ぼっちゃんのブログ

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    2022年06月

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]


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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (41)
    森と泉の国 スェーデン
    低血圧症状は一週間ほどすると良くなった。バイクでコペンハーゲンの北約40キロにあるシェークスピアの「ハムレット」のモデルになったクロンボー城など近辺の観光に出かけるようになった。
    城を囲むように近くには海岸があり、多くの人が北欧の短い夏をむさぼるように日光浴をしていたが、水が冷たいのか泳いでいる人はいなかった。
    デンマークまで来たら、次は対岸のスウェーデンへ渡るのは当たり前。体調の良くなったオレは、ヘルシンゲルからフェリーでスウェーデンのヘルシンボルへ渡り、スウェーデンの西側をヨーテボリへ行き、そこから白樺の森が続く中を通り抜け、ヨーロッパの最北限、ノルウェー領のノールカップを目指し走りだした。
    季節は九月になっていた。日本の感覚でまだ夏だと思っていたが、スウェーデンの白樺林の中を走っていると、冷たい風と時折降る小雨で体を冷やし、何度となく用足しのため停まらなければならなかった。
    夕闇が迫る白樺林の中を北上しながら宿を探すが、すれ違う車もなく民家さえ見当たらなかった。
    北欧の夏は日が長いと思っていたが、九月に入ると急に日が短くなり夕闇は駆け足で迫ってきた。
    暗闇の中、当てもなく宿を探し走っていると小さな光が近づいてきた。それは自転車のライトだった。バイクを停めると、自転車も停まった。彼は巡回中の中年のお巡りさんだった。
    「宿を探している」と、言うと、
    「ついて来い」と、幹線道路から数百メートル奥に入ると、木立で囲まれた二階建ての立派な民家があった。
    彼が民家の玄関のベルを押すと、60半ばの知的で品の良い女性が出てきた。
    そこはB&B(民宿)だった。二階には三部屋あり、各部屋にはシングルベッドが二つ、三つあった。
    経営者の女主人は、
    「濡れたものを乾かしなさい」と言って、
    暖炉に火を入れ、たった一人の客であるオレのため食事を作り始めた。彼女は出来上がった食事を年季の入った広い木製のテーブルに並べると、テーブルのローソクに灯を点け電気を消し、骨董品のような大きな蓄音機にクラッシック曲のレコードをかけると、食事を摂っているオレの前に座り、
    「いつも、このようにして泊まっていただいた方には夕食を摂ってもらっているのよ」と、落ち着いた口調で言った。
    ローソクの灯りだけの薄暗い部屋の窓をとおして、下のほうに小さく民家の灯りがちらほら見えた。
    ビートルズの曲ならわかるが柄にもなく、クラッシックの曲を聴き、この知的な老女と会話しながらの夕食は、まるで映画のワンシーンのような雰囲気であったが、知的な老女とレコードから流れるクラッシック曲を聴きながらの夕食は、オレはお里が知れるのを恐れ、会話を合わせるのに必死で、食事の味もわからなかった。
    彼女は元教師で、すでに主人は亡くなりっていた。
    息子と娘はそれぞれ独立して、医者と弁護士になり、娘はヨーテボリに、息子はストックホルムに住んでいると言った。
    一人暮らしの彼女は宿泊者との出会を楽しむため、採算など度外視してこのB&Bを経営していると言った。
    翌朝は久しぶりにさわやかな目覚めだった。ベッドから手を伸ばし、カーテンと窓を開けると太陽がまぶしいく輝き、下では女主人が庭掃除をしていた。
    昨夜は暗くてわからなかったが、このB&Bの建物は白樺林に囲まれ、下のほうには小さな湖あり、その周りに色彩豊かにペンキ塗りされた北欧らしい民家が点在していた。
    階下に降りていくと、彼女は庭掃除の手をやめて、朝食を作り始めた。彼女はオレが起きるのを待っていたようで、二人で雑談しながら朝食を摂っていると、
    「あなたはバイクでこの街に来た最初の日本人だからニュースになると思い、新聞社に電話したよ」と、微笑みながら言った。
    食事を摂っていると、地方紙の記者だというハンチング帽をかぶった中年の男が自転車でやってきた。彼女の出したコーヒーを飲みながら記者はオレに質問を浴びせ、明日の新聞に載せるからと言って去って行った。
    記者が去ったあと、私は食事した後のテーブルにヨーロッパの地図を広げ、この女主人に
    「ここまで行くつもりです」と、指差すと、
    「ノールカップね。そこまで行った日本人はいないと思うわ」と、言った。朝食の後、出かける準備にかかると、
    「あなたの新聞記事を見てから出かけたら」と、いう彼女の説得に抵抗もできず、何も見るべきものがない白樺林の高台にあるこのB&Bにもう一泊する羽目になった。
    バルカン半島を南下 ギリシャへ
    翌日、オレのことが小さく写真付きで新聞に載ると、その町の全校生徒二十人ほどの小学校の校長から日本について話してくれと依頼があり、町の人からは食事の招待を受けた。
    だが、出発を一日伸ばした翌朝、起きるとまた疲れがひどくなり、二日ほど寝込んでしまいノールカップへ行く気力も体力もなくなった。
    ノールカップ行きをあきらめそこで休養していると、少し気分が良くなった。
    体力の回復と気晴らしに、バイクで小さな湖と白樺の林という村上春樹の「ノルウェーの森」に出てくるような舞台景色の中を走っていると、大きな木造の館のような建物が湖畔にあった。オレは「おや?」と建物の横にバイクを止め、ガラス窓越しに中を覗くと、多くの北欧の若い女性が一斉に大声を上げ窓際へ走り寄ってきた。まるで映画のシーンであった。オレは一瞬彼女たちの歓喜?の声に驚き一歩も動けなかった。そこは刺繍作りを教える学校だった。中年の女性の先生から声をかけられ、生徒たちに囲まれコーヒーを飲む羽目になった。
    そのお礼に彼女たちを前に米国留学時代ことやバイク旅のこと、これからの人生の夢について簡単に話した。すると一人の女生徒が、
    「こんな森と湖しかない国で一生を終えることは、広い世界を知らずに一生を過ごすことになる。ここを卒業したら大きなアメリカへ行こう」と、大勢の生徒の中で一人大声を上げた。すると、そこにいた全女学生が賛同するように奇声を上げ、オレに握手を求めてきた。オレの人生で女性たちにあれほどもてたというか、注目されたのは、あの時が最初で最後であった。その中に日本女性の生徒が一人いたが、視線はやはり暖かくはなかった。
    その翌日、B&Bの知的なオーナにお礼を言い、素晴らしく居心地の良かったスイスで休養するため出発した。
    コペンハーゲン、ハンブルグ、ケルン、そこからライン川に沿いに、1,200キロの距離を三日かけて再びツェルマットのYHへ向かった。
    ツェルマットで休養して、中近東を横断するだけの体力をつけることに専念した。
    毎日、入れ代わり立ち代わり、このYHに来る日本人若者たちとマッターホルンの麓ゴルナーグラートへ登り、夜は彼らと小さな町へ繰り出し、カフェやレストランで交流を楽しみ、ギリシャ行きの日を待った。
    ツェルマットにチラホラと、雪が舞い始めた1968年9月下旬、正確にはその月の25日、私はギリシャへ向け出発することにした。
    「ジェームス・ボンド」がハイテク車で駆け上った、あのスイスのヘヤピンカーブの続く山岳道路を上り、シンプロントンネルを抜け、イタリア側の長い下り坂を下り、有名な観光地コモ、ミラノを経由してベニスへ入った。
    ベニスの町は大小の運河が縦横に走り、バイクを駐車場に置き水上バスで町へ入った。町の道路である運河の水は汚染がひどく、小さな町ベニスは観光客で混雑しており、映画「旅情」で観た雰囲気にほど遠いものだった。
    ベニスで一泊して、ユーゴスロバキア(現クロアチア)との国境の町トリエステへ向かった。(つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (42)
    ユーゴスラビアからギリシャへ
    ベニスで一泊して、イタリアとユーゴスラビア(現クロアチア)の国境の町トリエステに着いた。
    トリエステは第二次世界戦争後一時、ユーゴスラビア領になっていたが、その後イタリアに返還されたという歴史がある。
    今はヨーロッパ各国の関係は安定しているが、中世から戦いの連続でヨーロッパ各国の歴史は複雑である。学校で習った世界史の断片的な知識では表面的なヨーロッパしか理解できないと思った。
    当時、ユーゴスラビアは「鉄のカーテン」と呼ばれていたソ連と同じ社会主義国家で、東ベルリンでドイツ軍に拘束された経験のあるオレは不安な気持ちで国境管理事務所を訪れ、
    「ギリシャへ行くのだが、貴国は通過できるか」と聞くと、
    「イエス」と係官は笑顔で言った。
    ユーゴスラビアを通過できなければ、また今来た道を引き返し、イタリア半島を南下、どこかの港からギリシャへ船で行くしか手立てがなかったので、オレはホッとした。
    国境の警備兵も近くの案内所の女性たちも愛想がよく、西側に比べ貧しさは感じられたが、町の風景も雰囲気も西側ヨーロッパとなんら変わりはなく、人々はソ連の悪口を言って嫌っていた。それが当時のオレには意外に思えた。
    違いといえば西側では見られなかった闇の両替屋が道路に多く立ち並び、堂々とオレに近づきドルと現地通貨の両替を求めたことであった。
    確かに銀行レートよりはるかに高い交換レートで、物価は驚くほど安く、オレは一気に大金持ちになったような気分になった。
    国境を越え、地中海沿岸の風景と同じような美しいアドリア海に沿って南下した。海岸線はいたるところで深く入込んだリヤス式海岸になっていた。
    初めてこの国を走るオレはフェリーに乗れば数分で対岸へ渡れることもわからず、長いときには一時間以上も湾を迂回することが度々あった。
    誰でもそうであろうが、一人旅のオレは興味のないところはどんどんぶっ飛ばし、興味ある場所ではゆっくり時間を取って観光した。
    ユーゴスラビアは米ドル大歓迎で、一ドルも払えば豪華な食事を摂ることができた。収入の道がないのか民宿で生計を立てている家が多く、夕方になるとどこの町でも多くの大人たち、子供たち家族全員が道路で民宿の客引きをやっていた。
    この国にはYHがあったかどうかわからなかったが、民宿に泊まることが多かった。どこの民宿も貧しい造りの汚い家で、シャワーも水しか出ないところが多く、出される食事も戦後オレが食べていたようなお粗末なもので、生活が大変そうで、民宿を出るときは、必ず一ドルほどのチップを余分に置いた。
    民宿代は二食付きで二ドルほどだった。一泊二食付の民宿や照明の薄暗いロビーに、大きなチトー大統領の肖像画が飾ってある宿泊客もいない、うらぶれたホテルに泊まったりしてバルカン半島を南下した。
    イタリア国境の町トリエステから南へ約五百キロ、今はメジャーの観光地であるドブロニクに着いた。何の観光情報も持たないオレは高く長い城壁に囲まれた細い道を走り、町を通り抜け山岳地帯の急坂な道路を登り、振り返ると城壁に囲まれた赤い屋根の旧市街とアドリア海の青のコントラストが素晴らしいドブロニクのあの絶景が眼下にあった。
    しばらくの間、オレは道端に腰を下ろし、この眼下に広がる絶景に時間の過ぎるのも忘れ見とれていた。
    アドリア海に沿って南下、ユーゴスラビアとアルバニアの国境に着いた。国境線は川で、幅100mほどの橋が架かっていた。アルバニアを通過すればすぐギリシャである。
    バイクを橋のたもとに停め、橋の中ほどに立っていたアルバニアの国境警備兵のところに行き、
    「ギリシャへ行きたいが、アルバニアは通過できるか」と、聞くと、
    「我が国は鎖国中だ」と言った。
    仕方がないので、川上へ丸い円の外淵に沿って回るように、山岳地帯の国境線に沿って迂回、遠回りすることになった。
    国境の町チトーグラード(現ボドゴリツァ・モンテネグロ)は人影もなく、空っ風が吹き、砂塵が舞い、クリント・イーストウッドのマカロニウエスタン映画に出てくるようなさびれた町だった。このあたりで初めて白人でない我々と同じようなアジア系の顔をした人に出会い、バルカン半島の複雑さを感じた。
    舗装もされていない細い曲がりくねった山道を登り始めるとどしゃ降りになってきた。
    大雨の中、ロー・ギアで深いぬかるみの急な山道に挑むが、タイヤが滑り転倒の連続、悪戦苦闘の末、体中泥だらけになりながら現在のコソボ、北マケドニア経由、ギリシャ国境に着いた。
    ギリシャ国境の両替商で使い残しのユーゴのディナールをギリシャのドラクマに両替を試みたが、ユーゴの貨幣など価値がないと断られ、オレは不謹慎だが生まれて初めて使い残しの紙幣を燃やし、破り捨て、若い時観たトラックの火災現場まで、いつ爆発するかもしれない危険なニトログリスリンを運び、その報酬の大金を得るイヴ・モンタンのフランス映画「恐怖の報酬」のように、雨とぬかるみの山道を疲労困憊して突破した喜びを表した。
    エーゲ海 ヒドラ島での休暇
    ギリシャに入るとオリーブ畑に囲まれた道路は舗装になり、南下するにつれ天気は良くなり、アテネに着いたときは晴れ上がっていた。
    オレはYHで荷を解くとギリシャの船会社に行き、リスボンからナポリまでのバイクを引き取りに行った時、立替えていた飛行機賃100ドル分をギリシャ通貨ドラクマで受け取った。
    その翌日、まさか来るとは思わなかった秋田の菊地さんが、また、大人しいボディ・ガードの岸とともにアテネのYHに到着した。
    中近東横を中古車で旅をする大野がアテネに到着するまで、まだ一週間ほどあった。
    ギリシャは外貨事情が悪く、船会社で返してもらった百ドル分の現地通貨ドラクマもギリシャにいる間に使い切らないと紙くず同然になると聞き、菊地さん、岸、それにこのYHで出会った和歌山の大学生一人を誘いエーゲ海の島へ旅することにした。
    学生運動で大学が封鎖され、ノンポリのその学生はシベリア鉄道でヨーロッパ旅行を楽しんでいた。我々はアテネの郊外ピラウス港の船会社で勧められたエーゲ海の小さな島、ヒドラ島へ行くことにした。
    紺碧の空とエメラルドグリーンの海、エーゲ海の島々を巡る小さな時代物の貨客船に乗り込み、瀬戸内海のような穏やかな海を三時間あまり、ゆるやかなU字型をした湾の左手に中世の城壁と砲台、前方の小高い山には赤屋根と白壁の民家がへばりつくように軒を並べているエーゲ海の島特有の風景が広がる小さなヒドラ島の港に着いた。(つづく)

    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (43)ノンポリの学生は学生運動で大学が封鎖され、シベリア鉄道でヨーロッパ旅行を楽しんでいると言った。
    彼を含め四人はアテネから電車で30分ほど郊外のピラウス港へ行き、船会社の勧めもありエーゲ海の小さな島、イドラ島へ行くことにした。
    紺碧の空とエメラルドグリーンの海、エーゲ海の島々を巡る小さな時代物の貨客船に乗り込み、いわゆる瀬戸内海のような穏やかな海を三時間あまり、ゆるやかなU字型をした湾の左手に中世の城壁と砲台、正面の小高い山には赤屋根と白壁の民家がへばりつくように軒を並べているエーゲ海の島特有の風景の小さなイドラ島の港に着いた。
    下船したのはオレと学生、それに菊池さんと彼女のボディ・ガードの岸の四人だけだった。岸壁には数件の土産屋とオープンカフェがあるだけで、日焼けした島の老人たちがカフェでコーヒーを飲みながらのんびりと雑談していた。
    オレたちは土産屋で尋ね、港から白ペンキの塗られた石畳の小道を少し登った民宿に泊まることにした。宿泊客は我々だけだった。部屋は狭かったが清潔で簡易三段ベッドが三個備え付けられていた。
    その夜、民宿で出されたマトン料理に当たり、全員トイレに何度も駆け込む羽目になったが、若い我々は翌日には回復した。
    十月中旬だったが、イヒドラ島はまだ泳ぐのに十分な暑さだった。水着を持たない我々はジンズのまま、港近くの透き通るような海で泳いでいると、横に停泊していた艇長十メートルほどの豪華なヨットから、
    「あんたら日本から来たん?」と、
    突然、このエーゲ海の静かな海に浮かぶ豪華なヨットから、泳いでいる我々に四十前後の女性が関西弁で声をかけてきた。
    彼女は大阪出身で、当時、英国で五本の指に入るという有名な英国人画家の奥さんであった。
    「うちの人はなァ、イギリスではちょっとした有名な絵描きなんや」と大声で言ったが、嫌味はなく、自慢たらしくもなかった。
    いかにも「大阪のオバちゃん」キャラクターの奥さんがヨットで洗濯物を干すその横で、ご主人はビールを飲みながら、キャンバスに向かっていた。
    気さくな画家夫婦で、その夜、我々はヨットで催されたパーティに招かれた。客はルフトハンザのパイロットとスチュワーデス、それに我々と十二、三人ほどのパーティだった。
    「イドラは景色も空気もエエし、観光客もおらんし、まだ知られてないリゾートなんヤ。ウチら毎年ここに来てるねン。日本人でここに来たんは、あんたらが初めてとちゃうやろか?ほんま、あんたら幸せやデ」
    と、威勢のいい関西弁と英語を使い分けながら、彼女はパーティの座を盛り、楽しいイドラ島の旅になった。
    この風光明媚なエーゲ海のイドラ島は、ソフィア・ローレンと「シェーン」で有名なアラン・ラッド主演の「島の女(原題イルカに乗った少年)」が撮影されたのもこのイドラ島である。
    イドラ島はオレが訪れた観光地の中でも、スイスのツェルマットとともに忘れられない素晴らしい島であったが、今は俗化していると誰かが言っていた。日本にも瀬戸内海や鹿児島湾に浮かぶ桜島のように世界に誇れる素晴らしい風景がある。その風景はどこの風景にも劣らない。だが、エーゲ海やナポリの風景よりあたかも劣っているように瀬戸内海を「日本のエーゲ海」とか桜島のある鹿児島湾を「東洋のナポリ」と呼んでいるが、その必要決してはない。日本ほど自然豊かで、素晴らしい風景はないと日本人は自負すべきである。
    中近東への出発
    ヒドラ島からアテネのYHに戻った翌日、横浜の大野が中古のワーゲン(フォルクスワーゲン)に22,3歳の日本人学生二人を乗せて着いた。
    ドイツで知り合った彼ら三人は、中近東を旅してインドまで行くことに意気投合し、共同でこの中古車を買ったと言った。
    1968年8月中旬、インドへ向け出発する日が来た。
    そのころ、ヨーロッパのヒッチハイカーたちの間では、イスタンブールでドイツのヒッチハイカー二人が殺されたとか、スイスの若者が行方不明になっているという噂が飛び交っていた。
    オレは日本を出てから一人で生活し、自分のペースで旅していたので、いざ出発となって、車と一緒に走るのは、何かにつけ制約されるので、一人で行くと言ったが、一人旅は危険だからという大野の説得を受け入れ、彼の車の後に付いて走ることになった。女性の菊地さんは大野たちとワーゲンに乗ることになった。
    彼女のボディ・ガードである岸も同行を願い出たが、荷物を積んだ小さなワーゲンに五人が乗るのは無理で、オレはパスポート、トラベラーズ・チェック、カメラ、寝袋以外は捨て、彼をバイクの後ろに乗せ出発することにした。
    しばらく走るとワーゲンとバイク、お互いを見失わないように走り続けるのに疲れ、危険なのでイスタンブールのYHで会うことにして別れた。
    岸を後ろ乗せ、オレのバイクは約1,500キロ北のイスタンブールを目指し、再び走り出した。
    オリーブの木以外、緑の少ないギシャでは木造の建物はほとんどなく、透き通るような青い空に赤い屋根と白壁の建物ばかりが目についた。
    ギリシャ第二の都市テッサロニキを通り、イスタンブールの手前100キロほどまで来たところで夕闇が迫り寒くなり、宿を探すが民家さえ見当たらない。周りは草木も生えていない荒野であった。
    寒く停まり、小用していると、暗闇の中にぼんやり大きな建物が見えた。近づいてみると小さなホテルのような建物だった。ガラス越しに建物の中を覗いても、電気も点いておらず建物の中は真っ暗で人の気配は感じられなかった。誰かいないかと岸と玄関の大きなガラス窓をドンドンと叩いていると、腰の曲がった老婆が灯の点ったローソクを持って玄関に近づいてきた。
    ローソクに照らし出された老婆の顔がなんとなく「白雪姫」に出てくるバアさんのように不気味に見えたが、周りに民家はおろかホテルもないので、仕方なく泊めてくれと、身振り手振りで頼むと老婆は快く承諾した。
    ローソクを持って二階の部屋へ案内してくれる老婆の後に付いて暗い階段を上りながらふと後ろを振り向くと、階下でローソクを持った中年の男がオレたちに目を向けたのがチラッと見えた。
    一瞬、イスタンブールで殺されたというドイツ人ヒッチハイカーことが脳裏をかすめた。
    「何か悪い予感がする」と、岸も言うので、電気も点かない部屋でオレと岸は、交代で見張り番しながら寝ることにした。
    最初にオレが見張り番をして岸が寝ることになった。ふと目を覚ますと窓から朝日が差し込んでいた。二人とも疲れ、着替えずベッドに倒れ込むように寝込んでいた。
    恐怖の予感は完全に外れた。 
    この建物はイスタンブールの会社の別荘で、老婆と中年男は親子の管理人であった。
    オレたちが泊まった時はシーズンオフで、その夜はたまたま停電だったのだ。オレたちは心苦しさを感じながら、お礼を言ってイスタンブールへ走り出した。(つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (44)
    世話になった老婆にお礼を言ってイスタンブールを目指しその朝も走り出した。
    大きな城壁の門を潜り抜けるとイスタンブールであった。ボスボラス海峡を境に、西にヨーロッパと東にアジアの二つの雰囲気を持った都市イスタンブール、モスク、バザールとヨーロッパの国々が混ざり合った泥臭い感じが魅力的な都市だった。
    YHに着くと、車の連中は前日に着いていた。この町でドイツ人ヒッチハイカーが殺されたかどうか結局はわからなかったが、通りの大きな建物には金銀細工の店が迷路ように入込んだ路地の奥までぎっしり並んでおり、その建物に入ったら最後、タダでは出てこれそうにもない雰囲気は漂っていた。
    旅をしている間に、オレは危険に対する感覚が鈍感になってしまったのか、そのような雰囲気のところも平気でうろつけるようになっていた。
    そんなものより、もっと恐ろしく、オレを悩まし、恐怖に堕とし入れたのはYHのベッドを占領しているシラミの多さであった。DDT(殺虫剤)を買い、体中に刷り込まないとかゆくてベッドの横になることさえ大冒険であった。戦後日本では十分経験したが、アメリカやヨーロッパでは経験したこともないシラミの攻撃に、ついに中近東に来たかという実感もあったが、これから先の旅が思いやられた。このシラミに恐れをなし、早々とイスタンブールを逃げだすことにした。
    雨と寒さのトルコ横断
    ボスボラス海峡にはまだ橋は架かっておらず、ヨーロッパ側からアジア側へフェリーで渡り、アンカラを目指した。車もほとんど通らないトルコ高原の幹線道路を気分よく走っていると、突然、畑から牛が道路へ走り出てきた。岸を後ろに乗せたバイクでは急ブレーキも踏めず、そのまま牛の横っ腹に衝突、牛とオレたちは道路に転倒してしまった。
    偶然、その時、アンカラへサッカーの試合に向かう選手たちを乗せたバスが通りかかり、彼らがバスから降りて来て我々を介抱してくれた。
    アリゾナのグランドキャニオン、スペインのサンセスバティアン、そしてトルコと三回目のバイク横転事故であったが、幸運にも今回も命には別条なかった。牛の角が折れ道路に落ちていたのを岸が記念にとポケットに入れ、トルコの首都アンカラに入った。
    小雨が降り出し、貧しさだけが漂う首都アンカラでは全く観光するにも、するものもわからず、イラン入国ビザを取得のためイラン大使館へ出向き、日本大使館に行き日本語新聞を読み、トイレを借り、そのついでに手洗いの水道で体を洗っただけだった。
    大人しい岸は横転事故で少し手足を擦り剥いた程度だったが、これから先又事故で大けがでもしたら大変と話し合いの結果、彼はアンカラからバスで中近東を横断してインド経由で帰国することになった。「深夜特急」が発売される18年も前である。
    大きな都市では何度となく、同じような目にあったが、アンカラ市内も道路が入り組んでおり、郊外に出て東へ延びる幹線道路をまっすぐ走ればイランへ着くはずであるが、その幹線道路を見つけるのに苦労した。道端にバイクを停めて、道行く人々に何度となく英語で聞いても通じないので、東の方を指さして、「イラン、イラン」と、繰り返し聞くと、こっちの方向だと東ではなく、思いもしない北の方を指さす。北へ行けば黒海で、その先は船で行けばソ連である。彼らの言っている方角を疑いながらも、仕方なくアンカラから北へ約430キロ、黒海に面したサムソンの町を迂回してイランへ行くことになった。
    走りながら、トルコ東南部には1,000万人以上のクルド人が住んでおり、トルコと自治権要求をめぐる紛争が長年続いており、東への道路は危険だから迂回せよと彼らは言ったのかもしれないと考えた。トルコ語がわからないので彼らの言うことを疑いながらも、長い距離を迂回しなければならなかった。
    黒海沿岸の町サムソンに近づくにつれ雨風が強くなり、黒海沿岸の風景は冬の日本海沿岸地方のように鉛色に覆われ、海は荒れ、寒くて震えながらの走行だった。車の連中のことなど考える余裕もなかった。
    サムソンから黒海に沿ってトラブゾンまで約340キロ、対岸はソ連かと感慨もあったが、トラブソンから内陸のエルズルムまで毎日雨にたたられた。貧しい国トルコは朽ち果て、人の住んでいない家が多かった。
    そのような建物に雨宿りして、壁板をまき代わりに火を焚き、ずぶ濡れの衣類を乾かし、寝泊まりしながら我慢強く前へ前はと旅を続けた。
    毎日雨に濡れながら走るのは嫌だったが、不思議なことにバイクで走るのはもうやめようとは一度も思わなかった。そういう思いが起こっていたら、その時点でバイクの旅は間違いなく終わっていた。
    アメリカでの四年間の生活がオレを変えたのか、判断力、決断力、行動力には自信があり、諦めるということなど思いもしなかった。オレの性格か自分の意志でやりだしたことには、徹底してやり遂げないと気が済まなかったし、前向きであった。オレは、ただ、びしょ濡れになりながらも目的のインドへ向け、もくもくと走り続けた。
    海岸線のエルズルムからトルコ内陸部、国境の町ドグボヤジットまで約250キロ、この町を過ぎると、地の果とはこのようなところにかも知れないと思えるような荒涼たる緩やかな上りの山岳地帯になり、そこを上りきるとイラン国境警備兵の駐在する小さな建物が目に入った。
    今では日本人にとってトルコは人気のある観光国の一つであり、世界遺産に登録されている「妖精の煙突」と呼ばれる奇岩のあるカッパドギアなど誰でも知っているが、当時のオレは、その存在さえ知らなかった。
    当時、イスタンブールのYHのベッドにシラミがうようよいたように、どの町でも掘立小屋のような民家が多く不衛生で貧しい国で、アンカラからイラン国境までの毎日は雨でびしょ濡れになって走ったこと、それにアンカラの日本大使館にあった新聞でボクサー西條選手がロハスを破り世界フェーザー級チャンピオンになったことを知ったことぐらいしか記憶にない。
    砂漠と強盗のイラン・アフガニスタン超え
    トルコの東隣の国はイランである。イラン・トルコ国境でハシシ(麻薬の一種)を所持していたヒッチハイカーが逃げようとしてイラン国境警備兵に撃ち殺されたとうわさを聴いており、何となく不安な気持ちで国境に着いた。
    イラン国境検問所は見渡す限り民家もない砂漠の高原の高台にあった。国境警備兵の建物は簡素な造りであった。
    数人いた係官たち簡単な入国手続きを終えると、紅茶やタバコのサービスと噂とは違い親切だった。
    晴れた日にはイラン国境警備兵の建物からは40キロほど北のアルメニアが見えるそうだが、曇り空で何も見えなかった。
    イランに入ると砂漠地帯になり、首都テヘランまでは緩やかな下りであった。
    (つづく)

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    オレの二十代
    (45)
    イランに入ると砂漠地帯になり、首都テヘランまでは緩やかな下りの一本道であった。
    この一帯はトルコに近く大雨が降った後らしく、舗装道路であったがいたるところに水溜りができていた。大きいものは直径二十メートルほどもあり、道路が陥没して深くなっているように思え怖くて前へ進めなかった。
    道路脇の砂漠一帯は泥沼のようになっており、バイクでそこを迂回することは不可能なことは明らかであった。エンジンに水が入れば一巻の終わりである。周りにはホテル、レストランもない無人の砂漠では水が引くまで待てない。まず、バイクを置き歩いて水溜りの深さを測ってみた。深いところで膝あたりまでの深さであった。意を決しバイクを押してその水溜りを渡ることにした。水位はエンジンの高さまであった。渡り切りエンジンをかけると、何事もなく快い金属音を響かせホッとした。
    テヘランは想像していたより近代的な大きな都市であった。砂漠に囲まれたこの町からは、はるか北に雪をかぶったアズボルズ山脈が見えた。太陽が照る昼間は暖かかったが、十月の夜は冬のように寒かった。
    イランの国王パフレヴィ二世は、ケネディ大統領の後押しで経済改革と脱イスラム教政策を進めていた時代で、欧米のようにサングラスにミニスカート姿の女性が多く見かけられた。
    シルクロードの交易で栄えたテヘランのバザールは、迷路のように奥へ路地が伸びており、ペルシャ絨毯やアラビアンナイトの物語に出てくる金細工のランプなどの商品が山住に並べられ、多くの買い物客でにぎわっていた。
    テヘランから東へアフガニスタンに向け、当たり前のように走り出した。
    だが、近代的な建物の建ち並ぶテヘランの町を少し出ると、そこから先は地平線までは砂、砂だけの砂漠であった。イギリスのドーバー港で買った命の綱、地図の出番になった。それには1,000キロほど東のメシャッドの地名は記してあるが、そこまでたどり着くまでの間に部落や町があるのか、ないのかまったく地名が記してなかった。実に大雑把な図で、この先本当に町があるのだろうかと不安だったが、前進あるのみだった。
    メリケン粉のようなきめ細かい砂の中に車のタイヤ跡だけが残る道路であった。もちろん交差点も信号機も速度制限の標識もなかった。だから制限速度もなかったが、バイクのタイヤはきめ細かい砂の中に潜り込み、空回りし、猛烈にメリケン粉のような砂塵を舞い上げ、やっと動いている感じのスピードしかでなかった。
    砂塵から目を守るため、首から上はフランスのパリで土産用に買ったイヴローランのスカーフに目穴を開け、それを覆い、その上からゴーグルつけて走るが、気休めに過ぎなかった。砂塵はまるで生き物のように体中に侵入し、オレを苦しめたが、それもいつの間にか慣れてしまった。
    メリケン粉のような砂の道路を両足でバランスを取り走るが、スリップと転倒の悪戦苦闘の連続であった。
    テヘランで会った車の連中は視界から消え去り、遥か前方に小さく舞い上げる砂埃を見て認識できるだけの砂漠ならでの道だった。
    ガソリン・スタンドがあるのだろうかと常に不安はあったが、砂漠にタイヤ跡があるということは車が往来しておる証であり、きっとどこかにガソリン・スタンドはあると信じて東へ進んだ。
    100キロほど走ると砂漠の中に一軒、むしろ屋根で暑い太陽を遮った荒削りの木製の小さな小屋があった。近づくと将棋台一つあるだけの「レストラン」であった。そこで窯で焼いたヌン(パン)とウイスキーグラスのようなコップにどっさり砂糖を入れた甘いチャイ(紅茶)が食事であった。
    ターバンを巻いた店主にガソリン・スタンドはないかと聞くと、横を指差し、ゴムホースをドラム缶に入れ口でガソリンを吸い出し給油する油屋と茶店を兼ねていた。
    砂漠の「レストラン」も「ガソリン・スタンド」もテヘランとは比較できない時代遅れの格差があった。この格差が後のイラン革命につながったに間違いない。「レストラン」と「ガソリン・スタンド」の発見は、オレにインドまでの旅に確信と安堵を与えた。
    砂漠ではイスラム教徒が式典に使ったと思える、何百年も前に建てられた煙突のような塔をときどき見かけた。中には二本並んで建てられたものや歳月とともに傾いたものもあった。
    時々砂漠の中にも地図にない小さな村と小さなモスクがあり、その尖塔に取り付けられた拡声器から独特な響きを持ったイスラム教の祈祷が流れていた。人々はその祈祷に合わせ日に五回も礼拝すると言っていた。
    また、トラックという移動手段があるにもかかわらず、背中に荷物を括り付けた十頭ほどのラクダの隊商が、砂漠を移動するのを見かけた。最初見たとき、この効率の悪い輸送手段が今もってあるのがと驚き、不思議であったが、すぐに理解できた。砂漠の中を重い荷物を積んだトラックのタイヤが砂に埋まり走れなくなるからラクダを使っていたのだ。
    まったく雨の期待できない砂漠で、住人が水や農作物など生活必需品を、どこで手に入れるのか不思議でもあった。
    夕暮、ラクダの隊商のたちが寝泊まりする泥で造られた小さな無人の建物で野営の準備をしている車の連中に追いつくと、一緒に野営した。
    車の二人の若者は女性の菊地さんと同年配ノンポリ学生で仲良く旅を楽しんでいた。
    砂漠は静寂で普段耳にする町の騒音、鳥や犬猫の声も、人間の生活するすべての音がない世界であった。
    乾燥した砂漠は大気汚染もなく夜空には星も月も大きく輝き、若い彼らは火を焚き、当時、日本で流行ってフォークソングを大声で合唱したり、語り合って野営を楽しんでいたが、その声だけが響き渡っていた。
    たった四年間、日本を離れていただけだったが、オレは彼らの唄う歌や話題についていけなくなっていた。
    彼らが唄っていた中で、加山雄三の「旅人よ」は気に入ったので、イギリスのドーバー港で買った中近東の地図の裏に、歌詞を書いてもらい、走りながら気分転換によく唄った。
    一直線に延びる砂漠の道を走りながら、青く澄んだ空を見上げると長い飛行機雲を引きながら、前日よりも三十分ほど遅れて同じ方向へ飛ぶ飛行機を見ては、昨日より、少し東へ進んでいることがわかった。
    ときには単純なバイク旅行の退屈を紛らわすため、バイクを降り小高い砂丘に上り、見渡す限りの砂漠を眺めると、爽やかな風の音だけが耳をかすめ、映画の主人公「アラビアのロレンス」になったような気分だった。
    書物ではシルクロードは崇高で歴史的、文化的価値の高い魅力的なものとして表現されているが、オレにとってはロサンゼルスからインドへ向かう一本の過酷な道にしか思えなかった。
    砂漠の砂塵を浴びながら来る日も、来る日も走っているイランのシルクロードのどこが素晴らしいのか感じることもなかった。
    しかし、オレが走った砂漠の道のどこかは紛れもなく、古代東西交易に寄与したローマから中国までの本物のシルクロードかも知れないと勝手に思いながら走った。そう思うだけでもシルクロードの出てくるテレビを見ると懐かしくなる。
    砂漠には時々朽ち果てたトラックや車の残骸放置されていた。
    日に一、二回は屋根に荷崩れするほど荷物を満載し、中近東の国々を横断するバスに出会った。バスは猛スピードでオレの脇を走り抜け、そのたびに体中砂を浴びせられ、オレの方へ横転するのではないかと肝を冷やした。
    バスの窓から砂塵で汚れた顔を出し、オレに手を振るいろいろな国の若者たちの中に、日本人の若者も何度か見た。
    (つづく)

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    オレの二十代
    (46)
    ヨーロッパからインドのニューデリー行きバスの窓から砂塵で汚れた顔を出し、オレに手を振るいろいろな国の若者たちの中に、日本人の若者たちを何度か見た。
    その中には、当時、日本中に吹き荒れていた大学生の運動に興味ないノンポリ学生たちも乗っていた。
    バスの乗客である彼らは、ヨーロッパからインドへ向う途中、食事やトイレなどで途中停まるであろうが、トルコの山岳地帯やイランの砂漠を何日も昼夜乗り詰めか疲れ切った表情をしていた。そのような旅をする若者たちの忍耐力というか、我慢強さに驚くだけで、オレなどとてもできない旅であった。バスは昼夜走るので乗客は夜、どのような風景の中を走っているのかわからない。その点バイクのオレは昼だけ走るので旅の風景に途切れがなかった。あの有名な作家も、そのことを残念がったのではなかろうか。
    テヘランの街角の水道で体を洗ったのが最後、水のない砂漠では全くというほど体を洗わない日が続いた。慣れとは恐ろしいもので歯も磨かず、茶店ではハエが砂糖の一杯入ったティ・カップの周りに群がり、ティとともに飲み込んでは吐き出すのが当たり前になっていた。だが、気持ち悪いという感覚は旅している間になくなっていた。
    いつも汚れた水を飲んで日々下痢はしていたが、病気はしなかった。
    不思議なことに、イランの砂漠の中でたった一か所だけ、砂が湿ったところがあった。
    素手で柔らかな砂漠の砂を掘り返すと、濁った水が少しずつ湧き出てきたので、濁りが沈下するのを待って、その水で汚れきった体や下着を洗った。
    洗った下着は絞り、熱い砂漠の砂をぶっかけるとすぐ乾き、手もみするとポロポロとパンツの黄色いた汚れ粕もきれいさっぱり落ち、殺菌効果もあり衛生的な自然乾燥機だった。
    中近東の人々はトイレで紙を使わないので、トイレには紙はなかった。トイレそのものが不潔だったので、広大な砂漠をトイレに使い、汚れた下着を破り、縄、砂で後始末した。日本大使館にあった新聞を失敬し、それをトイレット・ペーパに使ったこともあった。
    大使館といえば、若い日本の旅人たちは旅先で日本へ手紙を書き、返信は移動先の大使館で受け取るようで、どこの国でも大使館には多くの若い日本の若者たちが出入りしていた。
    テヘランを出てから五日目だったか、メシャッドに着いた。このあたりの女性はテヘランと違い、みな頭から足の先まで黒い布(チャドル)で覆い顔も判別できず、不気味な感じもしたが、暑くないのかと他人事ながら気になった。
    イラン・アフガニスタン国境のイラン側建物前の広場にヨーロッパのヒッピーのような若い男女十数名がたむろしていた。その中の一人がオレに近づいてきて、アフガニスタン側まで乗せてくれと言った。事情を聞くとハッシシ(麻薬の一種)を持ってイランへ入国して捕まったそうだ。捕まったといっても周りは砂漠で逃げることもできないので、彼らは勾留もされず自由に建物前の広場で日光浴しながら雑談して、お裁きを待っていた。オレは彼の相談にのれる訳がなく、彼から逃げるようにアフガニスタン側国境へ走り出した。
    一般的には国境線は川とか山脈に引かれているように、アフガニスタン・イラン国境は山岳地帯の峠が国境であった。そこを越すと眼下のアフガニスタン側は荒涼たる砂漠の大地が広がっていた。アフガニスタンに入ると国境沿いに粘土造りの建物が十軒ほどの小さな村があった。建物の周りでは、ターバンを巻いた多くの男たちが、枯れ木に銃帯を吊るし、丸腰でテーブルを囲みカードでギャンブルをしていた。
    この一帯は無法地帯だった。無法地帯といっても西部劇映画に出てくる強盗や殺人が日々行われている無法地帯ではなく、政府の法律が行き届かない地域で、いたるところに銃を作る鍛冶屋があった。
    アフガニスタンはアレキサンダー大王の時代から東西文化の交流があり、多くの民族が住む多民族国家で、それぞれの民族が権力を争っている国である。
    カードゲームを眺めているとターバンは捲いていないが、粗末な服装の知的な若者が私に話しかけてきた。その若者は医者になるため英国に留学したいがアフガニスタン政府の許可が下りないと、さびしそうに言ったのが印象的だった。
    何の産業もないこのアフガニスタンでは、手作りの銃を作りそれを売るか、ギャンブルするしか収入の道がないと彼は言った。
    暗くると危険だから、明るいうちにここを離れたほうがよいという彼の忠告に従い、その場を離れた。村の出口の高台には銃を抱えた十代前半と思われる少年たちが、いたるところで見張りをしていた。間違って撃たれるのではないかと身を地締めて急いでその場を去った。
    アフガニスタンの中央には高い山脈が東西に横たわり、その周を砂漠が囲んでいる。イラン側から通じている道路は西の都市ヘラートからこの山脈の北側を迂回し首都カブールへ、もう一本は山脈の南側カンダールを経由してカブールへと通じていた。
    アフガニスタンは米ソにとって戦略上重要な国で、北の道路はソ連が、南は米国の援助で作られセンターラインなどはなかったが、立派な滑走路に使えるような舗装道路であった。イラン東部のメリケン粉をまいたような砂道に比べると、格段に快適なツーリングが楽しめる道路だった。
    2001年9・11同時多発テロ後、米国は首謀者オマサ・ビンラディンの引き渡しを当時アフガニスタンの支配者タリバンに求めたが拒否され、米国は「不朽の自由作戦」に踏み切った。
    しかし、それまでオレは荒涼とした砂漠のアフガニスタンと戦争して勝っても何も得るものはないと思ったが、多くの犠牲を払ってもアメリカが長々と戦争したのは一兆ドル(約80兆円)の金、鉄鉱石、リチウムなどの地下資源があるのもを因ではなかろうかと最近は思ったりもする。
    カブールへの途中、この立派な幹線道路のいたるところで、銃を肩にかけたターバン姿の男たちがドラム缶を道路の両脇に一個ずつ置き、その上に丸太を置いて道路を遮断して何度となく、5ドル、10ドルと「交通税」をとられた。
    彼らは強盗かタリバンの兵士だったかもしれない。
    ヘラートやカンダールはアフガニスタンでは大きな都市であるが、粘土でできた民家が点在してコンクリートの建物は全く見かけなかった。
    砂塵が舞う道端では露天商が解体した羊の頭まで並べ売っている光景は異様であった。
    村を通過し、道端で休憩していると子供や大人たちまでが、バイクのオレがめずらしいのか遠巻きに囲んだ。
    そのうちに一人の子供がオレのヘルメットをつっつくと、それを合図のように一気に周りの者までがヘルメット叩き出した。彼らは冗のつもりであろうが、大の大人までが叩きはじめた。黙っておればいつまでも続くので、一番強そうな大人をターゲットにヤツの胸倉をつかみ足払いすると、ものの見事に倒れた。その一瞬の業を目にした群衆は蜂の子を散らすように一瞬に散った。
    これこそが「ジュード」の極意だとニタッと顔が緩んだ。アフガニスタンのどこの小さな町で休憩していてもすぐ遠巻きに人が集まってきた。
    群衆に囲まれるとタバコをくれと身振りで言うと、二十本ぐらいはいつも簡単に手に入った。西のヘラートから砂漠を南へ下りカンダールへ、そこから北へ向かうと首都カブールである。
    当時、オレのバイクはガソリンとオイルを混ぜた二気筒の「混合」が燃料であった。イランまでは、オイルの給油も困らなかったが、アフガニスタンに入るとガソリンは手に入ったがオイルが手に入らず、砂漠の道路脇で、いつ来るかわからぬトラックを長々と待った。そして、トラックの使用済みの汚れたエンジンオイルを運転手の言い値で買わざるを得なかった。この使用済みのオイルを使い走ると黒煙をまき散らし、エンジンが爆発するのではないかと恐ろしかった。(つづく)


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    オレの二十代
    (47)
    麻薬所持でイラン国境警備兵に捕まっていた白人乗せて逃げる理由もなく、国境を越えアフガニスタンに入った。西の都市ヘラートから緩やかに南東へカーブして下り、カンダールを経由してこんどは北東へまた緩やかに上り、首都カブールの郊外、砂漠の道端にあった朽ち果てた粘土造り建物で寝袋に入り、疲れ熟睡していると、突然、ターバンを巻いた五、六人の男たちに襲われた。一瞬のことで何が起こったかもわからず、ただ、驚き大声を出し、予備に持っていたバイク・チエーンを振り回し抵抗すると、侵入してきた男たちも大声に驚いたのか、一瞬のうちに暗闇の中に消えた。ほんの数秒間の出来事で恐怖を感じる間もかった。
    朝日が昇ると、汚れたシャツに血が少し流れ付いていた。顔を触ると額のあたりが少し痛かった。襲ってきた連中のナイフで切られたのか、自分が振り回したチエーンで傷ついたのかわからないが大した傷ではなかった。
    パスポートとトラベラーズ・チェックは常にブーツ入れて寝るので盗られなかったが、土産に買っていた50セント・ケネディ・コイン(1965年製までは銀貨であった)、チャーチル・コイン合計約100枚、それに帰国後、海外旅行ガイドブックを作り一儲けしようと企み、訪れた名所旧跡の記録や途中で出会った人々の連絡先を記録書いたノートを盗まれた。たった一枚だけケネディ銀貨が建物の外に落ちていた。
    その建物から100メートルほど離れた砂漠の放牧民のパオ(包)から、オレへ目を向けている7,8人の人影が見えた。奴らが襲ってきたに違いなかったが、どうすることもできず、シッポを丸めた負け犬のように、カブールの日本大使館へ昨夜の顛末を報告しに行った。
    大使館で事件の詳細を報告すると、
    「命があっただけよかったですね。砂漠に埋められたら永遠にわからないところでしたよ」と、大使館員に言われ初めて怖さを感した。
    中近東の通過した国々では常に日本大使館に寄り、日本の新聞を読みトイレを借りていたので、ついでに大使館のトイレの水道で体を洗い、トイレット・ペーパーを貰えるだけ体に巻きつけそこを出た。
    アフガニスタンの首都カブールではコンクリートの建物といえば、各国の大使館とコンチネンタル・ホテルぐらいだった。一国の首都にしてはあまりにも貧弱な首都であった。日本大使館の建物さえ、周りの建物とは比べものにならないほど立派であった。
    高給をもらい、背広姿で高級車に乗り優雅な生活に映る大使館の職員たちは現地の人々に反感を買い、命の危険もあるのではと、他人事ながら気になった。
    空っ風が紙屑や砂塵が舞い上げるカブール市内の道路は舗装が剥げ自家用車など走っておらず、古いバスやトラック、荷馬車が目立ち信号もなかった。
    ほとんどの店は露天で商いをやっており、ターバンを巻いたアジア系やヨーロッパ系の顔をした商人が多く、アフガニスタンが東西シルクロードの交流点であることがよく分かった。
    カブールの日本大使館を出ると、パキスタンへ向け走り出した。用水路作りに貢献した中村哲氏が殺されたジャラーラーバードを通過し、岩肌が剥き出した荒涼たる山岳地帯の深い渓谷に沿って、古来より東西文明の交差点として重要な役割をはたしてきた南アジア世界と中央ユーラシア世界を結ぶ交通の要衝であった標高1,070mのカイバル峠を超えた。
    この峠はシルクロードから南下しインドへ向かう交易路としても重要な役割を果たした。そのため、この交易権を得ようとする諸勢力が、この地の周辺をめぐって抗争を続けたことは世界史上でも有名である。
    学校の歴史では、あのアレキサンダー大王も越せなかった険しいカイバル峠だと習っていたし、ガイドブックもない、iPhoneもないない時代、バイクでは越えることのできない険しい峠に違いないと不安を抱えながら覚悟して登り始めた。ところが、ユーゴからリシャへ抜けたあの大雨の山道、コソボ、北マケドニアへの道など比べると、騙されたように、いとも簡単にバイクはカイバル峠をスイスイと越え、キスタンのペシャーワルに着いた。
    インド国境 入国不許可
    凡人のオレにはシルクロードのどこが素晴らしいのかわからなかったが、イラン、アフガニスタンと砂漠を走ってきたオレは、一応町も区画され、道路も整備され街路樹もあるパキスタンのペシャーワルに着いたときは正直ホッとした。
    それより驚かされたのは、パキスタンの首都イスラマバードだった。
    1961年から建設が始まった、この巨大な政治都市の道路は碁盤状に敷かれ、幅も広く、町そのものが公園のようで緑で覆われ、近代的な建物と建物の間にはたっぷりと幅があり、21世紀の都市とは,まさにこのようなものかと思われるほど素晴らしい街に見えた。
    だが、一歩イスラマバードを出ると道路は狭く舗装されているがくぼみや割れ目が多く、荷と客を満載したトラックやバスの往来が激しく、その上、解き放された多くの牛が、我が物顔で道路の真ん中を、ゆっくりと歩きまわり危険極まりなく走るのに疲れた。
    ラホールを通過、パキスタンからインド国境に着くと、入国手続きを待つトラックやバス、乗用車が長い列を作っていた。
    数時間待たされ、やっとインドへの入国手続きの順番が来たと思ったら、オレはカルネ(バイクの国境通過を許可する書類)を持っていなかったので、バイクの持込みは不許可だとインド国境の出入国管理事務所の係官に言われた。
    それまでインドの国境に着くまで、20カ国以上通過してきたが、カルネのことなど聞かれたこともなかったので、オレは驚き困惑した。
    じゃあ、どうすればいいかとインド国境の出入国管理事務所の係官に聞くと、アメリカで買ったバイクならアメリカのAAA(アメリカ自動車連盟)でカルネを発行してもらって来いと、そっけなく言った。すでにインド国境まで来てしまったオレには、それは出来ない相談であった。
    バイクは、インド国境に着いたときは、エンジンをかけるとクラッチを入れなくても自動的に走り出す、廃車寸前の「オートマティック?」になっていたが、それでも持ち込みはダメだと言った。
    当時、インドでバイクの生産が始まっていたかどうか知らないが、外国製品のインド持ち込みは禁止だと言った。
    この融通の利かない国境の係官と交渉の末、パキスタンの日本大使館へ行き「日本へ持ち帰るバイクであることを保証する」という、お墨付きをもらってくる羽目になった。
    バイクは汚れ、傷みが激しく売れるような品ではなかったので、インド国境で捨てようかとも思ったが、ロサンゼルスからインドまでオレを乗せてきたバイクに愛着が湧き捨てる決断できなかった。
    日本大使館が一民間人のために、そのようなお墨付きを出すかどうか疑問だったが、インド国境からイスラマバードまで約150キロの道のりをパキスタン在住日本大使館まで引き返し事情を話しお墨付きを書いてもらうことにした。(つづく)

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    オレの二十代
    (48)パキスタンの日本大使館に着いたのは金曜日の午後四時過ぎだった。
    大使館の業務は五時までだと思って急いで行ったが、すでに業務は終了し、月曜日の朝まで待たねばならなかった。ニューヨークのオールバニーで雷にうたれ、クランクケースが壊れたときも部品が届くまで、三日も待った経験があり、待つことには慣れていた。
    大使館の周りは外国の公館のような雰囲気の建物ばかりで、静寂が漂い時間をす店もなかった。大使館のパキスタン人職員の許可をもらい、庭の水道を使わしてもらい、体や衣類を洗い野宿させてもらった。月曜日の朝、大使館が開くと事情がすでに伝わっていたらしく、大使はすぐ、
    「私の書面が役立つようなら」と、気持ちよく書いてくれた。
    大使にお礼を言って、再びインド国境まで引き返した。
    インド国境からパキスタンのイスラマバードまで、片道ほんの約150キロの距離であったが、ロサンゼルスからアメリカ大陸を横断、ヨ―ロッパ経由インド国境までバイクで走ってきた疲労が蓄積していたのか、同じ道を三回も行き来することは心身ともに疲労困ぱい、やっとインドへ入国できた。
    無事ボンベイ着 そして日本への船旅
    インドに入ると道路には人と白い牛があふれ、いたるところに糞の塊があり、それを踏むとバイクが滑り、思うようにスピードは出せなかった。
    茶店で休んでいると、ボロボロの服装姿の母親らしき女性と十歳ぐらいの女の子供がバイクを囲みコソコソしていた。何をしているのかとバイクに走って戻ると、バックミラーを引きちぎって散るように逃げだした。そこへ一台の車がスピードも落とさず、道路を走って逃げる彼らを蹴散らすように走り抜け、少女をはねた。しかし、車は停まりもせずそのまま走り去った。
    少女はかすり傷を負っただけであったが、車に乗っている裕福そうな者が貧しい少女をひき逃げするこの光景を見たとき、詳しいことはわからないが、インド社会に根付いているカースト制度の一端を見たような気がした。
    インドの首都ニューデリに着いたのは、1968年12月1日だった。ここもパキスタン同様、道路という道路は人、リキシャ、白い牛の大洪水であった。
    地図を見ると、イラン国境から大分,南下してきたので暖かいのではと思っていたが、ニューデリの朝の気温は零度近くまで下がり、日本の真冬並みに寒かった。
    オールド・デリなどで二日過ごし、200キロ南東のアグラへ向かった。そこにはイスラム文化の建物で有名なタージ・マハルがあり、その周辺の雰囲気は厳かで奈良、東大寺の雰囲気があった。
    このタージ・マハルで会った日本のヒッチハイカーに、ガンジス川へ行けば岸辺で火葬し、灰をその川に流す水葬を見られるからと行くことを勧められたが、その川で水浴もするすると聞き、想像するだけでも汚く感じ行かなかった。当時、ビートルズの影響もあり多くのヨーロッパのヒッピーまがいの連中のほとんどがそこへ行っていた。又彼から1968年12月15日、マルセイユから日本へ向かうフランス客船がボンベイ(現ムンバイ)に入港するとの情報を得た。オレは日本への帰国という現実味を帯びた情報に、それまで世界の名所旧跡を訪れることに専念し、帰国途中であったが、それまで日本へ帰るという実感はなく、次の日も今と同じような旅が続くような気分でいた。しかし、アグラで日本行き客船のことを聴いた途端、自分が生まれ育った国、日本へ帰国するうれしさが突然、こみ上げてきた。もう旅の目的であった旧所名跡を見ることはどうでもよくなった。
    アグラからボンベイまで約1,200キロ、いくら悪路のインドでも事故さえなければ一週間もあればボンベイに着く。それまで毎日バイクで走ることに何の抵抗も感じなかった。だが、ボンベイから先は船旅になり、もうバイクに乗る必要もなくなると思った途端、急にバイクに乗ることが苦痛になった。それに身に着けている物や体は汚れきっており、早くボンベイのホテルに着き思う存分シャワーを浴びたいと,それだけを楽しみに走りだした。
    日本や欧米のように整然と耕され田畑ではなく、雑草の中に食物の種ばらまいてあるよ田畑の中や、道路という道路は人、リキシャ、白い牛、「バクシーシ、バクシーシ」とどこまでもまとわりついてくる物乞いの子供たち、それに自転車の後部に客席を付けた輪タク(リキシャ)などで身動きも出来ないほどの混雑したボンベイ市内に12月11日入った。そしてタージ・マハルで出会ったヒッチハイカーに教えられた海岸近く「救世軍(サルべーション・アーミイ)」の運営する宿に着いた。
    この宿屋というかホテルというか質素な英国風の造りであったが清潔で宿泊代も安く、乗船を待つ日本人や欧米のヒッチハイカーが多く滞在していた。
    アテネを出発して約二か月、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと辺境の野宿の旅にうんざりしていたオレには、この安宿は極楽のように思えた。
    安宿といえば、西のアメリカから東へ移動するにつれ物価がどんどん安くなり、2,000ドル(72万円)そこそこで始めたバイク旅も資金にはまったく困らず、貧乏旅行したという意識も全く感じなかった。これが反対に東から西への旅なら資金的にも不安が募り思うような旅ができなかったであろうかと恐ろしさを感じた。
    走行距離は30,000キロを超していたが、走行距離など全く関心なかった。
    イスタンブールを出てから風呂も入らず、洗濯らしい洗濯もしなかったオレはシャワールームにしゃがみ込み、温かいシャワーを頭から浴びながら洗濯すると、下着は次から次へほころび二度と使い物にはならなかった。
    履いていたジンズは砂漠の泥や砂や牛の糞がコンクリートのように固くこびり付いており、いくら洗っても汚れは落ちず、泥水だけが限りなく染み出ていた。伸び放題の頭髪、髭を散髪屋で整え、あれほど楽しみにしていたシャワーも三十分も浴びればもう十分であった。
    この宿では三時になると、二階のテラスで英国式に紅茶のサービスがあった。このテラスからはボンベイ湾が一望でき、近くには湾に面したアポロ埠頭の突端には1911年、英国王ジョージ五世夫婦がインドを訪問した時、記念に建設されたという植民地主義のシンボルのようなクリーム色がかった巨大な「インド門」があった。
    紅茶を飲みながらこの風景を眺めていると、致命的な故障、けが、病気もなく約30,000キロのバイク旅したオレの心身を癒してくれ、快い眠りに引き込まれた。12月15日、フランスの客船「ラオス号」でボンベイを離れた。バイクは傷みが激しかったが、愛着もあり、まだ乗れるので日本へ持って帰ることにした。
    60年代、70年代ヨーロッパをヒッチハイク旅行した若者には忘れられない客船「ラオス号」は古いフランス客船で、横浜までの運賃も6万円ほどと安かった。この客船には、ヨーロッパで出会った日本の若者が大勢乗っていたこともあり、ニューヨークから大西勢乗っていたこともあり、ニューヨークから大西洋を横断してリスボンまで乗った豪華客船と違い、気取った堅苦しさもなく、航海は楽しいものだった。
    ラオス号はセイロン(現スリランカ)、シンガポール、バンコックと寄港した。それらの都市は豊かなアメリカとは違い想像もできないほど貧しく、汚い町であった。特に、シンガポールは今や世界有数の美しい町に変貌したことは驚きである。
    バンコックから香港へ、ベトナム沖を航海したのは夜だった。生暖かい風を浴びながら、甲板からははるか遠く、ベトナムの戦場で破裂する爆弾が火花を打ち上げられるような光景に見えた。あの光景の下では多くの大人や子供たちが死んでいるのを想像すると、優雅に船旅をしているオレは「天国と地獄」とはこのことかもしれないと思いながら、花火のような砲弾の破裂する光を眺めていた。
    香港に寄港した12月22日、レストランのテレビでアポロ8号が月へ向かうため打ち上げられるのを観た。
    ロサンゼルスから約7か月も費やし、香港にたどり着いたオレはたった90分そこそこで地球を一周するアポロ8号のニュースにオレは複雑な気分で苦笑し、急速な時代の変化を感じた。
    (つづく)



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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    「人生は、二十代の生き方で、決まる」。
    (49)
    ロサンゼルスを1968年5月19日出発、その年の12月26日無事に横浜港に着いた。まだ、東名高速道路は全線開通しておらず、横浜から国道2号線を神戸へ、途中から名神高速道路を走り4年5か月ぶりに故郷へ帰った。
    「三億円事件」直後だった。年末、黒ずくめのバイク・ライダー服装で横浜から神戸までの間、何度となく警官に停められ職務質問を受けた。
    歳末で賑やかな神戸の商店街には、ザ・フォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」やピンキーとキラーズの「恋の季節」がオレの無事帰国を歓迎するかのように流れていた。
    年明けの1969年1月19日,「東大闘争」の拠点であった安田講堂が陥落し、東大闘争拠点は封鎖解除された。それと同時期、地元の警察の要請に応じ、三億円事件があった12月10日のアリバイを証明するためパスポート持参で出頭するおまけ付だった。
    今、バイク旅行をした1968年を振り返えるとiPhone、ネットもなく、海外旅行のガイドブックも持たず、行く先々の情報を手に入れるのも至難の業であった。特にイラン、アフガニスタンの砂漠地帯ではガソリン、オイルの入手するのに手間取った。時間も食ったが、それが当たり前の時代であったし、楽しい旅であった。人生総てが良かったわけではないが、若い時の経験が活かされ、それなりの夢が叶えられた人生であった。
    バイクで最初に世界一周したのは1912年頃アメリカ人らしいが、ガソリンはスポンサーが給油地点まで運んだという説もあるが、Facebook friendの説によれば新聞の販売量を増やすための記事で、どこまでが本当かどうからしい。
    オレの場合は航空会社就活のため、出来るだけ世界の旧所名跡観光地を観ていた方が有利と旅費と利便性を考慮、バイクを飛行機、汽車、船などのように交通機関として使っただけで、スポンサーを付けたり、冒険なんて言葉を使うのも起牙しく思うし、何か国行ったか、何万キロ走行したかなど興味なかった。有名人になって金儲けしてやろうと下心があれば、53年前、帰国したころから必死にメディアに売り込んでいた。しかしメディアにとって、ネタはトイレット・ペーパーのようなもので、必要無くなれば終わりである。経験を活かし定職を持ち、地に足を付けた生き方をすべきであると思う。
    飛行機や汽車での旅は移動するのには快適で時間の節約という利点はある。バイクで未知の国を夜間走るのは危険で、昼間だけの移動だった。それは「深夜急行」の主人公のバスの旅行と違い風景に途切れがなく、通過した国々の騒音や匂いや砂漠、大平原、大草原の雄大な自然を五感で味え、その経験は人生の肥やしになっている。
    旅に出る前は足を踏み入れた多くの国々の歴史的建造物や遺跡についての知識は全くと言っていいほどなかったが、現実にそれを目の前にすると、経験した者しかわからない、その素晴らしさに感動し心を震わせられた。
    傷害保険など知らず加入せず、バイクの部品もチエーンのみであったが病気もせず、命に係わる事故もなくバイク旅行ができたのは単に運が良かっただけである。
    ロサンゼルスから東へ、東へと走り続け、日本から遠ざかって行ったはずだが、それを続けているうちに日本へ近づき、日本へ戻ってきた。やっぱり地球は丸いという当たり前のことや、言葉や肌の色は違っても、オレと同じ人間が、この地球という宇宙船で、日々の営なみをしているのが確認できたでも、外の世界を観れ良かった。
    最も驚いた一つに、カリフォルニア州ほどの小さな日本に、世界には誇える四季と、ちょっと移動するだけで、豊かで美しい自然が存在することを知ったことである。
    あなたは、何のためにこの世に生まれたか考えたことがありますか?成し遂げられるかどうかは別として、どんなに小さな夢というか目的を持ち、それに向かって努力をしなければ単なる夢で終わり、残るのは後悔だけの人生かも知れません。夢と、たった100ドルを懐に米国留学、バイクでの世界旅行、そして希望した職種に就けた。100%うまく行ったわけではないが、それなりに夢の叶えられた人生を過ごせ、この世に生を受けた価値があると思っている。
    泳ぎを取得するには、水泳の本を何万冊読んでも泳ぐことは不可能である。溺れ水死するかもしれない水中に勇気をもって飛び込み、悪戦苦闘し、初めて泳げるようになる。
    思考し、決断し、行動に移さなければ自分の人生は動かない。
    「人生は、二十代の生き方で、決まる」と確信する。三十代から先の人生にしても、それまでの経験や養ってきた実行力、判断力、忍耐力を自分の能力を活かす以外、自分の人生を豊かにする道はない。人間、表立って、誰も本音は言わないが、誰よりも良い生活をしたいと思っている。その夢を叶えるには、他人と同じ生き方をしていては所詮無理である。
    人は劣等感という言葉を嫌うが、劣等感は何にも代えられない、自分を成長させ素晴らしい力であり、武器であると思う。
    人間、夢に立ち向かうには体力も気力も充実している二十代が最適ではなかろうか。
    人間、年を取ると体力も気力も衰え夢もしぼみ、利害で物事を判断し始める。若いときのチャレンジは体力もあり、夢は純粋で、好奇心も旺盛であるので、新たな人生が開ける可能性が大である。
    年老いても夢や希望のある人には、人生は短く、ない人には人生は長い。
    今の時代、金と暇さえあればバイク世界旅行など誰でもできる。クソめんどうくさい手続きもせずレンタルできる時代である。
    若者のよ、君には今の時代に合ったチャレンジすべき夢かがあるはずである。それを出来るだけ早く見つけ、そこから先を一生懸命生きることが大切である。
    夢とやる気さえあるなら、今からでも遅くはない、直ぐ、この世におさらばする前に。
    「やってみなはれ!」
    経験ほど人生を豊かにするものはない・・・。
    地球の年齢46憶年、それに比べ人間の寿命はたかが100年、流れ星のごとく一瞬である。
    下手な文章にお付き合いいただきありがとうございました。(つづく)かも?
    写真:「ラオス号」、60,70年代日本の若者がヨーロッパを旅行した時利用したマルセィユ・日本間の客船。

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    (50)あとがき
    ところで、女性として世界で最初にヨーロッパからインドのボンバイ(ボンべイ)までヒッチハイクした秋田の菊地美智子さん(本名甲斐さん)は現在水戸市で、ご主人や息子さんたちと、かっぽ料理屋「開化亭」経営の傍ら日本舞踊の師匠でもある。娘さんはメキシコの大学を出て世界の豪華船で活躍中である。
    スイスのツェルマットのユースホステルでバイトしていた淳ちゃんのこと、川村淳さんは1960年代世界70か国以上ヒッチハイク、メキシコで修業し、現在、京都でメキシコ料理店「ラティーノ」を経営している。彼はスキーのインストラクターになるためドイツのスキー専門学校に留学し、夏はスイスのYHでバイトしていたそうだ。
    バイク乗りは信じないかも知れないが、私は世界一周中バイクで旅行しているライダーには一人も会わなかった。
    何度も書きましたが、地球の年齢45億年、人間の寿命はたかが100年、宇宙の星が右から左へ移動する一瞬です。その一瞬の人生をどう生きるかは,あなたの二十代の生き方で決まると思います。所詮自分の一生は自分ひとり歩かなければ誰も助けてくれません。生意気な言い方かもしれませんが、少しでも私の経験が若い方の生き方のヒント(参考)になれば私は書いた甲斐があり、うれしいです。
    写真:
    イランの砂漠、左から二人目、甲斐美智子さん
    50年ぶり京都での再会。
    左から「ラティーラ」の経営者になっていた川村淳ちゃん。
    水戸のかっ歩料理屋「開化亭」の女将兼踊りのお師匠甲斐美智子さん。私のバイクは三ノ宮駅近くのバイク屋へ修理に出した後何の連絡もなく、ある日そのバイク屋へ行ったら、その店は無くなっていた。今なら高くで売れるそうだ……。

    あとがき(50-2)
    私の経験談を読んだ多くの方々に、何故帰国して、すぐ(1968年)米国留学とバイク世界一周の経験を出版 しなかったのかと今も聞かれます。
    投稿で述べましたように、私の夢は1964年日本の海外渡航自由化を知り、今後伸びる企業は航空会社、そこで働くことでした。航空会社で働くには英語が必需で、英語も今のように簡単に学べる時代ではなく、資金もなく100ドルを懐に米国留学中、米国で航空会社を受けましたが永住権がなくことごとく不合格でした。しかたなく帰国して航空会社に就活しようと決めました。そのためには、世界の多くの名所旧跡(観光名所)を観ていた方が就活に有利と考え、利便性と旅費を考慮し、自分の使っていた中古車で寝泊まりしながら行ことしたのですが、計算しますと自分の所持金額では不可能と分かりました。偶然、同じアパートに住んでいたヤマハの駐在員に、バイクで行ったらどうかと勧められたバイクで世界の名所旧跡を回っていましたら,それがバイク世界一周となっただけのことです。
    帰国後は、人間社会生き抜く冒険に必死で、バイク世界一周のことなど思い出すこともありませんでした。五年ばかり前Facebookで私が1968年バイクで世界一周したことを述べますと、その人が1960年代にバイクで世界一周した日本人はいないと確信をもって告げられ、世界には何人いるだろうかと英語で発信し調べますと、1912年アメリカ人がスポンサー付きで達成したとわかりました。1910年代自動車産業が発達していたのは欧米だけで、日本も少しは開発仲間に入っていた時代です。1968年でさえ中近東、イラク、アフガニスタンの砂漠地帯では「ガソリン・スタンド」を見つけるのに苦労しましたので、ほんまに1910年代、自動車の開発されていない地域に「ガソリン・スタンド」はあったんやろかと思いもします。日本人の海外ツーリングは1970年代になりますと急増、1980年代になりますと男女ともスポンサー付き海外ツーリングが多くなりました。私はバイク世界ツーリングなど金と暇さえあれば誰でもできると思っていますが、「日本で最初に自費で世界一周したライダー」と言われ、人生が変わるわけではおまへんが、悪い気はしませんナ。スポンサー付きと自費とでは、自力でやるか他力本願でやるか、達成感は比べ物のならないほど差があることは事実。本当に私より前にやった人はいないのでしょうか。もし俺が最初だという方がおられるなら名乗り出てほしいと思います。
    バイクでどこどこチャレンジしたという人が多いので、私はバイクでマッターホルン登頂にChallenge?したことにしよう(笑)


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