稲光が轟きはじめた。
「トルネード(竜巻)がくるかも」と、ウエイトレスが言った。
春から夏の終わりにかけ、この地域は特有の気象条件で雷雨が発生しやすく、トルネード・アレー(竜巻の通り道)といわれ、年間五十個以上の竜巻が発生し、この州一帯に膨大な被害をもたらすそうだ。
だから、州の法律でどこの民家も地下に避難用の部屋があるそうだ。
この日は一日中大雨で数10キロ走っただけでモーテルに入り、たっぷり雨水を吸い込んだ衣類やバックの中身を部屋の隅にある暖房機の上に並べ、冷え切った体をバスタブにつかりのんびりと温めた。
モーテルの周りは見渡す限り大平原が広がり、ルート66沿いの向かい側にレストランを兼ねたガソリン・スタンドがあるだけだ。
日記代わりに友人や知人に手紙を書き、途中で集めた観光案内パンフレットを整理し、日本へ送る作業を終えると、もうすることもなくベッドに横になり、テレビを見るしか時間をつぶす手立てはなかった。
テレビの天気予報によると、この雨は数日続くようだ。急ぐ旅でもないが孤立した大平原のモーテルで足止めされると、先へ進めば雨も上がり見たこともない、素晴らしい風景や経験が待ち構えているような気がして、少しでも前へ進みたいという衝動が起こり、落ち着かなかった。
アリゾナ州キングハムから一直線に東へ延びてきたルート66は、ここオクラホマから北東、時計の文字盤の2時の方向へ曲がりシカゴへと延びている。まだ、シカゴまでは1,300キロほどあった。
夜半、雷は鳴りっぱなしで、朝になっても雨は無情に降り続き、モーテルの窓から、雨にさらされたバイクを眺めていると出発する気にならなかった。
テレビの天気予報によると、オクラホマ州の北部カンザス州方面は曇りだという。モーテルでいつ止むかもしれない雨を待つよりは、少しでもシカゴへ近づきたいと思いが強くなってきた。
テレビの天気予報に期待を託して、雨の降り続くオクラホマ・シティからルート66離れ、ルート35に入り、北のカンザス州を目指し走り出した。
北へ向かうにつれ緑が多くなってきた。このあたりのハイウェイは1930年代の禁酒法時代、銀行強盗をしたギャングどもが、ピストルや機関銃をぶっ放しながらパトカーの追跡をかわし、ルート66へと「絶望的な逃走劇」を演じたところである。
何時止むかもしれない、降り続く雨の中をびしょ濡れになりながら走るオレは、ポリスカーに追われる身ではなかったが、彼らの気持ちが理解できた。ずぶ濡れのオレは、ただ、ひたすらいらだつ気持ちを抑え、黙々と左右に続く大草原をウイチタ経由カンザスシティへと少しずつ距離を稼ぐだけだった。
カンザスシティは、ミズーリ河を挟んでカンザス州カンザスシティとミズーリ州カンザスシティに分かれていた。カンザス州のカンザスシティがメインかと思ったが、人口も産業もミズーリ州のカンザスシティ側に集中しているらしく、理解するだけでも疲れる複雑な地名だった。アメリカでは、ほら吹きの奴のことを「あいつはカンサツだ」だという言葉があるそうだ。広島、長崎に原爆投下を許可したトルーマン大統領もミズーリ―州出身で、そう呼ばれていたのを聴いたことがある。オレがこの川の名前を知ったのも子供のころ見たチャールストン・ヘストン主演の西部劇「ミズーリ大平原」など、多くの西部劇映画に出てきた川の名前で、オレと同世代の者は誰でもその川の名前や地名は知っている。どんなに大きな川かと想像していたが、期待していたほどの大きな川ではなかったが、大雨の中アーチ型の朽ち、今にも崩れ落ちそうな鉄橋を渡ったが、その下は恐ろしいほどの濁流だった。
カンザスシティからルート70に入り、セントルイス市内へ入るとやっと雨も上がり、ときおり青空が見えはじめた。
オクラホマからセントルイスまでの約500キロは雨の連続で3,4日も費やし、濡れた衣類はセントルイス公園のゴミ箱に捨て、ほとんど買い替えた。
セントルイスは、ミシシッピ河とミズーリ河の合流地点にあるミズーリ州の州都である。カンザスシティは二番目に大きな都市である。セントルイスは、ミシシッピ河とミズーリ河の合流地点にあるミ
ズーリ州の州都である。カンザスシティは二番目に大きな都市である。
このセントルイスで有名なのは、ミシシッピ河に面してそびえ立つ、高さ192メートルの逆三角形断面の巨大なゲートウェイ・アーチとビールのバドワイザーの本社である。このアーチは河岸に1965年完成、セントルイスの観光名所になっていた。
アーチは頂上に向け流線形に建てられており、エレベーターはなく、ケーブルカーのような乗り物で展望台に上ってみた。
アーチは上る途中で倒れるのではないかと不安になるほど細い。頂上展望台の小窓から外を眺めると、遮るものがない平原が地平
線まで見えるだけであった。
写真:ゲートウエイ横のミッシシッピー川沿いで5分5ドルのヘリコプターに乗ったがもう一機が数日前落ち客はオレだけだった。それにしても小さい。(つづく)

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引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki

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オレの二十代
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セントルイスからルート50を北へ二時間ほど走ると、イリノイ州の首都スプリングフィールドに着いた。
この町はケンタッキー州の丸太小屋で生まれたリンカーンが、弁護士になり大統領になるまでの25年間が住んでいた所で、「リンカーンの住んでいた家」、「リンカーンの事務所」、「リンカーンの墓」などが、「ランド・オブ・リンカーン」一色を売り物にした観光の町であった。
オレがこの街に着いてすぐ思い出したのは、リンカーンが大統領に当選し、スプリングフィールドの駅からワシントンのホワイトハウスへ出発するとき、見送りに来た多くの市民に向かって列車から演説した挿絵を雑誌か教科書で見たことだった。その歴史的な現場にいる現実に身震いするほど驚きと感動を味わった。
ここからシカゴまでもう約320キロだった。
オレは一気にトウモロコシや麦畑の広がるルート50をシカゴまで飛ばした。走行距離ゲージはいつの間にか約3,300キロを示していた。
途中から天候が悪くなり、オクラホマ州に入ってからセントルイスまでは雨に逢い思うように走れず、ロサンゼルスからシカゴまで8日間を費やした。
たまたま通ったところが悪かったのか、大都会のシカゴはごちゃごちゃしたオレには興味のない大都会で、よくギャング映画で観た高架鉄道のガード下を走り抜けシカゴ・ターンパイクⅠ―90を東へ、この大都会シカゴを逃げるように通り抜けた。
アメリカのハイウェイはどこも無料かと思っていたが、このハイウェイは有料だった。
ペンシルバニア州に入ると三回目の時差、東部時間になった。
「シルバニア」はラテン語で「森」の意味だそうで、景色は自然豊かな緑一色になった。白ペンキの柵に囲まれた個性的な色彩の民家が大草原に点在する北欧的な美しい光景が広がっていた。
地図を見ると、私は五大湖のひとつ、エリー湖に沿ってハイウェイは走っていたが、実際はエリー湖から意外に離れていて見えなかった。
シカゴからナイアガラの滝までは約800キロ、オレの知っている観光地というか、名所や景色はまだ日本語の観光ガイドブックも米国では手に入らず、ほとんど教科書で習ったものか、アメリカ映画で観たものばかりだった。
ナイアガラは1950年代までは、日本では熱海や宮崎がそうでであったように、アメリカ人の新婚旅行のメッカであった。この滝はアメリカで最も大きく美しい滝で、一度は見たいと思っていた。それはマリリン・モンロー、ジョセフ・コットン主演の映画「ナイアガラ」の影響だった。だがベトナム戦争だからか、五月末の学校が夏休み前だったのが影響していたのか観光客は非常に少なく、驚きというか、寂しい風景にがっかりした。
落雷事故
バッファローからニューヨーク州の州都オールバニーまでは約450キロ、何事も起らなければ、簡単に一日で走行できる距離である。
ついにニューヨーク市近くまで来たかと、畑が広がり、ポツン、ポツン農家らしい建物を横目に、一般道路を気分よく走っていると、道路に沿って延々と続く電柱だけの草原に夕闇が迫り、雷雨が始まった。びしょ濡れになりながら40キロほど先のオールバニー町を目指していると、突然、目の前で轟音と共に稲光が目の前を走り、バイクごと転倒した。
一瞬の出来事だった。バイクは道路に横倒し、エンジンは切れ、ヘッドライトだけが大雨の中で無常に点いていた。
雷は道路わきの電柱かバイクに落ちたのかわからなかったが、周りには避雷針はなく、落ちたとすれば電柱かバイクのどちらかに違いなかった。今度はオレに落ちるのではないかと恐怖心が全身を覆い、とっさに道路脇の溝へ飛び込んだが幸いけがはなかった。
このときからトラウマというか、何が怖いかと言っても、雷ほど恐ろしいものはないと思うようになり、それ以来、オレは小雨のときでもゴルフの誘いは。どんなことでも断ることになった。
しばらくすると、雷が遠ざかったので、びしょ濡れになりながら溝から這い出てバイクを点検すると、エンジン・カバーのクランクケースが割れ、エンジンが丸見えでオイルが流れ出ていた。こうなるとエンジン100パーセントかからない。40キロ先のオールバニーまで重いバイクを押して行くことも不可能である。
バイクを道路脇に置いたまま、ヒッチハイクでオールバニーまで行き、バイク屋といっしょにバイクを取りに来ることにした。
車を止めるため、オレは雨が降りしきる夕暮れの道路に立っていても、こんな時に限り車は来ない。時折、ヘッドライトが近づいてくるが、ワイパーを忙しそうに振り動かし、オレを蹴散らかすかのように、水しぶきを思い切りぶっかけながら無情にも目の前を通り過ぎて行く。周りは民家もない道路で夜を明かすことなどとてもできない。
オレは降り注ぐ雨の中でびしょ濡れになりながら身動きもせず、西のほうを凝視して近づいてくるヘッドライトを待った。
20分ほど立っていただろうか、オレには我慢の限界のように長い時間に感じられたが、前を通り過ぎた小型トラックが30メートルほど前行き過ぎ停まった。そしてゆっくりバックしてきた。
オレも小型トラックに走り寄り、雨と寒さで震えながら窓を開けた若い運転手に事情を話し、20ドル払うからオールバニーまでバイクを運んでほしいと祈るように必死に頼んだ。「20ドルか!」と、言うなり、彼はすぐ降り続く大雨の中、トラックから降りてきて、バイクを荷台に積んでくれた。
20ドルという金額は当時一日分の労働報酬に匹敵した。彼は勤務先からオールバニーへ帰る途中であった。30分ほど先のオールバニーまでおれとバイクを運ぶだけで、20ドルという臨時収入に気をよくしたのか、彼は残り物のサンドイッチとコーラを腹の空いたオレにくれ、雑談しながらオールバニーのYMCAまで送ってくれた。
その夜はYMCAに泊まり、翌朝、オールバニーのバイク修理屋を探し出向いたが、部品のクランクケースがないので修理は出来ないという。しかたがないので電話帳で調べニュージャージー州チェリーヒルのヤマハに電話を入れ事情を伝えると、直ぐオ―ルバニー行きのバスで送ると約束してくれた。
ニュージャージーからオールバニーまでは約250キロある。夕方には届くだろうと思いバスターミナルで夜遅くまで待まったが、その日は届かなかった。
翌日は土曜日でクランクケースが届いてもバイク屋は休みである。
月曜日までオールバニーのYMCAに滞在することを余儀なくされた。
土、日もバスターミナルで待ったが荷は届かなかった。縁もゆかりもない町のバスターミナルで、いつ届くかわからないクランクケースを待ち続けるのは退屈極まりなく、忍耐のいる3日間だった。
月曜日の朝、ニュージャージーのヤマハへ電話を入れると、なんということだ、ヤマハはオールバニーのバスターミナル付けでオレに送ると言ったが、どこで行き違いになったのか、クランクケースは代理店に届いていた。オレの人生で今もわからない最大のナゾである。代理店もニュージャージーのヤマハに部品を注文していたのだ。オレは3日間もバスターミナルで待たされ腹も立ったが、代理店で新しいクランクケースを見たときはホッとした。長い、長い3日間であったが、修理が終わり生き返った心地よいエンジン音を聴くと機嫌も直りニューヨークへ走り出した。
だが、ニュージャージーのヤマハから、オールバニーのバイク屋へクランクケースが届いたのか、今でも不思議でならない。
(つづく)

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Oldies’60s, Hardies in California 
& Around the world on motorcycle 
オレの二十代
(30)
ニューヨーク
ロバート・ケネディ暗殺・葬儀
ロサンゼルスを出発してから19日目の1968年6月6日、オールバニーを出発、あと240キロほど走ればニューヨークシティであった。
ハイウェイの道路標識には、「ボストン170マイル(272キロ)とあった。そこからは大西洋は見えなかったがアメリカ大陸の東の端まで来たという実感がわいてきた。
オールバニーからハドソン川に沿って南へ走ればニューヨークまでは半日の距離であった。
「ハイウェイ」は「フリーウェイ」と名を変え、交通量も急激に増えはじめた。ニューヨーク州ナンバーの車はもちろんのこと、マサチューセッツやコネチカット、ニュージャージー州などニューヨーク州と隣接した州のナンバーの車がやたらと目に付きはじめた。
ニューヨーク市街に近づくにつれ映画や写真で見慣れた摩天楼が迫ってきた。
走行距離は五千キロ近くになっていた。
しかし、何か変だ。昼間というのに行き交う車はみなヘッドライトを点け、スピードを落としてゆっくりと走っていた。
世界最大の町、ニューヨークの繁華街、42丁目と7番街のブロードウェイの交差点にあるタイムズ・スクエアに着いた。
ここでも車はライトを点灯してゆっくりと走っていた。町は人通りも少なく静まり返り、想像していた活気ある大都会ニューヨークの賑わいはなかった。
給油のためガソリン・スタンドに入ると、スタッフの数人が事務所の中で客のオレを無視し、テレビを観ていて出てこないので、文句を言ってやろうと事務所の中へ入ると、
「ボブ(ロバート)・ケネディが暗殺されたんだ。お前も観ろよ」と、彼らは報道番組に夢中になりながら言った。
オレも驚き、彼らの中に入りテレビに目をやると、ロバート・ケネディがカリフォルニアでの大統領予備選に勝利した6月5日の夜、オレの住んでいたアパート近くにあるロサンゼルス・アンバサダーホテルで祝賀会のあと、多くの支持者との混乱を避けるため、ホテルの調理場を通って会場外の専用車に乗り込もうとホテルを出ようとしたとき、パレスチナ系アメリカ人に頭を銃撃され死亡したと、テレビはくり返し、くり返しアナウンサーのヒステリックな声と生々しい現場の映像を流していた。
オレがアメリカへ行く前年の1963年、大統領であった兄ジョン・ケネディが暗殺され、今度はアメリカを去ろうとした1968年、次期大統領間違いなしといわれた弟ロバート・ケネディ暗殺され全米が悲しみと混乱に包まれた日、オレはロサンゼルスから19日間を費やし、5,000キロをバイクで旅しニューヨークに着いた日であった。
オレにとってアメリカ大陸横断はインドまでのバイク旅行のほんの足慣らしであり、大陸横断の達成感や疲れは全く感じなかった。
しかし、この暗殺ニュースを聞き、何か悪いことが起こるような予感がした。マンハッタンの中心街でロバート・ケネディ暗殺のニュースを知ったオレは、ニューヨーク市内のホテルは全米はじめ、世界中からロバート・ケネディの葬儀を一目見ようと予約が殺到するに違いないと思ったオレは、直ちにホテルを確保しようとホテルを回ったが確保できなかった。
YMCAへも行ったが、そこもラフな服装をしたヒッピーまがいの若者たちが予約を取るため長蛇の列を作っていた。
どんなところでもいい、とにかく泊まるところを確保しようとニューヨーク市内を何時間も走り回っていると、偶然、予約できる黒人経営のホテルを見つけた。やっとホテルを確保した喜びとともに我に返ると、そのホテルの出入口には黒人がたむろし、酒ビンや新聞紙が散乱していた。
なんとなく嫌な予感が当たるように思えた。カウンターにいるたった一人の黒人スタッフからキーを受け取り部屋へ行こうとエレベーターに乗ると、ドアは手で開け閉めする朽ちた旧式のものであった。
五階だったと記憶しているが、エレベーターを降りると、廊下は薄暗く、人がやっとすれ違いできるほどの狭さで、部屋には古く汚いベッドとゴミ箱用の古いバケツ、それに水の出ないシャワーだけであった。
オレは、ホテルの入り口で酒をラッパ飲みしながら、たむろしている黒人たちが夜中にオレの部屋へ押し入り、寝ているオレを襲い、下手をすると殺されるのではないかと不安と恐怖で着替えもせず、ベッドにしばらく腰かけていた。ジッと一晩中そのまま起きていられるわけがないと思い、本能的に用心のため部屋のドアのそばにゴミ箱用のアルミ製バケツを置き、ドアが開くとバケツに当たり音がするようにした。
反面、頭のどこかで、世界一殺人の多いニューヨークでも映画であるようなことは起こるまいという思いもしたがサバイバルナイフを握って、起きておこうとベッドにもたれていたが、疲れが出たのか眠り込み、目が覚めると無事に朝を迎えていた。
あとでわかったのであるが、そのホテルは、何と当時アメリカで最も殺人の多いニューヨークのハレム地区のホテルだった。何も起こらなかったこと自体、単にラッキーだったのかもしれない。
この不気味な恐ろしいホテルから逃げるようにチェック・アウトしてタイムズ・スクエアへ行き、街角で「ニューヨーク・タイムス」を買い、カフェへ入り、ドーナツとコーヒーの朝食を摂りながら、ヨーロッパ行きの船を予約するため広告欄で旅行社を探していると、何社かの中にこのカフェの近くに一社、日本人が経営する旅行社があった。朝食の後、広告にあった古い高層ビルの狭い一室に、中年の日本人社長が一人で営業していた。
社長は日本からの観光客が増え、日本の旅行社からニューヨーク観光のバスを手配する旅行社を始めてまだ三年、ヨーロッパへ船で行く客はオレが初めてだと苦笑しながら電話帳を広げ,何社かの船会社に電話をかけ続けた。
そして、最も早いヨーロッパへは六月十日、ニューヨーク出航のリスボン(ポルトガル)行きがあるが、学校の夏休みが始まり、エコノミークラスは満席で取れないと言った。できるだけ安い船室を予約したかったが、仕方なく、一段高いツーリスト・クラスを374ドル(約13万円、当時の日本人の給料の三か月分)払い、即、予約した。
リスボン行きの船の予約が済むと、アメリカ大陸を横断したオレのバイクを総点検しておいた方が良いと思い、ハドソン川のリンカーン・トンネルをくぐり、ニューヨークの北西約130キロ、ニュージャージーのヤマハ・ニュージャシー支社へ行った。
ロサンゼルス・ヤマハのAさんから連絡があったらしく、インドまで走るのだからヤマハの名誉にかかわるからと、白人メカニックは時間をかけ、丁寧に整備してくれ、整備費もまけてくれた。
その夜はヤマハ支社のある、チェリーヒルのモーテルに泊まった。
(つづく)

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引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki


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