1968年のバイク世界一周
旅立ち アメリカへ(1)
バイクで海外を旅行した経験があるとい外国人たちとFBを通じ交流していたら、日本のライダーはなぜ英語で発信しないのだと聞かれたので、世界を駆け回る有名な日本人ライダー氏に発信されませんかと連絡したが、いくら待っても返事は来なかった。これはアカン、しゃあない、オレが日本代表?として、暇つぶしとボケ防止に少しでも役立つだろうと、忘れていた英語を思い出しながら、過去にバイクで世界旅行した経験を昨年、「Around the world in 1968 on Bike」のタイトルでFBで発信しはじめた。最初は忘れていた横文字作文も苦痛であったが、そのうちに少しは様になってきて楽しくなってきた。そして、世界の多くのバイク愛好者に好評を得た。その中で私を最も驚かせたのは、最初にバイクで世界一周したのは1912年、アメリカ人だそうであるが、当時は自動車産業の発達は欧米のみで、中近東、アジア、南米、アフリカなどにはガソリンスタンドはなく、ガソリンはスポンサー付きで中継地点まで輸送したので、スポンサーなしで世界一周したのは私が最初だと知らされた。もともと私はバイクの世界旅行など金と暇があれば誰でもできると思っていた。だから帰国以来、約50年間、私は日本人社会を生き抜く冒険の日々で、過去を振り返る余裕はなかった。やっと年金暇人になり、過去のバイク旅行の経験を英語で流していたら、今度は多くの人に日本語で流せという要望が多く寄せられ、またまた暇つぶしのネタが出来たと喜んで流した。せっかく読んで戴くのであれば、世界何十万キロ、何百ヵ国走破もいいが、そのバイク旅行の後をどう生きるかが大事であるから、1960年代アメリカでの私の生活や、出来事などの経験を織り交ぜて書かせていただく。面白くないかもしれないが、ご辛抱のほどを切に願う。人間には人の数だけ、生き方がある。その人間の寿命は長くて百年ぐらいだが、地球の年齢は45億年だそうだ。それに比べると人間の寿命など流れ星が右から左へ移動する一瞬の時間である。その一瞬をどう生きるか。子供のとき読んだ本の中にあった「一瞬の命」という言葉がいつも私の脳裏にへばり付いていた。今も・・・。私は学校時代、勉強は全くと言っていいほどしなかった。その結果。成績はいつも無残なものであった。教師というのは成績の良い生徒に対しては、エコ引きするが、成績の悪い生徒にはその反対であることが多い。教師は狭い学校という社会の中で「外」を知らなず、今はどうか知らないが、文部省認定の教科書に沿って生徒に教える教師であった。学生時代を通し、知識はあっても外の社会を知らない教師は常に私は馬鹿にされていた。私は五人兄弟の長男である。一般的には長男はおとなしく、まじめで、弟たちの模範というのが相場である。しかし、私は勉強もせずボクシングジムに通い、親にとってはできの悪い息子であった。しかし、弱い者の正義の味方であった。
1962(昭和37)年大学卒業と同時に、旅行会社に就職した。大学でも成績が悪かった私は会社でも、二年間雑用だけが仕事だった。人生のすべては学校の成績で決まるのか。人間社会というものはそんなものか。それは私にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
しかし、当時は就職すれば、定年まで無難に過ごすことが常識であった。まだ一般的には英語を話す人はまれな時代であった。「兼高かおるの世界の旅」や「海外渡航自由化近づく」のニュースに影響受けた私はアメリカ留学し英語を学び、日本経済の発展とともにこれから伸びる航空会社に就職し、人より良い生活をしてやろうという野望が芽生えた。会社を辞めるか、留学するか悩んだ末、アメリカ留学という「人生の途中下車」を選んだ。
「後悔先に立たず」である。
『続く』
1968年のバイク世界一周
旅立ち
(2)
戦後すぐ、アメリカの政治,経済、文化、教育、特に「総天然色映画」(カラー映画のことをそう呼んでいた)に影響されて育った私には、アメリカだけが唯一の「外国」であった。中学校の英語の教科書、「ジャック・アンド・ベティ」の挿絵にあった大きな車、広い芝生の庭、大型冷蔵庫、色鮮やかなペンキで塗られた大きな家、スクールバスでの通学、車に乗ったまま映画が観られるドライブ・イン・シアター、片側四車線も五車線もある高速道路、世界一豊かな国アメリカは、私だけでなく日本国民にとって羨望と憧れの国でもあった。私が留学を思い立った一九六三(昭和三十八)年、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。当時、日本はまだ外貨不足で、外国へ行くには、その国に住んでいるスポンサーを探すか、外務省が実施する国費留学か私費留学、あるいは旅費、その他すべてを丸抱えしてくれるアメリカ政府実施のフルブライト留学試験に合格しなければ旅券は発行されなかった。だから、ごく普通に考えると、私を含め一般の日本人は外国へ行くことなど不可能な半鎖国状態であった。アメリカにスポンサーになってくれる知人も友人もいない、外務省の国費留学試験、米国政府のルブライト試験に合格できる私の確率は0だった。すべてを私費留学試験に託するしかなかった。私費留学は自分で旅費、学費、生活費など賄わなければなないので、政府丸抱えの留学よりは少しは簡単だろうと思い、新たな自分の人生を築くため、会社から帰ってから、睡眠時間はナポレオン並みに三時間に削り、試験に向け基礎から英語の猛勉強を始めた。必死だった。人間、勉強ほど強制されると嫌なものはないが、目的があれば勉強でも楽しくなり、自分でも驚くほど勉強の効率は上がった。翌年、幸運にも試験には合格したが、私の全財産は月給一万八千円から貯めた十万円だけだった。ちなみに私がアメリカへ出発した昭和39年の物価は、国鉄(JR)三宮・大阪間片道30円、新聞一部10円、週刊誌30円、コーヒー一杯30円だった。私は親の反対を押し切っての留学で、無理を言って航空運賃だけを援助してもらい、アメリカへ旅立った。
一九六四(昭和三十九)年七月二日、敗戦から二十年、東京オリンピックを後三か月後に控えていた。日本の復興を世界にアピールするため東京、大阪は町全体のリホーム(工事)中だった。街全体を覆う埃で建物も太陽も霞んで見えていた。「公害」の言葉もなかった。大阪空港のターミナルビルもまだ進駐軍が使っていた「かまぼこ兵舎」を利用していた。ハイジャックなど考えられない時代で、「ハイジャック」という言葉もなかった。滑走路は入ろうと思えば誰でも簡単に入れるような金網のフェンスで囲まれ、離着機も少なく、私は7,8人しかいない乗客とともに駐機場(エプロン)を歩きながら見送り客とフェンス越しに話しながら機内へ入った。大阪空港からは海外便はまだなく、双発のプロペラ機DC3(29人乗り)で羽田へ、そこからJALのDC8ジエット機でホノルルへ飛び立った。
写真説明
伊丹空港:静かなもんであった。背景DC3機
DC3:ルッツェルン博物館、スイス/2018年8月
座席数:29席、巡航速度300㎞
ケネディ暗殺犯人?オズワルド射殺される
『続く』
1968年のバイク世界一周
初めての外国、ハワイ
(3)
当時、日本からアメリカ西海岸までの片道航空運賃は、確か十四万八千六百円、私の給料の約七カ月分だった。今の物価指数に比べると途方もなく高かった。CAもスチュワーデスと呼ばれ、足軽が大奥に仕える品格と威厳ある大奥女にサービスを受けるような恐れと緊張を感じた。飛行機に乗るのも外国に行くのも初めての私は胃が痛くなり、日本では全く食べたこともないような豪華な機内食も口に出来なかった。私が初めて足を踏み入れた外国、ハワイ、ホノルル。機内から滑走路へ降り、最初に空を見上げた。詩人高村光太郎の妻智恵子が詠った「東京には空がない」が浮かんだ。ホノルルには日本では見かけることのない青々とした空が広がっていた。1964年東京オリンピックと急速な経済発展を続ける工場の煙突から吐き出される排気ガスで周りの景色が霞んで見え、まだ「公害」という言葉もなかった日本。紺碧の海と空の色彩が素晴らしく健康的なハワイの風景に感動した。ハ発着機も少なく滑走路から二百メートル歩きターミナルビルへ行った。ビルは今とは比べものにならないほど小さく、乗客も少なく閑散としていた。建物の中にはエアコンもなかったが、ビーチから吹き付ける心地よい南国の乾いた風が、開けっぱなしの大きな窓を吹き抜け、寝不足の私を癒してくれた。入国検査で、当時、留学生には義務づけられていたA3サイズほどの大きなレントゲン写真とパスポートを提出すると、係官は、
「Only $100?(たった百ドルか?)」と、当時はパスポートに記載された日本からの持ち出し外貨額と私の顔を同時に見て言った。白人に英語で話しかけられるのも初めての私は、たった百ドルの所持金ではアメリカに入国できず、即、強制送還されるのではないかと、一瞬、恐怖が襲った。当時、日本を含め後進国の外国人が禁止されている就労目的でアメリカへ入国し、それがばれ、強制送還というニュースが頻繁にあった。父が後で送金してくれると単語を並べ出まかせに言って、何とか無事、入国管理事務所を通過できた。
英語が話せない私は、出発前、神戸のアメリカ領事館で教えてもらった日系人の経営する「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。空港からホテルへ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行ったことがあると言った。子供の頃見た、あのカッコいい進駐軍の兵士が運転するタクシーに今、敗戦国、日本の若造の私が乗っていることが畏れ多い気分で、その上、彼の英語も理解できず、「YesとI see」の連発だけの私には乗り心地は決してよくはなかった。
タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した「コバヤシ・ホテル(今のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで四ドル五十セントだった。宿泊代は一泊十ドル。日本人のほとんどが旅館に泊まる時代、ホテルなど「帝国ホテル」の名前ぐらいしか知らなかった。ホテルに泊まるのも、ベッドに寝るのも初めての私は何もかもが珍しかったが、底の浅い風呂タブに無理に体を沈め、石鹸の泡や体のアカの中で洗うのには苦労した。今でもホテルの風呂タブは苦手である。一般論であるが、日本人は清潔好きで
風呂好きであるが、白人はおおむね手と足を洗うだけで平気である。ホテルのレストランで食事をするにしても、英語のメニューを見てもわからず、片言の日本語を話すウェイトレスに任せると、バラバラにレタス、チーズ、トマトなどを盛った皿と小さな餅を横に切ったようなパンをもってきた。それをどのようにして食べるもかもわからなかったので、彼女に教えてもらい、パンにはさみケチャップをかけて食べた。それが、今では当たり前のハンバーガーだった。支払いを済ませ出ようとすると「チップ」と言ってきた。いくら払うものかもわからないので今貰った釣銭をテーブルに並べると、薄笑いしながら、その中で一番大きなクウォーター(二十五セント)摘まみ上げポイっとエプロンのポッケットに入れた。
写真
DC8 150?席。
現在よりビーチの砂が多く広かった?
1968年のバイク世界一周
ホノルル―サンフランシスコ―ロサンゼルス
(4)
今では想像できないが、すでにアメリカの学校は夏休みが始まっていた。しかし、ホテルは客も少なく、ロビーもガランとしていた。ワイキキビーチへアジア系の私がシャツに細いネクタイ、裾幅の広いズボン姿ででかけてみた。ビーチには白人観光客パラパラと海水浴を楽しんでいたが、私の服装は場違いの感じだった。恥ずかしくなり直ぐホテルへ戻った。
その夜、ウェイトレスに勧められアラモアナ・ホテルの中庭へ、お化け屋敷でも見に出かけるように恐る恐る、観客は白人に囲まれフラダンスショーを見に行った。照明に照らされた青々とした芝生、椰子の木、満天に輝く星の元、色鮮やかなアロハ姿のミュージシャンが奏でるハワイヤン・ミュージックが響き渡り、一本、一ドル(三百六十円)のビールを飲みながら、日本人などほとんどが観たこともないフラダンスショーに誇らしさを少し感じながらの感動、感激の夜たった。ホノルルに一泊し、翌一九六四年七月三日、夜のサンフランシスコ行きの便まで大分時間があった。「金のないお上りさん」の私はホテルの前、歩道の段差に腰を下ろし、タバコを吸っていると、日系二世らしきタクシードライバーが観光しないかと声をかけてきた。空港からのタクシー代、ホテル代、食事代などで私の所持金はすでに八十ドルほどになっていた。タクシードライバーは、日本が海外自由化になったので日本人観光客がドサッと訪れると期待しているがほとんど来ないと愚痴っていた。日本の平均年収(月収ではない)が三十万円($833)ほどの時代、ハワイ一週間旅行費が四十万円($1,111)以上だった。ホノルルからUAでサンフランシスコに飛んだ。上空からゴールデン・ゲート・ブリッジを見たとき意味もなく、「楽しい留学生活」が待ち構えていると心が弾んだ。シスコではその種の男が多く泊まることも知らずYMCAに泊まった。ケーブルカーの運賃は十セントだった。今は$10だそうだ。翌朝、サンフランシスコから乾いた大地の広がるカルフォルニアの上空をルート99に沿ってロサンゼルスへ飛んだ。行った。留学や海外旅行のガイドブックもない時代で、日本人留学生は「リトル・東京」で「皿洗い」し生活費や授業料を稼ぐと、何かで読んだことがあった。英語の話せない私は、日本人町へ行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかると思い、空港からバスで日本人町へ向かった。四車線,五車線もある広いフリーウエイを忙しそうに走り過ぎる車を窓から眺めていると、パリッとした身なりで自信にみなぎったアメリカ人が、大きな車にたった一人しか乗っていなかった。二人、三人と乗った車などほとんど走っていなかった。まだ、日本では車が普及していなかったので、一人しか乗っていないことが驚きだった。バスから望むロサンゼルスは見渡す限り平坦で、芝生の裏庭と前庭、そして色鮮やかな花に囲まれた住宅が続き、フリーウエイを猛スピードで走り抜ける無数の車を見て、アメリカの豊かさと巨大なエネルギーが肌に伝わってきて、アメリカに来た実感が込み上げてきた。
日本人町に着くと日系人の経営する「パシフィック・ホテル」へ行った。そのホテルはペンキの剥げた薄茶色の三階建で、建物の外には時代物の赤錆びた鉄製の非常階段があった。中は薄暗く、狭いロビーには骨董品のような古いソファーとテーブルが並び、よれよれの背広を着た数人の日系老人たちが新聞を読んだり、将棋を指したりしていた。
「ワンナイト(一泊)四エン、ウィーキ(週)で二十エンじゃよ」
将棋盤を囲んでいた日系老人がカウンターへ回り込みながら言った。彼はこのホテルの
オーナーであった。突然、「ドル」を「エン(円)」、「ウィーク(週)」を「ウィーキ」と言ったので、呆気にとられた。途中ハワイで一泊したので、手元には七十ドルほどしか残っておらず心細く、ひとまず一泊だけにした。
「続く」
写真:
ゴールデン・ゲート・ブリッジ通行料は25セントだったが…
今は?
ケーブルカーは10セントだった。今は$10とか・・・。
右端ターミナルビルは当時21世紀(1960年代)のターミナル的と有名なデザインだったが・・・・・。
Tony VennettI の「I left my passport? in SFC」が流行っていた。
1968年のバイク世界一周
デラノ、カリフォルニア
葡萄農家でのバイト
(5)
一泊四ドルの部屋はスプリングの利かない年代物のベッド、止めてもポタポタと水が滴り落ちるシャワー、長年の使用で変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけだった。アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いホテルで、「発展途上国」日本からの客かロビーで将棋を指している失業者のような老人たちが泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しい年代物のホテルだった。
三階の部屋からは筋向いに東京銀行、その右手に住友銀行ロサンゼルス支店、日系人の経営する「ニューヨーク・ホテル」、左側に「大阪屋」、「三井大洋堂」、「宮武写真館」、「東京會舘」等、英語と日本語の看板を掲げた店が望めた。その町並みは、当時さえ、すでに日本ではお目にかかれない大正時代か、昭和初期のセピア色の懐かしい風景だった。
日本人町は数分で通り抜けられるほど小さな一画であった。市役所はどこでも市の中心にあ
る。ロサンゼルスにしても同じである。だが、市役所から百五十メートルほども離れていないところに、貧相なその日本人町がること自体不思議であった。日本では一流企業で、一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残されたような日本人町の古びた建物で営業しているのを見て、戦勝国アメリカと敗戦国日本の力の差を象徴しており、寂しい感じがしたが、ホテルの入口でボロの衣類をまとった白人の年老いたバアさんが小銭をくれと空き缶を差し出してきたときは、世界一豊かな国アメリカにも乞食がいるのかと矛盾と強烈なショックを受けた。広さ百メートル四方ほどの日本人町(リトル東京)には小さなレストランが四、五軒しかなく、どこのレストランも「皿粗い」など応募していなかった。私は読んだ本の情報に早とちりしたのである。私は「皿洗い」バイト探しに腹がすき、日本人町のレストランに入った。カウンターに座ると、隣に座っていた中年の日系人が「ジャパンから来たのか」と声をかけてきた。私の身なりですぐ日本から来たことが分かったようだ。私が活費や授業料を稼がねばならない事情を話すと「デラノの葡萄畑で、夏の二カ月働けば七百ドル(二十五万円)ぐらいは稼げる」と言った。彼は過去にその葡萄畑で働いたことがあったそうだ。仕事は葡萄の房をハサミで切り取り箱詰めする出来高制だと言った。彼は「行くか?暑いところだゾ」と言った。私は働き稼げるならどんな仕事でも良いと思い「行きます」と言うと、胸ポッケとから手帳を取り出し、葡萄農家の電話番号を書き私にくれた。
デラノはロサンゼルスの北約三百キロ、中部カリフォルニアにあり、その一帯は葡萄農園が多く、農園は夏の葡萄出荷時になると猫の手も借りたいほど忙しいが、厳しい暑さの中での葡萄摘みに人手が集まらず、労働者確保に苦労していると言った。翌日、ダウンタウンのグレイハウンド・バスのターミナルからサンフランシスコ行きのバスに乗りデラノへ向かった。
バスはハイウエイ・ルート九九を北へ二時間ほど走ると、ロサンゼルスの色鮮やかなペンキで塗られた家々や、草木が青々と生い茂った風景から、赤土の荒涼たる山々の風景に変わってきた。バスは長い一直線の緩やかな坂を下り降りベーカスフイルドの町を過ぎると葡萄畑が広がり、バスはデラノのバス・ターミナルに着いた。バスを降りた私は日系葡萄農家に迎えを頼む電話をして、バス・ターミナルの外の歩道に腰を下ろしタバコを吸いながら迎えを待った。四時を少し回っていたが、太陽は熱射を浴びせるように照りつけていた。周りを見渡すとデラノは南北に走る一本の広い道路沿いにガソリンスタンド、小さなレストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機械屋などがポツン、ポツンとある葡萄畑に囲まれたほんの数百メートルほどの小さな町であった。交通量も少なく、車は道路沿いの商店へ頭を斜めに向け駐車していた。それは映画「俺たちには明日はない」に出てくるような風景であった。
三十分ほど待っていると、小型トラックが止まり葡萄農家のミセス・Kが笑顔で降りてきた。四十代半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿のスラッとした健康的な女性であった。
私を乗せた小型トラックはデラノの町を出ると、地平線まで広がる葡萄畑の農道を東へ二十分ほど走り、葡萄畑に囲まれた大きな平屋の前で止まった。平屋の前は広場になっており、そこには大樹が一本あった。車が着くと平屋からカーキー色の作業服を着た五十近い恰幅の良い男性がにこやかな顔で、英語混じりの日本語で私に握手を求め、事務所の中へ招き入れた。彼は葡萄農家のオーナー、サムであった。
平屋はサム一家の母屋兼事務所になっていた。事務所では若い女性三人と作業服姿の中年日系人の男性が事務を執っていた。サムは事務を執っている人たちを私に紹介した。三人の女性はサムの娘、そして日系人ジョージはそこで働く労働者のファーマン(監督)であった。
写真説明:
Delano葡萄畑
Delanoへ行く途中 Route99 Bakersfield
LA (ロサンゼルス市役所)City Hall
(続く)
1968年のバイク世界一周
葡萄畑の日々 (その1)
(6)
日本人町で「皿洗い」のバイトを見つけられなかった私は、デラノへ葡萄摘のバイトをしに行った。しかし、葡萄農家の主人サムが今年は葡萄の収穫期が遅れているので、二週間ほど葡萄棚の手入れの作業をしてもらうと説明しながら契約の話を始めた。時間給は「一エン十五セン」と、彼もドルやセントのことを「エン(円)」とか「セン(銭)」と言った。
ロサンゼルスで会った日系人の話では、仕事は葡萄を摘み、箱詰する出来高制(ピース・ワーク)だから、夏休み中働けば日本の年収に匹敵する七百ドル(二十五万二千円)は稼げると、聞いていたのでサムの話はショックだった。そのあとサムは私が寝泊まりする建物へ案内した。それは白ペンキがあっちこっち剥げ落ちた粗末な掘っ建て小屋であった。小屋の中にはスプリングの利かない古いベッドが八つほどあり、裸電球が二、三個ぶら下がり、埃をかぶった年代物の木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれのベッド脇に備え付けられていた。まるで映画で観たアウシュビッツの強制収容所のようで、惨めな気持ちになった。だが、日本では扇風機の普及率がやっと五十パーセントを超えた頃であったが、このオンボロ小屋でも騒音をまき散らす古いエアコンがあった。小屋の入口のドアや窓は、日本では見たこともない網戸付二重ドアになっていた。なるほど、これなら蚊取り線香も蠅取り紙も必要ない。やっぱりここは「アメリカ」だと感心した。ここには、同じようなオンボロ小屋が二十棟ほど軒を並べていた。葡萄の集荷時期には葡萄摘みの日系人労働者が百人以上も寝泊まりするのだと、サムは自慢そうに話した。シャワーとトイレは寝泊まりする小屋の隣の棟にあった。囲いのないシャワーとトイレが十ほど平行に並び、便器に座り隣の者と話たり、前でシャワーを浴びている奴を見ながら糞を垂れる代物だった。
「カン、カン、カン」と、朝五時、鉄板を叩く金属音が音で日々のスケジュールは始まった。ツバの広い麻製のバッカン帽をかぶり、ジーンズに作業用の革靴を履き食堂へ向う。カリフォルニアはデイライト・セイビング・タイム(夏時間)の季節で、五時はスタンダード・タイム(冬時間)なら四時だ。外はまだ暗く、日本の晩秋のように寒かった。事務所の隣にある食堂はアメリカ映画に出てくる刑務所のように、ステンレス製の長いテーブルと長椅子が整然と並び、百人は座れるものであった。食堂には一見して六十を越えた日系人老人が十七,八人食事を取っていた。若者は一人もいなかった。食事を終えた老人たちは一日遅れで配達される日系新聞、「加州毎日」や「羅府新報」を読み、雑談をしていた。コックは三十を少し出たぐらいの静岡出身の男性で、その奥さんが賄いをしていた。
食事を取っていると老人たちが、威勢の良い声で私に挨拶の言葉をかけてきた。朝食はスクランブルエッグ,ハム,ベーコン,トースト,コーヒー、オレンジ・ジュース、ミルク、メロンと食べ放題で、日本では食べたこともない豪華なものばかりであった。
再び「カン、カン、カン」と鉄管の音が響き、葡萄畑へ出発であった。事務所前には監督ジョージの運転するトラックの荷台に全員、といっても、老人が十七、八人と私だけでだが乗り込むと、トラックの前に集まると、トラックは広い敷地を出て、葡萄畑の広がる農道をもうもうと砂塵を上げ東へ向かって猛スピードで走り出した。トラックの荷台は夜明け前の風をもろに受け歯が合わないほど寒く、震えが止まらなかった。葡萄畑の遙か地平線に太陽が昇り始め、月はぼんやりと白く、鮮やかな赤色に染まったセコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が東に小さく輝いていた。トラックがその日の作業場に停まった。葡萄棚の葉の陰になっている葡萄の房に太陽と風を当てるため、垂れ下がった葡萄の蔓を抱え棚の反対側にひっくり返す作業だ。
老人たちの作業は荒っぽいが、テキパキとして速かった。作業に慣れている老人たちは横並びで機械的に作業しながら、大声で陽気に冗談を言い合いながら前へ前へと進んでいった。葡萄畑は夜間たっぷり水を撒いてあり、足元は泥んこになっていた。葡萄の蔓を抱え、棚の向こう側へひっくり返そうと力を込めると、足がすべり勢い余って一抱えの蔓と共にひっくり返りシャツもジーンズも泥だらけになり、その上に蔓まで引きちぎってしまうことが度々であった。一時間もこの作業をしていると腰がだるくなり、手も挙がらなくなるほど肩が疲れた。ジョージはトラックの荷台に立ち我々の作業の進行状態を監視し、時々大声でどなった。
太陽が上がるにつれ、葡萄畑に撒かれた水が蒸発し始めた。朝の寒さが嘘のように蒸し暑くなり額からは汗がひっきりなしに滴れ、眼鏡が曇りずれ落ち、作業は遅れる一方だった。空は雲一つなく晴れ渡っていたが、葡萄畑全体から蒸発する水蒸気で太陽も霞み、景色は白く揺れていた。時間の経過と共に太陽は輝きを増し、全てのものをジワジワと焼き尽くすかと思われるほど暑くなった。暑さに堪りかねて葡萄棚の下に日陰を求めて潜り込むと、葡萄畑にしみ込んだ水は湯気を噴き上げ蒸せるように暑く、棚の下から外へ飛び出すと葡萄棚の陰よりは、一瞬、涼しく感じられた。水の蒸発でマッチもタバコも湿って吸えず投げ捨ててしまった。私が立ち止まっていると、いつの間にかジョージはトラックを移動させ、近くの畦道から監視していた。粗末な小屋に寝泊まりし、トラックで葡萄畑に運ばれ、作業中もジョージに監視される私は、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」に登場する貧しい農民のような惨めな気分であった。
(続く)
写真:
このトラックで葡萄畑の行き帰り運ばれた。
夕飯前、小屋の前で、15セントのビールで老人たちと一服。
1968年のバイク世界一周
葡萄畑の日々(その2)
(7)
この一年間、留学試験を目指し、睡眠時間を削って勉強していた私は体力がなかった。葡萄畑はギラギラと照り輝く太陽に晒され、下からは前の晩まかれたスプリンクラーの水が蒸し風呂のように熱気で蒸され、慣れない仕事に気力もなくなり目眩がした。喉が渇いても水飲み場は百メートルほど先にあり、腰を屈め幾つもの葡萄棚の下を潜り抜け、そこまで行くだけで疲れた。さすがに、この暑さはベテランの老人たちにも応えるらしく、朝は元気だった賑やかなおしゃべりもいつの間にか聞こえなくなった。
昼飯が終わり、午後からの作業が始まった。白く輝く太陽は頭上に留まり、熱射を浴びせ続けていた。ベテランの老人たちも疲れたのか、作業のスピードがガックンとた落ち、
葡萄畑の温度はゆうに四十度を越していた。炎天下の作業は体力の消耗が激しく、意識はもうろうとして鼻血まで出てきた。私はただ機械的に手を動かし、葡萄の房にかぶさっている葉をのけるだけであった。
四時、作業監督ジョージの手が挙がり、やっと朝七時からの作業が終わった。長い一日の作業を終え、疲れ切った囚人のように我々は再びトラックに乗せられ小屋へ連れ戻された。この時の嬉しさはたとえようもなく、稼ぐ必要がなければ、今すぐにでもこの葡萄農家から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
オンボロ小屋戻り,疲れ切った体を倒れこむようにベッドに横たえると、体中が火傷をしたように熱く痛かった。一週間ほど前、小屋の出入り口の階段を踏み外し、足に包帯を巻き、仕事に出ていないという、同室の老人が痩せて小枝のような手にビール缶を持って私に近づき、疲れ果てている私に飲めと勧めた。朝鮮半島出身だというこの老人は、片言の日本語しか話せなかったが、目覚まし時計代わりに私を起こしてくれたり、ビールをくれたりする親切な老人であった。
この老人は若い時、アメリカに密入国、それ以後、移民官に捕まるのを恐れ、仕事場を転々としてきた。だから、百ドル前後の年金も貰えず、七十二歳になった今も、季節労働者としてカリフォルニアの農園から農園へ作物の植え付け収穫期に合わせてカリフォルニアのレタス、イチゴ、葡萄畑などを移動し、痩せてはいるが、まだ元気で週に三日はこの農園で働いていると言った。
夏時間のカリフォルニアは八時を過ぎても外は明るく、事務所前ではサムの三人の娘たちが売店を開き、労働者相手にビールやコカ・コーラ、タバコなどを売っていた。
年頃の彼女たちは賑やかに、大きな声で日系老人たち相手に呼び込みをしていた。夕食が済むと老人たちは夕涼みを兼ねて売店の周りに集まり、買ったビールを飲みながら、日本語混じりの英語で彼女たちと雑談して楽しむのが日課であった。
彼女たちは同じ日本人の血が流れているのに、ヤンキー娘のようなに活発で、屈託がなかった。英語の話せない私は彼女たちの振舞いに圧倒された。私も十五セントの缶ビールを買い、老人たちの輪の中に入った。最近は暑い葡萄畑の作業は敬遠され、若者はほとんど来ないと、老人たちは若い私に誰彼となく話しかけてきた。彼らのほとんどは大正の末期から昭和の初期、移民先のペルーやメキシコの国々からアメリカへ密入国した人たちで、画用紙を折り畳んだような古い旅券を持っていた。酔いが回ると、老人たちは大声を張り上げ、古い日本の歌を歌い、にぎやかに取り留めもない会話をしていたが、その表情は何か寂しそうであった。この老人たちはどんな人生を歩んできたのだろうかと、彼らの人生に興味が湧いた。この老人たちのような節労働者は身の回り品と寝る時必要な毛布(ブランケット)を持って農園から農園へ、作物の植え付けや収穫期に合わせてカリフォルニアの農家を一年中移動しながら生活していたので、「ブランケット」と陰ではニックネームで呼ばれていた。
作業は葡萄の枝葉を棚上げしたり、葡萄の余分な枝葉を切り落として棚に括り付けたりと一貫性のないものだった。一週間が経った朝、葡萄の実りが遅れ、作業はなく、最初の週給日だった。事務所でサムから二十三ドルちょっとのチェックで週給を受け取ったが食事代、税金などが引かれ予想していた金額の半分に愕然とした。夜になると老人たちは五十年型オンボロ車でデラノの町へ繰り出し、稼いだ金を酒や女に使い果たしていた。
葡萄農家は陸の孤島であった。休日とはいえ、車がなければ動きが取れず、洗濯するか、季節労働者の老人たちと交流を図り、時間を潰さねばならなかった。洗濯は小屋の外にあるコンクリート製の古い流し台でした。日本ではホテルのような特別のところしか蛇口から湯は出ない頃であったが、アメリカではこのような農場でも大きな蛇口から惜しみなく出る湯に、アメリカの豊かさを感じた。老人たちは映りの悪いテレビで、秋の大統領選挙へ向けてのジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会の放送を聞きながら、将棋やカードをして暇をつぶしていた。小屋の外では木陰に椅子を持ち出し、老人たちがお互い散髪をしていた。私も老人たちと、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団した日本人初のメージャーリーガー村上雅則のことや十月の東京オリンピックに向け、今、急ピッチで競技場や高速道路の工事が進んでいることなどを話題に散髪してもらった。
(続く)
カリフォルニア中部、デラノ近辺はスタインベックの小説が映画「怒りの葡萄」や「エデンの東」の舞台にもなった所である。
1968年のバイク世界一周
Back to Los Angeles
植村直己と同じ下宿屋?
(8)
私がこの葡萄農家に行った年は葡萄の実りが遅く、葡萄摘み労働者はおらず、六十を過ぎた葡萄棚の手入れ作業する日系人労働者が十五、六名だけだった。人生、人それぞれで、多くの彼らは、酒、バクチ、女の生活を続けた挙句、六十歳を過ぎたても季節労働者としてカリフォル二アの農家を転々としている季節労働だった。
カリフォルニアの遅い夕闇が訪れると、乾燥した葡萄畑の夜空一杯に星が鮮やかに輝き始め、爽やかな風が何処からとなく現れ、炎暑が嘘のように一変した。
葡萄農家の主、サムは夕食後、葡萄畑に水をまきに行くのが日課だった。その日、小屋の前で夕涼みしている私を見かけたサムは「行かないか」と声をかけてきた。暇な私は断る理由もないので彼の車に乗り込んだ。五分ほど走り、葡萄畑の一角にあるスプリンクラーを開け、水をまき始めた。水を撒く間、彼は両親が和歌山から持って来て植えたというイチジクを「便秘に効く」と美味しそうに食べながら、何気なく彼が抱えている悩みを始めた。その一つが年頃である三人の娘たちの結婚相手が見つからないことであった。民家もほとんどない広いカリフォルニアの農耕地帯、デラノで適齢期の日系人男性を見つけることは至難の業で、いたとしても若者は農業を嫌いサンフランシスコやロサンゼルスなどの都会へ逃げ出していると深刻そうであった。それに農家は人手不足で労働者の賃金は上昇、農家は経営の存続が危ぶまれていると言った。
三週間が過ぎても葡萄の収穫は始まらなかった。ある日、食堂で日系新聞、「羅府新報」の求人欄に「ガーディナーのヘルパー(庭師の助手)求む。ヒガ・ボーディング」と、あった。私はロサンゼルスンのレストランで会った中年日系人が言った「ガーディナーのヘルパーは金になるがユーは経験がないから無理だ」と言ったことを思い出した。一か八かで、早速、私はロサンゼルスのボーディング(下宿屋)に電話を入れた。夏場は芝生の伸びが早く、ガーディナー(庭師)はヘルパー(助手)が必要であり、ヘルパーの賃金は一日十五ドルにはなるとボーディングの女主人は言った。そして、暑いデラノで働いた奴は根性があるので大丈夫だと付け加えた。
何時、葡萄が熟れ出来高制の作業が始まるかわからない葡萄農家にいても、後一ヶ月しかない夏休み中に二百ドルも稼げないと思い、私はその下宿屋に入ることにした。サムに事情を話し、ロサンゼルスへ戻ることにした。
デラノからロサンゼルスにもどり「ヒガ・ボーディング・ハウス」に下宿した。経営者は沖縄から移民したヒガ(比嘉)さんという六十過ぎの老夫婦であった。当時、ロサンゼルスには日系人が経営する下宿屋が数軒あった。日系人はそれを「ボーディング」と呼んでいた。
ヒガ・ボーディングはベニス通りに面した下宿屋で新旧二棟あった。部屋代は新館が三食付きで月七十ドル、旧館は六十五ドルだった。私は旧館に下宿することにしたが、下宿代を払うとほとんど残っていなかった。
この年の四月、日本は海外旅行が解禁になり、この下宿は「発展途上国」日本から来た四、五十人の客で繁盛していた。特に、夏場であり、庭師の助手の仕事を紹介してくれるので満室だった。
ロサンゼルスの庭師は日系人の生業と決まっていた。彼らはロンモア(芝刈機)やホウキなど庭師の七つ道具を小型トラックに積み込み、一人で一軒一軒庭を手入れして回っていた。しかし夏は芝生の伸びが速く、芝生を刈るのに時間を食うので、彼らはヒガ・ボーディングの宿泊客を助手として雇っていた。
住むところも仕事もない日本から来た者にとって、ヒガ・ボーディングは庭師の助手の仕事を簡単に見つけられる便利な場所である一方、庭師にとっては手軽に助手を調達できる職業斡旋所であった。海外渡航自由化になると、多くの若者たちが観光ビザでロサンゼルスに来て、着くとまずヒガ・ボーディングで荷を解いた。彼らの多くは賃金の高いアメリカで稼ぎ、その後、北米や南米旅行、あるいは世界一周旅行などを志す若者たちであったが、日本ではエリートのアメリカ駐在員も、生活費を切り詰めるため何人か下宿していた。
下宿人は男性ばかりで、女性はミセス・ヒガと日系人の賄い婦数人だけであった。
同じ頃、あの有名な冒険家、植村直己も、私と同じようにカリフォルニア中部,デラノ近辺の農園で働いたあと、このボーディングに下宿し、ガーディナーの助手をして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指して、フランスへ旅立ったと後年聞いたことがあるが、同じ下宿屋にいたのなら、顔ぐらい合わせたかもしれないが、当時、彼は有名人でなかったので記憶にはないが戦友だt自負している。庭師たちの朝は早かった。
私はトラックからエンジン付きの重いロンモアをおろし、裏と表の広い庭の芝生刈りが主な仕事であった。私が芝刈りをしている間、ボスは庭木や花壇の手入れをした。
芝刈りが終わると芝生の周りを整え、ホースで庭中の芝生やゴミを洗い流す。これで一軒終了である。庭師が一人だと一時間ぐらいかかるが、二人でやると三十分で終えられた。
しかし、庭師は私への支払いがあるので、日の長い夏場は普段より多くの客を取るために目いっぱいこき使われた。
六十四年当時、アメリカの最低賃金は一時間一ドル五セント(三百七十八円)で、日本で稼ぐ一日のバイト料に匹敵した。アメリカ人の平均月収は五百ドル(十八万円)前後であったが、庭師は日本の平均年収七、八百ドル(約二十九万円)に相当する額をひと月で軽く稼いでいた。一方、助手のほうは日給制で、日本の十日分に匹敵する十五ドル(五千四百円)が相場であったが、二世の若者など見向きもしない三Kの仕事であった。
ハリウッドの映画俳優の庭も手入れに行ったことがある。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付きの豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。
昭和三十年代、人気テレビ映画「ローハイド」で老コック「ウイシュポン」を演じていた俳優宅にも行った。彼は役のような老人かと思っていたが実際は四十六歳で、二十七歳のワイフと六ヶ月の子供がいた。前年、昭和三十八年「ローハイド」で共演していたクリント・イーストウッドたちとテレビ局の招待で日本を訪れていた。彼は庭先で一緒に写真を撮り、ビールを飲ませてくれる気さくなオッサンだった。あの有名な歌手であり女優であるドリス・ディ宅にも行ったが、目が合っただけでタダのオバさんだった。
日本を出てからたった二ヶ月の間の出来事だった。
(続く)
写真:TV映画「ローハイド(Rawhide)」でClint Eastwoodと共演していたコック役Paul Bringar宅。ガ―ディナーナのヘルパ。
下宿屋の駐車場:1964年8月
1968年のバイク世界一周
墓地で働く(その1)
(9)
八月末、庭師のヘルパーは終わった。私は九月になり州立の英語学校へ入学した。学校は車で十分程の距離であったが、車のない私は下宿屋からバスを乗り換え一時間のほどかかった。
この英語学校は州立で、授業料は年間たったの一ドル(三百六十円)だった。授業は朝八時から午後二時までと、午後二時半から夜九時までの二部制だった。時間的にヘルパーの仕事は無理だが、私は生活費を稼がねばならなかった。私は授業を午前中に受けて、午後からバイトしようと目論んでいた。しかし、入学すると午後二時半から午後午後九時の授業に振り分けられた。夏の間、稼いだ四百ドルほどは五ヶ月分の下宿代にしかならず、私は学校に行くまでの午前中は、下宿の食堂で日系新聞「羅府新報」の求人欄を見るのが日課になった。だが求人広告も少なく、しかも午前中だけの仕事など皆無だった。英字新聞「ロサンゼルス・タイムス」の求人欄はベトナム戦争のため、軍事産業は人手不足でその種の広告は六、七ページもあったが、英語の話せない私は採用される可能性はないと、最初から諦めて見る気もしなかった。
学校が始まり、仕事のない私は下宿屋の経営者、ミセス・ヒガに仕事を頼んでいた。
ある日、ミセス・ヒガが、
「ローズ・デール・セメタリィ(墓地)で午前中だけでも働ける人手が欲しいと言っているよ。墓だから、気持ち悪がって働き手がないらしいけど・・・。ユー、行ってみる?」と、申し訳なさそうに言った。
墓であろうが何であろうが、私には午前中働ける仕事はありがたかった。さっそく下宿屋から歩いて数分のローズ・デール墓地へ出かけた。墓地は赤煉瓦の高い塀で囲まれ、入口から奥へアスファルト道路が細く枝分かれしていた。見渡す限り緑の芝生の中に大小の墓石が整然と並び、周囲には色鮮やかなハイビスカスが咲き誇っていた。高々と伸びたパームツリーの葉は爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて風にそよぎ、車の騒音も人影もなく静寂だけが支配する公園のような墓であった。
事務所に行くと、七十過ぎの温厚そうな日系人が出迎えてくれた。墓地の葬儀一切は中年の白人三人が取り仕切り、武藤さんというこの日系老人は四百メートル四方ほどの墓地の芝刈りと清掃を契約で一手に引き受けていた。墓で働きたい者はいないらしく、即、採用された。時給は一ドル七十セント(¥612/日本の日給ほど)で悪くなかった。勤務時間は午前七時から午後四時までだが、学校があるなら十二時まででもよいと願ったり叶ったりの仕事だった。広い墓地の墓石と墓石の間を手押しの芝刈り機で刈るのが私の仕事であった。
仕事仲間は四人だった。ひょうきん者の鈴木は三十五、六歳、日本から派遣された駐在員であったが、墓の草刈りのほうが給料はいいと会社を辞めた独身、ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)で、ベトナム戦争がエスカレートするにつれ、ドラフト(徴兵)されることを恐れ正業には就いていなかった。タマシロは口ひげを伸ばし、太ったメキシコ人のような風貌をしていたが、いつもニコニコして愛想の良い二児の父親であった。小柄でハンサムなナカソネは大学で法律を学んでおり、弁護士になるのが夢であった。
タマシロとナカソネは沖縄から移民したペルー三世で、日本語はほとんどわからなかった。鈴木以外は私と同年代であった。
朝出勤すると我々は事務所で雑談しながらコーヒーを飲み、小型トラックに草刈機を積込み、広い墓地の曲りくねった「墓道」を仕事場へ向かった。目的地に着くとトラックから芝刈り機を下ろして、墓石と墓石の間隔は約二メートルで、何百もの墓石が一直線に百メートルほど先までのびていた。全員が一列になった墓石の周りを刈りながら先へ先へと進み、一列終われば次の列へと移った。仕事は芝刈機を押したり引いたりするだけの単純作業であった。
楽しみはコーヒー・ブレイク(休憩)であった。パーム・ツリーの木陰に全員が集まり、墓石に腰かけたりしてコーヒーやコカ・コーラ、ドーナツを飲んだり食ったりしながら、それぞれ思い思いに休憩を取った。
戦前、日本人学校の教師だった武藤さんは、墓石に腰かけコーヒーを飲みながら、よく太平洋戦争のときの経験を話してくれた。私はコーヒーブレイクの時間に彼の話を聞くのが楽しみであった。戦争が勃発するとすぐ、彼は教師という理由だけでFBIに連行され、数日間スパイ容疑で厳しい取調べを受けた。その後、家財道具を二束三文で売り払い、人間としての人権まで踏みにじまれ、家族ともどもマンザナ収容所送りになった。マンザナは米本土に十ヵ所設けられた収容所のひとつで、中部カリフォルニア、シェラネバダ山麓の砂漠の真中にあった。夏は気温五十度を超えるときもあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付ける空っ風で非常に寒いという劣悪な環境にあった。そのうえ、粗末な造りの建物は床板の隙間から砂塵が部屋の中へ吹き込み、夜ベッドに入ると屋根の隙間から星がきれいに見えたもんだよと、懐かしそうに話してくれた。
日本語はまったく話せないペルー生まれのタマシロであったが、歌謡曲を唄えばプロ並みにうまく、コーヒーブレイクのときには、大きな墓石の上であぐらを組み、「並木の~雨の~♪」と、昔の歌謡曲「東京の人」をよく歌っていた。ナカソネは休憩時間でも静かに教科書を広げていた。
(続く)
968年のバイク世界一周
墓地で働く(その2)
(10)
墓地では、毎朝、当番制で、ほかの連中より先に薄暗く狭い事務所に来てコーヒーを沸かすことになっていた。皆、この当番がイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤなのではなく、その場所の環境が問題だった。事務所に隣接した作業場には板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が積み上げられ、
その前には火葬用の焼却炉があった。そして、あとで身元確認するため、生ゴムで造られた火葬され身元不明人のデスマスクが事務所の壁に無造作にぶら下げられていた。生ゴムでできているとはいえ、十五、六個のデスマスクに囲まれ、見つめられているような場所で一人コーヒーを沸かすは、実に気味悪いものであった。時々、白人作業員が事務所前の火葬用焼却炉で火葬をしていた。彼は機械的に黙々と焼却炉の蓋を開け、小さなスコップで中から灰を地面に積み上げていた。火力が強く骨は貝殻を金槌で叩き潰したように小さな粒になっている灰を地面一杯に広げ、金歯を漁っていた。集めた金歯は白人作業員たちが空ビンに溜め、ある程度溜まるとったらバーナーで溶かし金塊にしてポーンショップ(質屋)で売っていた。また、葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った火葬用の雑な棺桶にホトケさんを移し替え、上等のものを葬儀屋に引き取らせ臨時収入にしていた。事務所の隣にある葬祭堂には遺体安置所があった。ときどき、カリフォルニア大の医学生という二十二、三歳の白人女性が中古車で来て、一体三十ドルで「死に化粧」のバイトをしていた。アメリカでは人生の最後だけは、白人も黒人も差別なく、霊柩車は同じ世界一の高級車、黒塗りのキャデラックのリムジンであった。日本と違うのは霊柩車のあとに続く車は昼間でもヘッドライトを点け、二台の白バイが先導し「天国までノン・ストップ」とばかり、赤信号でも止まらずに墓場へ直行する。埋葬のときに掘る穴は白人従業員がパワーシャベルで深さ六フィート(約一・八メートル)を掘ったあと、棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで底のほうを削って作ってた。ロサンゼルス一帯の地下には油脈が通っており、穴の底からジワジワと真っ黒な原油が滲み出てきて靴やシャツを汚しながら彼らは、この作業をやっていた。
原油の滲み出る墓地に棺桶を埋葬すると棺桶の隙間からそれがしみ込み、ホトケさんが油まみれになるので、コンクリート製の棺桶に木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。墓地で働いていると、宗教に興味がない私でも、仏教の宗教観が自然に体にしみ込んでいることに初めて気づいた。年寄りたちが「ホトケさんが枕元にった」という恐い話や子供のころに見た幽霊映画、そして線香の煙とにおいが漂う薄暗い墓など、どれをとっても薄気味悪い霊の存在が無意識のうちに私の頭にインプットされていた。しかしアメリカでは、亡くなった人の霊がベッドの枕元に立ったとか、雨の夜、額に三角巾をつけたジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたなどという話は聞いたことはなかった。そのためだろうか、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても日本人のそれとまったく違い、薄気味悪いという感情はなかった。もっとも、アメリカの墓地は芝生の広々とした公園のような明るい雰囲気があり、墓場というよりはまさにメモリーパークとそのものであった。宗教の違いといえば仕事仲間のタマシロとナカソネはいつも墓石に向かって便所代わりに小便を飛ばしていたが・・・・・。
葬儀は洋の東西を問わず厳粛なものである。毎日、埋葬や火葬、墓石に刻まれた故人の
誕生から死までの歳月を見ていると、人間の一生なんて宇宙の星が瞬きする間に終わってしまうものだと思うようになった。そして「死んで花実が咲くものか」、「生きているうちが華」だという思いが強くなった。
英語学校は一日も休むことを許されず、病欠の場合は診断書提出が義務付けられていた。学校は学生の出席率を移民局に報告する義務があり、移民局は出席率が悪い学生は認められている週二十一時間以上働いていると認定しビザの更新を認めず、学生は本国に帰らなければならなかった。当時、英語学校の生徒はメキシコ人が二百人近く、日本人留学生は男女二十四、五名いたが、中には留学生とは名ばかりで、豊かなアメリカで生活を希望し、永住権を取得するためアメリカ国籍の日系人や白人と結婚して学校を去る者が多かった。後年、事故でマスメディアの話題になった「ヨット・スクール」の校長もその英語学校で学んでいたような気がするが、同じクラスでなかったので話したことはなかった。
教師は常にアメリカは世界一豊かで、自由の国であり、「コミュニズム(共産主義)」ほど恐ろしいものはないと、授業から横道に外れ長々と強調することが多かった。私はそれを聞きながら、これはある種の洗脳学校だと思ったが、強制送還されるのが怖いのと授業料が年間一ドルという安さに、教師の言うことを聴き良い子ぶっていた。学校が始まって、直ぐの一九六四年九月中旬、学校の日本人友人に誘われ彼の車でラスベガスへ行った。当時、私は。ラスベガスがどこにあるかも知らなかったが、何か怖い「博打場」ではないかとは思っていた。行くのを躊躇している私に友人は「おもろいところや。行こ、行こ」と言われ、砂漠の中を7時間ほどかけ二人でラスベガスへ行った。初めて見るラスベガスの煌(きら)びやかさに慄いていた私は、一歳年下の彼がする「ダイス」を引っ付き虫のように彼の横で見ていると、「あんたもやれや。あんたが横で見ているとやりにくいわ」と言うので、彼の賭け方を見よう見真似で同じ「ダイス」を始めたラ一時間もしないうちに、目の前にチップが目立つように積み上げられていった。「ダイス」台の周りの人々が騒がしくなってきた。「あんたヤバイで!止め、止め、換えて来たるわ」と彼が言ったが私は訳がわからなかった。彼がチップを現金に換えてきてくれた。その金額は千百ドル前後であった。当時の日本円で約三十九万,平均年収ほどの額、アメリカでも大金だった。彼が「止め」と言ったのは、強盗にやられ殺されるかもしれないと思ったからであった。
それはギャンブルの賭け方も知らない素人の「ビギナーズ・ラック」であった。私はお礼に百ドルを彼に渡し、七百ドルぐらいの六気筒の中古車フォード・ファルコンを買い、プライバシーのない下宿屋を出て日系人の経営するアパートへ移った。
(続く)