一番奥に本殿があり、本殿の中央に建速素戔鳴命(たけはやすさのおのみこと)、左右に品陀別命(ほんだわけのみこと)、菅原道真を祀っています。
錦部郡の最北端に位置するこのあたりは、古くから河川交通の要点として栄え、早くから大陸文化が移入されました。
一説には、百済から渡来した人々が広い範囲にわたって土着し、綾織(あやおり)、錦織などを朝廷に奉献したことから、今も残る地名や社名のいわれになったとも言われています。
錦織神社は、もとは水郡(にごり)神社といい、古くは爾吾利天王(にごりてんのう)ともいいましたが、明治40年に今の社名に改められました。
現在の本殿は正平18年(1363年)に完成されたもので、規模こそ広大ではありませんが、総檜皮葺(ひわだぶき)、漆塗りの華麗な建物で、国の重要文化財の指定を受けています。
特に屋根が特徴的で、唐破風(からはふ)という丸みを帯びた軒の上に千鳥破風と呼ばれる三角形の屋根をのせた、大変変化に富んだものです。
このような屋根の形は室町時代のもので、例は非常に少なく貴重な建築物です。また、安土桃山から江戸時代にかけて多く造られた複雑な屋根様式の原型となり、有名な日光東照宮本殿の拝殿なども、この様式を変化させたものだといわれています。
本殿の両脇には、東に春日社、西に天神社が並立し、本殿と一連の社殿を築いており、この建物を摂社といいます。これも本殿と同時期の作として、小さいながらも国の重要文化財の指定を受けています。
ふだんは大木で囲まれた静寂なこの場所も、年に一度の秋祭りが行われる10月の第二土曜日には、近隣各地区から繰り出した9台のだんじりが奉納され、子供からお年寄りまで大勢の人々が集まり、にぎわいをみせます。
この地方は、いにしえより「錦部郡(にしこり)」と呼ばれ、大和の都に通じる要路で、浪速よりの水路を主とする要衝であったため、早くから大陸文化が移入され「和名抄」にみえる百済郷とも称される集落をなしていた。
「爾之古里」とも表記されて、後に錦部郡となったというが、古代においては百済より渡来した織物の技術を持つ人々が住みついて、綾錦織等を朝廷に奉り文化の向上に大いに貢献したことが伺える。
この宮は錦部郡の一ノ宮、また河内の三水分のひとつと云われたとも伝えられる。
現社殿は足利時代の建築で、本殿、両摂社も重文である。

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