ぼっちゃんのブログ

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    カテゴリ: バイク

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    1968年のバイク世界一周
    旅立ち アメリカへ(1)
    バイクで海外を旅行した経験があるとい外国人たちとFBを通じ交流していたら、日本のライダーはなぜ英語で発信しないのだと聞かれたので、世界を駆け回る有名な日本人ライダー氏に発信されませんかと連絡したが、いくら待っても返事は来なかった。これはアカン、しゃあない、オレが日本代表?として、暇つぶしとボケ防止に少しでも役立つだろうと、忘れていた英語を思い出しながら、過去にバイクで世界旅行した経験を昨年、「Around the world in 1968 on Bike」のタイトルでFBで発信しはじめた。最初は忘れていた横文字作文も苦痛であったが、そのうちに少しは様になってきて楽しくなってきた。そして、世界の多くのバイク愛好者に好評を得た。その中で私を最も驚かせたのは、最初にバイクで世界一周したのは1912年、アメリカ人だそうであるが、当時は自動車産業の発達は欧米のみで、中近東、アジア、南米、アフリカなどにはガソリンスタンドはなく、ガソリンはスポンサー付きで中継地点まで輸送したので、スポンサーなしで世界一周したのは私が最初だと知らされた。もともと私はバイクの世界旅行など金と暇があれば誰でもできると思っていた。だから帰国以来、約50年間、私は日本人社会を生き抜く冒険の日々で、過去を振り返る余裕はなかった。やっと年金暇人になり、過去のバイク旅行の経験を英語で流していたら、今度は多くの人に日本語で流せという要望が多く寄せられ、またまた暇つぶしのネタが出来たと喜んで流した。せっかく読んで戴くのであれば、世界何十万キロ、何百ヵ国走破もいいが、そのバイク旅行の後をどう生きるかが大事であるから、1960年代アメリカでの私の生活や、出来事などの経験を織り交ぜて書かせていただく。面白くないかもしれないが、ご辛抱のほどを切に願う。人間には人の数だけ、生き方がある。その人間の寿命は長くて百年ぐらいだが、地球の年齢は45億年だそうだ。それに比べると人間の寿命など流れ星が右から左へ移動する一瞬の時間である。その一瞬をどう生きるか。子供のとき読んだ本の中にあった「一瞬の命」という言葉がいつも私の脳裏にへばり付いていた。今も・・・。私は学校時代、勉強は全くと言っていいほどしなかった。その結果。成績はいつも無残なものであった。教師というのは成績の良い生徒に対しては、エコ引きするが、成績の悪い生徒にはその反対であることが多い。教師は狭い学校という社会の中で「外」を知らなず、今はどうか知らないが、文部省認定の教科書に沿って生徒に教える教師であった。学生時代を通し、知識はあっても外の社会を知らない教師は常に私は馬鹿にされていた。私は五人兄弟の長男である。一般的には長男はおとなしく、まじめで、弟たちの模範というのが相場である。しかし、私は勉強もせずボクシングジムに通い、親にとってはできの悪い息子であった。しかし、弱い者の正義の味方であった。
     1962(昭和37)年大学卒業と同時に、旅行会社に就職した。大学でも成績が悪かった私は会社でも、二年間雑用だけが仕事だった。人生のすべては学校の成績で決まるのか。人間社会というものはそんなものか。それは私にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
    しかし、当時は就職すれば、定年まで無難に過ごすことが常識であった。まだ一般的には英語を話す人はまれな時代であった。「兼高かおるの世界の旅」や「海外渡航自由化近づく」のニュースに影響受けた私はアメリカ留学し英語を学び、日本経済の発展とともにこれから伸びる航空会社に就職し、人より良い生活をしてやろうという野望が芽生えた。会社を辞めるか、留学するか悩んだ末、アメリカ留学という「人生の途中下車」を選んだ。
    「後悔先に立たず」である。
    『続く』

    1968年のバイク世界一周
    旅立ち
    (2)
    戦後すぐ、アメリカの政治,経済、文化、教育、特に「総天然色映画」(カラー映画のことをそう呼んでいた)に影響されて育った私には、アメリカだけが唯一の「外国」であった。中学校の英語の教科書、「ジャック・アンド・ベティ」の挿絵にあった大きな車、広い芝生の庭、大型冷蔵庫、色鮮やかなペンキで塗られた大きな家、スクールバスでの通学、車に乗ったまま映画が観られるドライブ・イン・シアター、片側四車線も五車線もある高速道路、世界一豊かな国アメリカは、私だけでなく日本国民にとって羨望と憧れの国でもあった。私が留学を思い立った一九六三(昭和三十八)年、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。当時、日本はまだ外貨不足で、外国へ行くには、その国に住んでいるスポンサーを探すか、外務省が実施する国費留学か私費留学、あるいは旅費、その他すべてを丸抱えしてくれるアメリカ政府実施のフルブライト留学試験に合格しなければ旅券は発行されなかった。だから、ごく普通に考えると、私を含め一般の日本人は外国へ行くことなど不可能な半鎖国状態であった。アメリカにスポンサーになってくれる知人も友人もいない、外務省の国費留学試験、米国政府のルブライト試験に合格できる私の確率は0だった。すべてを私費留学試験に託するしかなかった。私費留学は自分で旅費、学費、生活費など賄わなければなないので、政府丸抱えの留学よりは少しは簡単だろうと思い、新たな自分の人生を築くため、会社から帰ってから、睡眠時間はナポレオン並みに三時間に削り、試験に向け基礎から英語の猛勉強を始めた。必死だった。人間、勉強ほど強制されると嫌なものはないが、目的があれば勉強でも楽しくなり、自分でも驚くほど勉強の効率は上がった。翌年、幸運にも試験には合格したが、私の全財産は月給一万八千円から貯めた十万円だけだった。ちなみに私がアメリカへ出発した昭和39年の物価は、国鉄(JR)三宮・大阪間片道30円、新聞一部10円、週刊誌30円、コーヒー一杯30円だった。私は親の反対を押し切っての留学で、無理を言って航空運賃だけを援助してもらい、アメリカへ旅立った。
    一九六四(昭和三十九)年七月二日、敗戦から二十年、東京オリンピックを後三か月後に控えていた。日本の復興を世界にアピールするため東京、大阪は町全体のリホーム(工事)中だった。街全体を覆う埃で建物も太陽も霞んで見えていた。「公害」の言葉もなかった。大阪空港のターミナルビルもまだ進駐軍が使っていた「かまぼこ兵舎」を利用していた。ハイジャックなど考えられない時代で、「ハイジャック」という言葉もなかった。滑走路は入ろうと思えば誰でも簡単に入れるような金網のフェンスで囲まれ、離着機も少なく、私は7,8人しかいない乗客とともに駐機場(エプロン)を歩きながら見送り客とフェンス越しに話しながら機内へ入った。大阪空港からは海外便はまだなく、双発のプロペラ機DC3(29人乗り)で羽田へ、そこからJALのDC8ジエット機でホノルルへ飛び立った。


    写真説明
    伊丹空港:静かなもんであった。背景DC3機
    DC3:ルッツェルン博物館、スイス/2018年8月
    座席数:29席、巡航速度300㎞
    ケネディ暗殺犯人?オズワルド射殺される
    『続く』

    1968年のバイク世界一周
    初めての外国、ハワイ
    (3)
     当時、日本からアメリカ西海岸までの片道航空運賃は、確か十四万八千六百円、私の給料の約七カ月分だった。今の物価指数に比べると途方もなく高かった。CAもスチュワーデスと呼ばれ、足軽が大奥に仕える品格と威厳ある大奥女にサービスを受けるような恐れと緊張を感じた。飛行機に乗るのも外国に行くのも初めての私は胃が痛くなり、日本では全く食べたこともないような豪華な機内食も口に出来なかった。私が初めて足を踏み入れた外国、ハワイ、ホノルル。機内から滑走路へ降り、最初に空を見上げた。詩人高村光太郎の妻智恵子が詠った「東京には空がない」が浮かんだ。ホノルルには日本では見かけることのない青々とした空が広がっていた。1964年東京オリンピックと急速な経済発展を続ける工場の煙突から吐き出される排気ガスで周りの景色が霞んで見え、まだ「公害」という言葉もなかった日本。紺碧の海と空の色彩が素晴らしく健康的なハワイの風景に感動した。ハ発着機も少なく滑走路から二百メートル歩きターミナルビルへ行った。ビルは今とは比べものにならないほど小さく、乗客も少なく閑散としていた。建物の中にはエアコンもなかったが、ビーチから吹き付ける心地よい南国の乾いた風が、開けっぱなしの大きな窓を吹き抜け、寝不足の私を癒してくれた。入国検査で、当時、留学生には義務づけられていたA3サイズほどの大きなレントゲン写真とパスポートを提出すると、係官は、
    「Only $100?(たった百ドルか?)」と、当時はパスポートに記載された日本からの持ち出し外貨額と私の顔を同時に見て言った。白人に英語で話しかけられるのも初めての私は、たった百ドルの所持金ではアメリカに入国できず、即、強制送還されるのではないかと、一瞬、恐怖が襲った。当時、日本を含め後進国の外国人が禁止されている就労目的でアメリカへ入国し、それがばれ、強制送還というニュースが頻繁にあった。父が後で送金してくれると単語を並べ出まかせに言って、何とか無事、入国管理事務所を通過できた。
    英語が話せない私は、出発前、神戸のアメリカ領事館で教えてもらった日系人の経営する「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。空港からホテルへ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行ったことがあると言った。子供の頃見た、あのカッコいい進駐軍の兵士が運転するタクシーに今、敗戦国、日本の若造の私が乗っていることが畏れ多い気分で、その上、彼の英語も理解できず、「YesとI see」の連発だけの私には乗り心地は決してよくはなかった。
    タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した「コバヤシ・ホテル(今のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで四ドル五十セントだった。宿泊代は一泊十ドル。日本人のほとんどが旅館に泊まる時代、ホテルなど「帝国ホテル」の名前ぐらいしか知らなかった。ホテルに泊まるのも、ベッドに寝るのも初めての私は何もかもが珍しかったが、底の浅い風呂タブに無理に体を沈め、石鹸の泡や体のアカの中で洗うのには苦労した。今でもホテルの風呂タブは苦手である。一般論であるが、日本人は清潔好きで 
    風呂好きであるが、白人はおおむね手と足を洗うだけで平気である。ホテルのレストランで食事をするにしても、英語のメニューを見てもわからず、片言の日本語を話すウェイトレスに任せると、バラバラにレタス、チーズ、トマトなどを盛った皿と小さな餅を横に切ったようなパンをもってきた。それをどのようにして食べるもかもわからなかったので、彼女に教えてもらい、パンにはさみケチャップをかけて食べた。それが、今では当たり前のハンバーガーだった。支払いを済ませ出ようとすると「チップ」と言ってきた。いくら払うものかもわからないので今貰った釣銭をテーブルに並べると、薄笑いしながら、その中で一番大きなクウォーター(二十五セント)摘まみ上げポイっとエプロンのポッケットに入れた。
    写真
    DC8 150?席。
    現在よりビーチの砂が多く広かった?
    1968年のバイク世界一周
    ホノルル―サンフランシスコ―ロサンゼルス
    (4)
    今では想像できないが、すでにアメリカの学校は夏休みが始まっていた。しかし、ホテルは客も少なく、ロビーもガランとしていた。ワイキキビーチへアジア系の私がシャツに細いネクタイ、裾幅の広いズボン姿ででかけてみた。ビーチには白人観光客パラパラと海水浴を楽しんでいたが、私の服装は場違いの感じだった。恥ずかしくなり直ぐホテルへ戻った。
    その夜、ウェイトレスに勧められアラモアナ・ホテルの中庭へ、お化け屋敷でも見に出かけるように恐る恐る、観客は白人に囲まれフラダンスショーを見に行った。照明に照らされた青々とした芝生、椰子の木、満天に輝く星の元、色鮮やかなアロハ姿のミュージシャンが奏でるハワイヤン・ミュージックが響き渡り、一本、一ドル(三百六十円)のビールを飲みながら、日本人などほとんどが観たこともないフラダンスショーに誇らしさを少し感じながらの感動、感激の夜たった。ホノルルに一泊し、翌一九六四年七月三日、夜のサンフランシスコ行きの便まで大分時間があった。「金のないお上りさん」の私はホテルの前、歩道の段差に腰を下ろし、タバコを吸っていると、日系二世らしきタクシードライバーが観光しないかと声をかけてきた。空港からのタクシー代、ホテル代、食事代などで私の所持金はすでに八十ドルほどになっていた。タクシードライバーは、日本が海外自由化になったので日本人観光客がドサッと訪れると期待しているがほとんど来ないと愚痴っていた。日本の平均年収(月収ではない)が三十万円($833)ほどの時代、ハワイ一週間旅行費が四十万円($1,111)以上だった。ホノルルからUAでサンフランシスコに飛んだ。上空からゴールデン・ゲート・ブリッジを見たとき意味もなく、「楽しい留学生活」が待ち構えていると心が弾んだ。シスコではその種の男が多く泊まることも知らずYMCAに泊まった。ケーブルカーの運賃は十セントだった。今は$10だそうだ。翌朝、サンフランシスコから乾いた大地の広がるカルフォルニアの上空をルート99に沿ってロサンゼルスへ飛んだ。行った。留学や海外旅行のガイドブックもない時代で、日本人留学生は「リトル・東京」で「皿洗い」し生活費や授業料を稼ぐと、何かで読んだことがあった。英語の話せない私は、日本人町へ行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかると思い、空港からバスで日本人町へ向かった。四車線,五車線もある広いフリーウエイを忙しそうに走り過ぎる車を窓から眺めていると、パリッとした身なりで自信にみなぎったアメリカ人が、大きな車にたった一人しか乗っていなかった。二人、三人と乗った車などほとんど走っていなかった。まだ、日本では車が普及していなかったので、一人しか乗っていないことが驚きだった。バスから望むロサンゼルスは見渡す限り平坦で、芝生の裏庭と前庭、そして色鮮やかな花に囲まれた住宅が続き、フリーウエイを猛スピードで走り抜ける無数の車を見て、アメリカの豊かさと巨大なエネルギーが肌に伝わってきて、アメリカに来た実感が込み上げてきた。
      日本人町に着くと日系人の経営する「パシフィック・ホテル」へ行った。そのホテルはペンキの剥げた薄茶色の三階建で、建物の外には時代物の赤錆びた鉄製の非常階段があった。中は薄暗く、狭いロビーには骨董品のような古いソファーとテーブルが並び、よれよれの背広を着た数人の日系老人たちが新聞を読んだり、将棋を指したりしていた。
    「ワンナイト(一泊)四エン、ウィーキ(週)で二十エンじゃよ」
    将棋盤を囲んでいた日系老人がカウンターへ回り込みながら言った。彼はこのホテルの
    オーナーであった。突然、「ドル」を「エン(円)」、「ウィーク(週)」を「ウィーキ」と言ったので、呆気にとられた。途中ハワイで一泊したので、手元には七十ドルほどしか残っておらず心細く、ひとまず一泊だけにした。
    「続く」
    写真:
    ゴールデン・ゲート・ブリッジ通行料は25セントだったが…
    今は?
    ケーブルカーは10セントだった。今は$10とか・・・。
    右端ターミナルビルは当時21世紀(1960年代)のターミナル的と有名なデザインだったが・・・・・。
    Tony VennettI の「I left my passport? in SFC」が流行っていた。

    1968年のバイク世界一周
    デラノ、カリフォルニア
    葡萄農家でのバイト
    (5)
     一泊四ドルの部屋はスプリングの利かない年代物のベッド、止めてもポタポタと水が滴り落ちるシャワー、長年の使用で変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけだった。アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いホテルで、「発展途上国」日本からの客かロビーで将棋を指している失業者のような老人たちが泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しい年代物のホテルだった。
    三階の部屋からは筋向いに東京銀行、その右手に住友銀行ロサンゼルス支店、日系人の経営する「ニューヨーク・ホテル」、左側に「大阪屋」、「三井大洋堂」、「宮武写真館」、「東京會舘」等、英語と日本語の看板を掲げた店が望めた。その町並みは、当時さえ、すでに日本ではお目にかかれない大正時代か、昭和初期のセピア色の懐かしい風景だった。
     日本人町は数分で通り抜けられるほど小さな一画であった。市役所はどこでも市の中心にあ
    る。ロサンゼルスにしても同じである。だが、市役所から百五十メートルほども離れていないところに、貧相なその日本人町がること自体不思議であった。日本では一流企業で、一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残されたような日本人町の古びた建物で営業しているのを見て、戦勝国アメリカと敗戦国日本の力の差を象徴しており、寂しい感じがしたが、ホテルの入口でボロの衣類をまとった白人の年老いたバアさんが小銭をくれと空き缶を差し出してきたときは、世界一豊かな国アメリカにも乞食がいるのかと矛盾と強烈なショックを受けた。広さ百メートル四方ほどの日本人町(リトル東京)には小さなレストランが四、五軒しかなく、どこのレストランも「皿粗い」など応募していなかった。私は読んだ本の情報に早とちりしたのである。私は「皿洗い」バイト探しに腹がすき、日本人町のレストランに入った。カウンターに座ると、隣に座っていた中年の日系人が「ジャパンから来たのか」と声をかけてきた。私の身なりですぐ日本から来たことが分かったようだ。私が活費や授業料を稼がねばならない事情を話すと「デラノの葡萄畑で、夏の二カ月働けば七百ドル(二十五万円)ぐらいは稼げる」と言った。彼は過去にその葡萄畑で働いたことがあったそうだ。仕事は葡萄の房をハサミで切り取り箱詰めする出来高制だと言った。彼は「行くか?暑いところだゾ」と言った。私は働き稼げるならどんな仕事でも良いと思い「行きます」と言うと、胸ポッケとから手帳を取り出し、葡萄農家の電話番号を書き私にくれた。
    デラノはロサンゼルスの北約三百キロ、中部カリフォルニアにあり、その一帯は葡萄農園が多く、農園は夏の葡萄出荷時になると猫の手も借りたいほど忙しいが、厳しい暑さの中での葡萄摘みに人手が集まらず、労働者確保に苦労していると言った。翌日、ダウンタウンのグレイハウンド・バスのターミナルからサンフランシスコ行きのバスに乗りデラノへ向かった。
    バスはハイウエイ・ルート九九を北へ二時間ほど走ると、ロサンゼルスの色鮮やかなペンキで塗られた家々や、草木が青々と生い茂った風景から、赤土の荒涼たる山々の風景に変わってきた。バスは長い一直線の緩やかな坂を下り降りベーカスフイルドの町を過ぎると葡萄畑が広がり、バスはデラノのバス・ターミナルに着いた。バスを降りた私は日系葡萄農家に迎えを頼む電話をして、バス・ターミナルの外の歩道に腰を下ろしタバコを吸いながら迎えを待った。四時を少し回っていたが、太陽は熱射を浴びせるように照りつけていた。周りを見渡すとデラノは南北に走る一本の広い道路沿いにガソリンスタンド、小さなレストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機械屋などがポツン、ポツンとある葡萄畑に囲まれたほんの数百メートルほどの小さな町であった。交通量も少なく、車は道路沿いの商店へ頭を斜めに向け駐車していた。それは映画「俺たちには明日はない」に出てくるような風景であった。 
     三十分ほど待っていると、小型トラックが止まり葡萄農家のミセス・Kが笑顔で降りてきた。四十代半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿のスラッとした健康的な女性であった。
     私を乗せた小型トラックはデラノの町を出ると、地平線まで広がる葡萄畑の農道を東へ二十分ほど走り、葡萄畑に囲まれた大きな平屋の前で止まった。平屋の前は広場になっており、そこには大樹が一本あった。車が着くと平屋からカーキー色の作業服を着た五十近い恰幅の良い男性がにこやかな顔で、英語混じりの日本語で私に握手を求め、事務所の中へ招き入れた。彼は葡萄農家のオーナー、サムであった。
    平屋はサム一家の母屋兼事務所になっていた。事務所では若い女性三人と作業服姿の中年日系人の男性が事務を執っていた。サムは事務を執っている人たちを私に紹介した。三人の女性はサムの娘、そして日系人ジョージはそこで働く労働者のファーマン(監督)であった。
    写真説明:
    Delano葡萄畑
    Delanoへ行く途中 Route99 Bakersfield
    LA (ロサンゼルス市役所)City Hall
    (続く)

    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々 (その1)
    (6)
    日本人町で「皿洗い」のバイトを見つけられなかった私は、デラノへ葡萄摘のバイトをしに行った。しかし、葡萄農家の主人サムが今年は葡萄の収穫期が遅れているので、二週間ほど葡萄棚の手入れの作業をしてもらうと説明しながら契約の話を始めた。時間給は「一エン十五セン」と、彼もドルやセントのことを「エン(円)」とか「セン(銭)」と言った。
    ロサンゼルスで会った日系人の話では、仕事は葡萄を摘み、箱詰する出来高制(ピース・ワーク)だから、夏休み中働けば日本の年収に匹敵する七百ドル(二十五万二千円)は稼げると、聞いていたのでサムの話はショックだった。そのあとサムは私が寝泊まりする建物へ案内した。それは白ペンキがあっちこっち剥げ落ちた粗末な掘っ建て小屋であった。小屋の中にはスプリングの利かない古いベッドが八つほどあり、裸電球が二、三個ぶら下がり、埃をかぶった年代物の木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれのベッド脇に備え付けられていた。まるで映画で観たアウシュビッツの強制収容所のようで、惨めな気持ちになった。だが、日本では扇風機の普及率がやっと五十パーセントを超えた頃であったが、このオンボロ小屋でも騒音をまき散らす古いエアコンがあった。小屋の入口のドアや窓は、日本では見たこともない網戸付二重ドアになっていた。なるほど、これなら蚊取り線香も蠅取り紙も必要ない。やっぱりここは「アメリカ」だと感心した。ここには、同じようなオンボロ小屋が二十棟ほど軒を並べていた。葡萄の集荷時期には葡萄摘みの日系人労働者が百人以上も寝泊まりするのだと、サムは自慢そうに話した。シャワーとトイレは寝泊まりする小屋の隣の棟にあった。囲いのないシャワーとトイレが十ほど平行に並び、便器に座り隣の者と話たり、前でシャワーを浴びている奴を見ながら糞を垂れる代物だった。
     「カン、カン、カン」と、朝五時、鉄板を叩く金属音が音で日々のスケジュールは始まった。ツバの広い麻製のバッカン帽をかぶり、ジーンズに作業用の革靴を履き食堂へ向う。カリフォルニアはデイライト・セイビング・タイム(夏時間)の季節で、五時はスタンダード・タイム(冬時間)なら四時だ。外はまだ暗く、日本の晩秋のように寒かった。事務所の隣にある食堂はアメリカ映画に出てくる刑務所のように、ステンレス製の長いテーブルと長椅子が整然と並び、百人は座れるものであった。食堂には一見して六十を越えた日系人老人が十七,八人食事を取っていた。若者は一人もいなかった。食事を終えた老人たちは一日遅れで配達される日系新聞、「加州毎日」や「羅府新報」を読み、雑談をしていた。コックは三十を少し出たぐらいの静岡出身の男性で、その奥さんが賄いをしていた。
     食事を取っていると老人たちが、威勢の良い声で私に挨拶の言葉をかけてきた。朝食はスクランブルエッグ,ハム,ベーコン,トースト,コーヒー、オレンジ・ジュース、ミルク、メロンと食べ放題で、日本では食べたこともない豪華なものばかりであった。
    再び「カン、カン、カン」と鉄管の音が響き、葡萄畑へ出発であった。事務所前には監督ジョージの運転するトラックの荷台に全員、といっても、老人が十七、八人と私だけでだが乗り込むと、トラックの前に集まると、トラックは広い敷地を出て、葡萄畑の広がる農道をもうもうと砂塵を上げ東へ向かって猛スピードで走り出した。トラックの荷台は夜明け前の風をもろに受け歯が合わないほど寒く、震えが止まらなかった。葡萄畑の遙か地平線に太陽が昇り始め、月はぼんやりと白く、鮮やかな赤色に染まったセコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が東に小さく輝いていた。トラックがその日の作業場に停まった。葡萄棚の葉の陰になっている葡萄の房に太陽と風を当てるため、垂れ下がった葡萄の蔓を抱え棚の反対側にひっくり返す作業だ。
    老人たちの作業は荒っぽいが、テキパキとして速かった。作業に慣れている老人たちは横並びで機械的に作業しながら、大声で陽気に冗談を言い合いながら前へ前へと進んでいった。葡萄畑は夜間たっぷり水を撒いてあり、足元は泥んこになっていた。葡萄の蔓を抱え、棚の向こう側へひっくり返そうと力を込めると、足がすべり勢い余って一抱えの蔓と共にひっくり返りシャツもジーンズも泥だらけになり、その上に蔓まで引きちぎってしまうことが度々であった。一時間もこの作業をしていると腰がだるくなり、手も挙がらなくなるほど肩が疲れた。ジョージはトラックの荷台に立ち我々の作業の進行状態を監視し、時々大声でどなった。
     太陽が上がるにつれ、葡萄畑に撒かれた水が蒸発し始めた。朝の寒さが嘘のように蒸し暑くなり額からは汗がひっきりなしに滴れ、眼鏡が曇りずれ落ち、作業は遅れる一方だった。空は雲一つなく晴れ渡っていたが、葡萄畑全体から蒸発する水蒸気で太陽も霞み、景色は白く揺れていた。時間の経過と共に太陽は輝きを増し、全てのものをジワジワと焼き尽くすかと思われるほど暑くなった。暑さに堪りかねて葡萄棚の下に日陰を求めて潜り込むと、葡萄畑にしみ込んだ水は湯気を噴き上げ蒸せるように暑く、棚の下から外へ飛び出すと葡萄棚の陰よりは、一瞬、涼しく感じられた。水の蒸発でマッチもタバコも湿って吸えず投げ捨ててしまった。私が立ち止まっていると、いつの間にかジョージはトラックを移動させ、近くの畦道から監視していた。粗末な小屋に寝泊まりし、トラックで葡萄畑に運ばれ、作業中もジョージに監視される私は、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」に登場する貧しい農民のような惨めな気分であった。
    (続く)
    写真:
    このトラックで葡萄畑の行き帰り運ばれた。
    夕飯前、小屋の前で、15セントのビールで老人たちと一服。

    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々(その2)
    (7)
    この一年間、留学試験を目指し、睡眠時間を削って勉強していた私は体力がなかった。葡萄畑はギラギラと照り輝く太陽に晒され、下からは前の晩まかれたスプリンクラーの水が蒸し風呂のように熱気で蒸され、慣れない仕事に気力もなくなり目眩がした。喉が渇いても水飲み場は百メートルほど先にあり、腰を屈め幾つもの葡萄棚の下を潜り抜け、そこまで行くだけで疲れた。さすがに、この暑さはベテランの老人たちにも応えるらしく、朝は元気だった賑やかなおしゃべりもいつの間にか聞こえなくなった。
     昼飯が終わり、午後からの作業が始まった。白く輝く太陽は頭上に留まり、熱射を浴びせ続けていた。ベテランの老人たちも疲れたのか、作業のスピードがガックンとた落ち、                                            
    葡萄畑の温度はゆうに四十度を越していた。炎天下の作業は体力の消耗が激しく、意識はもうろうとして鼻血まで出てきた。私はただ機械的に手を動かし、葡萄の房にかぶさっている葉をのけるだけであった。 
     四時、作業監督ジョージの手が挙がり、やっと朝七時からの作業が終わった。長い一日の作業を終え、疲れ切った囚人のように我々は再びトラックに乗せられ小屋へ連れ戻された。この時の嬉しさはたとえようもなく、稼ぐ必要がなければ、今すぐにでもこの葡萄農家から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
     オンボロ小屋戻り,疲れ切った体を倒れこむようにベッドに横たえると、体中が火傷をしたように熱く痛かった。一週間ほど前、小屋の出入り口の階段を踏み外し、足に包帯を巻き、仕事に出ていないという、同室の老人が痩せて小枝のような手にビール缶を持って私に近づき、疲れ果てている私に飲めと勧めた。朝鮮半島出身だというこの老人は、片言の日本語しか話せなかったが、目覚まし時計代わりに私を起こしてくれたり、ビールをくれたりする親切な老人であった。
     この老人は若い時、アメリカに密入国、それ以後、移民官に捕まるのを恐れ、仕事場を転々としてきた。だから、百ドル前後の年金も貰えず、七十二歳になった今も、季節労働者としてカリフォルニアの農園から農園へ作物の植え付け収穫期に合わせてカリフォルニアのレタス、イチゴ、葡萄畑などを移動し、痩せてはいるが、まだ元気で週に三日はこの農園で働いていると言った。
     夏時間のカリフォルニアは八時を過ぎても外は明るく、事務所前ではサムの三人の娘たちが売店を開き、労働者相手にビールやコカ・コーラ、タバコなどを売っていた。
    年頃の彼女たちは賑やかに、大きな声で日系老人たち相手に呼び込みをしていた。夕食が済むと老人たちは夕涼みを兼ねて売店の周りに集まり、買ったビールを飲みながら、日本語混じりの英語で彼女たちと雑談して楽しむのが日課であった。
     彼女たちは同じ日本人の血が流れているのに、ヤンキー娘のようなに活発で、屈託がなかった。英語の話せない私は彼女たちの振舞いに圧倒された。私も十五セントの缶ビールを買い、老人たちの輪の中に入った。最近は暑い葡萄畑の作業は敬遠され、若者はほとんど来ないと、老人たちは若い私に誰彼となく話しかけてきた。彼らのほとんどは大正の末期から昭和の初期、移民先のペルーやメキシコの国々からアメリカへ密入国した人たちで、画用紙を折り畳んだような古い旅券を持っていた。酔いが回ると、老人たちは大声を張り上げ、古い日本の歌を歌い、にぎやかに取り留めもない会話をしていたが、その表情は何か寂しそうであった。この老人たちはどんな人生を歩んできたのだろうかと、彼らの人生に興味が湧いた。この老人たちのような節労働者は身の回り品と寝る時必要な毛布(ブランケット)を持って農園から農園へ、作物の植え付けや収穫期に合わせてカリフォルニアの農家を一年中移動しながら生活していたので、「ブランケット」と陰ではニックネームで呼ばれていた。
     作業は葡萄の枝葉を棚上げしたり、葡萄の余分な枝葉を切り落として棚に括り付けたりと一貫性のないものだった。一週間が経った朝、葡萄の実りが遅れ、作業はなく、最初の週給日だった。事務所でサムから二十三ドルちょっとのチェックで週給を受け取ったが食事代、税金などが引かれ予想していた金額の半分に愕然とした。夜になると老人たちは五十年型オンボロ車でデラノの町へ繰り出し、稼いだ金を酒や女に使い果たしていた。
    葡萄農家は陸の孤島であった。休日とはいえ、車がなければ動きが取れず、洗濯するか、季節労働者の老人たちと交流を図り、時間を潰さねばならなかった。洗濯は小屋の外にあるコンクリート製の古い流し台でした。日本ではホテルのような特別のところしか蛇口から湯は出ない頃であったが、アメリカではこのような農場でも大きな蛇口から惜しみなく出る湯に、アメリカの豊かさを感じた。老人たちは映りの悪いテレビで、秋の大統領選挙へ向けてのジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会の放送を聞きながら、将棋やカードをして暇をつぶしていた。小屋の外では木陰に椅子を持ち出し、老人たちがお互い散髪をしていた。私も老人たちと、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団した日本人初のメージャーリーガー村上雅則のことや十月の東京オリンピックに向け、今、急ピッチで競技場や高速道路の工事が進んでいることなどを話題に散髪してもらった。
    (続く)
    カリフォルニア中部、デラノ近辺はスタインベックの小説が映画「怒りの葡萄」や「エデンの東」の舞台にもなった所である。

    1968年のバイク世界一周
    Back to Los Angeles
    植村直己と同じ下宿屋?
    (8)
    私がこの葡萄農家に行った年は葡萄の実りが遅く、葡萄摘み労働者はおらず、六十を過ぎた葡萄棚の手入れ作業する日系人労働者が十五、六名だけだった。人生、人それぞれで、多くの彼らは、酒、バクチ、女の生活を続けた挙句、六十歳を過ぎたても季節労働者としてカリフォル二アの農家を転々としている季節労働だった。
    カリフォルニアの遅い夕闇が訪れると、乾燥した葡萄畑の夜空一杯に星が鮮やかに輝き始め、爽やかな風が何処からとなく現れ、炎暑が嘘のように一変した。
    葡萄農家の主、サムは夕食後、葡萄畑に水をまきに行くのが日課だった。その日、小屋の前で夕涼みしている私を見かけたサムは「行かないか」と声をかけてきた。暇な私は断る理由もないので彼の車に乗り込んだ。五分ほど走り、葡萄畑の一角にあるスプリンクラーを開け、水をまき始めた。水を撒く間、彼は両親が和歌山から持って来て植えたというイチジクを「便秘に効く」と美味しそうに食べながら、何気なく彼が抱えている悩みを始めた。その一つが年頃である三人の娘たちの結婚相手が見つからないことであった。民家もほとんどない広いカリフォルニアの農耕地帯、デラノで適齢期の日系人男性を見つけることは至難の業で、いたとしても若者は農業を嫌いサンフランシスコやロサンゼルスなどの都会へ逃げ出していると深刻そうであった。それに農家は人手不足で労働者の賃金は上昇、農家は経営の存続が危ぶまれていると言った。
     三週間が過ぎても葡萄の収穫は始まらなかった。ある日、食堂で日系新聞、「羅府新報」の求人欄に「ガーディナーのヘルパー(庭師の助手)求む。ヒガ・ボーディング」と、あった。私はロサンゼルスンのレストランで会った中年日系人が言った「ガーディナーのヘルパーは金になるがユーは経験がないから無理だ」と言ったことを思い出した。一か八かで、早速、私はロサンゼルスのボーディング(下宿屋)に電話を入れた。夏場は芝生の伸びが早く、ガーディナー(庭師)はヘルパー(助手)が必要であり、ヘルパーの賃金は一日十五ドルにはなるとボーディングの女主人は言った。そして、暑いデラノで働いた奴は根性があるので大丈夫だと付け加えた。
     何時、葡萄が熟れ出来高制の作業が始まるかわからない葡萄農家にいても、後一ヶ月しかない夏休み中に二百ドルも稼げないと思い、私はその下宿屋に入ることにした。サムに事情を話し、ロサンゼルスへ戻ることにした。
    デラノからロサンゼルスにもどり「ヒガ・ボーディング・ハウス」に下宿した。経営者は沖縄から移民したヒガ(比嘉)さんという六十過ぎの老夫婦であった。当時、ロサンゼルスには日系人が経営する下宿屋が数軒あった。日系人はそれを「ボーディング」と呼んでいた。
     ヒガ・ボーディングはベニス通りに面した下宿屋で新旧二棟あった。部屋代は新館が三食付きで月七十ドル、旧館は六十五ドルだった。私は旧館に下宿することにしたが、下宿代を払うとほとんど残っていなかった。
    この年の四月、日本は海外旅行が解禁になり、この下宿は「発展途上国」日本から来た四、五十人の客で繁盛していた。特に、夏場であり、庭師の助手の仕事を紹介してくれるので満室だった。
     ロサンゼルスの庭師は日系人の生業と決まっていた。彼らはロンモア(芝刈機)やホウキなど庭師の七つ道具を小型トラックに積み込み、一人で一軒一軒庭を手入れして回っていた。しかし夏は芝生の伸びが速く、芝生を刈るのに時間を食うので、彼らはヒガ・ボーディングの宿泊客を助手として雇っていた。
     住むところも仕事もない日本から来た者にとって、ヒガ・ボーディングは庭師の助手の仕事を簡単に見つけられる便利な場所である一方、庭師にとっては手軽に助手を調達できる職業斡旋所であった。海外渡航自由化になると、多くの若者たちが観光ビザでロサンゼルスに来て、着くとまずヒガ・ボーディングで荷を解いた。彼らの多くは賃金の高いアメリカで稼ぎ、その後、北米や南米旅行、あるいは世界一周旅行などを志す若者たちであったが、日本ではエリートのアメリカ駐在員も、生活費を切り詰めるため何人か下宿していた。
    下宿人は男性ばかりで、女性はミセス・ヒガと日系人の賄い婦数人だけであった。
    同じ頃、あの有名な冒険家、植村直己も、私と同じようにカリフォルニア中部,デラノ近辺の農園で働いたあと、このボーディングに下宿し、ガーディナーの助手をして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指して、フランスへ旅立ったと後年聞いたことがあるが、同じ下宿屋にいたのなら、顔ぐらい合わせたかもしれないが、当時、彼は有名人でなかったので記憶にはないが戦友だt自負している。庭師たちの朝は早かった。
    私はトラックからエンジン付きの重いロンモアをおろし、裏と表の広い庭の芝生刈りが主な仕事であった。私が芝刈りをしている間、ボスは庭木や花壇の手入れをした。
     芝刈りが終わると芝生の周りを整え、ホースで庭中の芝生やゴミを洗い流す。これで一軒終了である。庭師が一人だと一時間ぐらいかかるが、二人でやると三十分で終えられた。 
     しかし、庭師は私への支払いがあるので、日の長い夏場は普段より多くの客を取るために目いっぱいこき使われた。
    六十四年当時、アメリカの最低賃金は一時間一ドル五セント(三百七十八円)で、日本で稼ぐ一日のバイト料に匹敵した。アメリカ人の平均月収は五百ドル(十八万円)前後であったが、庭師は日本の平均年収七、八百ドル(約二十九万円)に相当する額をひと月で軽く稼いでいた。一方、助手のほうは日給制で、日本の十日分に匹敵する十五ドル(五千四百円)が相場であったが、二世の若者など見向きもしない三Kの仕事であった。
     ハリウッドの映画俳優の庭も手入れに行ったことがある。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付きの豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。
     昭和三十年代、人気テレビ映画「ローハイド」で老コック「ウイシュポン」を演じていた俳優宅にも行った。彼は役のような老人かと思っていたが実際は四十六歳で、二十七歳のワイフと六ヶ月の子供がいた。前年、昭和三十八年「ローハイド」で共演していたクリント・イーストウッドたちとテレビ局の招待で日本を訪れていた。彼は庭先で一緒に写真を撮り、ビールを飲ませてくれる気さくなオッサンだった。あの有名な歌手であり女優であるドリス・ディ宅にも行ったが、目が合っただけでタダのオバさんだった。
    日本を出てからたった二ヶ月の間の出来事だった。
    (続く)
    写真:TV映画「ローハイド(Rawhide)」でClint Eastwoodと共演していたコック役Paul Bringar宅。ガ―ディナーナのヘルパ。
    下宿屋の駐車場:1964年8月

    1968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その1)
    (9)
    八月末、庭師のヘルパーは終わった。私は九月になり州立の英語学校へ入学した。学校は車で十分程の距離であったが、車のない私は下宿屋からバスを乗り換え一時間のほどかかった。
    この英語学校は州立で、授業料は年間たったの一ドル(三百六十円)だった。授業は朝八時から午後二時までと、午後二時半から夜九時までの二部制だった。時間的にヘルパーの仕事は無理だが、私は生活費を稼がねばならなかった。私は授業を午前中に受けて、午後からバイトしようと目論んでいた。しかし、入学すると午後二時半から午後午後九時の授業に振り分けられた。夏の間、稼いだ四百ドルほどは五ヶ月分の下宿代にしかならず、私は学校に行くまでの午前中は、下宿の食堂で日系新聞「羅府新報」の求人欄を見るのが日課になった。だが求人広告も少なく、しかも午前中だけの仕事など皆無だった。英字新聞「ロサンゼルス・タイムス」の求人欄はベトナム戦争のため、軍事産業は人手不足でその種の広告は六、七ページもあったが、英語の話せない私は採用される可能性はないと、最初から諦めて見る気もしなかった。
     学校が始まり、仕事のない私は下宿屋の経営者、ミセス・ヒガに仕事を頼んでいた。
    ある日、ミセス・ヒガが、
    「ローズ・デール・セメタリィ(墓地)で午前中だけでも働ける人手が欲しいと言っているよ。墓だから、気持ち悪がって働き手がないらしいけど・・・。ユー、行ってみる?」と、申し訳なさそうに言った。
    墓であろうが何であろうが、私には午前中働ける仕事はありがたかった。さっそく下宿屋から歩いて数分のローズ・デール墓地へ出かけた。墓地は赤煉瓦の高い塀で囲まれ、入口から奥へアスファルト道路が細く枝分かれしていた。見渡す限り緑の芝生の中に大小の墓石が整然と並び、周囲には色鮮やかなハイビスカスが咲き誇っていた。高々と伸びたパームツリーの葉は爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて風にそよぎ、車の騒音も人影もなく静寂だけが支配する公園のような墓であった。
     事務所に行くと、七十過ぎの温厚そうな日系人が出迎えてくれた。墓地の葬儀一切は中年の白人三人が取り仕切り、武藤さんというこの日系老人は四百メートル四方ほどの墓地の芝刈りと清掃を契約で一手に引き受けていた。墓で働きたい者はいないらしく、即、採用された。時給は一ドル七十セント(¥612/日本の日給ほど)で悪くなかった。勤務時間は午前七時から午後四時までだが、学校があるなら十二時まででもよいと願ったり叶ったりの仕事だった。広い墓地の墓石と墓石の間を手押しの芝刈り機で刈るのが私の仕事であった。
     仕事仲間は四人だった。ひょうきん者の鈴木は三十五、六歳、日本から派遣された駐在員であったが、墓の草刈りのほうが給料はいいと会社を辞めた独身、ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)で、ベトナム戦争がエスカレートするにつれ、ドラフト(徴兵)されることを恐れ正業には就いていなかった。タマシロは口ひげを伸ばし、太ったメキシコ人のような風貌をしていたが、いつもニコニコして愛想の良い二児の父親であった。小柄でハンサムなナカソネは大学で法律を学んでおり、弁護士になるのが夢であった。
     タマシロとナカソネは沖縄から移民したペルー三世で、日本語はほとんどわからなかった。鈴木以外は私と同年代であった。
     朝出勤すると我々は事務所で雑談しながらコーヒーを飲み、小型トラックに草刈機を積込み、広い墓地の曲りくねった「墓道」を仕事場へ向かった。目的地に着くとトラックから芝刈り機を下ろして、墓石と墓石の間隔は約二メートルで、何百もの墓石が一直線に百メートルほど先までのびていた。全員が一列になった墓石の周りを刈りながら先へ先へと進み、一列終われば次の列へと移った。仕事は芝刈機を押したり引いたりするだけの単純作業であった。
     楽しみはコーヒー・ブレイク(休憩)であった。パーム・ツリーの木陰に全員が集まり、墓石に腰かけたりしてコーヒーやコカ・コーラ、ドーナツを飲んだり食ったりしながら、それぞれ思い思いに休憩を取った。
     戦前、日本人学校の教師だった武藤さんは、墓石に腰かけコーヒーを飲みながら、よく太平洋戦争のときの経験を話してくれた。私はコーヒーブレイクの時間に彼の話を聞くのが楽しみであった。戦争が勃発するとすぐ、彼は教師という理由だけでFBIに連行され、数日間スパイ容疑で厳しい取調べを受けた。その後、家財道具を二束三文で売り払い、人間としての人権まで踏みにじまれ、家族ともどもマンザナ収容所送りになった。マンザナは米本土に十ヵ所設けられた収容所のひとつで、中部カリフォルニア、シェラネバダ山麓の砂漠の真中にあった。夏は気温五十度を超えるときもあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付ける空っ風で非常に寒いという劣悪な環境にあった。そのうえ、粗末な造りの建物は床板の隙間から砂塵が部屋の中へ吹き込み、夜ベッドに入ると屋根の隙間から星がきれいに見えたもんだよと、懐かしそうに話してくれた。
     日本語はまったく話せないペルー生まれのタマシロであったが、歌謡曲を唄えばプロ並みにうまく、コーヒーブレイクのときには、大きな墓石の上であぐらを組み、「並木の~雨の~♪」と、昔の歌謡曲「東京の人」をよく歌っていた。ナカソネは休憩時間でも静かに教科書を広げていた。
    (続く)
    968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その2)
    (10)
     墓地では、毎朝、当番制で、ほかの連中より先に薄暗く狭い事務所に来てコーヒーを沸かすことになっていた。皆、この当番がイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤなのではなく、その場所の環境が問題だった。事務所に隣接した作業場には板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が積み上げられ、
    その前には火葬用の焼却炉があった。そして、あとで身元確認するため、生ゴムで造られた火葬され身元不明人のデスマスクが事務所の壁に無造作にぶら下げられていた。生ゴムでできているとはいえ、十五、六個のデスマスクに囲まれ、見つめられているような場所で一人コーヒーを沸かすは、実に気味悪いものであった。時々、白人作業員が事務所前の火葬用焼却炉で火葬をしていた。彼は機械的に黙々と焼却炉の蓋を開け、小さなスコップで中から灰を地面に積み上げていた。火力が強く骨は貝殻を金槌で叩き潰したように小さな粒になっている灰を地面一杯に広げ、金歯を漁っていた。集めた金歯は白人作業員たちが空ビンに溜め、ある程度溜まるとったらバーナーで溶かし金塊にしてポーンショップ(質屋)で売っていた。また、葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った火葬用の雑な棺桶にホトケさんを移し替え、上等のものを葬儀屋に引き取らせ臨時収入にしていた。事務所の隣にある葬祭堂には遺体安置所があった。ときどき、カリフォルニア大の医学生という二十二、三歳の白人女性が中古車で来て、一体三十ドルで「死に化粧」のバイトをしていた。アメリカでは人生の最後だけは、白人も黒人も差別なく、霊柩車は同じ世界一の高級車、黒塗りのキャデラックのリムジンであった。日本と違うのは霊柩車のあとに続く車は昼間でもヘッドライトを点け、二台の白バイが先導し「天国までノン・ストップ」とばかり、赤信号でも止まらずに墓場へ直行する。埋葬のときに掘る穴は白人従業員がパワーシャベルで深さ六フィート(約一・八メートル)を掘ったあと、棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで底のほうを削って作ってた。ロサンゼルス一帯の地下には油脈が通っており、穴の底からジワジワと真っ黒な原油が滲み出てきて靴やシャツを汚しながら彼らは、この作業をやっていた。
     原油の滲み出る墓地に棺桶を埋葬すると棺桶の隙間からそれがしみ込み、ホトケさんが油まみれになるので、コンクリート製の棺桶に木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。墓地で働いていると、宗教に興味がない私でも、仏教の宗教観が自然に体にしみ込んでいることに初めて気づいた。年寄りたちが「ホトケさんが枕元にった」という恐い話や子供のころに見た幽霊映画、そして線香の煙とにおいが漂う薄暗い墓など、どれをとっても薄気味悪い霊の存在が無意識のうちに私の頭にインプットされていた。しかしアメリカでは、亡くなった人の霊がベッドの枕元に立ったとか、雨の夜、額に三角巾をつけたジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたなどという話は聞いたことはなかった。そのためだろうか、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても日本人のそれとまったく違い、薄気味悪いという感情はなかった。もっとも、アメリカの墓地は芝生の広々とした公園のような明るい雰囲気があり、墓場というよりはまさにメモリーパークとそのものであった。宗教の違いといえば仕事仲間のタマシロとナカソネはいつも墓石に向かって便所代わりに小便を飛ばしていたが・・・・・。
    葬儀は洋の東西を問わず厳粛なものである。毎日、埋葬や火葬、墓石に刻まれた故人の
    誕生から死までの歳月を見ていると、人間の一生なんて宇宙の星が瞬きする間に終わってしまうものだと思うようになった。そして「死んで花実が咲くものか」、「生きているうちが華」だという思いが強くなった。
     英語学校は一日も休むことを許されず、病欠の場合は診断書提出が義務付けられていた。学校は学生の出席率を移民局に報告する義務があり、移民局は出席率が悪い学生は認められている週二十一時間以上働いていると認定しビザの更新を認めず、学生は本国に帰らなければならなかった。当時、英語学校の生徒はメキシコ人が二百人近く、日本人留学生は男女二十四、五名いたが、中には留学生とは名ばかりで、豊かなアメリカで生活を希望し、永住権を取得するためアメリカ国籍の日系人や白人と結婚して学校を去る者が多かった。後年、事故でマスメディアの話題になった「ヨット・スクール」の校長もその英語学校で学んでいたような気がするが、同じクラスでなかったので話したことはなかった。
    教師は常にアメリカは世界一豊かで、自由の国であり、「コミュニズム(共産主義)」ほど恐ろしいものはないと、授業から横道に外れ長々と強調することが多かった。私はそれを聞きながら、これはある種の洗脳学校だと思ったが、強制送還されるのが怖いのと授業料が年間一ドルという安さに、教師の言うことを聴き良い子ぶっていた。学校が始まって、直ぐの一九六四年九月中旬、学校の日本人友人に誘われ彼の車でラスベガスへ行った。当時、私は。ラスベガスがどこにあるかも知らなかったが、何か怖い「博打場」ではないかとは思っていた。行くのを躊躇している私に友人は「おもろいところや。行こ、行こ」と言われ、砂漠の中を7時間ほどかけ二人でラスベガスへ行った。初めて見るラスベガスの煌(きら)びやかさに慄いていた私は、一歳年下の彼がする「ダイス」を引っ付き虫のように彼の横で見ていると、「あんたもやれや。あんたが横で見ているとやりにくいわ」と言うので、彼の賭け方を見よう見真似で同じ「ダイス」を始めたラ一時間もしないうちに、目の前にチップが目立つように積み上げられていった。「ダイス」台の周りの人々が騒がしくなってきた。「あんたヤバイで!止め、止め、換えて来たるわ」と彼が言ったが私は訳がわからなかった。彼がチップを現金に換えてきてくれた。その金額は千百ドル前後であった。当時の日本円で約三十九万,平均年収ほどの額、アメリカでも大金だった。彼が「止め」と言ったのは、強盗にやられ殺されるかもしれないと思ったからであった。
    それはギャンブルの賭け方も知らない素人の「ビギナーズ・ラック」であった。私はお礼に百ドルを彼に渡し、七百ドルぐらいの六気筒の中古車フォード・ファルコンを買い、プライバシーのない下宿屋を出て日系人の経営するアパートへ移った。
    (続く)


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    旅立ち アメリカへ(1)
    バイクで海外を旅行した経験があるとい外国人たちとFBを通じ交流していたら、日本のライダーはなぜ英語で発信しないのだと聞かれたので、世界を駆け回る有名な日本人ライダー氏に発信されませんかと連絡したが、いくら待っても返事は来なかった。これはアカン、しゃあない、オレが日本代表?として、暇つぶしとボケ防止に少しでも役立つだろうと、忘れていた英語を思い出しながら、過去にバイクで世界旅行した経験を昨年、「Around the world in 1968 on Bike」のタイトルでFBで発信しはじめた。最初は忘れていた横文字作文も苦痛であったが、そのうちに少しは様になってきて楽しくなってきた。そして、世界の多くのバイク愛好者に好評を得た。その中で私を最も驚かせたのは、最初にバイクで世界一周したのは1912年、アメリカ人だそうであるが、当時は自動車産業の発達は欧米のみで、中近東、アジア、南米、アフリカなどにはガソリンスタンドはなく、ガソリンはスポンサー付きで中継地点まで輸送したので、スポンサーなしで世界一周したのは私が最初だと知らされた。もともと私はバイクの世界旅行など金と暇があれば誰でもできると思っていた。だから帰国以来、約50年間、私は日本人社会を生き抜く冒険の日々で、過去を振り返る余裕はなかった。やっと年金暇人になり、過去のバイク旅行の経験を英語で流していたら、今度は多くの人に日本語で流せという要望が多く寄せられ、またまた暇つぶしのネタが出来たと喜んで流した。せっかく読んで戴くのであれば、世界何十万キロ、何百ヵ国走破もいいが、そのバイク旅行の後をどう生きるかが大事であるから、1960年代アメリカでの私の生活や、出来事などの経験を織り交ぜて書かせていただく。面白くないかもしれないが、ご辛抱のほどを切に願う。人間には人の数だけ、生き方がある。その人間の寿命は長くて百年ぐらいだが、地球の年齢は45億年だそうだ。それに比べると人間の寿命など流れ星が右から左へ移動する一瞬の時間である。その一瞬をどう生きるか。子供のとき読んだ本の中にあった「一瞬の命」という言葉がいつも私の脳裏にへばり付いていた。今も・・・。私は学校時代、勉強は全くと言っていいほどしなかった。その結果。成績はいつも無残なものであった。教師というのは成績の良い生徒に対しては、エコ引きするが、成績の悪い生徒にはその反対であることが多い。教師は狭い学校という社会の中で「外」を知らなず、今はどうか知らないが、文部省認定の教科書に沿って生徒に教える教師であった。学生時代を通し、知識はあっても外の社会を知らない教師は常に私は馬鹿にされていた。私は五人兄弟の長男である。一般的には長男はおとなしく、まじめで、弟たちの模範というのが相場である。しかし、私は勉強もせずボクシングジムに通い、親にとってはできの悪い息子であった。しかし、弱い者の正義の味方であった。
     1962(昭和37)年大学卒業と同時に、旅行会社に就職した。大学でも成績が悪かった私は会社でも、二年間雑用だけが仕事だった。人生のすべては学校の成績で決まるのか。人間社会というものはそんなものか。それは私にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
    しかし、当時は就職すれば、定年まで無難に過ごすことが常識であった。まだ一般的には英語を話す人はまれな時代であった。「兼高かおるの世界の旅」や「海外渡航自由化近づく」のニュースに影響受けた私はアメリカ留学し英語を学び、日本経済の発展とともにこれから伸びる航空会社に就職し、人より良い生活をしてやろうという野望が芽生えた。会社を辞めるか、留学するか悩んだ末、アメリカ留学という「人生の途中下車」を選んだ。
    「後悔先に立たず」である。
    『続く』
    1968年のバイク世界一周
    旅立ち
    (2)
    戦後すぐ、アメリカの政治,経済、文化、教育、特に「総天然色映画」(カラー映画のことをそう呼んでいた)に影響されて育った私には、アメリカだけが唯一の「外国」であった。中学校の英語の教科書、「ジャック・アンド・ベティ」の挿絵にあった大きな車、広い芝生の庭、大型冷蔵庫、色鮮やかなペンキで塗られた大きな家、スクールバスでの通学、車に乗ったまま映画が観られるドライブ・イン・シアター、片側四車線も五車線もある高速道路、世界一豊かな国アメリカは、私だけでなく日本国民にとって羨望と憧れの国でもあった。私が留学を思い立った一九六三(昭和三十八)年、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。当時、日本はまだ外貨不足で、外国へ行くには、その国に住んでいるスポンサーを探すか、外務省が実施する国費留学か私費留学、あるいは旅費、その他すべてを丸抱えしてくれるアメリカ政府実施のフルブライト留学試験に合格しなければ旅券は発行されなかった。だから、ごく普通に考えると、私を含め一般の日本人は外国へ行くことなど不可能な半鎖国状態であった。アメリカにスポンサーになってくれる知人も友人もいない、外務省の国費留学試験、米国政府のルブライト試験に合格できる私の確率は0だった。すべてを私費留学試験に託するしかなかった。私費留学は自分で旅費、学費、生活費など賄わなければなないので、政府丸抱えの留学よりは少しは簡単だろうと思い、新たな自分の人生を築くため、会社から帰ってから、睡眠時間はナポレオン並みに三時間に削り、試験に向け基礎から英語の猛勉強を始めた。必死だった。人間、勉強ほど強制されると嫌なものはないが、目的があれば勉強でも楽しくなり、自分でも驚くほど勉強の効率は上がった。翌年、幸運にも試験には合格したが、私の全財産は月給一万八千円から貯めた十万円だけだった。ちなみに私がアメリカへ出発した昭和39年の物価は、国鉄(JR)三宮・大阪間片道30円、新聞一部10円、週刊誌30円、コーヒー一杯30円だった。私は親の反対を押し切っての留学で、無理を言って航空運賃だけを援助してもらい、アメリカへ旅立った。
    一九六四(昭和三十九)年七月二日、敗戦から二十年、東京オリンピックを後三か月後に控えていた。日本の復興を世界にアピールするため東京、大阪は町全体のリホーム(工事)中だった。街全体を覆う埃で建物も太陽も霞んで見えていた。「公害」の言葉もなかった。大阪空港のターミナルビルもまだ進駐軍が使っていた「かまぼこ兵舎」を利用していた。ハイジャックなど考えられない時代で、「ハイジャック」という言葉もなかった。滑走路は入ろうと思えば誰でも簡単に入れるような金網のフェンスで囲まれ、離着機も少なく、私は7,8人しかいない乗客とともに駐機場(エプロン)を歩きながら見送り客とフェンス越しに話しながら機内へ入った。大阪空港からは海外便はまだなく、双発のプロペラ機DC3(29人乗り)で羽田へ、そこからJALのDC8ジエット機でホノルルへ飛び立った。
    写真説明
    伊丹空港:静かなもんであった。背景DC3機
    DC3:ルッツェルン博物館、スイス/2018年8月
    座席数:29席、巡航速度300㎞
    ケネディ暗殺犯人?オズワルド射殺される
    『続く』
    1968年のバイク世界一周
    初めての外国、ハワイ
    (3)
     当時、日本からアメリカ西海岸までの片道航空運賃は、確か十四万八千六百円、私の給料の約七カ月分だった。今の物価指数に比べると途方もなく高かった。CAもスチュワーデスと呼ばれ、足軽が大奥に仕える品格と威厳ある大奥女にサービスを受けるような恐れと緊張を感じた。飛行機に乗るのも外国に行くのも初めての私は胃が痛くなり、日本では全く食べたこともないような豪華な機内食も口に出来なかった。私が初めて足を踏み入れた外国、ハワイ、ホノルル。機内から滑走路へ降り、最初に空を見上げた。詩人高村光太郎の妻智恵子が詠った「東京には空がない」が浮かんだ。ホノルルには日本では見かけることのない青々とした空が広がっていた。1964年東京オリンピックと急速な経済発展を続ける工場の煙突から吐き出される排気ガスで周りの景色が霞んで見え、まだ「公害」という言葉もなかった日本。紺碧の海と空の色彩が素晴らしく健康的なハワイの風景に感動した。ハ発着機も少なく滑走路から二百メートル歩きターミナルビルへ行った。ビルは今とは比べものにならないほど小さく、乗客も少なく閑散としていた。建物の中にはエアコンもなかったが、ビーチから吹き付ける心地よい南国の乾いた風が、開けっぱなしの大きな窓を吹き抜け、寝不足の私を癒してくれた。入国検査で、当時、留学生には義務づけられていたA3サイズほどの大きなレントゲン写真とパスポートを提出すると、係官は、
    「Only $100?(たった百ドルか?)」と、当時はパスポートに記載された日本からの持ち出し外貨額と私の顔を同時に見て言った。白人に英語で話しかけられるのも初めての私は、たった百ドルの所持金ではアメリカに入国できず、即、強制送還されるのではないかと、一瞬、恐怖が襲った。当時、日本を含め後進国の外国人が禁止されている就労目的でアメリカへ入国し、それがばれ、強制送還というニュースが頻繁にあった。父が後で送金してくれると単語を並べ出まかせに言って、何とか無事、入国管理事務所を通過できた。
    英語が話せない私は、出発前、神戸のアメリカ領事館で教えてもらった日系人の経営する「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。空港からホテルへ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行ったことがあると言った。子供の頃見た、あのカッコいい進駐軍の兵士が運転するタクシーに今、敗戦国、日本の若造の私が乗っていることが畏れ多い気分で、その上、彼の英語も理解できず、「YesとI see」の連発だけの私には乗り心地は決してよくはなかった。
    タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した「コバヤシ・ホテル(今のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで四ドル五十セントだった。宿泊代は一泊十ドル。日本人のほとんどが旅館に泊まる時代、ホテルなど「帝国ホテル」の名前ぐらいしか知らなかった。ホテルに泊まるのも、ベッドに寝るのも初めての私は何もかもが珍しかったが、底の浅い風呂タブに無理に体を沈め、石鹸の泡や体のアカの中で洗うのには苦労した。今でもホテルの風呂タブは苦手である。一般論であるが、日本人は清潔好きで 
    風呂好きであるが、白人はおおむね手と足を洗うだけで平気である。ホテルのレストランで食事をするにしても、英語のメニューを見てもわからず、片言の日本語を話すウェイトレスに任せると、バラバラにレタス、チーズ、トマトなどを盛った皿と小さな餅を横に切ったようなパンをもってきた。それをどのようにして食べるもかもわからなかったので、彼女に教えてもらい、パンにはさみケチャップをかけて食べた。それが、今では当たり前のハンバーガーだった。支払いを済ませ出ようとすると「チップ」と言ってきた。いくら払うものかもわからないので今貰った釣銭をテーブルに並べると、薄笑いしながら、その中で一番大きなクウォーター(二十五セント)摘まみ上げポイっとエプロンのポッケットに入れた。
    写真
    DC8 150?席。

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    現在よりビーチの砂が多く広かった?
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    1968年のバイク世界一周
    ホノルル―サンフランシスコ―ロサンゼルス
    (4)
    今では想像できないが、すでにアメリカの学校は夏休みが始まっていた。しかし、ホテルは客も少なく、ロビーもガランとしていた。ワイキキビーチへアジア系の私がシャツに細いネクタイ、裾幅の広いズボン姿ででかけてみた。ビーチには白人観光客パラパラと海水浴を楽しんでいたが、私の服装は場違いの感じだった。恥ずかしくなり直ぐホテルへ戻った。
    その夜、ウェイトレスに勧められアラモアナ・ホテルの中庭へ、お化け屋敷でも見に出かけるように恐る恐る、観客は白人に囲まれフラダンスショーを見に行った。照明に照らされた青々とした芝生、椰子の木、満天に輝く星の元、色鮮やかなアロハ姿のミュージシャンが奏でるハワイヤン・ミュージックが響き渡り、一本、一ドル(三百六十円)のビールを飲みながら、日本人などほとんどが観たこともないフラダンスショーに誇らしさを少し感じながらの感動、感激の夜たった。ホノルルに一泊し、翌一九六四年七月三日、夜のサンフランシスコ行きの便まで大分時間があった。「金のないお上りさん」の私はホテルの前、歩道の段差に腰を下ろし、タバコを吸っていると、日系二世らしきタクシードライバーが観光しないかと声をかけてきた。空港からのタクシー代、ホテル代、食事代などで私の所持金はすでに八十ドルほどになっていた。タクシードライバーは、日本が海外自由化になったので日本人観光客がドサッと訪れると期待しているがほとんど来ないと愚痴っていた。日本の平均年収(月収ではない)が三十万円($833)ほどの時代、ハワイ一週間旅行費が四十万円($1,111)以上だった。ホノルルからUAでサンフランシスコに飛んだ。上空からゴールデン・ゲート・ブリッジを見たとき意味もなく、「楽しい留学生活」が待ち構えていると心が弾んだ。シスコではその種の男が多く泊まることも知らずYMCAに泊まった。ケーブルカーの運賃は十セントだった。今は$10だそうだ。翌朝、サンフランシスコから乾いた大地の広がるカルフォルニアの上空をルート99に沿ってロサンゼルスへ飛んだ。行った。留学や海外旅行のガイドブックもない時代で、日本人留学生は「リトル・東京」で「皿洗い」し生活費や授業料を稼ぐと、何かで読んだことがあった。英語の話せない私は、日本人町へ行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかると思い、空港からバスで日本人町へ向かった。四車線,五車線もある広いフリーウエイを忙しそうに走り過ぎる車を窓から眺めていると、パリッとした身なりで自信にみなぎったアメリカ人が、大きな車にたった一人しか乗っていなかった。二人、三人と乗った車などほとんど走っていなかった。まだ、日本では車が普及していなかったので、一人しか乗っていないことが驚きだった。バスから望むロサンゼルスは見渡す限り平坦で、芝生の裏庭と前庭、そして色鮮やかな花に囲まれた住宅が続き、フリーウエイを猛スピードで走り抜ける無数の車を見て、アメリカの豊かさと巨大なエネルギーが肌に伝わってきて、アメリカに来た実感が込み上げてきた。
      日本人町に着くと日系人の経営する「パシフィック・ホテル」へ行った。そのホテルはペンキの剥げた薄茶色の三階建で、建物の外には時代物の赤錆びた鉄製の非常階段があった。中は薄暗く、狭いロビーには骨董品のような古いソファーとテーブルが並び、よれよれの背広を着た数人の日系老人たちが新聞を読んだり、将棋を指したりしていた。
    「ワンナイト(一泊)四エン、ウィーキ(週)で二十エンじゃよ」
    将棋盤を囲んでいた日系老人がカウンターへ回り込みながら言った。彼はこのホテルの
    オーナーであった。突然、「ドル」を「エン(円)」、「ウィーク(週)」を「ウィーキ」と言ったので、呆気にとられた。途中ハワイで一泊したので、手元には七十ドルほどしか残っておらず心細く、ひとまず一泊だけにした。
    「続く」
    写真:
    ゴールデン・ゲート・ブリッジ通行料は25セントだったが…
    今は?
    ケーブルカーは10セントだった。今は$10とか・・・。
    右端ターミナルビルは当時21世紀(1960年代)のターミナル的と有名なデザインだったが・・・・・。
    Tony VennettI の「I left my passport? in SFC」が流行っていた。



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    1968年のバイク世界一周
    デラノ、カリフォルニア
    葡萄農家でのバイト
    (5)
     一泊四ドルの部屋はスプリングの利かない年代物のベッド、止めてもポタポタと水が滴り落ちるシャワー、長年の使用で変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけだった。アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いホテルで、「発展途上国」日本からの客かロビーで将棋を指している失業者のような老人たちが泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しい年代物のホテルだった。
    三階の部屋からは筋向いに東京銀行、その右手に住友銀行ロサンゼルス支店、日系人の経営する「ニューヨーク・ホテル」、左側に「大阪屋」、「三井大洋堂」、「宮武写真館」、「東京會舘」等、英語と日本語の看板を掲げた店が望めた。その町並みは、当時さえ、すでに日本ではお目にかかれない大正時代か、昭和初期のセピア色の懐かしい風景だった。
     日本人町は数分で通り抜けられるほど小さな一画であった。市役所はどこでも市の中心にあ
    る。ロサンゼルスにしても同じである。だが、市役所から百五十メートルほども離れていないところに、貧相なその日本人町がること自体不思議であった。日本では一流企業で、一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残されたような日本人町の古びた建物で営業しているのを見て、戦勝国アメリカと敗戦国日本の力の差を象徴しており、寂しい感じがしたが、ホテルの入口でボロの衣類をまとった白人の年老いたバアさんが小銭をくれと空き缶を差し出してきたときは、世界一豊かな国アメリカにも乞食がいるのかと矛盾と強烈なショックを受けた。広さ百メートル四方ほどの日本人町(リトル東京)には小さなレストランが四、五軒しかなく、どこのレストランも「皿粗い」など応募していなかった。私は読んだ本の情報に早とちりしたのである。私は「皿洗い」バイト探しに腹がすき、日本人町のレストランに入った。カウンターに座ると、隣に座っていた中年の日系人が「ジャパンから来たのか」と声をかけてきた。私の身なりですぐ日本から来たことが分かったようだ。私が活費や授業料を稼がねばならない事情を話すと「デラノの葡萄畑で、夏の二カ月働けば七百ドル(二十五万円)ぐらいは稼げる」と言った。彼は過去にその葡萄畑で働いたことがあったそうだ。仕事は葡萄の房をハサミで切り取り箱詰めする出来高制だと言った。彼は「行くか?暑いところだゾ」と言った。私は働き稼げるならどんな仕事でも良いと思い「行きます」と言うと、胸ポッケとから手帳を取り出し、葡萄農家の電話番号を書き私にくれた。
    デラノはロサンゼルスの北約三百キロ、中部カリフォルニアにあり、その一帯は葡萄農園が多く、農園は夏の葡萄出荷時になると猫の手も借りたいほど忙しいが、厳しい暑さの中での葡萄摘みに人手が集まらず、労働者確保に苦労していると言った。翌日、ダウンタウンのグレイハウンド・バスのターミナルからサンフランシスコ行きのバスに乗りデラノへ向かった。
    バスはハイウエイ・ルート九九を北へ二時間ほど走ると、ロサンゼルスの色鮮やかなペンキで塗られた家々や、草木が青々と生い茂った風景から、赤土の荒涼たる山々の風景に変わってきた。バスは長い一直線の緩やかな坂を下り降りベーカスフイルドの町を過ぎると葡萄畑が広がり、バスはデラノのバス・ターミナルに着いた。バスを降りた私は日系葡萄農家に迎えを頼む電話をして、バス・ターミナルの外の歩道に腰を下ろしタバコを吸いながら迎えを待った。四時を少し回っていたが、太陽は熱射を浴びせるように照りつけていた。周りを見渡すとデラノは南北に走る一本の広い道路沿いにガソリンスタンド、小さなレストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機械屋などがポツン、ポツンとある葡萄畑に囲まれたほんの数百メートルほどの小さな町であった。交通量も少なく、車は道路沿いの商店へ頭を斜めに向け駐車していた。それは映画「俺たちには明日はない」に出てくるような風景であった。 
     三十分ほど待っていると、小型トラックが止まり葡萄農家のミセス・Kが笑顔で降りてきた。四十代半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿のスラッとした健康的な女性であった。
     私を乗せた小型トラックはデラノの町を出ると、地平線まで広がる葡萄畑の農道を東へ二十分ほど走り、葡萄畑に囲まれた大きな平屋の前で止まった。平屋の前は広場になっており、そこには大樹が一本あった。車が着くと平屋からカーキー色の作業服を着た五十近い恰幅の良い男性がにこやかな顔で、英語混じりの日本語で私に握手を求め、事務所の中へ招き入れた。彼は葡萄農家のオーナー、サムであった。
    平屋はサム一家の母屋兼事務所になっていた。事務所では若い女性三人と作業服姿の中年日系人の男性が事務を執っていた。サムは事務を執っている人たちを私に紹介した。三人の女性はサムの娘、そして日系人ジョージはそこで働く労働者のファーマン(監督)であった。
    写真説明:
    Delano葡萄畑

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    Delanoへ行く途中 Route99 Bakersfield
    LA (ロサンゼルス市役所)City Hall


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    (続く)



    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々 (その1)
    (6)
    日本人町で「皿洗い」のバイトを見つけられなかった私は、デラノへ葡萄摘のバイトをしに行った。しかし、葡萄農家の主人サムが今年は葡萄の収穫期が遅れているので、二週間ほど葡萄棚の手入れの作業をしてもらうと説明しながら契約の話を始めた。時間給は「一エン十五セン」と、彼もドルやセントのことを「エン(円)」とか「セン(銭)」と言った。
    ロサンゼルスで会った日系人の話では、仕事は葡萄を摘み、箱詰する出来高制(ピース・ワーク)だから、夏休み中働けば日本の年収に匹敵する七百ドル(二十五万二千円)は稼げると、聞いていたのでサムの話はショックだった。そのあとサムは私が寝泊まりする建物へ案内した。それは白ペンキがあっちこっち剥げ落ちた粗末な掘っ建て小屋であった。小屋の中にはスプリングの利かない古いベッドが八つほどあり、裸電球が二、三個ぶら下がり、埃をかぶった年代物の木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれのベッド脇に備え付けられていた。まるで映画で観たアウシュビッツの強制収容所のようで、惨めな気持ちになった。だが、日本では扇風機の普及率がやっと五十パーセントを超えた頃であったが、このオンボロ小屋でも騒音をまき散らす古いエアコンがあった。小屋の入口のドアや窓は、日本では見たこともない網戸付二重ドアになっていた。なるほど、これなら蚊取り線香も蠅取り紙も必要ない。やっぱりここは「アメリカ」だと感心した。ここには、同じようなオンボロ小屋が二十棟ほど軒を並べていた。葡萄の集荷時期には葡萄摘みの日系人労働者が百人以上も寝泊まりするのだと、サムは自慢そうに話した。シャワーとトイレは寝泊まりする小屋の隣の棟にあった。囲いのないシャワーとトイレが十ほど平行に並び、便器に座り隣の者と話たり、前でシャワーを浴びている奴を見ながら糞を垂れる代物だった。
     「カン、カン、カン」と、朝五時、鉄板を叩く金属音が音で日々のスケジュールは始まった。ツバの広い麻製のバッカン帽をかぶり、ジーンズに作業用の革靴を履き食堂へ向う。カリフォルニアはデイライト・セイビング・タイム(夏時間)の季節で、五時はスタンダード・タイム(冬時間)なら四時だ。外はまだ暗く、日本の晩秋のように寒かった。事務所の隣にある食堂はアメリカ映画に出てくる刑務所のように、ステンレス製の長いテーブルと長椅子が整然と並び、百人は座れるものであった。食堂には一見して六十を越えた日系人老人が十七,八人食事を取っていた。若者は一人もいなかった。食事を終えた老人たちは一日遅れで配達される日系新聞、「加州毎日」や「羅府新報」を読み、雑談をしていた。コックは三十を少し出たぐらいの静岡出身の男性で、その奥さんが賄いをしていた。
     食事を取っていると老人たちが、威勢の良い声で私に挨拶の言葉をかけてきた。朝食はスクランブルエッグ,ハム,ベーコン,トースト,コーヒー、オレンジ・ジュース、ミルク、メロンと食べ放題で、日本では食べたこともない豪華なものばかりであった。
    再び「カン、カン、カン」と鉄管の音が響き、葡萄畑へ出発であった。事務所前には監督ジョージの運転するトラックの荷台に全員、といっても、老人が十七、八人と私だけでだが乗り込むと、トラックの前に集まると、トラックは広い敷地を出て、葡萄畑の広がる農道をもうもうと砂塵を上げ東へ向かって猛スピードで走り出した。トラックの荷台は夜明け前の風をもろに受け歯が合わないほど寒く、震えが止まらなかった。葡萄畑の遙か地平線に太陽が昇り始め、月はぼんやりと白く、鮮やかな赤色に染まったセコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が東に小さく輝いていた。トラックがその日の作業場に停まった。葡萄棚の葉の陰になっている葡萄の房に太陽と風を当てるため、垂れ下がった葡萄の蔓を抱え棚の反対側にひっくり返す作業だ。
    老人たちの作業は荒っぽいが、テキパキとして速かった。作業に慣れている老人たちは横並びで機械的に作業しながら、大声で陽気に冗談を言い合いながら前へ前へと進んでいった。葡萄畑は夜間たっぷり水を撒いてあり、足元は泥んこになっていた。葡萄の蔓を抱え、棚の向こう側へひっくり返そうと力を込めると、足がすべり勢い余って一抱えの蔓と共にひっくり返りシャツもジーンズも泥だらけになり、その上に蔓まで引きちぎってしまうことが度々であった。一時間もこの作業をしていると腰がだるくなり、手も挙がらなくなるほど肩が疲れた。ジョージはトラックの荷台に立ち我々の作業の進行状態を監視し、時々大声でどなった。
     太陽が上がるにつれ、葡萄畑に撒かれた水が蒸発し始めた。朝の寒さが嘘のように蒸し暑くなり額からは汗がひっきりなしに滴れ、眼鏡が曇りずれ落ち、作業は遅れる一方だった。空は雲一つなく晴れ渡っていたが、葡萄畑全体から蒸発する水蒸気で太陽も霞み、景色は白く揺れていた。時間の経過と共に太陽は輝きを増し、全てのものをジワジワと焼き尽くすかと思われるほど暑くなった。暑さに堪りかねて葡萄棚の下に日陰を求めて潜り込むと、葡萄畑にしみ込んだ水は湯気を噴き上げ蒸せるように暑く、棚の下から外へ飛び出すと葡萄棚の陰よりは、一瞬、涼しく感じられた。水の蒸発でマッチもタバコも湿って吸えず投げ捨ててしまった。私が立ち止まっていると、いつの間にかジョージはトラックを移動させ、近くの畦道から監視していた。粗末な小屋に寝泊まりし、トラックで葡萄畑に運ばれ、作業中もジョージに監視される私は、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」に登場する貧しい農民のような惨めな気分であった。
    (続く)
    写真:
    このトラックで葡萄畑の行き帰り運ばれた。
    夕飯前、小屋の前で、15セントのビールで老人たちと一服。
    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々(その2)
    (7)
    この一年間、留学試験を目指し、睡眠時間を削って勉強していた私は体力がなかった。葡萄畑はギラギラと照り輝く太陽に晒され、下からは前の晩まかれたスプリンクラーの水が蒸し風呂のように熱気で蒸され、慣れない仕事に気力もなくなり目眩がした。喉が渇いても水飲み場は百メートルほど先にあり、腰を屈め幾つもの葡萄棚の下を潜り抜け、そこまで行くだけで疲れた。さすがに、この暑さはベテランの老人たちにも応えるらしく、朝は元気だった賑やかなおしゃべりもいつの間にか聞こえなくなった。
     昼飯が終わり、午後からの作業が始まった。白く輝く太陽は頭上に留まり、熱射を浴びせ続けていた。ベテランの老人たちも疲れたのか、作業のスピードがガックンとた落ち、                                            
    葡萄畑の温度はゆうに四十度を越していた。炎天下の作業は体力の消耗が激しく、意識はもうろうとして鼻血まで出てきた。私はただ機械的に手を動かし、葡萄の房にかぶさっている葉をのけるだけであった。 
     四時、作業監督ジョージの手が挙がり、やっと朝七時からの作業が終わった。長い一日の作業を終え、疲れ切った囚人のように我々は再びトラックに乗せられ小屋へ連れ戻された。この時の嬉しさはたとえようもなく、稼ぐ必要がなければ、今すぐにでもこの葡萄農家から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
     オンボロ小屋戻り,疲れ切った体を倒れこむようにベッドに横たえると、体中が火傷をしたように熱く痛かった。一週間ほど前、小屋の出入り口の階段を踏み外し、足に包帯を巻き、仕事に出ていないという、同室の老人が痩せて小枝のような手にビール缶を持って私に近づき、疲れ果てている私に飲めと勧めた。朝鮮半島出身だというこの老人は、片言の日本語しか話せなかったが、目覚まし時計代わりに私を起こしてくれたり、ビールをくれたりする親切な老人であった。
     この老人は若い時、アメリカに密入国、それ以後、移民官に捕まるのを恐れ、仕事場を転々としてきた。だから、百ドル前後の年金も貰えず、七十二歳になった今も、季節労働者としてカリフォルニアの農園から農園へ作物の植え付け収穫期に合わせてカリフォルニアのレタス、イチゴ、葡萄畑などを移動し、痩せてはいるが、まだ元気で週に三日はこの農園で働いていると言った。
     夏時間のカリフォルニアは八時を過ぎても外は明るく、事務所前ではサムの三人の娘たちが売店を開き、労働者相手にビールやコカ・コーラ、タバコなどを売っていた。
    年頃の彼女たちは賑やかに、大きな声で日系老人たち相手に呼び込みをしていた。夕食が済むと老人たちは夕涼みを兼ねて売店の周りに集まり、買ったビールを飲みながら、日本語混じりの英語で彼女たちと雑談して楽しむのが日課であった。
     彼女たちは同じ日本人の血が流れているのに、ヤンキー娘のようなに活発で、屈託がなかった。英語の話せない私は彼女たちの振舞いに圧倒された。私も十五セントの缶ビールを買い、老人たちの輪の中に入った。最近は暑い葡萄畑の作業は敬遠され、若者はほとんど来ないと、老人たちは若い私に誰彼となく話しかけてきた。彼らのほとんどは大正の末期から昭和の初期、移民先のペルーやメキシコの国々からアメリカへ密入国した人たちで、画用紙を折り畳んだような古い旅券を持っていた。酔いが回ると、老人たちは大声を張り上げ、古い日本の歌を歌い、にぎやかに取り留めもない会話をしていたが、その表情は何か寂しそうであった。この老人たちはどんな人生を歩んできたのだろうかと、彼らの人生に興味が湧いた。この老人たちのような節労働者は身の回り品と寝る時必要な毛布(ブランケット)を持って農園から農園へ、作物の植え付けや収穫期に合わせてカリフォルニアの農家を一年中移動しながら生活していたので、「ブランケット」と陰ではニックネームで呼ばれていた。
     作業は葡萄の枝葉を棚上げしたり、葡萄の余分な枝葉を切り落として棚に括り付けたりと一貫性のないものだった。一週間が経った朝、葡萄の実りが遅れ、作業はなく、最初の週給日だった。事務所でサムから二十三ドルちょっとのチェックで週給を受け取ったが食事代、税金などが引かれ予想していた金額の半分に愕然とした。夜になると老人たちは五十年型オンボロ車でデラノの町へ繰り出し、稼いだ金を酒や女に使い果たしていた。
    葡萄農家は陸の孤島であった。休日とはいえ、車がなければ動きが取れず、洗濯するか、季節労働者の老人たちと交流を図り、時間を潰さねばならなかった。洗濯は小屋の外にあるコンクリート製の古い流し台でした。日本ではホテルのような特別のところしか蛇口から湯は出ない頃であったが、アメリカではこのような農場でも大きな蛇口から惜しみなく出る湯に、アメリカの豊かさを感じた。老人たちは映りの悪いテレビで、秋の大統領選挙へ向けてのジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会の放送を聞きながら、将棋やカードをして暇をつぶしていた。小屋の外では木陰に椅子を持ち出し、老人たちがお互い散髪をしていた。私も老人たちと、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団した日本人初のメージャーリーガー村上雅則のことや十月の東京オリンピックに向け、今、急ピッチで競技場や高速道路の工事が進んでいることなどを話題に散髪してもらった。
    (続く)
    カリフォルニア中部、デラノ近辺はスタインベックの小説が映画「怒りの葡萄」や「エデンの東」の舞台にもなった所である。


    1968年のバイク世界一周
    Back to Los Angeles
    植村直己と同じ下宿屋?
    (8)
    私がこの葡萄農家に行った年は葡萄の実りが遅く、葡萄摘み労働者はおらず、六十を過ぎた葡萄棚の手入れ作業する日系人労働者が十五、六名だけだった。人生、人それぞれで、多くの彼らは、酒、バクチ、女の生活を続けた挙句、六十歳を過ぎたても季節労働者としてカリフォル二アの農家を転々としている季節労働だった。
    カリフォルニアの遅い夕闇が訪れると、乾燥した葡萄畑の夜空一杯に星が鮮やかに輝き始め、爽やかな風が何処からとなく現れ、炎暑が嘘のように一変した。
    葡萄農家の主、サムは夕食後、葡萄畑に水をまきに行くのが日課だった。その日、小屋の前で夕涼みしている私を見かけたサムは「行かないか」と声をかけてきた。暇な私は断る理由もないので彼の車に乗り込んだ。五分ほど走り、葡萄畑の一角にあるスプリンクラーを開け、水をまき始めた。水を撒く間、彼は両親が和歌山から持って来て植えたというイチジクを「便秘に効く」と美味しそうに食べながら、何気なく彼が抱えている悩みを始めた。その一つが年頃である三人の娘たちの結婚相手が見つからないことであった。民家もほとんどない広いカリフォルニアの農耕地帯、デラノで適齢期の日系人男性を見つけることは至難の業で、いたとしても若者は農業を嫌いサンフランシスコやロサンゼルスなどの都会へ逃げ出していると深刻そうであった。それに農家は人手不足で労働者の賃金は上昇、農家は経営の存続が危ぶまれていると言った。
     三週間が過ぎても葡萄の収穫は始まらなかった。ある日、食堂で日系新聞、「羅府新報」の求人欄に「ガーディナーのヘルパー(庭師の助手)求む。ヒガ・ボーディング」と、あった。私はロサンゼルスンのレストランで会った中年日系人が言った「ガーディナーのヘルパーは金になるがユーは経験がないから無理だ」と言ったことを思い出した。一か八かで、早速、私はロサンゼルスのボーディング(下宿屋)に電話を入れた。夏場は芝生の伸びが早く、ガーディナー(庭師)はヘルパー(助手)が必要であり、ヘルパーの賃金は一日十五ドルにはなるとボーディングの女主人は言った。そして、暑いデラノで働いた奴は根性があるので大丈夫だと付け加えた。
     何時、葡萄が熟れ出来高制の作業が始まるかわからない葡萄農家にいても、後一ヶ月しかない夏休み中に二百ドルも稼げないと思い、私はその下宿屋に入ることにした。サムに事情を話し、ロサンゼルスへ戻ることにした。
    デラノからロサンゼルスにもどり「ヒガ・ボーディング・ハウス」に下宿した。経営者は沖縄から移民したヒガ(比嘉)さんという六十過ぎの老夫婦であった。当時、ロサンゼルスには日系人が経営する下宿屋が数軒あった。日系人はそれを「ボーディング」と呼んでいた。
     ヒガ・ボーディングはベニス通りに面した下宿屋で新旧二棟あった。部屋代は新館が三食付きで月七十ドル、旧館は六十五ドルだった。私は旧館に下宿することにしたが、下宿代を払うとほとんど残っていなかった。
    この年の四月、日本は海外旅行が解禁になり、この下宿は「発展途上国」日本から来た四、五十人の客で繁盛していた。特に、夏場であり、庭師の助手の仕事を紹介してくれるので満室だった。
     ロサンゼルスの庭師は日系人の生業と決まっていた。彼らはロンモア(芝刈機)やホウキなど庭師の七つ道具を小型トラックに積み込み、一人で一軒一軒庭を手入れして回っていた。しかし夏は芝生の伸びが速く、芝生を刈るのに時間を食うので、彼らはヒガ・ボーディングの宿泊客を助手として雇っていた。
     住むところも仕事もない日本から来た者にとって、ヒガ・ボーディングは庭師の助手の仕事を簡単に見つけられる便利な場所である一方、庭師にとっては手軽に助手を調達できる職業斡旋所であった。海外渡航自由化になると、多くの若者たちが観光ビザでロサンゼルスに来て、着くとまずヒガ・ボーディングで荷を解いた。彼らの多くは賃金の高いアメリカで稼ぎ、その後、北米や南米旅行、あるいは世界一周旅行などを志す若者たちであったが、日本ではエリートのアメリカ駐在員も、生活費を切り詰めるため何人か下宿していた。
    下宿人は男性ばかりで、女性はミセス・ヒガと日系人の賄い婦数人だけであった。
    同じ頃、あの有名な冒険家、植村直己も、私と同じようにカリフォルニア中部,デラノ近辺の農園で働いたあと、このボーディングに下宿し、ガーディナーの助手をして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指して、フランスへ旅立ったと後年聞いたことがあるが、同じ下宿屋にいたのなら、顔ぐらい合わせたかもしれないが、当時、彼は有名人でなかったので記憶にはないが戦友だt自負している。庭師たちの朝は早かった。
    私はトラックからエンジン付きの重いロンモアをおろし、裏と表の広い庭の芝生刈りが主な仕事であった。私が芝刈りをしている間、ボスは庭木や花壇の手入れをした。
     芝刈りが終わると芝生の周りを整え、ホースで庭中の芝生やゴミを洗い流す。これで一軒終了である。庭師が一人だと一時間ぐらいかかるが、二人でやると三十分で終えられた。 
     しかし、庭師は私への支払いがあるので、日の長い夏場は普段より多くの客を取るために目いっぱいこき使われた。
    六十四年当時、アメリカの最低賃金は一時間一ドル五セント(三百七十八円)で、日本で稼ぐ一日のバイト料に匹敵した。アメリカ人の平均月収は五百ドル(十八万円)前後であったが、庭師は日本の平均年収七、八百ドル(約二十九万円)に相当する額をひと月で軽く稼いでいた。一方、助手のほうは日給制で、日本の十日分に匹敵する十五ドル(五千四百円)が相場であったが、二世の若者など見向きもしない三Kの仕事であった。
     ハリウッドの映画俳優の庭も手入れに行ったことがある。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付きの豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。
     昭和三十年代、人気テレビ映画「ローハイド」で老コック「ウイシュポン」を演じていた俳優宅にも行った。彼は役のような老人かと思っていたが実際は四十六歳で、二十七歳のワイフと六ヶ月の子供がいた。前年、昭和三十八年「ローハイド」で共演していたクリント・イーストウッドたちとテレビ局の招待で日本を訪れていた。彼は庭先で一緒に写真を撮り、ビールを飲ませてくれる気さくなオッサンだった。あの有名な歌手であり女優であるドリス・ディ宅にも行ったが、目が合っただけでタダのオバさんだった。
    日本を出てからたった二ヶ月の間の出来事だった。
    (続く)

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    写真:TV映画「ローハイド(Rawhide)」でClint Eastwoodと共演していたコック役Paul Bringar宅。ガ―ディナーナのヘルパ。
    下宿屋の駐車場:1964年8月

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    1968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その1)
    (9)
    八月末、庭師のヘルパーは終わった。私は九月になり州立の英語学校へ入学した。学校は車で十分程の距離であったが、車のない私は下宿屋からバスを乗り換え一時間のほどかかった。
    この英語学校は州立で、授業料は年間たったの一ドル(三百六十円)だった。授業は朝八時から午後二時までと、午後二時半から夜九時までの二部制だった。時間的にヘルパーの仕事は無理だが、私は生活費を稼がねばならなかった。私は授業を午前中に受けて、午後からバイトしようと目論んでいた。しかし、入学すると午後二時半から午後午後九時の授業に振り分けられた。夏の間、稼いだ四百ドルほどは五ヶ月分の下宿代にしかならず、私は学校に行くまでの午前中は、下宿の食堂で日系新聞「羅府新報」の求人欄を見るのが日課になった。だが求人広告も少なく、しかも午前中だけの仕事など皆無だった。英字新聞「ロサンゼルス・タイムス」の求人欄はベトナム戦争のため、軍事産業は人手不足でその種の広告は六、七ページもあったが、英語の話せない私は採用される可能性はないと、最初から諦めて見る気もしなかった。
     学校が始まり、仕事のない私は下宿屋の経営者、ミセス・ヒガに仕事を頼んでいた。
    ある日、ミセス・ヒガが、
    「ローズ・デール・セメタリィ(墓地)で午前中だけでも働ける人手が欲しいと言っているよ。墓だから、気持ち悪がって働き手がないらしいけど・・・。ユー、行ってみる?」と、申し訳なさそうに言った。
    墓であろうが何であろうが、私には午前中働ける仕事はありがたかった。さっそく下宿屋から歩いて数分のローズ・デール墓地へ出かけた。墓地は赤煉瓦の高い塀で囲まれ、入口から奥へアスファルト道路が細く枝分かれしていた。見渡す限り緑の芝生の中に大小の墓石が整然と並び、周囲には色鮮やかなハイビスカスが咲き誇っていた。高々と伸びたパームツリーの葉は爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて風にそよぎ、車の騒音も人影もなく静寂だけが支配する公園のような墓であった。
     事務所に行くと、七十過ぎの温厚そうな日系人が出迎えてくれた。墓地の葬儀一切は中年の白人三人が取り仕切り、武藤さんというこの日系老人は四百メートル四方ほどの墓地の芝刈りと清掃を契約で一手に引き受けていた。墓で働きたい者はいないらしく、即、採用された。時給は一ドル七十セント(¥612/日本の日給ほど)で悪くなかった。勤務時間は午前七時から午後四時までだが、学校があるなら十二時まででもよいと願ったり叶ったりの仕事だった。広い墓地の墓石と墓石の間を手押しの芝刈り機で刈るのが私の仕事であった。
     仕事仲間は四人だった。ひょうきん者の鈴木は三十五、六歳、日本から派遣された駐在員であったが、墓の草刈りのほうが給料はいいと会社を辞めた独身、ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)で、ベトナム戦争がエスカレートするにつれ、ドラフト(徴兵)されることを恐れ正業には就いていなかった。タマシロは口ひげを伸ばし、太ったメキシコ人のような風貌をしていたが、いつもニコニコして愛想の良い二児の父親であった。小柄でハンサムなナカソネは大学で法律を学んでおり、弁護士になるのが夢であった。
     タマシロとナカソネは沖縄から移民したペルー三世で、日本語はほとんどわからなかった。鈴木以外は私と同年代であった。
     朝出勤すると我々は事務所で雑談しながらコーヒーを飲み、小型トラックに草刈機を積込み、広い墓地の曲りくねった「墓道」を仕事場へ向かった。目的地に着くとトラックから芝刈り機を下ろして、墓石と墓石の間隔は約二メートルで、何百もの墓石が一直線に百メートルほど先までのびていた。全員が一列になった墓石の周りを刈りながら先へ先へと進み、一列終われば次の列へと移った。仕事は芝刈機を押したり引いたりするだけの単純作業であった。
     楽しみはコーヒー・ブレイク(休憩)であった。パーム・ツリーの木陰に全員が集まり、墓石に腰かけたりしてコーヒーやコカ・コーラ、ドーナツを飲んだり食ったりしながら、それぞれ思い思いに休憩を取った。
     戦前、日本人学校の教師だった武藤さんは、墓石に腰かけコーヒーを飲みながら、よく太平洋戦争のときの経験を話してくれた。私はコーヒーブレイクの時間に彼の話を聞くのが楽しみであった。戦争が勃発するとすぐ、彼は教師という理由だけでFBIに連行され、数日間スパイ容疑で厳しい取調べを受けた。その後、家財道具を二束三文で売り払い、人間としての人権まで踏みにじまれ、家族ともどもマンザナ収容所送りになった。マンザナは米本土に十ヵ所設けられた収容所のひとつで、中部カリフォルニア、シェラネバダ山麓の砂漠の真中にあった。夏は気温五十度を超えるときもあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付ける空っ風で非常に寒いという劣悪な環境にあった。そのうえ、粗末な造りの建物は床板の隙間から砂塵が部屋の中へ吹き込み、夜ベッドに入ると屋根の隙間から星がきれいに見えたもんだよと、懐かしそうに話してくれた。
     日本語はまったく話せないペルー生まれのタマシロであったが、歌謡曲を唄えばプロ並みにうまく、コーヒーブレイクのときには、大きな墓石の上であぐらを組み、「並木の~雨の~♪」と、昔の歌謡曲「東京の人」をよく歌っていた。ナカソネは休憩時間でも静かに教科書を広げていた。
    (続く)


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    1968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その2)
    (10)
     墓地では、毎朝、当番制で、ほかの連中より先に薄暗く狭い事務所に来てコーヒーを沸かすことになっていた。皆、この当番がイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤなのではなく、その場所の環境が問題だった。事務所に隣接した作業場には板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が積み上げられ、
    その前には火葬用の焼却炉があった。そして、あとで身元確認するため、生ゴムで造られた火葬され身元不明人のデスマスクが事務所の壁に無造作にぶら下げられていた。生ゴムでできているとはいえ、十五、六個のデスマスクに囲まれ、見つめられているような場所で一人コーヒーを沸かすは、実に気味悪いものであった。時々、白人作業員が事務所前の火葬用焼却炉で火葬をしていた。彼は機械的に黙々と焼却炉の蓋を開け、小さなスコップで中から灰を地面に積み上げていた。火力が強く骨は貝殻を金槌で叩き潰したように小さな粒になっている灰を地面一杯に広げ、金歯を漁っていた。集めた金歯は白人作業員たちが空ビンに溜め、ある程度溜まるとったらバーナーで溶かし金塊にしてポーンショップ(質屋)で売っていた。また、葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った火葬用の雑な棺桶にホトケさんを移し替え、上等のものを葬儀屋に引き取らせ臨時収入にしていた。事務所の隣にある葬祭堂には遺体安置所があった。ときどき、カリフォルニア大の医学生という二十二、三歳の白人女性が中古車で来て、一体三十ドルで「死に化粧」のバイトをしていた。アメリカでは人生の最後だけは、白人も黒人も差別なく、霊柩車は同じ世界一の高級車、黒塗りのキャデラックのリムジンであった。日本と違うのは霊柩車のあとに続く車は昼間でもヘッドライトを点け、二台の白バイが先導し「天国までノン・ストップ」とばかり、赤信号でも止まらずに墓場へ直行する。埋葬のときに掘る穴は白人従業員がパワーシャベルで深さ六フィート(約一・八メートル)を掘ったあと、棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで底のほうを削って作ってた。ロサンゼルス一帯の地下には油脈が通っており、穴の底からジワジワと真っ黒な原油が滲み出てきて靴やシャツを汚しながら彼らは、この作業をやっていた。
     原油の滲み出る墓地に棺桶を埋葬すると棺桶の隙間からそれがしみ込み、ホトケさんが油まみれになるので、コンクリート製の棺桶に木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。墓地で働いていると、宗教に興味がない私でも、仏教の宗教観が自然に体にしみ込んでいることに初めて気づいた。年寄りたちが「ホトケさんが枕元にった」という恐い話や子供のころに見た幽霊映画、そして線香の煙とにおいが漂う薄暗い墓など、どれをとっても薄気味悪い霊の存在が無意識のうちに私の頭にインプットされていた。しかしアメリカでは、亡くなった人の霊がベッドの枕元に立ったとか、雨の夜、額に三角巾をつけたジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたなどという話は聞いたことはなかった。そのためだろうか、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても日本人のそれとまったく違い、薄気味悪いという感情はなかった。もっとも、アメリカの墓地は芝生の広々とした公園のような明るい雰囲気があり、墓場というよりはまさにメモリーパークとそのものであった。宗教の違いといえば仕事仲間のタマシロとナカソネはいつも墓石に向かって便所代わりに小便を飛ばしていたが・・・・・。
    葬儀は洋の東西を問わず厳粛なものである。毎日、埋葬や火葬、墓石に刻まれた故人の
    誕生から死までの歳月を見ていると、人間の一生なんて宇宙の星が瞬きする間に終わってしまうものだと思うようになった。そして「死んで花実が咲くものか」、「生きているうちが華」だという思いが強くなった。
     英語学校は一日も休むことを許されず、病欠の場合は診断書提出が義務付けられていた。学校は学生の出席率を移民局に報告する義務があり、移民局は出席率が悪い学生は認められている週二十一時間以上働いていると認定しビザの更新を認めず、学生は本国に帰らなければならなかった。当時、英語学校の生徒はメキシコ人が二百人近く、日本人留学生は男女二十四、五名いたが、中には留学生とは名ばかりで、豊かなアメリカで生活を希望し、永住権を取得するためアメリカ国籍の日系人や白人と結婚して学校を去る者が多かった。後年、事故でマスメディアの話題になった「ヨット・スクール」の校長もその英語学校で学んでいたような気がするが、同じクラスでなかったので話したことはなかった。
    教師は常にアメリカは世界一豊かで、自由の国であり、「コミュニズム(共産主義)」ほど恐ろしいものはないと、授業から横道に外れ長々と強調することが多かった。私はそれを聞きながら、これはある種の洗脳学校だと思ったが、強制送還されるのが怖いのと授業料が年間一ドルという安さに、教師の言うことを聴き良い子ぶっていた。学校が始まって、直ぐの一九六四年九月中旬、学校の日本人友人に誘われ彼の車でラスベガスへ行った。当時、私は。ラスベガスがどこにあるかも知らなかったが、何か怖い「博打場」ではないかとは思っていた。行くのを躊躇している私に友人は「おもろいところや。行こ、行こ」と言われ、砂漠の中を7時間ほどかけ二人でラスベガスへ行った。初めて見るラスベガスの煌(きら)びやかさに慄いていた私は、一歳年下の彼がする「ダイス」を引っ付き虫のように彼の横で見ていると、「あんたもやれや。あんたが横で見ているとやりにくいわ」と言うので、彼の賭け方を見よう見真似で同じ「ダイス」を始めたラ一時間もしないうちに、目の前にチップが目立つように積み上げられていった。「ダイス」台の周りの人々が騒がしくなってきた。「あんたヤバイで!止め、止め、換えて来たるわ」と彼が言ったが私は訳がわからなかった。彼がチップを現金に換えてきてくれた。その金額は千百ドル前後であった。当時の日本円で約三十九万,平均年収ほどの額、アメリカでも大金だった。彼が「止め」と言ったのは、強盗にやられ殺されるかもしれないと思ったからであった。
    それはギャンブルの賭け方も知らない素人の「ビギナーズ・ラック」であった。私はお礼に百ドルを彼に渡し、七百ドルぐらいの六気筒の中古車フォード・ファルコンを買い、プライバシーのない下宿屋を出て日系人の経営するアパートへ移った。
    (続く)

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    写真:墓地ラスベガスで勝ち買った中古車フォード・
    ファルコン、色は気に入ったが、よくバッテリーがあがる難儀な車だった。駐車場、エアコン、電話代、風呂すべて込み
    八畳二間?で$45であった。

    (1)~(10)

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]


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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (41)
    森と泉の国 スェーデン
    低血圧症状は一週間ほどすると良くなった。バイクでコペンハーゲンの北約40キロにあるシェークスピアの「ハムレット」のモデルになったクロンボー城など近辺の観光に出かけるようになった。
    城を囲むように近くには海岸があり、多くの人が北欧の短い夏をむさぼるように日光浴をしていたが、水が冷たいのか泳いでいる人はいなかった。
    デンマークまで来たら、次は対岸のスウェーデンへ渡るのは当たり前。体調の良くなったオレは、ヘルシンゲルからフェリーでスウェーデンのヘルシンボルへ渡り、スウェーデンの西側をヨーテボリへ行き、そこから白樺の森が続く中を通り抜け、ヨーロッパの最北限、ノルウェー領のノールカップを目指し走りだした。
    季節は九月になっていた。日本の感覚でまだ夏だと思っていたが、スウェーデンの白樺林の中を走っていると、冷たい風と時折降る小雨で体を冷やし、何度となく用足しのため停まらなければならなかった。
    夕闇が迫る白樺林の中を北上しながら宿を探すが、すれ違う車もなく民家さえ見当たらなかった。
    北欧の夏は日が長いと思っていたが、九月に入ると急に日が短くなり夕闇は駆け足で迫ってきた。
    暗闇の中、当てもなく宿を探し走っていると小さな光が近づいてきた。それは自転車のライトだった。バイクを停めると、自転車も停まった。彼は巡回中の中年のお巡りさんだった。
    「宿を探している」と、言うと、
    「ついて来い」と、幹線道路から数百メートル奥に入ると、木立で囲まれた二階建ての立派な民家があった。
    彼が民家の玄関のベルを押すと、60半ばの知的で品の良い女性が出てきた。
    そこはB&B(民宿)だった。二階には三部屋あり、各部屋にはシングルベッドが二つ、三つあった。
    経営者の女主人は、
    「濡れたものを乾かしなさい」と言って、
    暖炉に火を入れ、たった一人の客であるオレのため食事を作り始めた。彼女は出来上がった食事を年季の入った広い木製のテーブルに並べると、テーブルのローソクに灯を点け電気を消し、骨董品のような大きな蓄音機にクラッシック曲のレコードをかけると、食事を摂っているオレの前に座り、
    「いつも、このようにして泊まっていただいた方には夕食を摂ってもらっているのよ」と、落ち着いた口調で言った。
    ローソクの灯りだけの薄暗い部屋の窓をとおして、下のほうに小さく民家の灯りがちらほら見えた。
    ビートルズの曲ならわかるが柄にもなく、クラッシックの曲を聴き、この知的な老女と会話しながらの夕食は、まるで映画のワンシーンのような雰囲気であったが、知的な老女とレコードから流れるクラッシック曲を聴きながらの夕食は、オレはお里が知れるのを恐れ、会話を合わせるのに必死で、食事の味もわからなかった。
    彼女は元教師で、すでに主人は亡くなりっていた。
    息子と娘はそれぞれ独立して、医者と弁護士になり、娘はヨーテボリに、息子はストックホルムに住んでいると言った。
    一人暮らしの彼女は宿泊者との出会を楽しむため、採算など度外視してこのB&Bを経営していると言った。
    翌朝は久しぶりにさわやかな目覚めだった。ベッドから手を伸ばし、カーテンと窓を開けると太陽がまぶしいく輝き、下では女主人が庭掃除をしていた。
    昨夜は暗くてわからなかったが、このB&Bの建物は白樺林に囲まれ、下のほうには小さな湖あり、その周りに色彩豊かにペンキ塗りされた北欧らしい民家が点在していた。
    階下に降りていくと、彼女は庭掃除の手をやめて、朝食を作り始めた。彼女はオレが起きるのを待っていたようで、二人で雑談しながら朝食を摂っていると、
    「あなたはバイクでこの街に来た最初の日本人だからニュースになると思い、新聞社に電話したよ」と、微笑みながら言った。
    食事を摂っていると、地方紙の記者だというハンチング帽をかぶった中年の男が自転車でやってきた。彼女の出したコーヒーを飲みながら記者はオレに質問を浴びせ、明日の新聞に載せるからと言って去って行った。
    記者が去ったあと、私は食事した後のテーブルにヨーロッパの地図を広げ、この女主人に
    「ここまで行くつもりです」と、指差すと、
    「ノールカップね。そこまで行った日本人はいないと思うわ」と、言った。朝食の後、出かける準備にかかると、
    「あなたの新聞記事を見てから出かけたら」と、いう彼女の説得に抵抗もできず、何も見るべきものがない白樺林の高台にあるこのB&Bにもう一泊する羽目になった。
    バルカン半島を南下 ギリシャへ
    翌日、オレのことが小さく写真付きで新聞に載ると、その町の全校生徒二十人ほどの小学校の校長から日本について話してくれと依頼があり、町の人からは食事の招待を受けた。
    だが、出発を一日伸ばした翌朝、起きるとまた疲れがひどくなり、二日ほど寝込んでしまいノールカップへ行く気力も体力もなくなった。
    ノールカップ行きをあきらめそこで休養していると、少し気分が良くなった。
    体力の回復と気晴らしに、バイクで小さな湖と白樺の林という村上春樹の「ノルウェーの森」に出てくるような舞台景色の中を走っていると、大きな木造の館のような建物が湖畔にあった。オレは「おや?」と建物の横にバイクを止め、ガラス窓越しに中を覗くと、多くの北欧の若い女性が一斉に大声を上げ窓際へ走り寄ってきた。まるで映画のシーンであった。オレは一瞬彼女たちの歓喜?の声に驚き一歩も動けなかった。そこは刺繍作りを教える学校だった。中年の女性の先生から声をかけられ、生徒たちに囲まれコーヒーを飲む羽目になった。
    そのお礼に彼女たちを前に米国留学時代ことやバイク旅のこと、これからの人生の夢について簡単に話した。すると一人の女生徒が、
    「こんな森と湖しかない国で一生を終えることは、広い世界を知らずに一生を過ごすことになる。ここを卒業したら大きなアメリカへ行こう」と、大勢の生徒の中で一人大声を上げた。すると、そこにいた全女学生が賛同するように奇声を上げ、オレに握手を求めてきた。オレの人生で女性たちにあれほどもてたというか、注目されたのは、あの時が最初で最後であった。その中に日本女性の生徒が一人いたが、視線はやはり暖かくはなかった。
    その翌日、B&Bの知的なオーナにお礼を言い、素晴らしく居心地の良かったスイスで休養するため出発した。
    コペンハーゲン、ハンブルグ、ケルン、そこからライン川に沿いに、1,200キロの距離を三日かけて再びツェルマットのYHへ向かった。
    ツェルマットで休養して、中近東を横断するだけの体力をつけることに専念した。
    毎日、入れ代わり立ち代わり、このYHに来る日本人若者たちとマッターホルンの麓ゴルナーグラートへ登り、夜は彼らと小さな町へ繰り出し、カフェやレストランで交流を楽しみ、ギリシャ行きの日を待った。
    ツェルマットにチラホラと、雪が舞い始めた1968年9月下旬、正確にはその月の25日、私はギリシャへ向け出発することにした。
    「ジェームス・ボンド」がハイテク車で駆け上った、あのスイスのヘヤピンカーブの続く山岳道路を上り、シンプロントンネルを抜け、イタリア側の長い下り坂を下り、有名な観光地コモ、ミラノを経由してベニスへ入った。
    ベニスの町は大小の運河が縦横に走り、バイクを駐車場に置き水上バスで町へ入った。町の道路である運河の水は汚染がひどく、小さな町ベニスは観光客で混雑しており、映画「旅情」で観た雰囲気にほど遠いものだった。
    ベニスで一泊して、ユーゴスロバキア(現クロアチア)との国境の町トリエステへ向かった。(つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (42)
    ユーゴスラビアからギリシャへ
    ベニスで一泊して、イタリアとユーゴスラビア(現クロアチア)の国境の町トリエステに着いた。
    トリエステは第二次世界戦争後一時、ユーゴスラビア領になっていたが、その後イタリアに返還されたという歴史がある。
    今はヨーロッパ各国の関係は安定しているが、中世から戦いの連続でヨーロッパ各国の歴史は複雑である。学校で習った世界史の断片的な知識では表面的なヨーロッパしか理解できないと思った。
    当時、ユーゴスラビアは「鉄のカーテン」と呼ばれていたソ連と同じ社会主義国家で、東ベルリンでドイツ軍に拘束された経験のあるオレは不安な気持ちで国境管理事務所を訪れ、
    「ギリシャへ行くのだが、貴国は通過できるか」と聞くと、
    「イエス」と係官は笑顔で言った。
    ユーゴスラビアを通過できなければ、また今来た道を引き返し、イタリア半島を南下、どこかの港からギリシャへ船で行くしか手立てがなかったので、オレはホッとした。
    国境の警備兵も近くの案内所の女性たちも愛想がよく、西側に比べ貧しさは感じられたが、町の風景も雰囲気も西側ヨーロッパとなんら変わりはなく、人々はソ連の悪口を言って嫌っていた。それが当時のオレには意外に思えた。
    違いといえば西側では見られなかった闇の両替屋が道路に多く立ち並び、堂々とオレに近づきドルと現地通貨の両替を求めたことであった。
    確かに銀行レートよりはるかに高い交換レートで、物価は驚くほど安く、オレは一気に大金持ちになったような気分になった。
    国境を越え、地中海沿岸の風景と同じような美しいアドリア海に沿って南下した。海岸線はいたるところで深く入込んだリヤス式海岸になっていた。
    初めてこの国を走るオレはフェリーに乗れば数分で対岸へ渡れることもわからず、長いときには一時間以上も湾を迂回することが度々あった。
    誰でもそうであろうが、一人旅のオレは興味のないところはどんどんぶっ飛ばし、興味ある場所ではゆっくり時間を取って観光した。
    ユーゴスラビアは米ドル大歓迎で、一ドルも払えば豪華な食事を摂ることができた。収入の道がないのか民宿で生計を立てている家が多く、夕方になるとどこの町でも多くの大人たち、子供たち家族全員が道路で民宿の客引きをやっていた。
    この国にはYHがあったかどうかわからなかったが、民宿に泊まることが多かった。どこの民宿も貧しい造りの汚い家で、シャワーも水しか出ないところが多く、出される食事も戦後オレが食べていたようなお粗末なもので、生活が大変そうで、民宿を出るときは、必ず一ドルほどのチップを余分に置いた。
    民宿代は二食付きで二ドルほどだった。一泊二食付の民宿や照明の薄暗いロビーに、大きなチトー大統領の肖像画が飾ってある宿泊客もいない、うらぶれたホテルに泊まったりしてバルカン半島を南下した。
    イタリア国境の町トリエステから南へ約五百キロ、今はメジャーの観光地であるドブロニクに着いた。何の観光情報も持たないオレは高く長い城壁に囲まれた細い道を走り、町を通り抜け山岳地帯の急坂な道路を登り、振り返ると城壁に囲まれた赤い屋根の旧市街とアドリア海の青のコントラストが素晴らしいドブロニクのあの絶景が眼下にあった。
    しばらくの間、オレは道端に腰を下ろし、この眼下に広がる絶景に時間の過ぎるのも忘れ見とれていた。
    アドリア海に沿って南下、ユーゴスラビアとアルバニアの国境に着いた。国境線は川で、幅100mほどの橋が架かっていた。アルバニアを通過すればすぐギリシャである。
    バイクを橋のたもとに停め、橋の中ほどに立っていたアルバニアの国境警備兵のところに行き、
    「ギリシャへ行きたいが、アルバニアは通過できるか」と、聞くと、
    「我が国は鎖国中だ」と言った。
    仕方がないので、川上へ丸い円の外淵に沿って回るように、山岳地帯の国境線に沿って迂回、遠回りすることになった。
    国境の町チトーグラード(現ボドゴリツァ・モンテネグロ)は人影もなく、空っ風が吹き、砂塵が舞い、クリント・イーストウッドのマカロニウエスタン映画に出てくるようなさびれた町だった。このあたりで初めて白人でない我々と同じようなアジア系の顔をした人に出会い、バルカン半島の複雑さを感じた。
    舗装もされていない細い曲がりくねった山道を登り始めるとどしゃ降りになってきた。
    大雨の中、ロー・ギアで深いぬかるみの急な山道に挑むが、タイヤが滑り転倒の連続、悪戦苦闘の末、体中泥だらけになりながら現在のコソボ、北マケドニア経由、ギリシャ国境に着いた。
    ギリシャ国境の両替商で使い残しのユーゴのディナールをギリシャのドラクマに両替を試みたが、ユーゴの貨幣など価値がないと断られ、オレは不謹慎だが生まれて初めて使い残しの紙幣を燃やし、破り捨て、若い時観たトラックの火災現場まで、いつ爆発するかもしれない危険なニトログリスリンを運び、その報酬の大金を得るイヴ・モンタンのフランス映画「恐怖の報酬」のように、雨とぬかるみの山道を疲労困憊して突破した喜びを表した。
    エーゲ海 ヒドラ島での休暇
    ギリシャに入るとオリーブ畑に囲まれた道路は舗装になり、南下するにつれ天気は良くなり、アテネに着いたときは晴れ上がっていた。
    オレはYHで荷を解くとギリシャの船会社に行き、リスボンからナポリまでのバイクを引き取りに行った時、立替えていた飛行機賃100ドル分をギリシャ通貨ドラクマで受け取った。
    その翌日、まさか来るとは思わなかった秋田の菊地さんが、また、大人しいボディ・ガードの岸とともにアテネのYHに到着した。
    中近東横を中古車で旅をする大野がアテネに到着するまで、まだ一週間ほどあった。
    ギリシャは外貨事情が悪く、船会社で返してもらった百ドル分の現地通貨ドラクマもギリシャにいる間に使い切らないと紙くず同然になると聞き、菊地さん、岸、それにこのYHで出会った和歌山の大学生一人を誘いエーゲ海の島へ旅することにした。
    学生運動で大学が封鎖され、ノンポリのその学生はシベリア鉄道でヨーロッパ旅行を楽しんでいた。我々はアテネの郊外ピラウス港の船会社で勧められたエーゲ海の小さな島、ヒドラ島へ行くことにした。
    紺碧の空とエメラルドグリーンの海、エーゲ海の島々を巡る小さな時代物の貨客船に乗り込み、瀬戸内海のような穏やかな海を三時間あまり、ゆるやかなU字型をした湾の左手に中世の城壁と砲台、前方の小高い山には赤屋根と白壁の民家がへばりつくように軒を並べているエーゲ海の島特有の風景が広がる小さなヒドラ島の港に着いた。(つづく)

    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (43)ノンポリの学生は学生運動で大学が封鎖され、シベリア鉄道でヨーロッパ旅行を楽しんでいると言った。
    彼を含め四人はアテネから電車で30分ほど郊外のピラウス港へ行き、船会社の勧めもありエーゲ海の小さな島、イドラ島へ行くことにした。
    紺碧の空とエメラルドグリーンの海、エーゲ海の島々を巡る小さな時代物の貨客船に乗り込み、いわゆる瀬戸内海のような穏やかな海を三時間あまり、ゆるやかなU字型をした湾の左手に中世の城壁と砲台、正面の小高い山には赤屋根と白壁の民家がへばりつくように軒を並べているエーゲ海の島特有の風景の小さなイドラ島の港に着いた。
    下船したのはオレと学生、それに菊池さんと彼女のボディ・ガードの岸の四人だけだった。岸壁には数件の土産屋とオープンカフェがあるだけで、日焼けした島の老人たちがカフェでコーヒーを飲みながらのんびりと雑談していた。
    オレたちは土産屋で尋ね、港から白ペンキの塗られた石畳の小道を少し登った民宿に泊まることにした。宿泊客は我々だけだった。部屋は狭かったが清潔で簡易三段ベッドが三個備え付けられていた。
    その夜、民宿で出されたマトン料理に当たり、全員トイレに何度も駆け込む羽目になったが、若い我々は翌日には回復した。
    十月中旬だったが、イヒドラ島はまだ泳ぐのに十分な暑さだった。水着を持たない我々はジンズのまま、港近くの透き通るような海で泳いでいると、横に停泊していた艇長十メートルほどの豪華なヨットから、
    「あんたら日本から来たん?」と、
    突然、このエーゲ海の静かな海に浮かぶ豪華なヨットから、泳いでいる我々に四十前後の女性が関西弁で声をかけてきた。
    彼女は大阪出身で、当時、英国で五本の指に入るという有名な英国人画家の奥さんであった。
    「うちの人はなァ、イギリスではちょっとした有名な絵描きなんや」と大声で言ったが、嫌味はなく、自慢たらしくもなかった。
    いかにも「大阪のオバちゃん」キャラクターの奥さんがヨットで洗濯物を干すその横で、ご主人はビールを飲みながら、キャンバスに向かっていた。
    気さくな画家夫婦で、その夜、我々はヨットで催されたパーティに招かれた。客はルフトハンザのパイロットとスチュワーデス、それに我々と十二、三人ほどのパーティだった。
    「イドラは景色も空気もエエし、観光客もおらんし、まだ知られてないリゾートなんヤ。ウチら毎年ここに来てるねン。日本人でここに来たんは、あんたらが初めてとちゃうやろか?ほんま、あんたら幸せやデ」
    と、威勢のいい関西弁と英語を使い分けながら、彼女はパーティの座を盛り、楽しいイドラ島の旅になった。
    この風光明媚なエーゲ海のイドラ島は、ソフィア・ローレンと「シェーン」で有名なアラン・ラッド主演の「島の女(原題イルカに乗った少年)」が撮影されたのもこのイドラ島である。
    イドラ島はオレが訪れた観光地の中でも、スイスのツェルマットとともに忘れられない素晴らしい島であったが、今は俗化していると誰かが言っていた。日本にも瀬戸内海や鹿児島湾に浮かぶ桜島のように世界に誇れる素晴らしい風景がある。その風景はどこの風景にも劣らない。だが、エーゲ海やナポリの風景よりあたかも劣っているように瀬戸内海を「日本のエーゲ海」とか桜島のある鹿児島湾を「東洋のナポリ」と呼んでいるが、その必要決してはない。日本ほど自然豊かで、素晴らしい風景はないと日本人は自負すべきである。
    中近東への出発
    ヒドラ島からアテネのYHに戻った翌日、横浜の大野が中古のワーゲン(フォルクスワーゲン)に22,3歳の日本人学生二人を乗せて着いた。
    ドイツで知り合った彼ら三人は、中近東を旅してインドまで行くことに意気投合し、共同でこの中古車を買ったと言った。
    1968年8月中旬、インドへ向け出発する日が来た。
    そのころ、ヨーロッパのヒッチハイカーたちの間では、イスタンブールでドイツのヒッチハイカー二人が殺されたとか、スイスの若者が行方不明になっているという噂が飛び交っていた。
    オレは日本を出てから一人で生活し、自分のペースで旅していたので、いざ出発となって、車と一緒に走るのは、何かにつけ制約されるので、一人で行くと言ったが、一人旅は危険だからという大野の説得を受け入れ、彼の車の後に付いて走ることになった。女性の菊地さんは大野たちとワーゲンに乗ることになった。
    彼女のボディ・ガードである岸も同行を願い出たが、荷物を積んだ小さなワーゲンに五人が乗るのは無理で、オレはパスポート、トラベラーズ・チェック、カメラ、寝袋以外は捨て、彼をバイクの後ろに乗せ出発することにした。
    しばらく走るとワーゲンとバイク、お互いを見失わないように走り続けるのに疲れ、危険なのでイスタンブールのYHで会うことにして別れた。
    岸を後ろ乗せ、オレのバイクは約1,500キロ北のイスタンブールを目指し、再び走り出した。
    オリーブの木以外、緑の少ないギシャでは木造の建物はほとんどなく、透き通るような青い空に赤い屋根と白壁の建物ばかりが目についた。
    ギリシャ第二の都市テッサロニキを通り、イスタンブールの手前100キロほどまで来たところで夕闇が迫り寒くなり、宿を探すが民家さえ見当たらない。周りは草木も生えていない荒野であった。
    寒く停まり、小用していると、暗闇の中にぼんやり大きな建物が見えた。近づいてみると小さなホテルのような建物だった。ガラス越しに建物の中を覗いても、電気も点いておらず建物の中は真っ暗で人の気配は感じられなかった。誰かいないかと岸と玄関の大きなガラス窓をドンドンと叩いていると、腰の曲がった老婆が灯の点ったローソクを持って玄関に近づいてきた。
    ローソクに照らし出された老婆の顔がなんとなく「白雪姫」に出てくるバアさんのように不気味に見えたが、周りに民家はおろかホテルもないので、仕方なく泊めてくれと、身振り手振りで頼むと老婆は快く承諾した。
    ローソクを持って二階の部屋へ案内してくれる老婆の後に付いて暗い階段を上りながらふと後ろを振り向くと、階下でローソクを持った中年の男がオレたちに目を向けたのがチラッと見えた。
    一瞬、イスタンブールで殺されたというドイツ人ヒッチハイカーことが脳裏をかすめた。
    「何か悪い予感がする」と、岸も言うので、電気も点かない部屋でオレと岸は、交代で見張り番しながら寝ることにした。
    最初にオレが見張り番をして岸が寝ることになった。ふと目を覚ますと窓から朝日が差し込んでいた。二人とも疲れ、着替えずベッドに倒れ込むように寝込んでいた。
    恐怖の予感は完全に外れた。 
    この建物はイスタンブールの会社の別荘で、老婆と中年男は親子の管理人であった。
    オレたちが泊まった時はシーズンオフで、その夜はたまたま停電だったのだ。オレたちは心苦しさを感じながら、お礼を言ってイスタンブールへ走り出した。(つづく)

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    オレの二十代
    (44)
    世話になった老婆にお礼を言ってイスタンブールを目指しその朝も走り出した。
    大きな城壁の門を潜り抜けるとイスタンブールであった。ボスボラス海峡を境に、西にヨーロッパと東にアジアの二つの雰囲気を持った都市イスタンブール、モスク、バザールとヨーロッパの国々が混ざり合った泥臭い感じが魅力的な都市だった。
    YHに着くと、車の連中は前日に着いていた。この町でドイツ人ヒッチハイカーが殺されたかどうか結局はわからなかったが、通りの大きな建物には金銀細工の店が迷路ように入込んだ路地の奥までぎっしり並んでおり、その建物に入ったら最後、タダでは出てこれそうにもない雰囲気は漂っていた。
    旅をしている間に、オレは危険に対する感覚が鈍感になってしまったのか、そのような雰囲気のところも平気でうろつけるようになっていた。
    そんなものより、もっと恐ろしく、オレを悩まし、恐怖に堕とし入れたのはYHのベッドを占領しているシラミの多さであった。DDT(殺虫剤)を買い、体中に刷り込まないとかゆくてベッドの横になることさえ大冒険であった。戦後日本では十分経験したが、アメリカやヨーロッパでは経験したこともないシラミの攻撃に、ついに中近東に来たかという実感もあったが、これから先の旅が思いやられた。このシラミに恐れをなし、早々とイスタンブールを逃げだすことにした。
    雨と寒さのトルコ横断
    ボスボラス海峡にはまだ橋は架かっておらず、ヨーロッパ側からアジア側へフェリーで渡り、アンカラを目指した。車もほとんど通らないトルコ高原の幹線道路を気分よく走っていると、突然、畑から牛が道路へ走り出てきた。岸を後ろに乗せたバイクでは急ブレーキも踏めず、そのまま牛の横っ腹に衝突、牛とオレたちは道路に転倒してしまった。
    偶然、その時、アンカラへサッカーの試合に向かう選手たちを乗せたバスが通りかかり、彼らがバスから降りて来て我々を介抱してくれた。
    アリゾナのグランドキャニオン、スペインのサンセスバティアン、そしてトルコと三回目のバイク横転事故であったが、幸運にも今回も命には別条なかった。牛の角が折れ道路に落ちていたのを岸が記念にとポケットに入れ、トルコの首都アンカラに入った。
    小雨が降り出し、貧しさだけが漂う首都アンカラでは全く観光するにも、するものもわからず、イラン入国ビザを取得のためイラン大使館へ出向き、日本大使館に行き日本語新聞を読み、トイレを借り、そのついでに手洗いの水道で体を洗っただけだった。
    大人しい岸は横転事故で少し手足を擦り剥いた程度だったが、これから先又事故で大けがでもしたら大変と話し合いの結果、彼はアンカラからバスで中近東を横断してインド経由で帰国することになった。「深夜特急」が発売される18年も前である。
    大きな都市では何度となく、同じような目にあったが、アンカラ市内も道路が入り組んでおり、郊外に出て東へ延びる幹線道路をまっすぐ走ればイランへ着くはずであるが、その幹線道路を見つけるのに苦労した。道端にバイクを停めて、道行く人々に何度となく英語で聞いても通じないので、東の方を指さして、「イラン、イラン」と、繰り返し聞くと、こっちの方向だと東ではなく、思いもしない北の方を指さす。北へ行けば黒海で、その先は船で行けばソ連である。彼らの言っている方角を疑いながらも、仕方なくアンカラから北へ約430キロ、黒海に面したサムソンの町を迂回してイランへ行くことになった。
    走りながら、トルコ東南部には1,000万人以上のクルド人が住んでおり、トルコと自治権要求をめぐる紛争が長年続いており、東への道路は危険だから迂回せよと彼らは言ったのかもしれないと考えた。トルコ語がわからないので彼らの言うことを疑いながらも、長い距離を迂回しなければならなかった。
    黒海沿岸の町サムソンに近づくにつれ雨風が強くなり、黒海沿岸の風景は冬の日本海沿岸地方のように鉛色に覆われ、海は荒れ、寒くて震えながらの走行だった。車の連中のことなど考える余裕もなかった。
    サムソンから黒海に沿ってトラブゾンまで約340キロ、対岸はソ連かと感慨もあったが、トラブソンから内陸のエルズルムまで毎日雨にたたられた。貧しい国トルコは朽ち果て、人の住んでいない家が多かった。
    そのような建物に雨宿りして、壁板をまき代わりに火を焚き、ずぶ濡れの衣類を乾かし、寝泊まりしながら我慢強く前へ前はと旅を続けた。
    毎日雨に濡れながら走るのは嫌だったが、不思議なことにバイクで走るのはもうやめようとは一度も思わなかった。そういう思いが起こっていたら、その時点でバイクの旅は間違いなく終わっていた。
    アメリカでの四年間の生活がオレを変えたのか、判断力、決断力、行動力には自信があり、諦めるということなど思いもしなかった。オレの性格か自分の意志でやりだしたことには、徹底してやり遂げないと気が済まなかったし、前向きであった。オレは、ただ、びしょ濡れになりながらも目的のインドへ向け、もくもくと走り続けた。
    海岸線のエルズルムからトルコ内陸部、国境の町ドグボヤジットまで約250キロ、この町を過ぎると、地の果とはこのようなところにかも知れないと思えるような荒涼たる緩やかな上りの山岳地帯になり、そこを上りきるとイラン国境警備兵の駐在する小さな建物が目に入った。
    今では日本人にとってトルコは人気のある観光国の一つであり、世界遺産に登録されている「妖精の煙突」と呼ばれる奇岩のあるカッパドギアなど誰でも知っているが、当時のオレは、その存在さえ知らなかった。
    当時、イスタンブールのYHのベッドにシラミがうようよいたように、どの町でも掘立小屋のような民家が多く不衛生で貧しい国で、アンカラからイラン国境までの毎日は雨でびしょ濡れになって走ったこと、それにアンカラの日本大使館にあった新聞でボクサー西條選手がロハスを破り世界フェーザー級チャンピオンになったことを知ったことぐらいしか記憶にない。
    砂漠と強盗のイラン・アフガニスタン超え
    トルコの東隣の国はイランである。イラン・トルコ国境でハシシ(麻薬の一種)を所持していたヒッチハイカーが逃げようとしてイラン国境警備兵に撃ち殺されたとうわさを聴いており、何となく不安な気持ちで国境に着いた。
    イラン国境検問所は見渡す限り民家もない砂漠の高原の高台にあった。国境警備兵の建物は簡素な造りであった。
    数人いた係官たち簡単な入国手続きを終えると、紅茶やタバコのサービスと噂とは違い親切だった。
    晴れた日にはイラン国境警備兵の建物からは40キロほど北のアルメニアが見えるそうだが、曇り空で何も見えなかった。
    イランに入ると砂漠地帯になり、首都テヘランまでは緩やかな下りであった。
    (つづく)

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    オレの二十代
    (45)
    イランに入ると砂漠地帯になり、首都テヘランまでは緩やかな下りの一本道であった。
    この一帯はトルコに近く大雨が降った後らしく、舗装道路であったがいたるところに水溜りができていた。大きいものは直径二十メートルほどもあり、道路が陥没して深くなっているように思え怖くて前へ進めなかった。
    道路脇の砂漠一帯は泥沼のようになっており、バイクでそこを迂回することは不可能なことは明らかであった。エンジンに水が入れば一巻の終わりである。周りにはホテル、レストランもない無人の砂漠では水が引くまで待てない。まず、バイクを置き歩いて水溜りの深さを測ってみた。深いところで膝あたりまでの深さであった。意を決しバイクを押してその水溜りを渡ることにした。水位はエンジンの高さまであった。渡り切りエンジンをかけると、何事もなく快い金属音を響かせホッとした。
    テヘランは想像していたより近代的な大きな都市であった。砂漠に囲まれたこの町からは、はるか北に雪をかぶったアズボルズ山脈が見えた。太陽が照る昼間は暖かかったが、十月の夜は冬のように寒かった。
    イランの国王パフレヴィ二世は、ケネディ大統領の後押しで経済改革と脱イスラム教政策を進めていた時代で、欧米のようにサングラスにミニスカート姿の女性が多く見かけられた。
    シルクロードの交易で栄えたテヘランのバザールは、迷路のように奥へ路地が伸びており、ペルシャ絨毯やアラビアンナイトの物語に出てくる金細工のランプなどの商品が山住に並べられ、多くの買い物客でにぎわっていた。
    テヘランから東へアフガニスタンに向け、当たり前のように走り出した。
    だが、近代的な建物の建ち並ぶテヘランの町を少し出ると、そこから先は地平線までは砂、砂だけの砂漠であった。イギリスのドーバー港で買った命の綱、地図の出番になった。それには1,000キロほど東のメシャッドの地名は記してあるが、そこまでたどり着くまでの間に部落や町があるのか、ないのかまったく地名が記してなかった。実に大雑把な図で、この先本当に町があるのだろうかと不安だったが、前進あるのみだった。
    メリケン粉のようなきめ細かい砂の中に車のタイヤ跡だけが残る道路であった。もちろん交差点も信号機も速度制限の標識もなかった。だから制限速度もなかったが、バイクのタイヤはきめ細かい砂の中に潜り込み、空回りし、猛烈にメリケン粉のような砂塵を舞い上げ、やっと動いている感じのスピードしかでなかった。
    砂塵から目を守るため、首から上はフランスのパリで土産用に買ったイヴローランのスカーフに目穴を開け、それを覆い、その上からゴーグルつけて走るが、気休めに過ぎなかった。砂塵はまるで生き物のように体中に侵入し、オレを苦しめたが、それもいつの間にか慣れてしまった。
    メリケン粉のような砂の道路を両足でバランスを取り走るが、スリップと転倒の悪戦苦闘の連続であった。
    テヘランで会った車の連中は視界から消え去り、遥か前方に小さく舞い上げる砂埃を見て認識できるだけの砂漠ならでの道だった。
    ガソリン・スタンドがあるのだろうかと常に不安はあったが、砂漠にタイヤ跡があるということは車が往来しておる証であり、きっとどこかにガソリン・スタンドはあると信じて東へ進んだ。
    100キロほど走ると砂漠の中に一軒、むしろ屋根で暑い太陽を遮った荒削りの木製の小さな小屋があった。近づくと将棋台一つあるだけの「レストラン」であった。そこで窯で焼いたヌン(パン)とウイスキーグラスのようなコップにどっさり砂糖を入れた甘いチャイ(紅茶)が食事であった。
    ターバンを巻いた店主にガソリン・スタンドはないかと聞くと、横を指差し、ゴムホースをドラム缶に入れ口でガソリンを吸い出し給油する油屋と茶店を兼ねていた。
    砂漠の「レストラン」も「ガソリン・スタンド」もテヘランとは比較できない時代遅れの格差があった。この格差が後のイラン革命につながったに間違いない。「レストラン」と「ガソリン・スタンド」の発見は、オレにインドまでの旅に確信と安堵を与えた。
    砂漠ではイスラム教徒が式典に使ったと思える、何百年も前に建てられた煙突のような塔をときどき見かけた。中には二本並んで建てられたものや歳月とともに傾いたものもあった。
    時々砂漠の中にも地図にない小さな村と小さなモスクがあり、その尖塔に取り付けられた拡声器から独特な響きを持ったイスラム教の祈祷が流れていた。人々はその祈祷に合わせ日に五回も礼拝すると言っていた。
    また、トラックという移動手段があるにもかかわらず、背中に荷物を括り付けた十頭ほどのラクダの隊商が、砂漠を移動するのを見かけた。最初見たとき、この効率の悪い輸送手段が今もってあるのがと驚き、不思議であったが、すぐに理解できた。砂漠の中を重い荷物を積んだトラックのタイヤが砂に埋まり走れなくなるからラクダを使っていたのだ。
    まったく雨の期待できない砂漠で、住人が水や農作物など生活必需品を、どこで手に入れるのか不思議でもあった。
    夕暮、ラクダの隊商のたちが寝泊まりする泥で造られた小さな無人の建物で野営の準備をしている車の連中に追いつくと、一緒に野営した。
    車の二人の若者は女性の菊地さんと同年配ノンポリ学生で仲良く旅を楽しんでいた。
    砂漠は静寂で普段耳にする町の騒音、鳥や犬猫の声も、人間の生活するすべての音がない世界であった。
    乾燥した砂漠は大気汚染もなく夜空には星も月も大きく輝き、若い彼らは火を焚き、当時、日本で流行ってフォークソングを大声で合唱したり、語り合って野営を楽しんでいたが、その声だけが響き渡っていた。
    たった四年間、日本を離れていただけだったが、オレは彼らの唄う歌や話題についていけなくなっていた。
    彼らが唄っていた中で、加山雄三の「旅人よ」は気に入ったので、イギリスのドーバー港で買った中近東の地図の裏に、歌詞を書いてもらい、走りながら気分転換によく唄った。
    一直線に延びる砂漠の道を走りながら、青く澄んだ空を見上げると長い飛行機雲を引きながら、前日よりも三十分ほど遅れて同じ方向へ飛ぶ飛行機を見ては、昨日より、少し東へ進んでいることがわかった。
    ときには単純なバイク旅行の退屈を紛らわすため、バイクを降り小高い砂丘に上り、見渡す限りの砂漠を眺めると、爽やかな風の音だけが耳をかすめ、映画の主人公「アラビアのロレンス」になったような気分だった。
    書物ではシルクロードは崇高で歴史的、文化的価値の高い魅力的なものとして表現されているが、オレにとってはロサンゼルスからインドへ向かう一本の過酷な道にしか思えなかった。
    砂漠の砂塵を浴びながら来る日も、来る日も走っているイランのシルクロードのどこが素晴らしいのか感じることもなかった。
    しかし、オレが走った砂漠の道のどこかは紛れもなく、古代東西交易に寄与したローマから中国までの本物のシルクロードかも知れないと勝手に思いながら走った。そう思うだけでもシルクロードの出てくるテレビを見ると懐かしくなる。
    砂漠には時々朽ち果てたトラックや車の残骸放置されていた。
    日に一、二回は屋根に荷崩れするほど荷物を満載し、中近東の国々を横断するバスに出会った。バスは猛スピードでオレの脇を走り抜け、そのたびに体中砂を浴びせられ、オレの方へ横転するのではないかと肝を冷やした。
    バスの窓から砂塵で汚れた顔を出し、オレに手を振るいろいろな国の若者たちの中に、日本人の若者も何度か見た。
    (つづく)

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    オレの二十代
    (46)
    ヨーロッパからインドのニューデリー行きバスの窓から砂塵で汚れた顔を出し、オレに手を振るいろいろな国の若者たちの中に、日本人の若者たちを何度か見た。
    その中には、当時、日本中に吹き荒れていた大学生の運動に興味ないノンポリ学生たちも乗っていた。
    バスの乗客である彼らは、ヨーロッパからインドへ向う途中、食事やトイレなどで途中停まるであろうが、トルコの山岳地帯やイランの砂漠を何日も昼夜乗り詰めか疲れ切った表情をしていた。そのような旅をする若者たちの忍耐力というか、我慢強さに驚くだけで、オレなどとてもできない旅であった。バスは昼夜走るので乗客は夜、どのような風景の中を走っているのかわからない。その点バイクのオレは昼だけ走るので旅の風景に途切れがなかった。あの有名な作家も、そのことを残念がったのではなかろうか。
    テヘランの街角の水道で体を洗ったのが最後、水のない砂漠では全くというほど体を洗わない日が続いた。慣れとは恐ろしいもので歯も磨かず、茶店ではハエが砂糖の一杯入ったティ・カップの周りに群がり、ティとともに飲み込んでは吐き出すのが当たり前になっていた。だが、気持ち悪いという感覚は旅している間になくなっていた。
    いつも汚れた水を飲んで日々下痢はしていたが、病気はしなかった。
    不思議なことに、イランの砂漠の中でたった一か所だけ、砂が湿ったところがあった。
    素手で柔らかな砂漠の砂を掘り返すと、濁った水が少しずつ湧き出てきたので、濁りが沈下するのを待って、その水で汚れきった体や下着を洗った。
    洗った下着は絞り、熱い砂漠の砂をぶっかけるとすぐ乾き、手もみするとポロポロとパンツの黄色いた汚れ粕もきれいさっぱり落ち、殺菌効果もあり衛生的な自然乾燥機だった。
    中近東の人々はトイレで紙を使わないので、トイレには紙はなかった。トイレそのものが不潔だったので、広大な砂漠をトイレに使い、汚れた下着を破り、縄、砂で後始末した。日本大使館にあった新聞を失敬し、それをトイレット・ペーパに使ったこともあった。
    大使館といえば、若い日本の旅人たちは旅先で日本へ手紙を書き、返信は移動先の大使館で受け取るようで、どこの国でも大使館には多くの若い日本の若者たちが出入りしていた。
    テヘランを出てから五日目だったか、メシャッドに着いた。このあたりの女性はテヘランと違い、みな頭から足の先まで黒い布(チャドル)で覆い顔も判別できず、不気味な感じもしたが、暑くないのかと他人事ながら気になった。
    イラン・アフガニスタン国境のイラン側建物前の広場にヨーロッパのヒッピーのような若い男女十数名がたむろしていた。その中の一人がオレに近づいてきて、アフガニスタン側まで乗せてくれと言った。事情を聞くとハッシシ(麻薬の一種)を持ってイランへ入国して捕まったそうだ。捕まったといっても周りは砂漠で逃げることもできないので、彼らは勾留もされず自由に建物前の広場で日光浴しながら雑談して、お裁きを待っていた。オレは彼の相談にのれる訳がなく、彼から逃げるようにアフガニスタン側国境へ走り出した。
    一般的には国境線は川とか山脈に引かれているように、アフガニスタン・イラン国境は山岳地帯の峠が国境であった。そこを越すと眼下のアフガニスタン側は荒涼たる砂漠の大地が広がっていた。アフガニスタンに入ると国境沿いに粘土造りの建物が十軒ほどの小さな村があった。建物の周りでは、ターバンを巻いた多くの男たちが、枯れ木に銃帯を吊るし、丸腰でテーブルを囲みカードでギャンブルをしていた。
    この一帯は無法地帯だった。無法地帯といっても西部劇映画に出てくる強盗や殺人が日々行われている無法地帯ではなく、政府の法律が行き届かない地域で、いたるところに銃を作る鍛冶屋があった。
    アフガニスタンはアレキサンダー大王の時代から東西文化の交流があり、多くの民族が住む多民族国家で、それぞれの民族が権力を争っている国である。
    カードゲームを眺めているとターバンは捲いていないが、粗末な服装の知的な若者が私に話しかけてきた。その若者は医者になるため英国に留学したいがアフガニスタン政府の許可が下りないと、さびしそうに言ったのが印象的だった。
    何の産業もないこのアフガニスタンでは、手作りの銃を作りそれを売るか、ギャンブルするしか収入の道がないと彼は言った。
    暗くると危険だから、明るいうちにここを離れたほうがよいという彼の忠告に従い、その場を離れた。村の出口の高台には銃を抱えた十代前半と思われる少年たちが、いたるところで見張りをしていた。間違って撃たれるのではないかと身を地締めて急いでその場を去った。
    アフガニスタンの中央には高い山脈が東西に横たわり、その周を砂漠が囲んでいる。イラン側から通じている道路は西の都市ヘラートからこの山脈の北側を迂回し首都カブールへ、もう一本は山脈の南側カンダールを経由してカブールへと通じていた。
    アフガニスタンは米ソにとって戦略上重要な国で、北の道路はソ連が、南は米国の援助で作られセンターラインなどはなかったが、立派な滑走路に使えるような舗装道路であった。イラン東部のメリケン粉をまいたような砂道に比べると、格段に快適なツーリングが楽しめる道路だった。
    2001年9・11同時多発テロ後、米国は首謀者オマサ・ビンラディンの引き渡しを当時アフガニスタンの支配者タリバンに求めたが拒否され、米国は「不朽の自由作戦」に踏み切った。
    しかし、それまでオレは荒涼とした砂漠のアフガニスタンと戦争して勝っても何も得るものはないと思ったが、多くの犠牲を払ってもアメリカが長々と戦争したのは一兆ドル(約80兆円)の金、鉄鉱石、リチウムなどの地下資源があるのもを因ではなかろうかと最近は思ったりもする。
    カブールへの途中、この立派な幹線道路のいたるところで、銃を肩にかけたターバン姿の男たちがドラム缶を道路の両脇に一個ずつ置き、その上に丸太を置いて道路を遮断して何度となく、5ドル、10ドルと「交通税」をとられた。
    彼らは強盗かタリバンの兵士だったかもしれない。
    ヘラートやカンダールはアフガニスタンでは大きな都市であるが、粘土でできた民家が点在してコンクリートの建物は全く見かけなかった。
    砂塵が舞う道端では露天商が解体した羊の頭まで並べ売っている光景は異様であった。
    村を通過し、道端で休憩していると子供や大人たちまでが、バイクのオレがめずらしいのか遠巻きに囲んだ。
    そのうちに一人の子供がオレのヘルメットをつっつくと、それを合図のように一気に周りの者までがヘルメット叩き出した。彼らは冗のつもりであろうが、大の大人までが叩きはじめた。黙っておればいつまでも続くので、一番強そうな大人をターゲットにヤツの胸倉をつかみ足払いすると、ものの見事に倒れた。その一瞬の業を目にした群衆は蜂の子を散らすように一瞬に散った。
    これこそが「ジュード」の極意だとニタッと顔が緩んだ。アフガニスタンのどこの小さな町で休憩していてもすぐ遠巻きに人が集まってきた。
    群衆に囲まれるとタバコをくれと身振りで言うと、二十本ぐらいはいつも簡単に手に入った。西のヘラートから砂漠を南へ下りカンダールへ、そこから北へ向かうと首都カブールである。
    当時、オレのバイクはガソリンとオイルを混ぜた二気筒の「混合」が燃料であった。イランまでは、オイルの給油も困らなかったが、アフガニスタンに入るとガソリンは手に入ったがオイルが手に入らず、砂漠の道路脇で、いつ来るかわからぬトラックを長々と待った。そして、トラックの使用済みの汚れたエンジンオイルを運転手の言い値で買わざるを得なかった。この使用済みのオイルを使い走ると黒煙をまき散らし、エンジンが爆発するのではないかと恐ろしかった。(つづく)


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    オレの二十代
    (47)
    麻薬所持でイラン国境警備兵に捕まっていた白人乗せて逃げる理由もなく、国境を越えアフガニスタンに入った。西の都市ヘラートから緩やかに南東へカーブして下り、カンダールを経由してこんどは北東へまた緩やかに上り、首都カブールの郊外、砂漠の道端にあった朽ち果てた粘土造り建物で寝袋に入り、疲れ熟睡していると、突然、ターバンを巻いた五、六人の男たちに襲われた。一瞬のことで何が起こったかもわからず、ただ、驚き大声を出し、予備に持っていたバイク・チエーンを振り回し抵抗すると、侵入してきた男たちも大声に驚いたのか、一瞬のうちに暗闇の中に消えた。ほんの数秒間の出来事で恐怖を感じる間もかった。
    朝日が昇ると、汚れたシャツに血が少し流れ付いていた。顔を触ると額のあたりが少し痛かった。襲ってきた連中のナイフで切られたのか、自分が振り回したチエーンで傷ついたのかわからないが大した傷ではなかった。
    パスポートとトラベラーズ・チェックは常にブーツ入れて寝るので盗られなかったが、土産に買っていた50セント・ケネディ・コイン(1965年製までは銀貨であった)、チャーチル・コイン合計約100枚、それに帰国後、海外旅行ガイドブックを作り一儲けしようと企み、訪れた名所旧跡の記録や途中で出会った人々の連絡先を記録書いたノートを盗まれた。たった一枚だけケネディ銀貨が建物の外に落ちていた。
    その建物から100メートルほど離れた砂漠の放牧民のパオ(包)から、オレへ目を向けている7,8人の人影が見えた。奴らが襲ってきたに違いなかったが、どうすることもできず、シッポを丸めた負け犬のように、カブールの日本大使館へ昨夜の顛末を報告しに行った。
    大使館で事件の詳細を報告すると、
    「命があっただけよかったですね。砂漠に埋められたら永遠にわからないところでしたよ」と、大使館員に言われ初めて怖さを感した。
    中近東の通過した国々では常に日本大使館に寄り、日本の新聞を読みトイレを借りていたので、ついでに大使館のトイレの水道で体を洗い、トイレット・ペーパーを貰えるだけ体に巻きつけそこを出た。
    アフガニスタンの首都カブールではコンクリートの建物といえば、各国の大使館とコンチネンタル・ホテルぐらいだった。一国の首都にしてはあまりにも貧弱な首都であった。日本大使館の建物さえ、周りの建物とは比べものにならないほど立派であった。
    高給をもらい、背広姿で高級車に乗り優雅な生活に映る大使館の職員たちは現地の人々に反感を買い、命の危険もあるのではと、他人事ながら気になった。
    空っ風が紙屑や砂塵が舞い上げるカブール市内の道路は舗装が剥げ自家用車など走っておらず、古いバスやトラック、荷馬車が目立ち信号もなかった。
    ほとんどの店は露天で商いをやっており、ターバンを巻いたアジア系やヨーロッパ系の顔をした商人が多く、アフガニスタンが東西シルクロードの交流点であることがよく分かった。
    カブールの日本大使館を出ると、パキスタンへ向け走り出した。用水路作りに貢献した中村哲氏が殺されたジャラーラーバードを通過し、岩肌が剥き出した荒涼たる山岳地帯の深い渓谷に沿って、古来より東西文明の交差点として重要な役割をはたしてきた南アジア世界と中央ユーラシア世界を結ぶ交通の要衝であった標高1,070mのカイバル峠を超えた。
    この峠はシルクロードから南下しインドへ向かう交易路としても重要な役割を果たした。そのため、この交易権を得ようとする諸勢力が、この地の周辺をめぐって抗争を続けたことは世界史上でも有名である。
    学校の歴史では、あのアレキサンダー大王も越せなかった険しいカイバル峠だと習っていたし、ガイドブックもない、iPhoneもないない時代、バイクでは越えることのできない険しい峠に違いないと不安を抱えながら覚悟して登り始めた。ところが、ユーゴからリシャへ抜けたあの大雨の山道、コソボ、北マケドニアへの道など比べると、騙されたように、いとも簡単にバイクはカイバル峠をスイスイと越え、キスタンのペシャーワルに着いた。
    インド国境 入国不許可
    凡人のオレにはシルクロードのどこが素晴らしいのかわからなかったが、イラン、アフガニスタンと砂漠を走ってきたオレは、一応町も区画され、道路も整備され街路樹もあるパキスタンのペシャーワルに着いたときは正直ホッとした。
    それより驚かされたのは、パキスタンの首都イスラマバードだった。
    1961年から建設が始まった、この巨大な政治都市の道路は碁盤状に敷かれ、幅も広く、町そのものが公園のようで緑で覆われ、近代的な建物と建物の間にはたっぷりと幅があり、21世紀の都市とは,まさにこのようなものかと思われるほど素晴らしい街に見えた。
    だが、一歩イスラマバードを出ると道路は狭く舗装されているがくぼみや割れ目が多く、荷と客を満載したトラックやバスの往来が激しく、その上、解き放された多くの牛が、我が物顔で道路の真ん中を、ゆっくりと歩きまわり危険極まりなく走るのに疲れた。
    ラホールを通過、パキスタンからインド国境に着くと、入国手続きを待つトラックやバス、乗用車が長い列を作っていた。
    数時間待たされ、やっとインドへの入国手続きの順番が来たと思ったら、オレはカルネ(バイクの国境通過を許可する書類)を持っていなかったので、バイクの持込みは不許可だとインド国境の出入国管理事務所の係官に言われた。
    それまでインドの国境に着くまで、20カ国以上通過してきたが、カルネのことなど聞かれたこともなかったので、オレは驚き困惑した。
    じゃあ、どうすればいいかとインド国境の出入国管理事務所の係官に聞くと、アメリカで買ったバイクならアメリカのAAA(アメリカ自動車連盟)でカルネを発行してもらって来いと、そっけなく言った。すでにインド国境まで来てしまったオレには、それは出来ない相談であった。
    バイクは、インド国境に着いたときは、エンジンをかけるとクラッチを入れなくても自動的に走り出す、廃車寸前の「オートマティック?」になっていたが、それでも持ち込みはダメだと言った。
    当時、インドでバイクの生産が始まっていたかどうか知らないが、外国製品のインド持ち込みは禁止だと言った。
    この融通の利かない国境の係官と交渉の末、パキスタンの日本大使館へ行き「日本へ持ち帰るバイクであることを保証する」という、お墨付きをもらってくる羽目になった。
    バイクは汚れ、傷みが激しく売れるような品ではなかったので、インド国境で捨てようかとも思ったが、ロサンゼルスからインドまでオレを乗せてきたバイクに愛着が湧き捨てる決断できなかった。
    日本大使館が一民間人のために、そのようなお墨付きを出すかどうか疑問だったが、インド国境からイスラマバードまで約150キロの道のりをパキスタン在住日本大使館まで引き返し事情を話しお墨付きを書いてもらうことにした。(つづく)

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    オレの二十代
    (48)パキスタンの日本大使館に着いたのは金曜日の午後四時過ぎだった。
    大使館の業務は五時までだと思って急いで行ったが、すでに業務は終了し、月曜日の朝まで待たねばならなかった。ニューヨークのオールバニーで雷にうたれ、クランクケースが壊れたときも部品が届くまで、三日も待った経験があり、待つことには慣れていた。
    大使館の周りは外国の公館のような雰囲気の建物ばかりで、静寂が漂い時間をす店もなかった。大使館のパキスタン人職員の許可をもらい、庭の水道を使わしてもらい、体や衣類を洗い野宿させてもらった。月曜日の朝、大使館が開くと事情がすでに伝わっていたらしく、大使はすぐ、
    「私の書面が役立つようなら」と、気持ちよく書いてくれた。
    大使にお礼を言って、再びインド国境まで引き返した。
    インド国境からパキスタンのイスラマバードまで、片道ほんの約150キロの距離であったが、ロサンゼルスからアメリカ大陸を横断、ヨ―ロッパ経由インド国境までバイクで走ってきた疲労が蓄積していたのか、同じ道を三回も行き来することは心身ともに疲労困ぱい、やっとインドへ入国できた。
    無事ボンベイ着 そして日本への船旅
    インドに入ると道路には人と白い牛があふれ、いたるところに糞の塊があり、それを踏むとバイクが滑り、思うようにスピードは出せなかった。
    茶店で休んでいると、ボロボロの服装姿の母親らしき女性と十歳ぐらいの女の子供がバイクを囲みコソコソしていた。何をしているのかとバイクに走って戻ると、バックミラーを引きちぎって散るように逃げだした。そこへ一台の車がスピードも落とさず、道路を走って逃げる彼らを蹴散らすように走り抜け、少女をはねた。しかし、車は停まりもせずそのまま走り去った。
    少女はかすり傷を負っただけであったが、車に乗っている裕福そうな者が貧しい少女をひき逃げするこの光景を見たとき、詳しいことはわからないが、インド社会に根付いているカースト制度の一端を見たような気がした。
    インドの首都ニューデリに着いたのは、1968年12月1日だった。ここもパキスタン同様、道路という道路は人、リキシャ、白い牛の大洪水であった。
    地図を見ると、イラン国境から大分,南下してきたので暖かいのではと思っていたが、ニューデリの朝の気温は零度近くまで下がり、日本の真冬並みに寒かった。
    オールド・デリなどで二日過ごし、200キロ南東のアグラへ向かった。そこにはイスラム文化の建物で有名なタージ・マハルがあり、その周辺の雰囲気は厳かで奈良、東大寺の雰囲気があった。
    このタージ・マハルで会った日本のヒッチハイカーに、ガンジス川へ行けば岸辺で火葬し、灰をその川に流す水葬を見られるからと行くことを勧められたが、その川で水浴もするすると聞き、想像するだけでも汚く感じ行かなかった。当時、ビートルズの影響もあり多くのヨーロッパのヒッピーまがいの連中のほとんどがそこへ行っていた。又彼から1968年12月15日、マルセイユから日本へ向かうフランス客船がボンベイ(現ムンバイ)に入港するとの情報を得た。オレは日本への帰国という現実味を帯びた情報に、それまで世界の名所旧跡を訪れることに専念し、帰国途中であったが、それまで日本へ帰るという実感はなく、次の日も今と同じような旅が続くような気分でいた。しかし、アグラで日本行き客船のことを聴いた途端、自分が生まれ育った国、日本へ帰国するうれしさが突然、こみ上げてきた。もう旅の目的であった旧所名跡を見ることはどうでもよくなった。
    アグラからボンベイまで約1,200キロ、いくら悪路のインドでも事故さえなければ一週間もあればボンベイに着く。それまで毎日バイクで走ることに何の抵抗も感じなかった。だが、ボンベイから先は船旅になり、もうバイクに乗る必要もなくなると思った途端、急にバイクに乗ることが苦痛になった。それに身に着けている物や体は汚れきっており、早くボンベイのホテルに着き思う存分シャワーを浴びたいと,それだけを楽しみに走りだした。
    日本や欧米のように整然と耕され田畑ではなく、雑草の中に食物の種ばらまいてあるよ田畑の中や、道路という道路は人、リキシャ、白い牛、「バクシーシ、バクシーシ」とどこまでもまとわりついてくる物乞いの子供たち、それに自転車の後部に客席を付けた輪タク(リキシャ)などで身動きも出来ないほどの混雑したボンベイ市内に12月11日入った。そしてタージ・マハルで出会ったヒッチハイカーに教えられた海岸近く「救世軍(サルべーション・アーミイ)」の運営する宿に着いた。
    この宿屋というかホテルというか質素な英国風の造りであったが清潔で宿泊代も安く、乗船を待つ日本人や欧米のヒッチハイカーが多く滞在していた。
    アテネを出発して約二か月、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと辺境の野宿の旅にうんざりしていたオレには、この安宿は極楽のように思えた。
    安宿といえば、西のアメリカから東へ移動するにつれ物価がどんどん安くなり、2,000ドル(72万円)そこそこで始めたバイク旅も資金にはまったく困らず、貧乏旅行したという意識も全く感じなかった。これが反対に東から西への旅なら資金的にも不安が募り思うような旅ができなかったであろうかと恐ろしさを感じた。
    走行距離は30,000キロを超していたが、走行距離など全く関心なかった。
    イスタンブールを出てから風呂も入らず、洗濯らしい洗濯もしなかったオレはシャワールームにしゃがみ込み、温かいシャワーを頭から浴びながら洗濯すると、下着は次から次へほころび二度と使い物にはならなかった。
    履いていたジンズは砂漠の泥や砂や牛の糞がコンクリートのように固くこびり付いており、いくら洗っても汚れは落ちず、泥水だけが限りなく染み出ていた。伸び放題の頭髪、髭を散髪屋で整え、あれほど楽しみにしていたシャワーも三十分も浴びればもう十分であった。
    この宿では三時になると、二階のテラスで英国式に紅茶のサービスがあった。このテラスからはボンベイ湾が一望でき、近くには湾に面したアポロ埠頭の突端には1911年、英国王ジョージ五世夫婦がインドを訪問した時、記念に建設されたという植民地主義のシンボルのようなクリーム色がかった巨大な「インド門」があった。
    紅茶を飲みながらこの風景を眺めていると、致命的な故障、けが、病気もなく約30,000キロのバイク旅したオレの心身を癒してくれ、快い眠りに引き込まれた。12月15日、フランスの客船「ラオス号」でボンベイを離れた。バイクは傷みが激しかったが、愛着もあり、まだ乗れるので日本へ持って帰ることにした。
    60年代、70年代ヨーロッパをヒッチハイク旅行した若者には忘れられない客船「ラオス号」は古いフランス客船で、横浜までの運賃も6万円ほどと安かった。この客船には、ヨーロッパで出会った日本の若者が大勢乗っていたこともあり、ニューヨークから大西勢乗っていたこともあり、ニューヨークから大西洋を横断してリスボンまで乗った豪華客船と違い、気取った堅苦しさもなく、航海は楽しいものだった。
    ラオス号はセイロン(現スリランカ)、シンガポール、バンコックと寄港した。それらの都市は豊かなアメリカとは違い想像もできないほど貧しく、汚い町であった。特に、シンガポールは今や世界有数の美しい町に変貌したことは驚きである。
    バンコックから香港へ、ベトナム沖を航海したのは夜だった。生暖かい風を浴びながら、甲板からははるか遠く、ベトナムの戦場で破裂する爆弾が火花を打ち上げられるような光景に見えた。あの光景の下では多くの大人や子供たちが死んでいるのを想像すると、優雅に船旅をしているオレは「天国と地獄」とはこのことかもしれないと思いながら、花火のような砲弾の破裂する光を眺めていた。
    香港に寄港した12月22日、レストランのテレビでアポロ8号が月へ向かうため打ち上げられるのを観た。
    ロサンゼルスから約7か月も費やし、香港にたどり着いたオレはたった90分そこそこで地球を一周するアポロ8号のニュースにオレは複雑な気分で苦笑し、急速な時代の変化を感じた。
    (つづく)



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    Oldies’60s, Hardies in California 
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    「人生は、二十代の生き方で、決まる」。
    (49)
    ロサンゼルスを1968年5月19日出発、その年の12月26日無事に横浜港に着いた。まだ、東名高速道路は全線開通しておらず、横浜から国道2号線を神戸へ、途中から名神高速道路を走り4年5か月ぶりに故郷へ帰った。
    「三億円事件」直後だった。年末、黒ずくめのバイク・ライダー服装で横浜から神戸までの間、何度となく警官に停められ職務質問を受けた。
    歳末で賑やかな神戸の商店街には、ザ・フォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」やピンキーとキラーズの「恋の季節」がオレの無事帰国を歓迎するかのように流れていた。
    年明けの1969年1月19日,「東大闘争」の拠点であった安田講堂が陥落し、東大闘争拠点は封鎖解除された。それと同時期、地元の警察の要請に応じ、三億円事件があった12月10日のアリバイを証明するためパスポート持参で出頭するおまけ付だった。
    今、バイク旅行をした1968年を振り返えるとiPhone、ネットもなく、海外旅行のガイドブックも持たず、行く先々の情報を手に入れるのも至難の業であった。特にイラン、アフガニスタンの砂漠地帯ではガソリン、オイルの入手するのに手間取った。時間も食ったが、それが当たり前の時代であったし、楽しい旅であった。人生総てが良かったわけではないが、若い時の経験が活かされ、それなりの夢が叶えられた人生であった。
    バイクで最初に世界一周したのは1912年頃アメリカ人らしいが、ガソリンはスポンサーが給油地点まで運んだという説もあるが、Facebook friendの説によれば新聞の販売量を増やすための記事で、どこまでが本当かどうからしい。
    オレの場合は航空会社就活のため、出来るだけ世界の旧所名跡観光地を観ていた方が有利と旅費と利便性を考慮、バイクを飛行機、汽車、船などのように交通機関として使っただけで、スポンサーを付けたり、冒険なんて言葉を使うのも起牙しく思うし、何か国行ったか、何万キロ走行したかなど興味なかった。有名人になって金儲けしてやろうと下心があれば、53年前、帰国したころから必死にメディアに売り込んでいた。しかしメディアにとって、ネタはトイレット・ペーパーのようなもので、必要無くなれば終わりである。経験を活かし定職を持ち、地に足を付けた生き方をすべきであると思う。
    飛行機や汽車での旅は移動するのには快適で時間の節約という利点はある。バイクで未知の国を夜間走るのは危険で、昼間だけの移動だった。それは「深夜急行」の主人公のバスの旅行と違い風景に途切れがなく、通過した国々の騒音や匂いや砂漠、大平原、大草原の雄大な自然を五感で味え、その経験は人生の肥やしになっている。
    旅に出る前は足を踏み入れた多くの国々の歴史的建造物や遺跡についての知識は全くと言っていいほどなかったが、現実にそれを目の前にすると、経験した者しかわからない、その素晴らしさに感動し心を震わせられた。
    傷害保険など知らず加入せず、バイクの部品もチエーンのみであったが病気もせず、命に係わる事故もなくバイク旅行ができたのは単に運が良かっただけである。
    ロサンゼルスから東へ、東へと走り続け、日本から遠ざかって行ったはずだが、それを続けているうちに日本へ近づき、日本へ戻ってきた。やっぱり地球は丸いという当たり前のことや、言葉や肌の色は違っても、オレと同じ人間が、この地球という宇宙船で、日々の営なみをしているのが確認できたでも、外の世界を観れ良かった。
    最も驚いた一つに、カリフォルニア州ほどの小さな日本に、世界には誇える四季と、ちょっと移動するだけで、豊かで美しい自然が存在することを知ったことである。
    あなたは、何のためにこの世に生まれたか考えたことがありますか?成し遂げられるかどうかは別として、どんなに小さな夢というか目的を持ち、それに向かって努力をしなければ単なる夢で終わり、残るのは後悔だけの人生かも知れません。夢と、たった100ドルを懐に米国留学、バイクでの世界旅行、そして希望した職種に就けた。100%うまく行ったわけではないが、それなりに夢の叶えられた人生を過ごせ、この世に生を受けた価値があると思っている。
    泳ぎを取得するには、水泳の本を何万冊読んでも泳ぐことは不可能である。溺れ水死するかもしれない水中に勇気をもって飛び込み、悪戦苦闘し、初めて泳げるようになる。
    思考し、決断し、行動に移さなければ自分の人生は動かない。
    「人生は、二十代の生き方で、決まる」と確信する。三十代から先の人生にしても、それまでの経験や養ってきた実行力、判断力、忍耐力を自分の能力を活かす以外、自分の人生を豊かにする道はない。人間、表立って、誰も本音は言わないが、誰よりも良い生活をしたいと思っている。その夢を叶えるには、他人と同じ生き方をしていては所詮無理である。
    人は劣等感という言葉を嫌うが、劣等感は何にも代えられない、自分を成長させ素晴らしい力であり、武器であると思う。
    人間、夢に立ち向かうには体力も気力も充実している二十代が最適ではなかろうか。
    人間、年を取ると体力も気力も衰え夢もしぼみ、利害で物事を判断し始める。若いときのチャレンジは体力もあり、夢は純粋で、好奇心も旺盛であるので、新たな人生が開ける可能性が大である。
    年老いても夢や希望のある人には、人生は短く、ない人には人生は長い。
    今の時代、金と暇さえあればバイク世界旅行など誰でもできる。クソめんどうくさい手続きもせずレンタルできる時代である。
    若者のよ、君には今の時代に合ったチャレンジすべき夢かがあるはずである。それを出来るだけ早く見つけ、そこから先を一生懸命生きることが大切である。
    夢とやる気さえあるなら、今からでも遅くはない、直ぐ、この世におさらばする前に。
    「やってみなはれ!」
    経験ほど人生を豊かにするものはない・・・。
    地球の年齢46憶年、それに比べ人間の寿命はたかが100年、流れ星のごとく一瞬である。
    下手な文章にお付き合いいただきありがとうございました。(つづく)かも?
    写真:「ラオス号」、60,70年代日本の若者がヨーロッパを旅行した時利用したマルセィユ・日本間の客船。

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    (50)あとがき
    ところで、女性として世界で最初にヨーロッパからインドのボンバイ(ボンべイ)までヒッチハイクした秋田の菊地美智子さん(本名甲斐さん)は現在水戸市で、ご主人や息子さんたちと、かっぽ料理屋「開化亭」経営の傍ら日本舞踊の師匠でもある。娘さんはメキシコの大学を出て世界の豪華船で活躍中である。
    スイスのツェルマットのユースホステルでバイトしていた淳ちゃんのこと、川村淳さんは1960年代世界70か国以上ヒッチハイク、メキシコで修業し、現在、京都でメキシコ料理店「ラティーノ」を経営している。彼はスキーのインストラクターになるためドイツのスキー専門学校に留学し、夏はスイスのYHでバイトしていたそうだ。
    バイク乗りは信じないかも知れないが、私は世界一周中バイクで旅行しているライダーには一人も会わなかった。
    何度も書きましたが、地球の年齢45億年、人間の寿命はたかが100年、宇宙の星が右から左へ移動する一瞬です。その一瞬の人生をどう生きるかは,あなたの二十代の生き方で決まると思います。所詮自分の一生は自分ひとり歩かなければ誰も助けてくれません。生意気な言い方かもしれませんが、少しでも私の経験が若い方の生き方のヒント(参考)になれば私は書いた甲斐があり、うれしいです。
    写真:
    イランの砂漠、左から二人目、甲斐美智子さん
    50年ぶり京都での再会。
    左から「ラティーラ」の経営者になっていた川村淳ちゃん。
    水戸のかっ歩料理屋「開化亭」の女将兼踊りのお師匠甲斐美智子さん。私のバイクは三ノ宮駅近くのバイク屋へ修理に出した後何の連絡もなく、ある日そのバイク屋へ行ったら、その店は無くなっていた。今なら高くで売れるそうだ……。

    あとがき(50-2)
    私の経験談を読んだ多くの方々に、何故帰国して、すぐ(1968年)米国留学とバイク世界一周の経験を出版 しなかったのかと今も聞かれます。
    投稿で述べましたように、私の夢は1964年日本の海外渡航自由化を知り、今後伸びる企業は航空会社、そこで働くことでした。航空会社で働くには英語が必需で、英語も今のように簡単に学べる時代ではなく、資金もなく100ドルを懐に米国留学中、米国で航空会社を受けましたが永住権がなくことごとく不合格でした。しかたなく帰国して航空会社に就活しようと決めました。そのためには、世界の多くの名所旧跡(観光名所)を観ていた方が就活に有利と考え、利便性と旅費を考慮し、自分の使っていた中古車で寝泊まりしながら行ことしたのですが、計算しますと自分の所持金額では不可能と分かりました。偶然、同じアパートに住んでいたヤマハの駐在員に、バイクで行ったらどうかと勧められたバイクで世界の名所旧跡を回っていましたら,それがバイク世界一周となっただけのことです。
    帰国後は、人間社会生き抜く冒険に必死で、バイク世界一周のことなど思い出すこともありませんでした。五年ばかり前Facebookで私が1968年バイクで世界一周したことを述べますと、その人が1960年代にバイクで世界一周した日本人はいないと確信をもって告げられ、世界には何人いるだろうかと英語で発信し調べますと、1912年アメリカ人がスポンサー付きで達成したとわかりました。1910年代自動車産業が発達していたのは欧米だけで、日本も少しは開発仲間に入っていた時代です。1968年でさえ中近東、イラク、アフガニスタンの砂漠地帯では「ガソリン・スタンド」を見つけるのに苦労しましたので、ほんまに1910年代、自動車の開発されていない地域に「ガソリン・スタンド」はあったんやろかと思いもします。日本人の海外ツーリングは1970年代になりますと急増、1980年代になりますと男女ともスポンサー付き海外ツーリングが多くなりました。私はバイク世界ツーリングなど金と暇さえあれば誰でもできると思っていますが、「日本で最初に自費で世界一周したライダー」と言われ、人生が変わるわけではおまへんが、悪い気はしませんナ。スポンサー付きと自費とでは、自力でやるか他力本願でやるか、達成感は比べ物のならないほど差があることは事実。本当に私より前にやった人はいないのでしょうか。もし俺が最初だという方がおられるなら名乗り出てほしいと思います。
    バイクでどこどこチャレンジしたという人が多いので、私はバイクでマッターホルン登頂にChallenge?したことにしよう(笑)


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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]


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    Osako Yoshiaki (大迫嘉昭)

    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    オレの二十代
    (31)
    翌1968年6月8日朝、オレは悲劇的な死を遂げたロバート・ケネディの葬儀を見ておくべきだとニューヨーク市内へ向かった。
    オレはバイクを駐車場に置き、皮ジャン、皮ズボン姿のまま、群衆で大混雑の中をマンハッタン50丁目と5番街の角、葬儀が執り行われるセント・パトリック大聖堂へ行った。
    葬儀場の周りには多くの警官が、物々しく歩道から大通りへはみ出す群衆を汗だくで、歩道へ押し返しながら警備にあたっていた。
    車から次から次へと降りて、大聖堂へ入る著名人を近くで一目見ようと、群衆はゆっくりと大波のように動きだした。
    オレも群衆の波に飲み込まれ、自分の意思に関係なく大聖堂の近くまで押されて行き、ジョンソン大統領や後の大統領ニクソンなど、多くの著名人が教会の中へ入っていくのを近くで見ることができた。その時、一般日本人でこの葬儀を見たほかにいただろうか。
    葬儀の後、ロバート・ケネディの棺を乗せた黒塗りの車は、ゆっくりとオレの目の前を通り過ぎた。すると、突然あとに続く参列者の長い車の列が止り、群衆の中からざわめきが起り、警察や警備員たちが銃を持って走りだした。それは映画の一場面のような緊迫感あった。
    「ビルの屋上から狙撃があったらしい」という声を聴いたが、それが本当であったどうかはわからなかった。
    たまたま、オレの前に参列者の乗った黒塗りのリムジン車が止り、数人の警備員が駆け寄り、リムジンの周りを囲んだ。一瞬だったが、リムジンの中を覗くと、ダラスで暗殺されたケネディ大統領のジャクリーヌ夫人とその子供たちが乗っていた。10歳前後の男の子と女の子が後ろのシートでふざけ合っているようであった。そして、ジャクリーヌ夫人は子供たちに、静かにするようにとたしなめているように見えた。
    その男の子は1999年、飛行機事故で死んだケネディ・ジュニア、女の子は元米国の駐日大使キャロライン・ケネディであった。
    ロバート・ケネディの棺はセントラル駅から汽車でワシントンのアーリントン墓地へ搬送されたが、何百万人もの人が線路わきで見送り、数人がこの列車に接触して死亡する事故もあった。
    豪華客船で大西洋横断 ヨーロッパへ
    途中、連日雨に逢い、落雷事故にもあったが、小回りが利くバイクにまたがり、道幅の広いハイウエイのアメリカ大陸を旅するのも良いが、風景が日本と違い単調で、名所旧跡、観光地までの距離があまりにも長すぎる。その点日本は少し移動すれば、また違った名所旧跡観光地に出会える。バイク旅は車からの風景とは違う自然の解放感を全身で味わい、快適な宿泊モーテルや食事、ガソリン代も安く素晴らしい旅であったことも事実ではある。
    しかし、バイクで旅行している若者には一人も出逢わなかったし、観光地はどこも静かだった。そのことをレストランで会った車でドライブ旅行している老夫婦にそのことを話すと、アメリカはベトナム戦争中で若者はいつ徴兵されるかわからず、バイク旅行する気持ちなど起こらないのだろうと言った。
    米国大陸横断に掛かった費用は大まかに計算すると以下の
    とおりである。
    横断距離:約5,300km,バイク:Yamaha YM1 305cc(二気筒)30km?/Liter,
    Used Total Gas:49Gallon x $0.30=$14.70, Motel & Food @11 x 23 Days=$253,
    Bike Repair:$100TTL$367.70(¥132,372当時の平均日本の給料2・5か月分ぐらい?)。 
    1968年6月10日、4年間住んだアメリカを離れヨーロッパへ出発
    する日が来た。
    乗船するギリシャ客船が接岸しているピア62(だったと記憶している)へ出航の数時間前ピア(港)へ向かい、バイクが船に積み込まれるのを確認して乗船した。
    今思うのだが、オレの船賃はバイク込みだったのだろうか?
    乗船客はみなドレスアップしていた。オレだけが皮ジャンと皮ズボン姿で、周りの船員や船客の視線は感じていたが、旅行社の社長も服装については、何も言わなかったし、外国航路の客船に乗るのは初めてだったので、この不手際は仕方なかった。
    ボストン、リスボン、ナポリ経由アテネ行き客船はその夜出航した。
    どんな乗り物も料金によって、その快適さやサービスに格差があるが、飛行機や汽車は料金の高いファーストクラスやコンパートメントに乗っても、安全かどうかは事故が起こるまでわからない。
    その点、船は料金が安いほど船底に近い客室へ押し込まれ、事故による浸水や火事などが起きたら、運賃の安い船底に近い船室ほど危険の確率は高いことは間違いないので、気持ちのいいものではなかった。
    オレの部屋はエコノミークラスよりランクの高いツーリスト・クラスであったが、船底により近いところにあり、部屋の両サイドにベッド三段が備え付けてあり、夏休みを利用して旅行する子供ずれのポルトガル、イタリア、ギリシャ系のアメリカ人客で賑わっていた。
    日本人というかアジア人船客はオレ一人で何かと目立つ存在だった。
    ニューヨーク港を出港すると、すぐロビーに夕食のメニューと円形テーブルの指定席表が張り出された。食事はいつも同じテーブルの指定された席と決められていた。
    レストランの、どのテーブルは八人ほど座れる円形のもので、家族連れ、夫婦連れと指定されていたが、どういうわけか、オレは年老いた白人バアさんたちと同じテーブルに指定された。
    食事時間に席に着くと、ときおり愛想笑いし、話しかけてくるバアさんたちに囲まれ、ただ、黙々と運ばれてくる料理を口へ運ぶだけの味気ない場所だった。
    バアさんたちは何が楽しいのか、テーブルに着いてから食事が終わっても一時間以上しゃべりっぱなしであった。オレは十数分ほどで食べ終得ると後は手持無沙汰であった。客船では町のレストランのように、食べ終わると支払いをすませてサッサと出ていくわけにはいかない暗黙のルールがあるのか、飽き飽きするほど長い会話のあと、おもむろにタイミングを合わせたように、何となく席を立って食事は終るのであった。
    オレにとっては、この客船の食事時間は苦行以外の何物でもなかった。夕食時はドレスアップというか背広着用が義務付けられていたが、乗船初日はバッグに詰め込んだ、しわだらけの背広を着ての夕食になった。
    各テーブルには一人のウェイターが付き、朝昼晩と食事のたびに同じウェイターが食事を運んで来たり、食器を下げたりした。
    オレたちのテーブルを世話するウェイターは、五十過ぎのでっぷりした、気難しいブルドッグのような顔つきをしたギリシャ人だったが、おとなしい男だった。
    同席のバアさん連中は食事が終わっても、誰ひとりチップを置かないで出て行くので、オレは気を利かしたつもりで毎回、食事のたびにチップを皿の下に隠すように置いた。
    三日目ぐらいだっただろうか、いつものようにチップを置いて席を立とうとしたら、このウェイターがそっと私に近づき、
    「毎回、毎回、食事のたびにチップをもらうのはありがたいが、客船では下船どきに、まとめてチップを払うもんだョ」と耳元で静かにささやいた。
    その一声を聴いた途端、オレは顔から火が出るように、恥ずかしかったが、彼の眼は優しかった。
    (つづく)

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    オレの二十代
    (32)
    翌朝、オレを乗せたギリシャ客船はボストンに寄港のあと、リスボンへ向け出港した。ニューファンドランド島沖へ向け針路を航行じていることは、iPもない時代、数時間おきにロビーの掲示板に張り出される本客の現在地を示すチャートで知ることができた。
    航海は毎日、霧と小雨でデッキも野外プールも人影はなかった。
    航海中は知り合いになったヨーロッパを旅行するという五、六人の若いアメリカ人の男女と図書室ヨーロッパの地図を広げ、それぞれの旅行計画についてダベッたり、映画館で映画を観ながら居眠りして時間をつぶすしか手立てはなかった。
    オレはリスボンに着いたら地中海沿いに東へ走り、イタリアの南から船でエジプトへ渡り、ピラミッドを観たあとアフリカ大陸の北部サハラ砂漠を地中海沿いに西へ横断、これもまた映画で有名なアルジェのカスバを覗き、モロッコから再びヨーロッパへ渡り、北上するといった大雑把なものだった。
    毎日、映画のプログラムは変わったが「タイタニック」(タイタニックの映画はそれまで何本か制作されていた)だけは、さすが上映されなかった。
    夜は劇場で華やかなショーやダンスパーティが催され、カジノも開かれたが、リクルートスーツのような服では、場違いな格好で一度も出かけなかった。
    場違いといえば、毎日、時間さえあれば部屋で線香を焚き、お経を唱えている若い白人男性がいた。
    周りの者にはその様子が奇妙で、説明してくれと何度も求められが、オレでさえ知らないものをどう答えかもわからず、閉口した。
    独り者のオレには、この船旅はリスボンまでの単なる交通手段でしかなかった。
    ある日、高級船員に声を掛けられ、カフェに誘そわれた。そして、甲板に無造作に置かれ、雨風さらされたバイクを前に、
    「我社の客船でバイクで大西洋を渡る客は、あなたが最初です。良ければその目的を聞かせてほしい」と切り出した。
    オレも船の旅に退屈していたので、コーヒーを戴きながら、日本を出てから、それまでの経験やこれから世界一周するつもりだと質問に答えながら話した。
    すると驚いたことに、その夜、船長主催によるファースト、セカンド・クラスの乗船客数百人のパーティに招待され、船長に紹介され、その客たちを前に英語で、高級船員にした話を又、する羽目になった。その後、オレの話を聴いた船客の豪華な船室に、何度も招待されたが、それがオレには苦になり疲れた。
    それは、それとして、大西洋航路に限らず豪華客船の旅を楽しむには、豊かな年金生活している夫婦連れとか、恋人たち同士でないと独り者には味気ないものだと、つくづく思った。独り者のオレにはこの船旅はリスボンまでの単なる交通手段でしかなかった。
    リスボン、バイクはナポリへ
    6月18日、ニューヨにークを出港してから8日目の深夜2時、リスボン港に着いた。
    乗客は次から次へ下船し、出入国管理局の下船手続きは終わりかけていた。オレの順番が中々来ないので、ポルトガル入国事務官に下船事務を催促すると、机に一冊だけ残っているオレのパスポートを手に取り、ポルトガルのビザがないので下船できないと係官は事務的に言った。
    何ということだ、ニューヨークの旅行社で船を予約した時もポルトガルビザについて、何も言わなかったので、オレはビザの必要など思いもしなかった。
    雰囲気的に客船はもう出航の準備をしているのはわかった。オレはこのまま下船できず、次の寄港地イタリアのナポリまで、乗って行く羽目になるのではと焦りだした。そこへ、この客船のリスボン支社の社員が来たので、事情を話しながら、机に置かれたオレのパスポートを手に取り、気づかれないように気転を利かし、五ドル紙幣を旅券に挟み彼に渡すと、彼はテーブルに座っている係官に耳打ちした。
    「OKだ!すぐ降りろ。すぐ出航するぞ」と、彼はポルトガル訛りの英語でオレに下船を促した。
    オレはあわてていた。身の回り品が詰まったバッグを小脇に抱え大急ぎで、タラップのほうへ走りながら、後ろを振り返り、
    「オレのバイクは?」と、大声で彼に訊くと、
    「大丈夫だ。明日の朝、会社に来てくれ」と、彼は叫んだ。
    下船はできたが、見知らぬ土地で深夜である。どこに泊まっていいのかわからないので、先ほどの社員が下船してくるのを待ってB&B(民宿)とタクシーを手配してもらった。そのあと、一難去ってまた一難が起こることも知らず・・・・。
    「チン、チン、チン」と、心地よい音で私は目覚めた。
    ベッド脇の開き窓を開けると、サンフランシスコのように、向いの建物との間にはさまれた狭い石畳の坂道を、これも又、サンフランシスコのケーブルカーのように電車が下って行くのが目に入った。
    雲ひとつない紺碧の空、朝陽が向かいの建物のガラス窓に反射して、二階のオレの部屋へ射し込み、さわやかで気持ち良いリスボンの朝であった。
    昨夜は下船に手間取り、このB&Bに着いた途端、疲れが出て直ぐベッドに入った。オレの部屋は十畳ほどの広さで、きれいに手入れされた年代物のベッドとバスタブが備え付けられていた。
    手入れが行き届いた部屋の外には小さなテラスがあり、色鮮やかな花の小鉢が置かれていた。
    眼下には南欧風のスペイン瓦の街並が広がり、それを眺めながら、ベッドに用意されたコンチネンタル・ブレックファースト(朝食)を摂った。
    まるで映画の主人公のような優雅な気分であった。それに一泊朝食付きで3ドルという安さである。アメリカに比べると何という安さであろうか。思いもしなかった安さに最高の気分だった。
    身支度をしていると、船会社の若い社員が迎えに来た。バイクを引き取る手続きのため船会社へ出向いた。船会社に行くと事務所の奥から昨夜船にいた社員が出てきて、
    「バイクを下すのを忘れました」と、申し訳なさそうに言った。
    (つづく)
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    オレの二十代
    (33)リスボン ポルトガル、ナポリ イタリア
    翌朝、船会社に行くと「バイクを下すのを忘れました」と、申し訳なさそうに言った。
    ギリシャ客船は、今、オレのバイクを積んだままナポリへ航海中だと言った。オレは一瞬、自分の耳を疑った。昨夜、下船するとき確認したにもかかわらず、プロの船会社の社員が客のバイクを下すのを忘れたと言う。ヨーロッパ上陸第一日目から不測の事態がまた起こった。
    やれやれである。客船は二日後、ナポリに着くと言う。ヨーロッパに上陸した途端、計画などない旅であったが、ヨーロッパ上陸第一に目から昨夜のこともあり気分は良くなかった。
    船会社のリスボン責任者は、その客船はギリシャのアテネに寄港し、十日もすれば、再びニューヨークへ向かうためリスボンに寄港するので、それまで待つか、それともナポリまでバイクを引き取りに行くかと、申し訳なさそうに言った。
    二、三日ならリスボン観光を楽しめるので異存はないが、十日はあまりにも長すぎる。仕方がないのでナポリまで取に行くからと飛行機代を請求すると、ギリシャにある本社の承認がないと出せないと言う。電話一本で解決できそうな問題であるが、簡単に行かないようなことを言った。
    本社の承認を取るのに時間がかかりそうな雰囲気であった。上司に言われたのであろうか、オレをB&Bに迎えに来た若い社員が本社から連絡あるまで市内観光に行かないかと誘ってくれた。
    地元の人間なら観光スポットも知っているし、タダの運転手付き車なら断る理由はないので申し出を快く受けた。
    「どこを観たいか」と、聞くから、せっかくポルトガルに来たのだから、
    「ヨーロッパ最西端を見たい」と、言うと、
    「いや、ヨーロッパではなく、ユーラシア大陸の最西端だ」と、若い社員は強調した。なるほど言われると確かにそうである。
    早速、オレは彼の車に乗り込み、リスボン市内からロカ岬へ向かった。
    見渡す限り青い空と紺碧の海が広がる高い丘の上に、ポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンイス詠んだ詩の一部、「ここに地の果て、海が始まる」と、刻まれた石碑があり、ガイド役の社員が英訳してくれた。それを聞いて、ここがアジアまで走る出発点かと、オレは少しに地平線まで広がる大西洋を眺めていた。
    リスボンはテージョ川の川下に沿って開けた町で、「七つの丘の都」といわれるほど坂の多い町であった。
    サン・ジョルジェ城やグラサ展望台に行くと眼下に赤瓦の建物がひしめく市内が一望できた。
    このサン・ジョルジェ城で二人の日本人、それも若い日本航空に務める女性と出遭った。
    外国で、それもヨーロッパの西の端、リスボンで日本人に会うなどは想像もしていなかったので驚いたが、すでに海外渡航自由化後四年も経ち、オレがアメリカへ行く頃に比べ海外旅行する人も多くなり当たり前だったのだ。
    テージョ川には橋が架かり、まるでサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジそのものを眺めているような風景であった。だから坂を上り押ししている電車も小さくサンフランシスコのケーブルカーを真似て作ったそうだ。
    オレを案内してくれた社員と会話していると「カステラ」、「コンペイトウ(金平糖)」、「パン」、「ブランコ」、「キャラメル」など少し発音は違うが日本語と同じものが多く、ポルトガルと日本の過去の交流を実感した。
    午後、市内観光を終え再び船会社へ行ったが、ギリシャの本社から承認の連絡は来ていなかった。ニューヨークのオールバニーでヤマハからエンジンが届くまで、三日も待った経験のあるオレは1,2日待つことにはもう苦にならなかった。
    その夜、市内観光に連れて行ってくれた、若い社員を誘い哀調を帯びたポルトガルの民俗歌謡、ファドを聴かせる店へ行き二人で遅くまで楽しんだ。
    翌朝、船会社へ行くと、飛行機代支払い承認のテレックスが届いていた。内容はアテネの船会社の本社まで取に来いというものだった。勿論、オレはインドまで旅する途中、アテネへも行く予定だったので、リスボン・ナポリ間の飛行機代を立替えておくことを了解した。
    オレのバイクを積んだギリシャ客船は、その日の夕方ナポリ港に着くとのことであった。オレはテレックスのコピーをもらい、皮ジャン、皮ズボンにヘルメット姿のまま、着替えの詰まったバッグを抱え、リスボン空港からナポリ行きのアイタリア航空に乗り込んだ。
    ナポリからヨーロッパ大陸ツーリングへ
    ナポリ港に着くと、客船はちょうど接岸するところだった。ナポリの支社にはすでに連絡が入っていたようで、意外と短時間でバイクの手続きは完了した。
    大雑把であったが、オレの予定ではイタリア南部から船でエジプトへ渡るつもりだった。しかし、船を利用すると、また、リスボン港で起こったようなトラブルが起こると厄介なので、エジプト行きは諦め、その日はナポリ港近くの安宿に入り、今後の計画の練直しをすることにした。
    ナポリ空港で買ったヨーロッパ道路地図はあったがガイドブックを持っていないので、安宿の女主人にナポリ近辺の観光すべきところを聞くと、
    「何を見るかも調べないで、ナポリに来たのか?ポンペイと洗濯を干した風景、それにピッザがここの観光の目玉ョ!」と、
    脂肪太りのからだを揺らして笑った。
    建物と建物の間にロープを張り、そこに洗濯物を干している光景は圧巻だったが道路にはゴミが散らかっており、お世辞にも清潔な町とはいえなかった。
    ナポリは世界三大港とか世界三大夜景で、「ナポリを見てから死ね」といわれているが、ピッザは確かにおいしかったが死ぬ気などさらさら起こるどころか、この汚い町をすぐ逃げ出したくなった。
    翌日、安宿の女将の推薦で、ナポリから南へ約三十キロ、ポンペイの遺跡を訪れることにした。
    紀元七九年の大噴火でポンペイの町が埋まり、死者約三千人の遺跡である。
    発掘された建物や街並みは、約二千年前のものとは思えないほど立派な造りで、石畳の道路馬車の轍も当時の生活跡が偲ばれ、すばらしい遺跡で、ここを訪れることが出来たのはラッキーだった。
    この遺跡を見学の後、エジプト行きを断念したオレは北へ方向を変更しローマへと走り出した。
    いよいよというか、やっとヨーロッパ旅行のスタートであった。
    地図を見るとナポリからローマまでは、たった二百キロぐらいであった。
    アメリカ大陸を横断した私には、その距離の短さに戸惑を感じた。
    葡萄やオリーブ畑が広がる中をイタリアの高速道路E四五を北上した。高速道路のどこの入口近辺には若いヒッチハイカーたちがリックやシャツに自国の小さな国旗を縫い付け、画用紙大の紙に自分の行き先地名を書き、右手の親指を立て乗せてくれる車を待っていた。
    いつ停まってくれるかわからない車を待つ、ヒッチハイカーをし
    り目に気分よくローマへ向け走っていると、日の丸の小旗を登山用リックに差し、路肩で車待ちしている日本人ヒッチハイカーが目に入った。
    オレはこんなところに日本人がおることに驚き、路肩にバイクを停め、十メートルほど後戻りして彼に声をかけた。(つづく)
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    オレの二十代
    (34)
    ナポリからローマへ行く途中、高速度道路脇にリックを背負った日本人若者が目に入った。こんなこんなところに日本人がおることに驚き、路肩にバイクを停め、十メートルほど後戻りして彼に声をかけた。
    彼は東京の大学生であった。今、日本は学生運動が激しく大学は封鎖され、ノンポリの学生は安いソ連のアエロフロート航空やシベリア鉄道でヨーロッパへ渡り、ヨーロッパ中をヒッチハイクするのがブームであると言った。その彼も鉄道でシベリアを横断してヨーロッパをヒッチハイクで旅行していると言った。
    おレは日本を離れすでに四年になり、iPhone?もガイドブックも持っていなかったのでヨーロッパの情報に疎かった。彼はローマに行くのなら、1960年に開催されたローマ・オリンピックの選手村が今はユースホステル(YH)になっており、安いのでそこに宿泊すべきだと教えてくれた。安く泊まれるに越したことはないので彼の情報はありがたかった。
    彼は、もう二時間も高速道路の入口で待っているが停まってくれる車はないと苦笑いした。気の毒に思ったが、荷を積んだオレのバイクに彼を乗せることはできなかった。
    「一日中待っても、乗せてくれる車を捕まえることもできないこともありますから・・・・」と、彼は待つことに慣れているようで笑いながら言った。彼の周りには、同じような各国のヒッチハイカーが車待ちしていた。
    「すべての道はローマへ通ず」と、謳われた永遠の都ローマ市内に入るが、アメリカの企画整理された道路と違い、この古い都市は道路が入込んだり、曲がりくねったりしており、ユースホステル(YH)探しに一苦労した。
    ローマ・オリンピック開催から八年が過ぎていた。テヴェレ川近く、白ペンキで塗られたYHは清潔で、宿泊料は2ドルとアメリカの一泊7,8ドルの安モーテルに比べても非常に安く、アメリカでは一日15ドル前後の予算で旅していたが、ヨーロッパでは3ドル前後で出来るとわかり、ドルとイタリア・リラの貨幣価値の大きさはうれしい誤算だった。
    夕方、YHに着くと自国の国旗を縫い付けたリックを背負ったヨーロッパ各国の若いヒッチハイカーたちが続々と宿泊するため集まっていた。
    YHの部屋は広く、多くの簡易ベッドが並んでいた。オレがベッドで荷をほどいていると、隣のベッドに同年輩の日本人が針に糸を通し器用にシャツにボタンを取り付けていた。
    型通りのあいさつをしながら、彼の足元に置いてある古いアルミ製の弁当箱に目をやると、小さなハサミなど裁縫道具、それに釣り糸などの道具までが入っていた。オレには考えもつかない準備周到であった。彼は横浜出身の大野といい、口数は少ないが、穏やかで粘り強い感じのする男だった。
    彼はカナダをヒッチハイクで横断、オレが会ったとき彼はローマ観光を終え、翌日はフィレンツェへ向かうと言った。彼とカフテリアで夕食を摂りながら、お互いの今までの旅のことを語り、ローマの地図を広げ、彼にローマ観光の情報を教えてもらった。
    翌朝、彼は日の丸の小旗を縫い付けたリックを背負い、フレンツェへと旅立っていった。
    オレはバイクでローマ市内の観光へ出かけた。オレが知っているローマの観光地や遺跡は映画で観た紀元前80年に造られた円形闘技場コロッセオやスペイン広場、トレビの泉、カラカラ浴場、バチカン宮殿ぐらいだった。
    コロッセオ闘技場は2000年も前に作られ、今にも崩れ落ちそうな古い建造物であったが、周りの近代的な建物とのコントラストが実に美しく感じられた。暴君ネロがライオンを放してユダヤ人を殺していた闘技場は意外に小さく、数万の観衆を収容するような大きさには見えなかった。
    映画「ローマの休日」で有名になったスペイン広場には多くの観光客であふれ、のんびりと思い思いの格好で階段に座りローマの休日を楽しんでいたが、「せっかちな日本人」と自負するオレなど数分も座っておれなかった。
    なぜイタリアにスペイン広場なのかと疑問に思い周りのイタリア人に聞くと、過去にこの広場の近隣にスペイン大使館があったから、そう名付けられただけだと言った。スペイン広場前の大通にセレブ専門のブランド・ショップや高級レストランが軒を並べ、多くの観光客でにぎわっていたが、金銭的余裕のないオレは素通りするだけだった。
    映画「ローマの休日」を観てない人には、トレビの泉は何の変哲もない小さな「池」以外の何物でもない。後ろ向きにコインを泉に投げ入れると、願いごとが叶うそうで、一個投げ入れると再びローマを訪れる夢が叶い、二個投げ入れると愛する人と永遠におられる、三個なら恋人との別れが訪れると言われている。多くのコインを投げ入れれば、それだけ幸運が訪れると宣伝すれば、この泉を管理しているローマ市もより旨味があると思ったが、そこがイタリア人らしい発想なのか、だから誰も二枚以上投げ入れる人はいなかった。
    どこの国のコインを投げ入れると、願いが叶うかわからななかったが、海外渡航自由化後、四年経ち日本人の観光客も多くなったようで1円、5円、10円硬貨などがやたらと目立つトレビの泉であった。
    帰国して夢の航空会社に就職できれば役立つと、夜は必ずその日訪れた名所旧跡のことを詳しく記録していた。
    ローマに着いたときは、すでにロサンゼルスを出発してから大小100以上の名所旧跡を訪れていた。
    ローマで二日間観光したオレは、フィレンツェへ走り出した。ローマ市街を出て、のどかな田園地帯を北へ約300キロ、時折、小さな村のカフェで休憩しながらのんびり走り、日が沈む前にフィレンツェに着いた。
    ローマの安くて清潔なYHに満足したオレは、その後は出来るだけYHに泊まることにした。どこを訪れても、YHの場所を探すにはリックを背負って歩いている若者たちに聞くとすぐわかった。
    広い車道から脇道へ逸れ細い農道を上ると、葡萄畑で囲まれた小高い丘にフィレンツェのYHはあった。このYHでは朝食は外の葡萄棚の下に並べられたテーブルで摂り、デザートは勝手に手を伸ばし葡萄を取って食べられるシステムになっていたが、オレが泊まった時は熟れてない小粒の葡萄ばかり残っていた。
    旅の途中で多くのYHに泊まったが、このYHも忘れられないひとつである。
    ローマで出逢った大野がオレに続いてYHに着いた。彼は車がなかなか停まってくれず、ここまで来るのに二日を費やしたと疲れ切った表情であった。
    翌日、二人でフィレンツェ観光に出かけた。町は二年前(1966年)の大洪水で建物や文化遺産が大被害をうけ復興のさなかであった。フィレンツェが「ルネッサンス発祥の地」であることぐらいは知っていたが、ルネッサンスが何であるか知りもせず、オレはこの町の名前だけに惹かれ訪れただけであった。
    大野はルネッサンスとは十四世紀から十六世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命というか運動のことですよと、実に詳しかった。やはり旅に出る前に行く先々のことを少しは調べておかないと、旅行の楽しみが半減することも事実だと思った。
    この町はアルノ川を挟んで両岸に広がり、ミケランジェロ広場へ行くと「花の聖母教会」と名付けられた町のシンボルでもある白緑ピンクの大理石で幾何学模様に飾られたドゥオーモ大聖堂はじめ、赤瓦の一色の美しい市街地全体が望めた。アルノ川に架かるフィレンツェ最古のヴェッキオ橋の両側には彫金細工店や宝石店が軒を並べ、道路からそのまま入ると橋と気づかない趣になっていた。
    大野とフィレンツェの町を歩き回わりながら、このあと予定なども話し合った。彼もヨーロッパを旅行したあと中近東、インドまで行く予定と言った。
    フィレンツェに二日間滞在し大野はミラノへ、オレはフィレンツェから南西へ約70キロ、地中海に近いピサへあの有名な斜塔を見るため走り出した。(つづく)

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    オレの二十代
    (35)
    フレンツェ―を出発、地中海の町ピザへ向け走り出した。
    ピサの斜塔は大聖堂の鐘塔として1173年工事にかかったが、十メートルほど建設したところで傾きはじめたが造り直しもせず、そのまま増築し約200年後に完成したそうだ。斜塔の入口で入場券売場のオッサンに、
    「日本人なら、造り直すのに、何故造り直さなかったのだ?」と聞くと、
    「ピサの人間は賢いのだ。造りなおしたら経費がかかる。それよりこのまま建設して傾いていることが有名になれば、お前のような観光客が多く来て、その塔上料で建設費が浮くからだ。ユー・ノ(わかる)?」と、イタリアなまりの英語で自慢気に言った。
    ごもっともである。傾いていなければただの鐘塔で、誰もわざわざ見には来ない。狭い大理石でできたラセン階段は700年の間に多くの観光客が上り下りして、すり減ってすべりやすく、その上傾いているので怖かった。
    ピサから地中海に沿って海岸線を走りジェノアのYHに泊まった。
    この町はアメリカ大陸を発見したコロンブスの生まれ故郷であり、物語「母を訪ねて三千里」のマルコ少年が母を捜しにアルゼンチンへ出かけた港でもある。中世自治都市として栄華を誇った歴史ある街らしく、貴族の邸宅や庶民の住宅がその雰囲気を今も伝えていた。
    YHは安く泊まれるだけでなく、夏休みを利用してヨーロッパ中をヒッチハイクしている各国の同世代の若者との出会いもあり、楽しかった。
    カフテリアで夕食を済ませると、誰彼となく、夕涼みを兼ねて海岸へ出かけ、お国訛りの英語でにぎやかに旅での出来事を語り合い、旅の情報交換の場という実益もあり楽しいひと時でもあった。
    朝を迎えると、
    「またどっかで会おなァ」と、それぞれの次の目的地へ旅立つって行った。
    オレはジェノアから青い海と青い空に燦々と輝く太陽に囲まれたフランス南部、地中海に沿いに一般道路を走り、マドリッドをめざし走り出した。このあたりの道路は狭い片側二車線か一車線でカーブも多く、左側は地中海、右側は小高い丘が続き、赤瓦の高級住宅が点在しアメリカのウエスト・コーストの風景に似ていた。
    イタリアも夏のバカンスシーズンがはじまっているらしく、道路は渋滞、車はノロノロと走っていたが、バイクはその間をスイスイと気持ちよく走り抜けられた。突然、オレの前を走っている車のドライバーが唾でもはくのかドアを開けた。一瞬、オレはブレーキをかけたが開いたドアに衝突した。渋滞のためゆっくり走っていたので転倒もせずオレもバイクも無事だったが、中年男性ドライバーが降りてきて、ドアに傷がついたので弁償しろと大声で怒鳴り始めた。傷などついていないのに大袈裟に怒鳴り続けた。
    そのうちに、渋滞で苛立っている、後続のドライバーたちがゾロゾロ降りて来て、
    「早く車を出せ」と、オレに怒鳴り散らしていたドライバーへ文句を言い始めた。
    怒鳴っていたドライバーは、もうオレのことなど忘れたようにドライバー同士で怒鳴り合いを始めた。
    オレは彼らの口論に参加する気など全くなく、これ幸いと彼らの怒鳴り合いを横目に、その場を立ち去った。
    地中海沿いの狭い道路は曲がりくねり、切り立った山を上がり下りしながら赤瓦や白ペンキの邸宅が建ち並ぶ風光明媚なサンレモ、モナコ、ニース、カンヌへと続いている。これらの地名は音楽祭や映画祭などで有名であるが、訪れて初めてそれらの町の場所を正確に知ることができた。
    海岸線に広がる風景はアメリカ西海岸の風景とよく似て素晴らしかったが、気位が高いというかライダー姿ではホテルのレストランで食事を摂ることなど畏れ多く、ほとんど道端のスタンドで立ち食いだった。そのほうがアメリカ的でオレは気楽だった。
    バカンスシーズンの地中海沿岸、コート・ダジュールは道路も観光名所も混雑しており、のんびり見学する気は起らなかった。
    オレは、この混雑する観光地から逃げるように一日中走っては、YHや安宿にたどり着くだけの繰り返しであった。まるで朝出勤に出て、夕方帰宅する生活の糧を稼ぐ労働者たちと違い、距離だけを稼ぐ単純なバイク走行に疲れ、バイク旅の目的である名所旧跡、観光地を訪れることも忘れていた。
    地中海に沿ってフランスからスペインの第二の都市、バルセロナに入った。この町はサンフランシスコのような坂道が多く、テレビのCMなどで見るアントニ・ガウディが1882年に設計し始まったサグラダ・ファミリア(聖家族)教会が、まだ建設中であった。
    周りの人に聞くと、一般の寄付を募りながらの工事で、いつ完成するか誰もわからないと言っていた。オレはどこの街角でも休憩しては地元の人々とちょっとした会話を楽しんだ。これは旅人にとって最も重要な一つである。
    街角で絵を描いている老人がいた。芸術などとは無縁なオレでだが、バイクを停め、後ろからその老人が描くのを眺めていると、その老人がオレに片言の英語で話しかけてきた。老人はピカソが青年期ここで過ごしたことや、どれほどピカソがエネルギッシュな芸術家あるかなど自慢げに熱を込めて語り始めた。
    ピカソは生涯、油絵、版画、彫刻など約164,000点を制作したそうだ。16歳から制作を始めたそうだから、年間約2,000点、一日約6点制作したことになる。オレは専門家でないので、ピカソの作品については素人で、良さは分からないが、その制作に対するエネルギーのすさまじさには脱帽である。
    バルセロナから遥か右手にピレネ山脈を望みながら、アメリカ中西部のような赤土の平原をサラゴサ経由マドリッドへ向かった。
    赤瓦に白ペンキの家が軒を並べる小さな村の午後、暑い日差しの道路には人影もなかった。木陰のある水飲み場で休憩していると、どこからか小さくフラメンコ・ギターの小さな音色が流れてきた。それを聴いていると、スペインに来た実感がわいてきた。スペインでも行き当たりばったり、いろいろなところに行き、いろいろなものを見たが、この小さな村の水飲み場で聴いたフラメンコ・ギターの音色が最も印象に残った素晴らしい、スペインらしいスペインの風景であった。(つづく)

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    オレの二十代
    (36)
    パリ、そして出遭い
    マドリッド市内に入る直ぐ観光案内所へ直行し観光資料もらい、フラメンコ舞踊、闘牛など多くの物を見みたが、闘牛は残酷でやるべきでないと思った。そう、物語で有名なセルバンテス、ドンキホーテ、サンチェ・パンサ像のある「本場」のスペイン広場も訪れた。そのあとマドリッドから約70キロ南、タホ川に囲まれたトレドを訪れた。
    この町全体が博物館のような古い街並みが残っており、中世へタイムスリップしたような気分になる、すばらしい街だった。
    ピレネ山脈越え フランスへ
    マドリッドで数日過ごした後、北へピレネ山脈を越えフランスへ向かった。フランスとの国境の町サンセバスティアンまでは約350キロ、一日で走れる距離である。今は高速道路ができているらしいが、当時は石畳の一般道路が多く走りにくく、その上、スペインとフランスを分ける、自然の国境線ピレネ山脈は標高3,000メートルを超すところもあったが、そんなに高いところは走らなかったが。夏だったが夕闇が迫ると寒く、山奥の安宿に宿泊する羽目になった。
    翌朝、宿を出るとすぐ下りになった。一時間ほど走るとサンセバティアンの町が眼下に見えてきた。早朝だったので、一直線の下り坂の町には人影もなかった。気持ちよく走っていると、突然、建物の中からトラックがゆっくりバックして道路へ出てきた。
    一瞬のことであった。急ブレーキをかけた途端バイクは横転、勢いよく横滑りしながら、ヘルメットが道路と摩擦するガリガリという音を響かせながらトラックの下を通り抜けた。本能的に頭を打ったと思い、もうバイクの旅は終わりだと一瞬思った。
    本能的に仰向けに倒れたままの姿勢で動かないでいた。早朝の衝突音で家々から人が飛び出して倒れているオレの方へ走ってくるのが見えた。そして数人の人がオレを道路脇へ運び、傷や痛みがないか声をかけ介抱してくれた。オレは事故のショックでしばらくは口もきけなかった。道路脇で横になっていると、少しは体中に痛みはあったが、バイクのハンドルが少し曲がった程度の事故でホッとした。たまたま事故を起こしたのが自動車修理工場前であったので、そこでハンドルを修理してもらい、気分が落ち着くのを待って、直ぐ近くのフランス国境を目指した。
    ヨーロッパではポルトガル以外、どこの国もビザの必要はなく、出入国の手続きはどこも簡単でパスポートを提示し、それにスタンプを押してもらい終りであった。
    フランスへ入りパリを目指して北へ走り出すが、少し行くと頭がクラクラして吐き気がし始めた。トラックと衝突したとき頭を打ったのが原因であった。ヘルメットをかぶっていたので大丈夫だと思っていたが気分が悪くなり、走る気力もなくなった。まだ昼前だったが安宿へ入り、氷水を貰い頭を冷やしベッドで安静することにした。
    食事はいつも「オムレツ、オムレツ、オムレツ」
    昼飯も摂らずに熟睡していた。目が覚めると窓の外は暗くなっていた。眠ったおかげで気分もよくなり、腹も空いたので、ホテル内のレストランへ行きメニューを眺めるが、フランス語が全く理解できない。字から判断してわかるのは「オムレツ」だけだった。そのオムレツも十種類以上あり、どんなオムレツかも皆目わからない。ウエイトレスに、
    「英語話せる?」と、英語で聞いても、
    「ノン」とそっけない返答をして、早く注文しろとばかりに、愛想なく突っ立っている。
    フランスでも、地中海沿岸の観光地では英語は通じたが、一歩、観光地を離れると英語が通じなかった。
    腹が立ったが、フランス語が話せないので仕方がなかった。サイコロを投げて決めるように、メニューを指さしてこれだと注文するしかなかった。注文したものの、どんな料理がテーブルに運ばれてくるかわからないほど不安なものはない。フランスに来て初めて、言葉が通じないと、食事も満足に注文できない不便さを実感し、情けなくなった。
    フランス語は英語と発音が違うので地名さえ発音ができず、映画を観て記憶にある地名や、教科書に載っていた歴史で有名な地名以外、通過した町の名前さえ覚えられず、パリまではワインで有名なボルドーぐらいしか覚えていない。ランス人に会ってもお互い言葉が通じないと話す気にもならず、ただ、葡萄畑や農地の広がる中をパリ目指して走るだけであった。
    いくら英語が話せても、フランス語が理解できないと毎回、毎回、食事はほとんどオムレツだった。街角で出会う人との会話もままならず、フランスの風景しか観ることができず、わびしく、面白くも楽しくもなかったが、それも旅の経験だった。語学ができなくても、それなりに外国旅行を楽しむことのできる人の勇気には尊敬に値するとつくづく思った。
    国境からパリまでは景色のよい葡萄畑の広がる丘がどこまでも続き、走っていても気分が爽快だったのが救いだった。
    この年、1968年5月、パリではゼネストを主体とする民衆の反体制運動、いわゆる「五月革命」が勃発していた。
    フランスに入ったのは7月半ばだった。途中であったヒッチハイカーに、パリは騒然としており、危険だからパリだけは行かないほうがいいと聞いていたが、せっかくフランスに来たのだからエッフェル塔、凱旋門、ムーランリュージュ、モンマルトの丘、ルーブル美術館ぐらいは見たい気持ちが強くパリへ向かった。
    パリに入ると静けさを取り戻しており、何事もなかった。フランス語のできないオレは、相変わらずオムレツばかりの食事にうんざりしながらも、パリ市内を走り回って、帰国後、航空会社就活には有利な条件になるからと、聞いたこともない名所旧跡も観光して回った。バイクでの移動は、バスや電車の行先や時刻表を調べる必要もなく、自由に走り回れ、時間の無駄を省け便利であった。
    バイクに疲れ、エッフェル塔の下にある公園のベンチで昼寝をしていると、背広の肩にカメラをぶらさげた同年輩の日本人の若者が声をかけてきた。大阪出身という彼は建築士の勉強のため、ヨーロッパの建物を見て回っていると言った。
    お互い若く、彼も無名時代で、日本へ帰ったら、又会いましょうと約束して別れた彼は、若き日のあの著名な建築家安藤忠雄氏であった。
    彼はその後、日本の建築家から世界の建築家になった。オレなど足元にも及ばない才能あふれた男で、オレの人生に彼ほど刺激を与えた者はいない。英語で思うように自分の意志を伝えられないフランスは最悪であったが、パリで安藤忠雄氏に出逢えたことは、人生最高の収穫のひつであった。職種は違っても、夢を持ちそれを叶えるため、二十代の若さで世界を観ようと実行に移した志はやった者しかわからない。人生は二十代の生き方で決まると言える。(つづく)

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    オレの二十代
    (37)
    フランスからオランダへ
    ルーブル美術館前で、アメリカに住んでいたというフランス人男性が、オレのカリフォルニアのナンバープレートのバイクを見て英語で話しかけてきた。やっと英語の通じたその男にフランスに入ってからは英語が通じず、ほとんど食事はオムレツばかり食っていると愚痴ると、
    「フランス人は英語を理解しても、フランス語以外はわからないふりをするんだ」と、ウインクしながら言った。
    そういえば、そのような話を聞いたことがあった。やはりフランス人は自国語に誇りを持っているは事実のようだ。
    パリでもオムレツばかり食っていると、当時人気のあったシャンソン歌手石井好子の著書「巴里の空の下オムレツのにおいが流れる」を思い出した。それまで知らなかったが、オムレツはフランスの名物料理だったのだ。
    モナリザを見るだけでも価値があるとルーブル美術館へ、そしてパリを駆け足で観光を済ませると英語の通じる国、英国へ行こうと、ぽつりぽつりと小雨が降り始めた田園地帯を北へ、フェリーの発着するル・アーヴァル港へ向かった。この町は第二次世界大戦末期ドイツ軍の砲撃で壊滅的打撃を受けたところである。
    その西側は1944年6月6日、英米連合軍が上陸しフランスのみならずヨーロッパ全体の運命を決めた史上最大の作戦で知られたノルマンディーだった。シトシトと小雨が降る海岸は人影もなく静まり返り、波も穏やかであったが、オレの頭の中を映画「史上最大の作戦」のテーマ曲「The Longest Day」が勇ましく駆け回っていた。
    フランスの観光ポスターやテレビでよく見かける海岸から一キロほど沖に建てられた城のような修道院モン・サン・ミッシルは、この近くであるが、当時、オレはそのようなものがあることさえ知らず、通り過ぎて行った。
    ロンドン
    日本と違いヨーロッパの季節は、夏と冬が同居している。夏だというのに、ル・アーヴァルの港に着いたときは、雨で全身びしょ濡れになり寒く震えが止まらなかった。
    イギリスのドーバー港まで三時間、フェリーの船員に頼み込んで、エンジンルームに入れてもらい、衣類を乾かしながら暖を取った。
    雨雲の垂れこめたドーバーの町から、農地の広がる中を一気にロンドン郊外まで走り、偶然見つけたアメリカ式のレストラン付のモーテルに宿泊した。モーテルの女主人と久しぶりに英語で意志が通じ、「オムレツ」から解放されたオレは、「ツー・エッグ・ウイズ・ベーコン」にトースト、コーヒーのブレックファーストに生き返った気分だった。
    戦後23年経っていたが、偶然そのレストランで逢った初老のイギリス人女性が、オレを日本人かと確認した上で、彼女の主人は戦争中日本軍の捕虜になり、映画「戦場にかける橋」で有名になった泰緬(たいめん)鉄道の工事で過酷な労働と栄養失調で亡くなった一万数千人の捕虜の一人だと憎らしそうな目をオレに向け言った。
    オランダでも日本軍の捕虜になった人に同じような日本軍の残酷さについて聞かされた。
    ドイツのナチスは数百万人のユダヤ人を虐殺した。米国は日本が宣戦布告前にハワイ真珠湾急襲したとか、戦争を早期終わらせるためのに広島、長崎に原爆を投下し、何の罪もない子供や民間人の大人数十万人を一瞬に虐殺した。
    第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった「日ソ中立条約」に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領した。
    当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約17,000人が住んでいたが、ソ連は四島を一方的に自国領に「編入」し、それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いている。ロシアのやり方は火事泥棒そのものである。
    英国人に旅行を楽しんでいるオレに向かい、事実であれ、20数年前の日本兵の英国兵に対する嫌味を言われ気分の良いわけはなかった。あなたの国,イギリスも過去に多くの国々を征服し、蛮行を繰り返した歴史があるではないかと言いたかったが・・・。
    第二次世界大戦中英国軍の捕虜になったK大学の教授の書によると、英国人ほど残虐な国民はいないと書いている。英国の旅に気が進まなくなったオレは、ロンドンでは大英博物館へ行き、観光の目玉の一つ、おもちゃの人形のような衛兵交代の儀式を見て、英国旅行のお茶を濁そうとバッキンガム宮殿へ向かった。
    十時半から始まる儀式を見ようと大勢の観光客が宮殿前に詰めかけていた。その中に日本のある県会議員の団体客がいた。彼らはバイクでヨーロッパを観光しているオレが珍しかったのか、多くの外国人観光客がいる前で、あたかも有名人を囲むようにカメラを向けられ、帰国したら我が町に来てくれと名刺を押しつけられ、嫌な思いをした。
    「ドイツに行ったら、是非、東ベルリンも行くべきだ」と、
    中年の添乗員が教えてくれた。当時、ベルリンは東ドイツ領内で東西べルリンに分断されていた。外国人は戦勝国ソ連が管轄している東ベルリンへの通行は自由と言うので、彼の勧めも年あり是非東ベルリンへも行こうと決めた。
    ダンケルク、アムステルダム
    気の重い英国になったが、多少ロンドンの名所旧跡を訪れ、再びヨーロッパ大陸へ戻るためドーバー港からカレーへ渡った。
    ヨーロッパに上陸以来、中近東の地図探していたが、どこにも売っておらず、そのことが気になっていた。ドーバー港でフェリーを待つ間に売店で、偶然、中近東の道路地図を手に入れることができた。ここで手に入れられたことは本当にラッキーの一言であった。
    霧雨の中、フランスのカレーに上陸、そこから東へ約30キロ行くと、あの有名なダンケルクだった。
    この町の海岸は1940年5月24日から6月4日の間に、ドイツ軍にダンケルクへ追いつめられたイギリス軍、フランス軍の兵士約35万人を救出するため、当時のイギリス首相チャーチルの命により軍艦や民間の貨物船、漁船、ヨット、はしけなどを総動員した史上最大の撤退作戦(ダイナモ作戦)のあったところで映画にもなった。オレが訪れたのは夏の海水浴シーズンであったが、フランス北部は小雨が降っており、海岸は人影もなく、殺風景な激戦の面影を残す古いトーチカが所々に残る寂しい風景だった。
    小雨が降る北海沿いを日本の県ほどの大きさしかないルクセンブルグ、ベルギ―を通過、フランスからオランダ、アムステルダムのYHへ一日で着いた。
    アメリカに比べ、ヨーロッパがこんなに小さいのには驚きだった。
    アムステルダムのYHに着いたときは気づかなかったが、翌朝、外へ出るとYHの周りは「飾り窓(女郎屋)」が軒を並べていた。
    このことはヨーロッパ中を旅しているヒッチハイカーたちの間では知らぬ者はなかった。ほかのYHに泊まりアムステルダムのことが話題に出ると、あのYHそのものが「飾り窓」だと大笑いするほど有名だった。
    アムステルダムといえば「アンネの日記」で有名なアンネ一家と八人のユダヤ人家族がナチスの迫害から隠れるため、1942年から2年間住んでいた部屋が博物館になっているので訪れた。運河沿いの建物はアムステルダムではどこにでもある四階建てで、一階は倉庫、二階は事務所で三、四階を改造してアンネたちは身をひそめ住んでいた部屋であった。隠れ部屋の入口は本棚でカモフラージュされ、その部屋を見ただけで、今でも彼らアンネ一族が身を潜めているような気がした。なぜユダヤ人がモーゼの時代から、これほど嫌われているのかは知らないが・・・・。(つづく)

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    オレの二十代
    (38)
    長崎「オランダ坂」と東ベルリンでの出来事
    アムステルダムは運河のある平坦な美しい町である。坂など見当たらなかった。しかし江戸時代末期、長崎市内にある、あの坂道を「オランダ坂」と呼んでいた。ポルトガルのリスボンは坂の多い町であったが、オランダには急な坂など全くない。江戸時代の長崎の人は、きっとオランダとポルトガルの区別もつかず「オランダ坂」と適当に言っていたのであろうが、きっとあれは「ポルトガル坂」の間違いと思った。調べてみると、長崎の坂は多くの「外国人」がそこを通っていたので「オランダ坂」と呼ばれていただけである。旅は見るだけでなく、疑問を解く楽しみでもある。
    オランダはライン川下流の湿地帯で、国土の四分の一は海面下に位置している。アムステルダム市街から北の田園地帯へ出ると運河沿いに点々と風車小屋の美しい風景が広がっていた。その風景を眺めながらオランダの北端、ゾイデル海をせき止めた長さ約32キロの巨大な防波堤の上にあるハイウエイのような広い道路を渡り、次の国、ドイツへ向かった。真夏だというのに、真冬のような北海から防波堤に吹き付ける横殴りの冷たい風に必死に耐えながらドイツ国境を目指した。
    ドイツ国境近くの町ブレーメンに入ると突然、バイクのチエーンが弛んで垂れ下り歯車から外れカシャ、カシャと嫌な音をだし、ノッキングしてスピードが出なくなった。
    チエーンの弛みをオレは直せなかった。バイクなどほとんど走っていない時代でバイク屋をなど見つからず、やっと自転車屋を見つけ、そこで直してもらい、ハンブルグの安ホテルにチェック・インした。
    エレベーターを降り薄暗い廊下を部屋へ向かっていると、普通の服装をした女性がすれ違いながら、オレにウインクした。振り向くと向こうも立ち止まってオレを見ていた。女性が立ち止まって、オレにウインクするなど、今だかって経験したこともない。どうもおかしいと思い、ホテル前の街路でフランクソーセジを食いながら、屋台のオッサンにその話をすると、
    「オマエは本当に、ここがどこだか知らんのか?」と、噴き出した。
    「今来たばかりで、知るわけない」と、言うと、屋台のオッサンは笑いをこらえながら、
    「ここはレーパーバーンという歓楽街で、ヨーロッパでは知らない人はいないほど有名なところで、『世界で一番罪深い一マイル』と称され、かのビートルズも世界的に有名になる前は、このレーパーバーンが活動の中心地だった」と、言った。
    東ベルリンでの出来事
    翌日、ロンドンのバッキングガム宮殿で会った旅行社の添乗員が教えてくれた東ベルリンへ行くことを楽しみにしていた。バイクを宿泊している安ホテル前の地下駐車場に預け、ハンブルグ空港からパンナム航空で東ドイツ領上空を通過、西ベルリンへ入った。
    1968年当時、冷戦下の東西ベルリンは東ドイツ領内にあり、西ベルリンはフランス、イギリス、アメリカ、東ドイツはソ連に統治され、西ベルリンは西ドイツの飛び地であった。
    西ドイツ側から西ベルリンへ行くには、東ドイツ領を走っている西側の人間は途中下車が禁止されたアウトバーン(高速道路)、鉄道または飛行機で結ばれていた。西ドイツ国籍以外の外交官と外国人は、境にある東西ベルリンの検問所チャーリーポイントを西側からは何の手続きもなく通り、東ベルリンへ行くことができた。偶然かも知れないが、西側チャーリーポイントを通り、東ベルリンへ行くのは、その時はオレ以外誰もいなかった。東側に入るとコンクリートの壁や監視塔、ジグザグに張り巡らされた有刺鉄線のフェンス、通過する車をチェックするブースが設置され、東ドイツの兵隊が東から西への亡命を厳しく見張っていたが、アメリカ側は木造の事務所が設置されアメリカ兵が留守番役のように一人いるだけだった。
    西側のチャーリーポイントを抜け東側に入ると、二度と西側へは帰れないのではないかと不安と恐怖のような不気味さを感じた。東ベルリンの町は社会主義の無機質主義とでもいうか、歴史的建造物などは見当たらず、映画のセットのような建物と略奪された後のように商品の少ない店舗のショーウインドーばかりが目に付き生活の匂いが全く感じられなく、この国の貧しさがわかった。東側検問所の周りでは東ドイツ兵に感じられないように、若いカップルや子供連れの夫婦、老人たちが何か意味ありげにそれとなく歩き回っていた。
    どういう方法かはわからなかったが西側の家族、親せき、知人、友人たちと連絡し、チャーリーポイントでそれとなく会っているように思えた。
    オレがベンチでたばこを吸いながら、その光景を眺めていると、中年の男性が横に座り折り畳んだ封筒をチラッと見せ、
    「西ベルリンのポストに投函してくれないか?」と、たどたどしい英語で話しかけてきたが、検問所の東ドイツ兵に見つかれば、オレの身がどうなるかわからないので怖くなり、彼には悪いと思ったが言葉を交わすことなく、逃げるようにオレはその場を立ち去った。
    外国人は東ベルリンから西ベルリンへは地下鉄でも行けると聞いていたので、乗って西ベルリンへ引き返そうと階段を下り地下鉄の駅へ向かったが人影がないので引き返そうとしたとき、
    「ハルト(止まれ)!」と、コンクリート造りの通路内に響き渡り、シェパード犬を連れた二人の東ドイツ兵が大声で、こっちへ来いと手招きした。
    「駅を間違った」と、英語で言ったが通じず、薄暗い建物へ連れていかれた。中はガランとした小さな体育館ぐらいの広さで、隅のベンチに座らされた。しばらくすると軍服姿の女性が現れ、
    「パスポート」と、無表情に言って、オレのパスポートを取り上げて立ち去った。
    オレは地下鉄の駅を間違えただけで、何も東ドイツの法に触れるようなことはしていなかったが、ここで何年も拘束されることになると、オレの行方を知る者は誰もいないので、どうなるか不安で怖くなった。
    トイレに行きたくなり、ベンチの横にある部屋のドアをそっと開け覗きこんだら、数名の若い東ドイツ兵士がタバコを吸いながら雑談していた。そこは兵士たちの休憩室であった。オレに覗かれた兵士たちはキョトンとしていたが、すぐ柔らかい顔になり兵士の一人がトイレへ案内してくれた。
    意識してオレは笑顔をつくりアメリカからバイクでヨーロッパまで走ってきたと話かけたが、彼らは黙って聞いているだけで何の反応も示さなかった。
    一時間近くベンチで待たされただろうか、例の女兵士がこっちへ来いと奥の部屋から無表情で手招きした。その部屋は事務所のようで軍服を着た七、八人の男女の兵士がデスクワークをしていた。オレは彼らに言われるままに、彼らのデスク前の椅子に座り、日本からここまでのきた話をして、繰り返し質問を受け、やっと彼らは納得したようで、
    中央に座っていた上官のような服装をした兵士がオレのパスポートを返し、
    「西ベルリンへ戻るか、列車でハンブルグへ行くか」と、事務的に尋ねた。
    冷戦時代、共産圏の東ドイツを見るなどできない時代だったので、興味が湧き、
    「列車で行く」と、反射的に答えたが、あとは何を話したかわからないほど疲れを感じた。パスポートを返してもらい、肩に銃をさげた二人の兵士に囲まれるように駅へ連れて行かれ、ハンブルグ行きの列車に乗せられた。
    列車は東ドイツ領の広々とした農村地帯を西へ止まることなく走り続けた。広大な畑では大型の農耕機を使って農作業している農夫や、手伝いをしている子供たちが列車に向かって手を振っているのが印象的だった。
    一度だけ列車は東西ドイツの国境で停まった。
    旧ドイツ軍のナチ親衛隊のような色彩鮮やかな軍服、腰にピストルを携えた東ドイツの兵士が数人停まった列車に乗り込んできて、東ドイツから西へ亡命するのを防ぐためか、時間をかけ乗客全員のパスポートのチェックをした。
    写真:左下アンネの隠れていた建物、アイユコイド防波堤、レーパーバーン・ビートルズも売れない頃はここで活動していたのだ。(つづく)

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    オレの二十代
    (39)
    ドイツからスイスへ
    ハンブルグ駅前の広場へ出ると若いヒッチハイカーが七、八人たむろしていた。
    彼らもYHに泊まることは間違いないので彼らにYHの場所を聞き、雑談していると目の前に観光バスが停まり、着飾ってハイヒールを履いた若い日本人女性の一団が降りてきた。
    彼女たちは薄汚れた皮ジャンにジンズ姿で道路脇に座り込み、若いヨーロッパのヒッチハイカーたちと話しているオレが目に入ったのか、
    「あんな服装でよその国へ行くのは日本人の恥だ」とばかり軽蔑の眼差しで、わざと聞こえるような声で通り過ぎて行った。
    穏やかに立ち話の出来る外国の女性たちに比べ、外国で同じ日本人であるオレを見ると、あからさまに嫌味な顔を意識的にする若い日本女性が多かった。
    まだ旅費も高く海外旅行は高根の花の時代、日本人の前では決して見せることのない遜(へりくだ)った態度で若い外国に声を掛けられると、態度を一変し、彼らの後に付いていく日本女性を何度も見かけた。その後、日本人女性はナンパし易いと外国人男性に広まった。
    今は着飾って、ハイヒール履き海外旅行する人などいないが、当時は日本人も外国旅行慣れしておらず、国際化していなかったのも一因だったのであろう。。
    ハンブルグのYHもアムステルダム同様、レーパーバーンという歓楽街近くにあり、日本人ハイカーに会えるので、安ホテルからそこへ移った。バイクで走っていると、ほとんど一日中人と話さないし、食事も一人、だから日本人ハイカーに会うとうれしく一緒に観光、食事、旅先の情報交換とそれも旅の楽しみだった。
    エンジンの調子は良かったが、バイクのチエーンの緩み、それにスペインでトラックと衝突したとき応急処置したハンドルが少し曲がっており、長時間走ると、少しではあったが腰がねじれ、だるくなるのでデッセルドルフのヤマハ・ヨーロッパ支社へ出向き修理点検してもらうことにした。現在、ヤマハの支社も世界中に網羅しているが、当時はアメリカにロサンゼルスとチェリーヒルズ(ニュージャージー州)、ヨーロッパにはデッセルドルフ(ドイツ)の二か国しかなかった。ここで整備しないと後はインドまで行けるかどうかは運だけであったバイクが動かなくなったら、飛行機で帰国する気でいた。
    バイクの点検を終えるとバイクも生き返ったように乗り心地が良くなり、気持ちも新たにケルン、ボンを観光、左側にライン川を上り下りする貨物船、観光船、ローレライ、葡萄畑など素晴らしい風景を眺めながらスイス国境目指し走り出した。
    夕立の中、虹のかかったライン川を渡るとスイスのバーゼルだった。バーゼルはフランス・ドイツと国境を接するスイス第三の都市である。スイスは九州より少し大きいぐらいの国であるがどこも絵葉書のようなきれいな風景が広がり、今まで美しいと思って旅の途中撮っていた写真が詰まらないように思えるぐらい美しい国で、心身ともに癒された。
    スイスは永世中立国、平和のシンボルのような国と思われているが、国民皆兵制度があり、タクシーの運ちゃん、駅員、学校の先生まで定期的に訓練に参加する義務がある。
    銃器はそれぞれの各自自宅に保管している。スイスの山道や牧草地を走っていると軍服姿で訓練している数人のグループをよく見かけた。ジュネーブ、チュリッヒ、グリンデルワルト、ユングフラウ、ツェルマットとどこもスイスの観光地は美しく清潔で、人々は謙虚で豊かな生活のできるこの国がうらやましかった。
    ジュネ―ブでは国際連合の諸機関を訪れ、ヒッチハイカーの情報でレマン湖にかかる橋を渡り旧市街にあるデパートのブッフェに入り、年金生活者らしい人々と話しながら食べた安いシチューの味が忘れられない。
    ツェルマットの出遭い
    あの有名なマッターホルンを望もうと高いアルプスに囲まれた牧草地帯に点在する小さな集落を走り抜け、ツェルマットの地入口に着いた。煤煙をまき散らす車やバイクは町へ入ることはすでにこの時代禁止されていた。オレは観光客用の広い駐車場にバイクを置き、身の回り品を詰めたバッグを肩に担ぎ、歩いて町に入った。
    標高1,600メートルのツェルマットの町まではスイス国鉄の列車が来ており、さらに、そこからマッターホルンの麓、標高3,089メートルのゴルナーグラートまでも登山電車で昇れた。
    駅の観光案内所で地図をもらい、それを観ながらYHへ行った。
    ツェルマットの町はスイスならどこでもある高い山に囲まれたV字型の谷底にある細長い町並みで、車がやっと一台通れるほどのメイン・ストリートが一本町の中心を貫いていた。その両側にはホテル、レストラン、土産やなどが軒を並べている。YHは十分ほど歩いた町のはずれ、美しいマッタ―ホルンや小さなツェルマットの町が一望できる小高い丘の上にあった。
    YHは白い三階建てで窓はスイス特有の花壇で飾られ、40人ほどは宿泊できる三段ベッドが備えられた男子用と女子用の二部屋、それにレストラン、シャワーもある清潔なYHだった。若い経営者夫婦には五歳ぐらいの男の子が一人おり、二十歳前後の「ジュンちゃん」という京都の若者が働いていた。彼は当時としては珍しいスキーのインストラクターになるためスイスのスキー留学し、雪のない夏場はこのYHでバイトしていた。彼は愛想の良い働き者で経営者や泊り客の人気者だった。
    オレが訪れたときは夏休みのシーズン中で、特に人気のあるマッターホルンの登山口ツェルマットのYHはヨーロッパ中の若者で賑わっていた。
    シベリア大陸横断鉄道やアエロフロート機を利用してヨーロッパ旅行を楽しんでいる日本の若者も五、六人宿泊していた。
    翌朝、階下のレストランで食事をしていると、
    「オジさんじゃない?」と、
    20歳ぐらいの日本女性が笑顔で声をかけてきた。
    28歳のオレに「オジさん」とはと一瞬驚いたが、初対面ながら嫌味もなく活発な女性にあっけにとられた。
    彼女はオレがバーゼルのガソリン・スタンドで給油していたとき、ヒッチハイク中で乗せてもらっていた車から、オレが日本人であることがわかったらしく、大声であいさつしたと言った。ヘルメットをかぶっているオレにはその声は聞こえなかったが、走り去る車から誰かが手を振っている姿を思い出した。
    秋田から来たという女性、菊地さんはドイツで間借りして、夏の間ヨーロッパ中を旅していると言った。彼女は女性の一人旅は危ないからと、途中で知り合った岸という男性をボディ・ガードに二人でヒッチハイクしていた。(つづく)
    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (40)スイスからオーストリアへ
    ボディ・ガードの岸は彼女より一、二歳年上であったが気の優しそうな物静かな男で、彼女の方が朗らかで元気が良くリーダシップを取っているようだった。
    オレはこのYHから眺められるマッターホルンやツェルマットの町が気に入り、旅の疲れを癒すためにも、そのYHで一週間ほど滞在することにした。滞在中、毎日、日本人から来た若い宿泊者たちとゴルナーグラートへ歩いて登り、マッターホルンやゴルナーグラート氷河、高山植物の咲き乱れる中をハイキング、夜はツェルマット町へ繰り出しスナックで飲みながら、それぞれの出身地やそれまでの旅の経験などを語り、楽しいひと時を過ごした。日本を離れてから四年間、日本の情報に飢えていたオレはここでの一週間が最も旅の中で、最も楽しく思い出ある時間であった。
    ウィーン
    ソ連軍チェコ侵攻
    ツェルマットで出逢った秋田の菊地さんと岸は二日ほど滞在するとオーストリアのウィーンへ向け出発した。ツェルマットで一週間ほど滞在したオレも元気の良い彼女にもう一度会いたくなり、会えるかどうかわからなかったが、オーストリアのウィーンを目指すことにした。
    スイスのツェルマットからオーストリアのウィーンまでは約600キロ、高速道路を走れば時間は短縮できるが、ただ突っ走るだけでは、出来るだけ多くの観光地を観るというオレの目的に反するでいつものように一般道路を走り、オーストリアを目指した。
    小さな国土のスイスから、東西に延びる長細いオーストリアへ入り、西はスイス、北にドイツのバイエルン州、南にイタリアとの国境を接するチロル地方を東へ走った。
    牛や羊が放牧された緑の美しい牧歌的な景観や家々の窓に飾られた色とりどりの花々、車もほとんど通らない小さな田舎道の脇道にテーブルを出した小さなカフェ、すべてが自然に溶け込み旅情をかきたて心が和み、疲れると道端の雑草の上に寝転び、サンタモニカ・ビーチで出逢った女性のことや、帰国後のことを考え、疲れては一眠りして「花の都」ウィーンを目指した。
    オーストリアのインスブルグ領経由ザルツブルグへ行く途中、小さな駅前の安宿にチェック・インした。夜中に何気なく二階のベッド部屋の窓のカーテンの隙間から駅を見ると、暗闇の中、戦車や装甲車を積んだ長い貨物列車が停まっていた。当時、1968年、チェコスロバキアは言論や集会の自由、市場経済の導入など自由化政策の導入を推し進めていた。
    この「プラハの春」と呼ばれる動きを封じ込めるため、ソ連を軸とするワルシャワ条約機構軍がワルシャワへ侵攻するのではないかという危機感があった。多分、貨物列車の戦車はNATO軍が警備のためドイツ・チェコスロバキア国境へ移動中だったのか、ナチ・ドイツ軍の映画を観ているような重々しい駅の周りの雰囲気だった。
    1968年8月20日、ソ連軍がプラハへ侵攻した日、ウィーンのYHに着いたら、ボディ・ガードの岸と別行動をとったという菊地さんに幸運にも再会できた。
    その夜、オレは彼女を誘い二人でドナウ川のほとりを散歩、ロマンチックなウィーンの夜だったが、彼女には許婚がいると知らされた。
    翌朝、彼女に二度と会えないと思い、オレは彼女を誘いYHで朝食をしたいと思い彼女を探したが、すでに旅の次の目的地へ出発したのか見つけることはできなかった。オレはがっかりもしたが、ソ連軍ワシャワ侵攻という歴史的な大事件に遭遇し、好奇心旺盛なオレはチェコスロバキア国境へ向かった。国境はワルシャワ機構軍の兵隊が物々しく警備しており、ピリピリした空気が支配しており、彼らの罵声を背にオレは今来た道を引き返えしミューヘンへ向かった。
    ミュンヘンでの再会
    二日後、市庁舎の塔にある人形劇の仕掛け時計とビールで有名なミュンヘンのYHに着くと、ローマのYHで逢った横浜の大野、秋田の菊地さんとまた会った。偶然というか、日本人の移動形態が似通っているのか、ヨーロッパを走っている間、同じように多くの日本人に何度も会った。大野と菊地さんはお互い初対面だった。
    その夜、三人でヒットラーがナチ党の旗揚げをやったことでも有名なホフブロイハウスという三百年以上の歴史を持つビャホールへ出かけた。
    このビャホールは天井の高い一階のホールは数百人も収容できる建物で、観光客も地元の客といっしょに巨大なジョッキになみなみと注がれたビールを飲み、にぎやかに歌い、語り合い楽しんでいた。
    我々も長い木製のテーブルに陣取り、ミュンヘン名物の白ソーセージをおつまみに、思い切り飲み、周りの観光客と一緒に楽しんだ。
    ビールを飲みながらフィレンツェで大野と話した中近東からイン
    ドへの具体的な旅の話になった。大野はドイツ中古車を買って中近東を横断することにしたと言った。そして、中近東の夏は暑いから涼しい季節になってから出発することなど、具体的な話になった。
    その話を聞いていた菊地さんも、
    「私も行く!」と、酔いに任せて元気な声を上げた。
    オレは彼女が中近東横断するはずはない、酔った勢いで言ったのだと思い、
    「わかった!じゃあ、まだ二か月ほどあるが、10月15日、アテネのYHで会おう」と、言うことになった。
    アテネは、リスボンからナポリまでバイクを引き取りに行ったとき、オレが立替えていた飛行機賃をアテネの船会社で受取ることになっていたからだ。
    翌日、当たり前のように、それぞれの次の目的地へ散って行った。オレは北欧を目指すことにした。ミュンヘンから北へ向かい、フェリーでバルト海を渡り、一日かけてデンマークのレズビュハウン港へ着いた。
    デンマークからスェーデンへ
    北欧 忘れられない想い出
    レズビュハウン港から、八月末であったが、秋風が身に染みる平坦な田園が広がる道路を北へ数時間、コペンハーゲンに着いた。
    コペンハーゲンの名物と言えばアンデルセン童話の「人魚姫」を題材に造られた人魚姫の像とチボリ公園が有名である。この人魚姫の像は高さ八十センチと小さく、像の背後には海を隔てて造船所が見え、「世界三大がっかり」と評されていた。
    一般的には人魚の下半身は魚のシッポであるが、モデルの足があまりにも美しかったので、製作者がこの人魚姫の像の下半身に脚を付けたけたのは有名な話である。
    1968年当時、デンマークはインフレで賃金も高く、コペンハーゲンの街は日本人ヒッチハイカーたちで溢れかえっていた。
    コペンハーゲン駅周辺の繁華街にあるレストランでテーブルの片づけや皿洗いのスタッフはほとんどが日本の若者だった。
    YHにも多くの日本人若者が長期滞在し、この街でバイトして稼いでは次の目的地へ旅立っていた。
    コペンハーゲンのYHに着いた翌朝、オレは目が覚めると、疲れがひどく起き上がれなくなった。
    YHにはチェックアウト時間があったが、オレは理由を言って特別に許可をもらい、宿泊客の出払った三段ベッドが並ぶ部屋で朝食も摂らず横になっていた。だが、昼過ぎになると気分がよくなり、夕方になると朝の疲れがウソのように体の調子がよくなった。
    そして、このYHに泊まっている日本人のヒッチハイカーたちに誘われたり誘ったりして駅前のカフェやチボリ公園でビールを飲み、駄弁り、夕日の沈みが遅く、涼しい北欧の夏の夜を楽しんだ。
    しかし、次の朝、目が覚めると、また疲れがひどく起き上がれなくなり、夕方になると元気になった。このような体調が一週間ほど繰り返し続いたが、オレは長旅の単なる疲れと思い、保険も持たずの旅だったので医者にも行かなかった。後年、毎日起こる、その体調の原因は低血圧症の症状だったとわかった。(つづく)
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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki



    ※ご本人様の承諾を得てブログ掲載しています。

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話



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    Osako Yoshiaki (大迫嘉昭)

    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (21)
    アメリカ生活にもすっかり慣れた1966年、ベトナム戦争の拡大とともに忘れられない事件や事故が内外ともに多発した。
    二月、北海道千歳空港発羽田行き全日空ボーイング727機が東京湾に墜落、乗員とも233人全員が死亡、一機の死者としては当時世界航空機史上最悪であった。
    全日空機の事故から一ヶ月後の2月4日、同じく羽田空港でカナダ太平洋航空のDC8型機が着陸に失敗、72人中、64人が死亡する事故が起きた。翌日の5日、今度は英国のBOACのボーイング707型旅客機が富士山で墜落、113人全員が死亡した。
    この航空機事故は、二日続きの航空史上例のない大惨事であった。カナダ太平洋航空機の事故は、いつも行くアパート近くのコンビニで売っている「ロサンゼルス・タイムズ」を見て知った。
    その日の夕方、同じコンビニの前を通ると、航空機事故を報じた新聞が再び目に入った。
    「今朝の新聞,まだ売れ残っているのか?」と、なじみの店主に訊くと、
    「朝から、そんなことを訊くのはお前で8,9人ぐらいだ。無理もないけど。よく見ろよ。二日続いて同じ国で、それも100マイル(160キロ)以内でこんな飛行機事故が起こるなんて初めてだもんな」と、
    ユダヤ人の店主は両手広げ、大げさに驚くしぐさをした。
    時差の関係で、アメリカでは二つの事故は朝刊と夕刊に載った。
    だから、このような錯覚を起こしたのだ。忘れることのできない日本の航空事故であった。
    ベトナム戦争と公民権運動
    当時、世界一豊かで自由な国、アメリカは国内外に抱えた問題が拡大しつつあった。内においては、黒人やほかのマイナリティ(少数民族)が教育、雇用、住居、司法などの分野における人種差別に抗議し、白人と同等の権利の保障を要求する運動が起こっていた。その代表的な運動がマーティーン・ルーサー・キング牧師の指導した非暴力による直接の抗議行動、いわゆる公民権運動であった。
    外に対しては、私がガーディナーのヘルパーをしていた1964年8月に起こったトンキン湾事件である。ベトナム北部にあるこの水域で、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたとして、アメリカ空軍は北ベトナムの沿岸基地を爆撃、ジョンソン大統領は戦争遂行の権限を議会に求めた。議会は圧倒的多数でこれを承認、これを契機に北ベトナムの爆撃と地上部隊の大量派遣に踏み出した。この事件によってアメリカは、少なくとも国内的には、ベトナム戦争に介入する大義名分を得た。
    この二つの歴史的事件は、毎日トップニュースとしてテレビ、新聞などで大々的に取り上げられた。だがオレの知る限り、アメリカはベトナムで戦争している一方で宇宙ロケットを打ち上げていた。戦争は本来、国全体が団結して敵に立ち向かうものだと思っていたが、アメリカは片手間にやっているような感じで、周りのアメリカ人も他人事みたいなゆとりがあり、最初の頃は戦争の緊張感もなく周りのアメリカ人は表面上、何事もなく日常生活を続けていた。
    1965年三月の初め、南ベトナム空軍機とアメリカ空軍機160機以上が北ベトナムの弾薬貯蔵庫や海軍の軍事施設を爆撃、70から80パーセントを破壊したとメディアは報じた。この出撃はアメリカのベトナム戦争介入以来、最大規模だった。それから数日後、アメリカは戦車を含む重装備の海兵隊3,500名を北ベトナムのダナン海岸に上陸させた。
    テレビや新聞はこのニュースを連日大々的に取りあげ、いくら直接関係のないオレでも、アメリカに住んでいると、アメリカが本気でベトナムへ介入していくのを肌で感じ始めた。
    アメリカに行くまでは、アメリカの大学は中産階級の子弟が学び、卒業後はエリートとして敷かれたレールに乗りまっしぐらに出世街道を走るものであり、日本の60年安保のような過激な政治運動とは無関係なものだと思っていた。
    だが、英語学校に入学した64年9月、カリフォルニア大学バークレー校で、それまで黙認されていた大学の正門前でのスピーチを学校側が禁じたことに端を発し、学生たちがそれに反発して大学は大混乱に陥り、12月に大学側が警察を導入して、800人以上の学生が逮捕されるというかってなかった事態が起こった。
    この大混乱の中で学生たちは、大学というものは大学の管理エリートによって、企業が求める知識を学生に詰め込む単なる工場に過ぎないと認識し、学生の権利を少しでも侵害するすべてのものに反撃し始めた。アメリカという「豊かな社会」で育ったエリート学生たちは、同じアメリカで差別を受けている黒人を助ける運動を始めるとともに、自分たちの権利を主張する運動の拠点を大学内部に設立した。
    当時、ロサンゼルス市内では、テキサスなど南部の州のナンバープレートをつけた車をよく見かけた。乗っているのは99パーセント黒人であった。
    南部の州と違い、ここカルフォルニアではトイレ、レストラン、バスも白人用、黒人用という区別がなかった。南部に比べあからさまな差別のないカリフォルニアへ、多くの黒人が移動してきていた。
    1965年8月12日、ロサンゼルスの南約16キロ、ワッツ地区で黒人暴動が起こった。
    この暴動の発端は、ワッツ地区の路上で黒人の酔っ払い運転者を白人警官が逮捕しようとしたことがきっかけだった。黒人群衆と警官隊との間でトラブルが発生し、アッという間に大規模な暴動に発展してしまった。暴動の背景には、ロサンゼルス市警察署長が差別主義的な考えの持ち主であったため、黒人の間に警察官に対する不満がたまっていたことも一因だったようだ。
    この暴動は寝苦しい夏の夜、一週間も続き、死亡34人(うち黒人に15人)、1.000人以上の重軽傷者が出て、1,000戸近くの建物が破損、破壊された。殺された者の中には日系二世の若者もいた。
    暴動が収まった翌日からは、暴動で殺された黒人たちの葬儀がオレの働いていた墓でも行われ、墓堀の手伝いに駆り出され、芝刈りどころではない忙しく暑い夏の日々がしばらく続いた。
    (つづく)

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (22)
    当時、日本では車を持っている人はほんの一握りであったが、ロサンゼルスの住宅は、どこもガレージ付で、どの家庭でも最低一台の車があった。
    運転できない者や車を買う金のない者は、この広い土地ではまったく身動きができない。移動は総てが車で日常生活に欠くべからざる靴のようであった。
    車に乗ったまま映画を見るドライブ・イン・シアターをはじめ、ドライブイン・レストラン、ドライブイン・バンクまでが、すでに当たり前にあった。
    映画やテレビは、オリーブ油できれいに日焼けした若者の青春像を「サンタモニカ・ビーチ」や「車」とともに、南カリフォルニアの若者の生活様式として、アメリカはもとより全世界に伝えていた。
    その映画やテレビが作り物であるにしろ、ハンドルを握り、車のラジオから流れる「ビーチボーイ」を聴きながらフリーウェイを、ビーチロードをドライブするだけで、貧乏留学生のオレでも「南カリフォルニアの青い風」が体中を吹き抜けるような爽やかな気持ちになった。
    カリフォルニアはアメリカ中からだけではなく、世界中から人々が集まってくる二十世紀のアメリカ新大陸のように思えた。
    そこには巨大なエネルギーと富が渦巻いており、夢が溢れているようだった。人間にとって全てのものに恵まれた南カリフォルニアで生活すれば、心身共に健康になり、夢も無限に大きくなるような気がした。
    「地図を見ると、日本はソ連(ロシア)や中国から石を投げると届きそうな距離にある。核弾頭が打ち込まれる恐怖はないのか?」と、アメリカ人から時々聞かれたことがあった。
    日本にいたときはソ連(ロシア)や中国からミサイルが飛んでくると考えもしなかったが、アメリカに住んで世界地図を広げ眺めると、日本列島は北のカムチャック半島か近くら南は台湾の近くまで約三千キロ細長く伸び、確かに、中国やソ連(ロシア)からの攻撃を防ぐアメリカの防波堤になっているように思えた。
    それは、あたかもアメリカとキューバの位置関係のように見えた。アメリカはキューバにソ連(ロシア)のミサイルが配置され、「アメリカの喉元に刺さったトゲ」を撤去させるため、フルシチョフとケネディ大統領は第三次世界大戦の勃発を予測させるようなキューバ危機を起こした。
    アメリカから見れば、日本は中国やソ連(ロシア)に対する最前線基地であったが、反対に中国やソ連(ロシア)から見れば、日本は喉元に刺さったアメリカの「トゲ」に見えただろう。見る立場が違うと考え方も違うのだ。
    アメリカ生活の四年中、忘れられないのはベトナム戦争のエスカレーションとアメリカに来て三か月後の1964年10月、開催された東京オリンピックである。
    日本を出発する頃は、日本中、どこのデパートのショーウインドーも華やかにオリンピック開催を祝う飾りつけをし、日本全体がオリンピック一色のにぎわいを呈していた。
    ロサンゼルスの日系新聞「羅府新報」も連日のように、「受け入れ進む羽田―浜松間モノレール」、オリンピックに向け「ホテル・ニューオータニ」、「東京プリンスホテル・オープン」、「ホテル・ニューオータニの高層スカイラウンジ見物人客で大混乱、ホテル側急きょ整理券発行に大わらわ」、「伊東と熱海の旅館9万人のベッドを空け外国人客に備える」等々、国を挙げてのオリンピックムードを伝えていた。しかし、働くことと学校だけのオレにはオリンピック開催直前まで、他人事で興味もなかった。
    それよりも、当時、日本ではボーリングするのに5,6時間も待たされるほどのブームだったが、ロサンゼルスでは待つことなく、すぐ出きることが嬉しかった。オレは1964年10月9日、、学校仲間と日系人の経営するボーリング場で、10セント(36円)のコカ・コーラ―を飲み、ボーリングをしながら、時差の関係で金曜日の夜中に中継された東京オリンピックの開催式を偶然観た。
    テレビ画面の鮮明度は、前年の十一月、ケネディ大統領が暗殺されたときの衛星中継に比べ、格段とよくなっており、国内放送を観ているようだった。
    開会式の中継は二時間ほどであったが、東京国立競技場の熱狂的な歓声とは裏腹に、アメリカ人アナウンサーが淡々と「英語」で放送する画面には、感激も感動も起こらなかった。
    日本のバレーボールチームが優勝した試合もテレビで観たが、「英語の実況放送」だったので、
    「ああ、女子バレーボールは日本が金メダルか」という程度のあっさりした印象だった。
    オリンピック開催中、日本では一億総国民がテレビにかじりついて大盛況のようであったが、オレはアメリカでテレビを通じて、オリンピックに熱狂する日本人を冷静に観察することができた。
    「日本女子バレーボール金!金!金メダル!」とアナウンサーまでが興奮して大声を上げ、それを観戦している一億総国民は日の丸が揚がり、「君が代」が演奏されると感動と感激の涙を流したと「羅府新報」に載った。
    オリンピックの翌年、ロサンゼルスにある「東宝ラブレア劇場」で東京オリンピックの記録映画が上映された。観客はほとんど日系人、日本からの駐在員家族、留学生で、観客もそうであったと思うが、オレも、前年、東京で開催されたオリンピックの雰囲気を味わうため観に行った。
    女子バレーボールの優勝シーンは、当日のアナウンサーの日本語実況入りであったが、英語によるテレビ放送で観たときと違って感動した。アナウンサーは視聴者を感動させ、感激を煽るのが実にうまいものだと、つくづく感心した。それに母国語というのは、感性や感情に直接訴えるものがある。
    反面、一億総国民が熱狂しているのを外から観ていると、それが健全なスポーツ大会と違い、戦前のドイツのベルリン・オリンピックのようなヒットラー・ナチス党のもとでのようなものであれば、危険な方向へ走り出す可能性もなきしもあらずと、一瞬過ったのも事実であった。(つづく)


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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (23)
    ベトナム戦争、ワッツの暴動、キング牧師の公民権運動、カリフォルニア大学バークレー校の「学生の反乱」はオレにとっても、無関心ではおれない出来事であったが、取り立てて切実な問題ではなかった。
    朝6時に起床し、7時から12時まで墓地で働き、午後2時から9時まで大学で授業を受け、アパートに帰って、簡単な夕食を摂り、シャワーを浴び、真夜に床に就くまで囚人のような規則正しい日々の繰り返しだった。
    アメリカ社会が激動する時代、アメリカ音楽は黄金時代だった。オレの心を癒してくれたのは、トランジェスター(携帯)ラジオから流れるビートルズの「アイ・ウオン・ツ・ホールド・ユアー・ハンド」、「シー・ラブ・ユー」、ダイアナ・ロスとスプリームスの「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ」、「ユー・キープ・ミー・ハンキン・オン」、スコット・マッケンジの「花のサンフランシスコ」、ビーチ・ボーイズの「サーフィン・U.S.A.」,ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」、ビー・シーズの「マサチューセッツ」など Oldies,60sのヒット曲であった。まさに音楽は黄金時代であった。
    今でも「Oldies,60s」の曲を聴くと,当時のことが鮮明に思い出される。
    1965年5月、中国では毛沢東指導による「封建的文化、資本主義的文化を批判し、新しく社会主義的文化を創生しよう」という名目の「文化大革命」が始まった。
    イギリスのツイギーのミニスカートが流行、ビートルズ旋風、学生の反戦運動、ヒッピーの出現が世界の若者文化を変えていった。さらには、サンセット・ブルバード(大通り)界隈を旧ドイツ軍のヘルメットをかぶり、鎖をネックレスのように体にまとったオートバイ軍団「ヘルズ・エンジェルス」が我が物顔に走り回り、ジョン・バェズ、ボブ・ディランなどの反体制的なフォークソングが流行り、アウトロウたちの暴力に満ちた映画「俺たちには明日はない」が若者たちの絶大な人気を集めた。こうした若者たちによる豊かな社会に対する反逆、文化の急激な変化に、オレはアメリカという国がほころびていくように思えた。
    ベトナム戦争はますますエスカレートの一途をたどり、戦死者の数は週に100人を越すようになり、米軍の苦戦は誰の目にも明らかであった。アメリカのベトナム派遣兵が47万人を越え始め、アメリカ政府はアメリカ在住外国人、すなわち、駐在員、留学生、観光ビザで滞在している者もドラフト(徴兵)の対象にすると発表した。アメリカ各地では黒人解放運動や学生運動が急進化し、政治的反戦運動も全国的な広がり、中学時代見たアメリカ映画によく描かれた「静かで豊な50年代のアメリカ」のイメージは幻のごとく消えていた。反面、トヨタ、日産、ホンダなど日本車がロサンゼルスの街角で、月に何台か見かけるようになってきた。
    バイクで帰国へ
    私は大学でビジネス・マネージメントという、日本ではまだ馴染みがない分野を専攻していた。企業が新製品を売る場合、商品の価格、販売戦略をどのように立てるかを目的とする学問であった。
    やみくもに足と顔で稼ぐ日本式経営はもう時代遅れで、この学問は帰国し就職したら役立つと思った。
    同じ頃、日本は経済発展とともに海外旅行ブームが始まった。ロサンゼルスの街角にも日本人観光客が目立ち始め、ロサンゼルスにある日米の航空会社は日本人観光客に対応する「日本語のできる社員」の募集を始めた。
    オレがアメリカ留学した目的は英語を学び、将来、航空会社で働くことだった。アメリカの航空会社は給料も良いし、安く日本に行けるし、週休二日制もない、シャワーも風呂もなく、銭湯を利用し、狭い家、車も持てない日本よりも、豊かな生活が出来るアメリカに住みたいと心が揺れ出し始めた。
    オレは年に一、二度しか着ない、しわだらけの背広をクリーニングに出し、墓の仕事を休み勇んでダウンタウンの日本航空、パン・アメリカン、ノースウエスト航空へ履歴書を携え訪問した。
    日本で旅行会社勤めの経験あるオレは直ぐ内定したが、会社が永住権手続きをしてくれるものと思っていたのが甘かった。最終的にはグリーン・カード(永住権)がないという理由ですべて不採用になった。
    永住権のあるアメリカ女性と結婚すれば、問題は簡単に解決したであろうが、単に就職のために結婚する気にはならなかった。
    オレは28歳になっていた。常識的には結婚し、家庭を持つ歳頃であった。アメリカで航空会社に就職できなければ、留学の意味がなくなった。ならば帰国して航空会社の就職口を探そうと決めた。
    居間の壁に掛けたアメリカの地図を眺めると、アメリカに四年住んでいたが、その間ロサンゼルス、サンフランシスコ、ヨセミテ、ラスベガスぐらいしか行ったことがないのに気づいた。
    帰国して航空会社へ就活しても、たったこれだけのアメリカを見ただけでは、就職に有利な条件にはならないことは確実であった。
    「一見は百聞に如かず」である。アメリカを、いや世界中を旅行し、できるだけ多くの名所旧跡、観光地を観て帰国すれば航空会社への就活には有利だろうと考えた。
    それに、年齢的にも人生で長旅できる時間的余裕も今しかないし、同時に未知の国を見てみたいという好奇心がオレを大いに刺激した。それに、帰国後の人生の再出発へのターニング・ポイントとして、何か達成感を味わってみたいという思いが頭の中で渦巻き始めた。
    2018年の海外出国者数は約1,900万人である。オレがアメリカへ行った1964年、海外へ出国した日本人数は約12万人だった。そのほとんどが業務渡航者で、留学や観光で出国した日本人は数万に過ぎなかった。その渡航先もほとんど香港や台湾であった。アメリカ留学の帰路、世界を観て回るなど、誰も思いつかない時代だった。
    誰もが出来ないことができるチャンスが目の前にあった。何とオレは先見の明のある運の良い男だと思った。オレは大学に残るより、世界を観て回る旅のほうが自分の人生に価値はある思い、すぐ学校を辞めた。
    「時は金なり」だ。
    学校を辞め、働けば移民局に捕まり、日本へ強制送還される恐れはあった。しかし、オレには、もう、そんなことは問題でなかった。
    移民局に捕まった時はその時だと、学校を辞めるとオレはガソリン・スタンド、ガーディナーのヘルパーなど、レストランの皿洗いと時間の許す限り昼夜に関係なく働きはじめた。
    その甲斐あって、10か月ほど今までコツコツと大学の授業料に貯めていた分を合わせ3,000ドル(108万円)ほど貯まった。
    いよいよ旅の計画である。同じ旅行するにしても飛行機で名所旧跡を訪ねる旅では面白味がなかった。四年間使っていた自分の中古車でアメリカ大陸を横断、ニューヨークまで行き、船でヨーロッパへ渡り、中近東、インドまで行こうと考えた。(つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
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    オレの二十代
    (24)
    当時は冷戦時代でソ連や共産圏は通過、入国できなかった。インドまでと考えたのは、そこから先はベトナム戦争で通過できないことは常識だった。
    早速、ヨーロッパや中近東のことを調べようとしても、今のようにiPhone,コンピュター、日本語の世界ガイドブックもない時代、大雑把なロードマップを買い込み、ガソリン代や宿泊代など諸々計算すると、今の所持金では、とても車でインドまでは行くのは不可能とわかった。
    1967年のある日、久しぶりに同じアパートの住人ヤマハの駐在員Aさんに会い、雑談の中で、オレの世界旅行計画の話したところ、
    「車で行くのですか?車はガソリンを食いますよ。バイクで行ったらどうですか」と、さりげなく勧められた。
    オレはバイクに乗ったこともなく、それよりもバイクに無関心で、バイクの性能に関しても全く無知で、車で世界旅行することしか頭になかった。日本のバイクの性能は非常に良く、海外のレースでも常に上位入賞を果たしており、ガソリンも車に比べ消費慮も極端に少なく、一人で旅行するならバイクですよと説得され、
    「そうか、バイクという手もあったのか、それなら・・・」と、即、バイクで行くことに決めた。
    1968年1月、オレは当時、最も排気量の大きかったアメリカ向け輸出用バイク305CCの「ヤマハYM1」を750ドル(27万円)で購入し、出発は雪を警戒し、アメリカ東部に春が訪れる5月と決めた。
    (写真、旅のために買ったバイク。当時としては一番大型だった)。
    アメリカに来て以来の四年間、学校と仕事だけという生活パターンだったオレは、この二つをやめると、刑期を終え、刑務所から出てきたような解放感を全身で感じ、初めて、自分がロサンゼルスに住んでいたのだと実感した。反面、学校と仕事のみだった生活習慣が抜け切れず、肉体的には健康だったが脳の回路が鈍くなったのか、日々の行動範囲を思うように広げられなくなっていた。
    冒険というのは堀江健一や植村直己のように小さなヨットで太平洋を横断するとか、極寒の南極を単独で横断するとか命の危険を承知に、自然の猛威を相手に挑戦することだとオレは思っている。昨今、経験も知名度もない自称冒険家が自分の野望、野心を叶えるためスポンサーを探し、寄付集めする輩が多い。人間、その数だけ考え方、生き方があることは認めるが、他力本願の風潮は感心しない。
    オレはバイクで世界一周したが冒険だと思ったことはない。オレのバイク世界一周のことを敢えて今流に言うなら、100ドルを懐に米国留学し、自力で学費や生活費、バイク一周旅行費を稼いだ、その努力に対する褒美だと思っている。
    バイクは飛行機、客船、汽車、バス等の交通機関同様、単に旅費と利便性を考慮した上、移動手段に使用しただけである。
    出発前は長距離走行に慣れる練習もせず、日々、車代わりにバイクを使っていただけである。アメリカの生活に慣れていたので、バイクでアメリカ大陸横断といっても、日本国内を旅行するような感覚で、準備らしい準備は全くしなかった。
    最も大事なことは不測の事態に対し、臨機応変に対処することで、必要な物はお金さえあれば、途中で買えばいいと暢気に構えていた。
    多少はヨーロッパの情報は知りたかったが、当時、日本語の海外ガイドブックなどの出版物はまだなく、行ったこともない土地や国のことを想像することもなかった。
    東京ローズ
    出発が近づくと少しでも節約しようと、四年間住んでいたアパートを引き払い、八十過ぎた日系人夫婦が経営する古い一軒家の安い貸間へ引っ越した。
    シャワーはあったが台所はなく外食になった。家主は一階に住み、二階が貸間になっていた。階段を上がると正面が狭い私の部屋で、その隣には六十過ぎの日系二世のガーディナーが借りていた。
    彼は、いつも朝早く、仕事用の道具を満載したトラックで近くの「デニーズ」へ寄り、そこで朝食を摂り、仕事に出かけ昼過ぎには帰って来ていた。そのあと、彼は窓のブラインドを降ろし、趣味である自分で撮った16mm映像をひとりで楽しむのが彼の日課,趣味だった。。
    彼はアメリカ国籍だったが、戦時中、強制収容所に入れられ、アリカ政府を嫌っていたが、
    「ジャパンに行ったこともないし、ここに住むしかない」と、世間とは没交渉で、最低限の生活費を稼ぐだけの孤独な老ガーディナーだった。
    彼の隣の部屋には27,8歳のベトナム帰りの帰米(アメリカ生まれの日本育ち)が住んでいた。戦車の機関銃兵であった彼はブッシ、ュ(やぶ)に潜んでいるべトコン(ベトナム解放前線)を撃ち数名を殺したが、あとで、射殺したのはべトコンではなく、南ベトナム人であったことが判明した。彼の上官は事実が軍の上層部に知れるのを恐れ、その証拠隠滅のため死体にガソリンをかけ、燃やしたそうだ。彼は除隊後も、そのことが脳裏から離れず熟睡できず、気分がすぐれないと言って、ほとんど部屋に閉じこもっていた。
    家主夫婦には嫁いでいる四十前後の知的な娘がいた。彼女は時々、実家に来て、年老いた両親の身の回りの世話をしていた。
    あるとき家主がオレに、娘は太平洋戦争が始まる前日本へ行き、戦争が始まると米国へ帰国できなくなり、NHKラジオ「セロアワー」のDJをしていた女性アナウンサーだったと何気なく言った。
    東京ローズはあの有名なアイバ・戸栗だけだと思っていたが、その娘は数人いた東京ローズの一人だったそうだ。アイバ・はアメリカの兵士を悩ますような色っぽい声ではなかったとか、アメリカ兵が聴いた声はジェーン・須山の声だよと、娘から聞いていたのか、家主の話はまんざら嘘ではないように思えた。ある時、家主に頼まれその娘の家の庭掃除に行ったら、昭和天皇によく似た主人がいいたので、家主にそのことを言ったら娘は皇族の一人と結婚していると言った。
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    オレの二十代
    (25)
    旅立ち 世界一周へ
    年が明けた1968年初頭、身の回りの物を整理の合間に、ほとんど毎日、暇に任せアパートから三十分ほどのサンタモニカ・ビーチで竿を垂れながら、四年間の日々を思い返し解放感を満喫していた。
    釣りに行く楽しみはそれだけではなかった。時々ビーチを散歩している女性、東京のファッション・デザイナーというオレと同年配の知的な美人に会うことだった。そのうちに親しくなり、マリブビーチのハイウェィR1脇にある女優や男優の大きな写真が飾ってあるウエスト・コースト風の有名なレストランで彼女と昼食をして優雅で楽しい時間を過ごした。
    彼女は離婚問題で揉めている主人から、ロサンゼルスへ逃げてきた複雑な事情があった。この知的なファション・デザイナーの女性にもっと早く会っておけば良かったという思いもあったが、バイク旅行の出発が近づき良い思い出として、それで終わった。反対に思い出すと腹が立つが、四年間の間に神戸から来たという、知り合いでもない若者が三度オレのアパートに転がり込んできた。行く当てもないというのでオレのアパートに泊めたが、どのようにして、オレのアパートの居所を知ったのか、今は思い出せない出来事だった。オレも仕事と学校で奴らの世話など出来なかったのが、ある日、帰宅すると忽然と奴らは消えていた。その一人がオレの中古車とペンタックス・カメラと交換した奴だった。
    バイク旅行に最適な季節五月がきた。
    部屋の窓を開け夜空を見上げると、宝石を散りばめたように何億年も前に遠いところからやってきた無数の星が輝いていた。
    それに比べると人間の一生なんて、せいぜいで百年である。流れ星が左から右へ移動する時間にも足らないぐらい短い。人間の寿命は宇宙の時間に比べ一瞬だと知りながら、有史以来、人間は殺し合いをやめない。主義主張と人間の命とではどっちが大切かわかっているのに人間は戦争という名のもとに限りなく殺し合う歴史の連続だ。
    平和な時は虫も殺さない人間が,戦争になると平気で人を殺す。人間はどうしてこうも愚かな動物なのだろうか?地球に人間という生き物が存在する限り、人間同士の殺し合いはなくならないのだろうか?
    当時、ただ世界一豊かなアメリカに住みたいがため、主義主張もなく命と引き換えに、ベトナムの前線に送り込まれる可能性の高いアメリカの軍隊に志願した日本人がいた。そこまでしてアメリカの永住権を手に入れる価値があるのだろうか?人には人それぞれの価値観がある。日本で稼ぐより数倍もある豊かなアメリカ、エアコン、風呂付のない家、車も持てない日本。だから渡航自由化後、観光ビザでアメリカに入った日本人の多くは、アメリカの豊かな生活を手に入れるため、志願兵という命と引き換えに、危険を冒してまでも永住権を取得しようとする日本人がいたのだ。
    今でも紛争地で勤務するアメリカ兵は永住権獲得のための「アメリカ人」が多いと言われている。
    オレは世界の名所旧跡観光地を訪れながらバイクで旅行する日が近づいてきた。
    一年を通じて、ほとんど晴れのロサンゼルスに、出発前日の夜雨が降った。朝目が覚めると、太平洋からさわやかな風がロサンゼルスの大盆地を吹き抜け、街全体を覆っていたスモッグは北の丘陵地帯に押し流しされていた。そして、大都会ロサンゼルスを囲んだ丘陵や遠くの山々が驚くほどくっきりと見えた。まさに、街が名のごとく「天使(Los Angeles)の街」になった1968年5月19日、約2,200ドル(当時のレートで約80万円)のトラベラーズ・チェック、車と交換したペンタックス・カメラ、皮のズボン、下着各一枚、背広上下一着などを入れた布製の袋をバイクの後ろに括り付け、ハンドルにはテント地の水筒をぶら下げ、夜明け前、仕事に出かける親しくしていた孤独な隣室の老ガーディナーと「デニーズ」で別れの朝食を摂った。
    そして、オレはこれからどこまで無事に走れるわからないヤマハYM1にまたがり、一路、東へニューヨークを目指し、ルート66をシカゴまで走る予定であったが、ルート66はオレのアパートの北20キロほどのパサデナまで行かないと入口ないので、数年前完成した近くの、ルート10を東へ走り出した。
    当時は車の免許所を持っておればバイクの免許所は不要で、バイクに乗るにはヘルメットの着用という規則もなかった。
    ルート66は1962年、NHKで放映されたアメリカの人気テレビ・ドラマ、青春アベンチャー・ストーリー「ルート66」で、シカゴとロサンゼルスを結ぶルート66と呼ばれるハイウェイを二人の若者がコルベット・スティングレーに乗って旅しながら、途クス・オン・ルート・シックスティーシックス」が鮮明に記憶として残っていたことも一因であった。
    しかし、オレはアメリカに来た時働いた、ジョン・スタインベックの「怒りの葡」の中で描かれていた、あのルート66を旅してみたいという気持ちの方が強かった。
    この小説は、カリフォルニアへ移住するオクラホマの貧しい農民一家が、偏見や貧困といった様々な問題を乗り越え、明るい未来を求め西部へ向かう内容の作品である。その中で、スタインベックは、このルート66を「マザーロード」と呼び、克明に描写している。
    だから、世界旅行を思いついたときから、あの有名なサンタモニカからシカゴまでの2,347(3,755キロ)マイルのルート66を走ることは、オレには自然な成り行きだった。
    それ以外のルートを走ってアメリカ横断するなどは全く考えなかった。
    バイクを購入してから出発すまで、一日で最も長く走った距離は100キロにも満たなかったが、ラスベガスまで約500キロ走ることに全然何の不安も感じなかった。
    大都会ロサンゼルスが目覚め始めた静かなハイウェイをヘッドライト付け、窓を閉め切った車から、声は聞こえなかったが、運転する中年男性が親指を立て、バイクのオレに顔を向け、「グッド・ラック」と旅の安全を祈っているように微笑み、ヤマハM1オレの横を通り過ぎて行った。
    ロサンゼルスを抜け、東のサンバーナーディーノの山を登り切ると、そこから先は見渡す限り荒野だった。日本が今のように豊かな国になるなど考えられなかった時代だった。帰国して航空会社に就職できれば別だが、米国に比べ給料も安く、週休二日制もない、長期の休暇も取れない日本の会社に就職すれば、もう二度とアメリカには来ることはできないと思っていた。
    反面、『ビギナーズラック』の夢が蘇り、これも航空会社就活の勉強?と、敢えて初日はギャンブルの歓楽街ラスベガスに宿泊することにした。
    雲ひとつない砂漠の中を一直線に伸びるハイウェイ、五月のさわやかな空の下、風と太陽を浴びながら、オレの「ヤマハYM1」はエンジン音と耳元で風を切る心地よい音だけが支配する中を快走した。それはオレだけが感じる、初めての自由と解放感の心地よいツーリングの始まりだった。
    ロサンゼルスとラスベガスの中間にあるバーストウはガソリン・スタンドとレストランが数軒あるだけの、西部劇に出てくるような小さな町だった。
    この町からは北東のラスベガスへ向かうルート15と枝分かれして、ルート66は南東へ延びアリゾナ州のキングマンへと続く。バーストウはロサンゼルスからラスベガスやルート66を通り東へ旅する人には給油し、レストランで休憩する重要な小さな宿場町のような街だった。
    ここバーストウから北東へ約10キロ行くと、昔の鉱山跡キャリコのゴースト・タウンは観光客に人気があるとレストランのウエイトレスが教えてくれた。
    日本の観光客がロサンゼルスからラスベガスへ移動するとき、このゴースト・タウンを訪れることを勧める資料になると写真を撮り、案内所で資料を集め、ノートに簡単な印象などをメモし、デスバレー(死の谷)経由、砂漠をラスベガスへ向かった。
    砂漠では夕日が地平線に沈んだ途端、夕闇があたり一面を覆う。すると、ラスベガスの40キロほど手前、カリフォルニア州とネバダ州の州境あたりから、東の空がまばゆいばかりに明るく輝く不夜城ラスベガスの灯りが目に入ってきた。
    大陸横断初日、これから先、どれほど費用が掛かるかの不安を抱えながらラスベガス泊まり、勝つ確率の低さやブラック・ジャックに手をだし、幸運にも約200ドル(36,000円)を手に入れた。
    オレは出発前にモーテル代、ガソリン代、食事代など一日15ドル、ニューヨークまで二週間かかるとして合計200ドルは必要と計算していたので、この夜は、数時間でアメリカ大陸横断に必要な費用を稼ぐ、二度目の「ビギナーズ?・ラック」だった。
    翌朝は疲れで朝寝坊し、ラスベガス出発は昼前になった。
    写真:R15カリコへ、カリコ・ゴーストタウン、デスバレーへ(つづく)

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    オレの二十代
    (26)
    翌朝は疲れで朝寝坊し、ラスベガス出発は昼前になった。ラスベガスから東北へルート93を一時間ほど走ると、コロラド河をせき止めた黒部ダムに似たフーバーダムに到達した。
    このダムの上も黒部ダムと同じように道路になっており、このダムそのものがアリゾナ州とネバダ州の州境になっていた。このダムを渡り切ると時差があり一時間進へ進んだ。
    フーバーダムを越え、アリゾナ州へ入ると、赤土色の山肌に囲まれたルート93から先は見渡す限り眼下に草木一本生えていない本物の砂漠が南東へ広がっていた。
    はるか遠くの山並みも霞み、砂漠の中は片側二車線の広いハイウェイが一直線に南へ伸び、すれ違う車も少なく思い出したように、時々すれ違った。
    雲ひとつない紺碧の空見上げると、すべてのものを焼き尽くそうとしているのか、獲物を狙うように、太陽は身動きもせず熱く輝き、五月の季節感はみじんもなかった。だが風を切って走るバイクのオレにはさわやかだった。
    走っても、走っても風景に変化はなく、同じ場所にバイクが停まっているような錯覚に陥った。オレは心地よいリズム感あふれるエンジンの金属音の響きの中で、米国留学を志し外務省留学試験に向け頑張っていた頃を思い出していた。
    ラスベガスから約二時間、キングマンに着いた。ロサンゼルスからラスベガスへ向かう途中の町、バーストウでルート15と枝分かれしたルート66は、ここキングマンの町でルート93と交わった。
    キングマンはバーストウ同様、ガソリン・スタンド、レストランなど数十軒ほどしかない小さな町であるが、グランドキャニオン、ラスベガス,バーストウ経由ロサンゼルスへの交通の要所だった。
    今はどうか知らないが、当時は日本のように飲物だけを出す「喫茶店」はなかった。
    キングマンの「レストラン」でコーヒーを飲み一服、ここからオレは初めて、ルート66に乗り込み東へ走り出した。
    オレがバイク旅行した1968年当時、日本で中山道の馬籠宿、妻籠宿、奈良井宿などへ旅行する人が少なかったように、ルート66も今のようには注目されていなかった。ベトナム戦争の影響か、アメリカの工場製品の増加とともに、トラックの交通量の急激な増加の中ルート66は大規模な工事中で、その後ルート66の廃線が増え、1985年、「(I‐40)インターステーツ40となったが、最近、歴史的な道路として、再びルート66は世界中の愛好者に脚光を浴びている。
    前夜、ラスベガスで遅くまで遊び、朝寝坊をしてラスベガスを出発したのが昼前だったので、グランドキャニオンへの入口、ウイリアムスのモーテルに着いたのは夜だった。
    翌朝は気合を入れて早起きし、グランドキャニオンへ行くためルート66を離れ、ルート64を北へ向った。
    砂漠地帯から、緩やかな上り下りする針葉樹の森林地帯を約一時間走ると視界が広がり、映画や写真でお馴染みの雄大なグランドキャニオンの風景が、「まさに」、突然、目の前に広がった。
    コロラド河の浸食作用により、1,000メートル以上の深い大渓谷を形成した想像もつかない年月と自然の力のすごさ、そして、自分という人間の小ささを思い知らされ、人間の小さな悩みなど吹っ飛ばしてくれるような雄大な景色である。
    グランドキャニオンは東の川上から西の川下まで、約450キロ、東京・京都間ほどの長さである。
    グランドキャニオンの絶景を見たあと、モニュメントンバレーへ行こうと、渓谷に沿ってルート64を東へ走っていくと、次第に渓谷の幅も狭くなり、浅くなっていった。
    左側の渓谷の絶景に気を取られ、覗きこむように走っていると、突然、直線道路はカーブした下り坂になり、オレはハンドルを取られ砂山に横転した。ゆっくり走っていたのでけがはないと思ったが、右片足が転倒したバイクと道路の間にはさまれ、倒れたバイクは重くて一人では挟まれた足を抜くことは不可能だった。助けを呼ぼうにも周りには人影もなく、車の往来もなかった。
    足を抜こうとしばらく焦り、もがいていると、偶然、本当に偶然であった。通りがかった車が停まり、二人の中年男性が降りてきてオレのバイクを起こしてくれた。
    彼らが去ったあと、緊張がほぐれたのか、足や皮ズボンのベルトあたりに激痛が走りだした。横転したとき、ふくらはぎに熱いマフラーが当たっていたのだ。皮ズボンの上からといえ、足にやけどを負い、腰を力強く捻ったようでベルトで切ったらしく、腹の回りは血だらけになっていた。
    出発するとき、周りの者に
    「数日走って、疲れ、またロサンゼルスへ帰ってくるんじゃないのか」と、冗談交じりに言われていたので、事故を起こした時、一瞬、その言葉がよぎった。
    傷口が痛く走れないのでモニュメントバレー行きをあきらめ、右に折れフラッグスタッフへ向かい、昼食もとらずに途中のモーテルへ入った。気が付いたら朝になっていた。
    初めて経験した事故のショックとツーリング疲れで、皮ジャンバー、ズボンも脱がずに眠ってしまっていた。
    痛みで目が覚め裸になると右足ふくらはぎに五センチ四方ぐらいやけどを負い、ヘソの右を八センチほどズボンのベルトで擦り剥いていた。
    モーテルの女主人に傷の手当を頼むと、
    「医者に行った方が良いよ」と言ったが、米国では保険がないと治療費が驚くほど高いので、
    「たいした傷でない」と言って、モーテルの女主人に簡単な治療をしてもらった。
    バイク保険があるか、ないかも知らず掛けていなかった。痛さをこらえながら再びらゆっくりとフラッグスタッフのから再びルート66を東へ走り出した。砂漠地帯のアリゾナでもこの辺りは赤松の森林が続き走っていても気持ちがよく、傷の痛みも和らいできた。
    アメリカは国土が広く、ハイウェイは一直線で道幅も広く、その上、車の往来も少なく走りやすい。ときどき給油や食事はルート66を下りて小さな町でやった。
    開拓が盛んであった時代は、賑わっていたのであろう町の建物の多くは朽ち果て、死んだような静けさが漂っていた。それが、反面、古きアメリカを想像させ懐かしい気持ちにさせ大変気に入った。
    ヨセミテやグランドキャニオンも観光名所としては日本の観光客には受けるだろうが、こんな寂れた町にも観光客が来てくれ時代が来るなど想像もしなかった。
    ヨセミテやグランドキャニオンも観光名所としては日本の観光客には受けるだろうが、こんな寂れた町にも観光客が来てくれ時代が来るなど想像もしなかったが、それが、今やアメリカや日本でも古き良き時代の「ルート66」として蘇った。
    ロサンゼルスを出発して三日目、予定通り観光資源を訪れながらすでに800キロぐらいアメリカの内陸部へ入り込んでいた。(つづく)

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    オレの二十代
    (27)
    ルート66
    アリゾナ州フラッグスタッフからルート66を56キロほど東へ行くと、「233」と数字だけ書いた出口だ。その横に「メテオ・クレーター」と注意しないと見過ごすような小さな案内板があった。
    その案内板の(Creator)に興味を持ったオレはルート66を出て、南へ10キロほど走ると、赤土色の平原にバスほどの大きさのものから、車ほどの岩が点々と赤土色の大平原に転がっていた。そして突然、平原の中に「メテオ・クレーター」という約5億年前、隕石が衝突してできたという世界最大級のクレーターが現れた。
    転がっている岩は、隕石の衝突で地表からはじき飛ばされた岩であることは一目瞭然であった。小さな粉塵はハワイまで飛んで行ったと立て看板に記されていた。このクレーターはほとんど風化せず残っている世界で唯一の貴重なクレーターだそうだ。
    直径40メートルほどの隕石が地表に衝突してできたクレーターは直径約1・4キロ、周り4キロ、深さ約150メートルのお椀型をしており、その大きさに圧倒された。月へ行ったNASAの宇宙飛行士たちが訓練したのもこのクレーターだったのかと、読んだことのある記事を思い出した。グランドキャニオンよりも気に入った。
    アリゾナとニューメキシコの州境に来ると「Come Again」とか「Welcome To New Mexico」と一目でわかる大きな標識が立っていた。
    ニューメキシコ州は標高約900メートルから3,900メートルと高低差の激しい州である。走っていると急に寒くなったり暑くなったりした。
    この州の面積は日本よりすこし小さいが、人口は100万(現在約200万)と少ない。だから日本ならどこでも視界に入る民家もここでは見当たらなかった。人に出会うのもガソリン・スタンドやレストランレスぐらいであった。
    時々、獲物を狙うように赤土の丘に身をひそめ、違反者を待ち受けているハイウェイ・パトロールーの警官に何度か停められた。
    オレの場合はスピード違反で停められたのではなく、
    「ガソリンと水は大丈夫か?」と、親切心で停められたのだ。水はテント用の布地の水筒に入れ、ハンドルに吊り下げて走っていたので、水筒は風を受け適当に冷えバイク旅行には最高の水筒であった。
    ルート66沿いのレストランに立ち寄るのも楽しみだった。ルート66沿いのレストランの多くは大型トレーラーのドライバーたちの楽しみの場になっていた。
    レストランに入ると、サングラス、赤のシャツ、ジンズにブルーのネッカチーフを首に巻いたオバちゃんドライバーがいた。彼女はカウンターで食事を摂りながら親しそうにウエイトレスたちと賑やかな声で話し合っていた。私と目が合うと、
    「兄ちゃん、きのうも見たけど何処へ向かってんや?」と、
    大阪のオバちゃんのような口調で声をかけてきた。もちろん英語である。このオバちゃんは大型コンテナを運ぶトレーラーの運転手であった。
    もう数えきれないほど、このルート66を走り、アメリカを横断し、馴染みのレストランで食事を摂り、ウエイトレスや運転手たちと話すのが楽しみだと言っていた。
    大型トレーラーの運転手たちは陽気で親しみやすく、何度となく途中のレストランで会った運転手たちとの会話は、英語に不自由を感じなくなっていたオレのバイクアメリカ大陸横断中の楽しみでもあった。だが、長距離をツーリングしているライダーには一人も出会わなかった。
    バイクでアメリカ横断が流行りだしたのは69年、映画「イージーライダー」の公開以後である。
    大平原を一直線に緩やかに上ったり下ったりと、単調な風景のルート66を一日中走るのは実に退屈であった。
    時には眠気が襲うこともあったが、考えごとをして走ろうと思うが、また、グランドキャニオンで起こしたような事故の危険があるので出来なかった。
    疲れ、同じような直線道路を走っていると、はるか遠くに見える山を上りきれば、景色が一変するかもしれないと期待しながら走るが、上りきると、また、はるか彼方まで緩やかに下っているだけで、変化のない同じような大平原の風景が広がっているハイウェイの連続であった。
    途中で立ち寄るガソリン・スタンドやレストランで近くに旧所名跡はないかと尋ねても、大げさに両手をひろげ、
    「見てのとおりだ」と、そっけなく言うだけの大平原の広がるニューメキシコ州だった
    大平原のルート66と沿ってアメリカ横断鉄道が並行しておると
    ころもあり、1キロ以上もあろうかと思える長い貨物列車が後ろから近づいてくると私もスピードあげ競争を試みた。機関車からは並行して走るオレに汽笛を鳴らし、手を振って応えてくれた。半日も抜いたり、抜かれたりしながら走ったこともあった。
    大平原を一直線に延びる単調なルート66では、このような単純な気分転換もオレには必要であった。
    ニューメキシコ州の首都アルバカーキーは丼ぶりのような盆地の底に広がる赤褐色に染まった街であった。
    市街地のはるか手前からルート66は下り坂になり下方に、子供のころ観たジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇映画「アパッチ砦」、「黄色いリボン」、「リオグランデの砦」など有名なリオグランデ川と町の遠望が素晴らしかった。幅広い大きな「河」と思っていたが、有名なわりにはどこでもある平凡で小さな「川」だった。
    町の人に聞いてみると、
    「あれはテキサス州とメキシコの国境の境を流れているリオグランデ川で撮ったんだ」と、言っていた。
    アルバカーキーは西の方から下って、街を過ぎると今度は東へ上り坂であった。ロサンゼルスからアルバカーキーまで五日間、出来る限り、観光地らしき所を訪れながら1,200キロほど東へ入った。地図を見ればわかるが、ニューメキシコ州は東にオクラホマ州とテキサス州の二つの州が接しているが、ルート66はニューメキシコ州からテキサス州を通っている。ニューメキシコ州の州境で時計を見ると午後5時を少し回っていた。日没までにはまだ時間がありそうなので、少しでも距離を稼ごうと一時間ほど走りテキサス州のレストランでコーヒーを呑みながら、ここの時計を何気なく見ると7時前である。走っているとわからないが、ニューメキシコ州とテキサス州の間には一時間の時差があった。一日中走り続け、夕方、一時間前へ進む時差は精神的にも肉体的にも耐え難いほどの疲労がオレを襲った。
    西日を体全体に浴びながら西に向かって走るのとは反対に、大平原に星が輝き始めた夕闇に向かって走るのは、体力も気力も萎えてしまった。
    この時、人間、太陽の恵みによって生命の活力を維持していることをはじめて知った。西へ向かうほうが時間も得するので精神的にも楽であることも知った。
    テキサス州に入ると、西部劇映画に出てくる風車を広大な農家の敷地でよく見かけた。せっかくのアメリカ大陸横断旅行、ロサンゼルスを出発する前はできるだけ多くの写真を撮ろうと思っていたが、アメリカに四年も住み、アメリカの風景を見慣れていたのが原因か、テキサス州まであまり撮らなかった。だが、あのテキサスの独特な風車を見ると撮りたくなった。
    それにしても、一枚写真を撮るのに、いちいち後ろの荷台に括り付けた麻袋のロープをほどき、カメラを取りだし、撮り終わるとまた麻袋に入れロープをかけるのに結構時間を取り、一日のうちで何度もこれを繰り返すのは非常に面倒だった。それも撮らなかった一因でもあった。
    西部開拓時代、東部から移住者してきた開拓民が水をくみ上げるため使っていた風車は、今も利用している。中西部の田舎町のガソリン・スタンドで給油していると、バイクでアメリカ横断は珍しい時代で、若者たちが、私のバイクのナンバープレートを覗きこみ「カリフォルニアから来たのか?」と、驚いた表情をするので、
    「海を見たことあるか?」と、訊いてみると、
    「ない、海の水は塩辛いそうだ」と、笑った。
    東へ行くほど、多くの若者がカリフォルニア・ナンバーのバイクに気づくと、オレに語りかけてきた。そのことがアメリカの東というか、奥地へ入り込んだことを実感させた。
    テキサス州に入るとルート66に沿って、途切れることなく遠くまで,金網の柵が伸びた牧場には数えきれないほどの牛が放牧された風景に出会った。
    (つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (28)
    テキサス州に入るとルート66に沿って、途切れなく遥か遠くまで,金網の柵が伸び、その中には数えきれないほどの牛が放牧された風景があった。
    どこだったか、小規模な油田のポンプが規則正しく上下してオイルをくみ上げていた。
    空は透き通るように青く、ジェームス・ディーン、エリザベス・テーラー主演の映画「ジャイアンツ」に出てきた静かで広大な空が覆いかぶさってくるような雄大な風景が限りなく続いていた。
    疲れると今のように車の往来の少なかったルート66の路肩にバイクを停め、生い茂った草に仰向けになり、ゆっくり流れる雲を眺めながら、帰国後の自分の人生を考えていると、疲れ眠り込んでいた。
    一日中走り続け、オクラホマ州に入るとトウモロコシ畑だろうか、青々とした畑が水平線まで広がっていた。
    もともと、オクラホマ州はアメリカ中のネティブ・アメリカン(インディアン)を強制的に移住、隔離したところである。隔離された彼らは、何度となく自分たちの土地への脱出を繰り返した。ヨーロッパから移住してきた白人たちは、自分たちが定住するために大昔から定住している人々を略奪し、殺害を繰り返した。16代米国大統領リンカーンも奴隷解放の反面それには積極的だったと記されたものもある。
    そのため、アメリカ政府は彼らの命の綱である、バッファローを大平原から組織的に駆逐し絶滅に追いやり、「兵糧攻め」にして、強制的にこのオクラホマ州の保留地に定住させるようにした。学校という狭い世界しか知らない教師の「教える」歴史を鵜呑みに覚えるのは危険である。たまには疑うことも大切である。
    雨の中西部
    グランドキャニオンからオクラホマまで約1,500百キロ、この区間は大げさに表現すると、ずっと下り坂のような気がした。オクラホマ州を走っていて、やっと平地に戻ったような気分になった。
    それとともに空模様がおかしくなり、テキサス州のような青空は姿を消し雲が垂れ込め始めた。空はいつの間にか夕闇のように暗くなり大粒の雨が降り出した。
    雨の中をバイクで走った経験がないオレは、レストランで休憩しながら雨の止むのを待つことにした。日本とアメリカ中西部では雨の降り方まで違った。大粒の雨が勢いよく降りはじめ、止む気配もなく稲光が轟きはじめた。
    「トルネード(竜巻)がくるかも」と、ウエイトレスが言った。
    春から夏の終わりにかけ、この地域は特有の気象条件で雷雨が発生しやすく、トルネード・アレー(竜巻の通り道)といわれ、年間五十個以上の竜巻が発生し、この州一帯に膨大な被害をもたらすそうだ。
    だから、州の法律でどこの民家も地下に避難用の部屋があるそうだ。
    この日は一日中大雨で数10キロ走っただけでモーテルに入り、たっぷり雨水を吸い込んだ衣類やバックの中身を部屋の隅にある暖房機の上に並べ、冷え切った体をバスタブにつかりのんびりと温めた。
    モーテルの周りは見渡す限り大平原が広がり、ルート66沿いの向かい側にレストランを兼ねたガソリン・スタンドがあるだけだ。
    日記代わりに友人や知人に手紙を書き、途中で集めた観光案内パンフレットを整理し、日本へ送る作業を終えると、もうすることもなくベッドに横になり、テレビを見るしか時間をつぶす手立てはなかった。
    テレビの天気予報によると、この雨は数日続くようだ。急ぐ旅でもないが孤立した大平原のモーテルで足止めされると、先へ進めば雨も上がり見たこともない、素晴らしい風景や経験が待ち構えているような気がして、少しでも前へ進みたいという衝動が起こり、落ち着かなかった。
    アリゾナ州キングハムから一直線に東へ延びてきたルート66は、ここオクラホマから北東、時計の文字盤の2時の方向へ曲がりシカゴへと延びている。まだ、シカゴまでは1,300キロほどあった。
    夜半、雷は鳴りっぱなしで、朝になっても雨は無情に降り続き、モーテルの窓から、雨にさらされたバイクを眺めていると出発する気にならなかった。
    テレビの天気予報によると、オクラホマ州の北部カンザス州方面は曇りだという。モーテルでいつ止むかもしれない雨を待つよりは、少しでもシカゴへ近づきたいと思いが強くなってきた。
    テレビの天気予報に期待を託して、雨の降り続くオクラホマ・シティからルート66離れ、ルート35に入り、北のカンザス州を目指し走り出した。
    北へ向かうにつれ緑が多くなってきた。このあたりのハイウェイは1930年代の禁酒法時代、銀行強盗をしたギャングどもが、ピストルや機関銃をぶっ放しながらパトカーの追跡をかわし、ルート66へと「絶望的な逃走劇」を演じたところである。
    何時止むかもしれない、降り続く雨の中をびしょ濡れになりながら走るオレは、ポリスカーに追われる身ではなかったが、彼らの気持ちが理解できた。ずぶ濡れのオレは、ただ、ひたすらいらだつ気持ちを抑え、黙々と左右に続く大草原をウイチタ経由カンザスシティへと少しずつ距離を稼ぐだけだった。
    カンザスシティは、ミズーリ河を挟んでカンザス州カンザスシティとミズーリ州カンザスシティに分かれていた。カンザス州のカンザスシティがメインかと思ったが、人口も産業もミズーリ州のカンザスシティ側に集中しているらしく、理解するだけでも疲れる複雑な地名だった。アメリカでは、ほら吹きの奴のことを「あいつはカンサツだ」だという言葉があるそうだ。広島、長崎に原爆投下を許可したトルーマン大統領もミズーリ―州出身で、そう呼ばれていたのを聴いたことがある。オレがこの川の名前を知ったのも子供のころ見たチャールストン・ヘストン主演の西部劇「ミズーリ大平原」など、多くの西部劇映画に出てきた川の名前で、オレと同世代の者は誰でもその川の名前や地名は知っている。どんなに大きな川かと想像していたが、期待していたほどの大きな川ではなかったが、大雨の中アーチ型の朽ち、今にも崩れ落ちそうな鉄橋を渡ったが、その下は恐ろしいほどの濁流だった。
    カンザスシティからルート70に入り、セントルイス市内へ入るとやっと雨も上がり、ときおり青空が見えはじめた。
    オクラホマからセントルイスまでの約500キロは雨の連続で3,4日も費やし、濡れた衣類はセントルイス公園のゴミ箱に捨て、ほとんど買い替えた。
    セントルイスは、ミシシッピ河とミズーリ河の合流地点にあるミズーリ州の州都である。カンザスシティは二番目に大きな都市である。セントルイスは、ミシシッピ河とミズーリ河の合流地点にあるミ
    ズーリ州の州都である。カンザスシティは二番目に大きな都市である。
    このセントルイスで有名なのは、ミシシッピ河に面してそびえ立つ、高さ192メートルの逆三角形断面の巨大なゲートウェイ・アーチとビールのバドワイザーの本社である。このアーチは河岸に1965年完成、セントルイスの観光名所になっていた。
    アーチは頂上に向け流線形に建てられており、エレベーターはなく、ケーブルカーのような乗り物で展望台に上ってみた。
    アーチは上る途中で倒れるのではないかと不安になるほど細い。頂上展望台の小窓から外を眺めると、遮るものがない平原が地平
    線まで見えるだけであった。
    写真:ゲートウエイ横のミッシシッピー川沿いで5分5ドルのヘリコプターに乗ったがもう一機が数日前落ち客はオレだけだった。それにしても小さい。(つづく)

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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki

    Oldies’60s, Hardies in California 
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    オレの二十代
    (29)
    セントルイスからルート50を北へ二時間ほど走ると、イリノイ州の首都スプリングフィールドに着いた。
    この町はケンタッキー州の丸太小屋で生まれたリンカーンが、弁護士になり大統領になるまでの25年間が住んでいた所で、「リンカーンの住んでいた家」、「リンカーンの事務所」、「リンカーンの墓」などが、「ランド・オブ・リンカーン」一色を売り物にした観光の町であった。
    オレがこの街に着いてすぐ思い出したのは、リンカーンが大統領に当選し、スプリングフィールドの駅からワシントンのホワイトハウスへ出発するとき、見送りに来た多くの市民に向かって列車から演説した挿絵を雑誌か教科書で見たことだった。その歴史的な現場にいる現実に身震いするほど驚きと感動を味わった。
    ここからシカゴまでもう約320キロだった。
    オレは一気にトウモロコシや麦畑の広がるルート50をシカゴまで飛ばした。走行距離ゲージはいつの間にか約3,300キロを示していた。
    途中から天候が悪くなり、オクラホマ州に入ってからセントルイスまでは雨に逢い思うように走れず、ロサンゼルスからシカゴまで8日間を費やした。
    たまたま通ったところが悪かったのか、大都会のシカゴはごちゃごちゃしたオレには興味のない大都会で、よくギャング映画で観た高架鉄道のガード下を走り抜けシカゴ・ターンパイクⅠ―90を東へ、この大都会シカゴを逃げるように通り抜けた。
    アメリカのハイウェイはどこも無料かと思っていたが、このハイウェイは有料だった。
    ペンシルバニア州に入ると三回目の時差、東部時間になった。
    「シルバニア」はラテン語で「森」の意味だそうで、景色は自然豊かな緑一色になった。白ペンキの柵に囲まれた個性的な色彩の民家が大草原に点在する北欧的な美しい光景が広がっていた。
    地図を見ると、私は五大湖のひとつ、エリー湖に沿ってハイウェイは走っていたが、実際はエリー湖から意外に離れていて見えなかった。
    シカゴからナイアガラの滝までは約800キロ、オレの知っている観光地というか、名所や景色はまだ日本語の観光ガイドブックも米国では手に入らず、ほとんど教科書で習ったものか、アメリカ映画で観たものばかりだった。
    ナイアガラは1950年代までは、日本では熱海や宮崎がそうでであったように、アメリカ人の新婚旅行のメッカであった。この滝はアメリカで最も大きく美しい滝で、一度は見たいと思っていた。それはマリリン・モンロー、ジョセフ・コットン主演の映画「ナイアガラ」の影響だった。だがベトナム戦争だからか、五月末の学校が夏休み前だったのが影響していたのか観光客は非常に少なく、驚きというか、寂しい風景にがっかりした。
    落雷事故
    バッファローからニューヨーク州の州都オールバニーまでは約450キロ、何事も起らなければ、簡単に一日で走行できる距離である。
    ついにニューヨーク市近くまで来たかと、畑が広がり、ポツン、ポツン農家らしい建物を横目に、一般道路を気分よく走っていると、道路に沿って延々と続く電柱だけの草原に夕闇が迫り、雷雨が始まった。びしょ濡れになりながら40キロほど先のオールバニー町を目指していると、突然、目の前で轟音と共に稲光が目の前を走り、バイクごと転倒した。
    一瞬の出来事だった。バイクは道路に横倒し、エンジンは切れ、ヘッドライトだけが大雨の中で無常に点いていた。
    雷は道路わきの電柱かバイクに落ちたのかわからなかったが、周りには避雷針はなく、落ちたとすれば電柱かバイクのどちらかに違いなかった。今度はオレに落ちるのではないかと恐怖心が全身を覆い、とっさに道路脇の溝へ飛び込んだが幸いけがはなかった。
    このときからトラウマというか、何が怖いかと言っても、雷ほど恐ろしいものはないと思うようになり、それ以来、オレは小雨のときでもゴルフの誘いは。どんなことでも断ることになった。
    しばらくすると、雷が遠ざかったので、びしょ濡れになりながら溝から這い出てバイクを点検すると、エンジン・カバーのクランクケースが割れ、エンジンが丸見えでオイルが流れ出ていた。こうなるとエンジン100パーセントかからない。40キロ先のオールバニーまで重いバイクを押して行くことも不可能である。
    バイクを道路脇に置いたまま、ヒッチハイクでオールバニーまで行き、バイク屋といっしょにバイクを取りに来ることにした。
    車を止めるため、オレは雨が降りしきる夕暮れの道路に立っていても、こんな時に限り車は来ない。時折、ヘッドライトが近づいてくるが、ワイパーを忙しそうに振り動かし、オレを蹴散らかすかのように、水しぶきを思い切りぶっかけながら無情にも目の前を通り過ぎて行く。周りは民家もない道路で夜を明かすことなどとてもできない。
    オレは降り注ぐ雨の中でびしょ濡れになりながら身動きもせず、西のほうを凝視して近づいてくるヘッドライトを待った。
    20分ほど立っていただろうか、オレには我慢の限界のように長い時間に感じられたが、前を通り過ぎた小型トラックが30メートルほど前行き過ぎ停まった。そしてゆっくりバックしてきた。
    オレも小型トラックに走り寄り、雨と寒さで震えながら窓を開けた若い運転手に事情を話し、20ドル払うからオールバニーまでバイクを運んでほしいと祈るように必死に頼んだ。「20ドルか!」と、言うなり、彼はすぐ降り続く大雨の中、トラックから降りてきて、バイクを荷台に積んでくれた。
    20ドルという金額は当時一日分の労働報酬に匹敵した。彼は勤務先からオールバニーへ帰る途中であった。30分ほど先のオールバニーまでおれとバイクを運ぶだけで、20ドルという臨時収入に気をよくしたのか、彼は残り物のサンドイッチとコーラを腹の空いたオレにくれ、雑談しながらオールバニーのYMCAまで送ってくれた。
    その夜はYMCAに泊まり、翌朝、オールバニーのバイク修理屋を探し出向いたが、部品のクランクケースがないので修理は出来ないという。しかたがないので電話帳で調べニュージャージー州チェリーヒルのヤマハに電話を入れ事情を伝えると、直ぐオ―ルバニー行きのバスで送ると約束してくれた。
    ニュージャージーからオールバニーまでは約250キロある。夕方には届くだろうと思いバスターミナルで夜遅くまで待まったが、その日は届かなかった。
    翌日は土曜日でクランクケースが届いてもバイク屋は休みである。
    月曜日までオールバニーのYMCAに滞在することを余儀なくされた。
    土、日もバスターミナルで待ったが荷は届かなかった。縁もゆかりもない町のバスターミナルで、いつ届くかわからないクランクケースを待ち続けるのは退屈極まりなく、忍耐のいる3日間だった。
    月曜日の朝、ニュージャージーのヤマハへ電話を入れると、なんということだ、ヤマハはオールバニーのバスターミナル付けでオレに送ると言ったが、どこで行き違いになったのか、クランクケースは代理店に届いていた。オレの人生で今もわからない最大のナゾである。代理店もニュージャージーのヤマハに部品を注文していたのだ。オレは3日間もバスターミナルで待たされ腹も立ったが、代理店で新しいクランクケースを見たときはホッとした。長い、長い3日間であったが、修理が終わり生き返った心地よいエンジン音を聴くと機嫌も直りニューヨークへ走り出した。
    だが、ニュージャージーのヤマハから、オールバニーのバイク屋へクランクケースが届いたのか、今でも不思議でならない。
    (つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
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    オレの二十代
    (30)
    ニューヨーク
    ロバート・ケネディ暗殺・葬儀
    ロサンゼルスを出発してから19日目の1968年6月6日、オールバニーを出発、あと240キロほど走ればニューヨークシティであった。
    ハイウェイの道路標識には、「ボストン170マイル(272キロ)とあった。そこからは大西洋は見えなかったがアメリカ大陸の東の端まで来たという実感がわいてきた。
    オールバニーからハドソン川に沿って南へ走ればニューヨークまでは半日の距離であった。
    「ハイウェイ」は「フリーウェイ」と名を変え、交通量も急激に増えはじめた。ニューヨーク州ナンバーの車はもちろんのこと、マサチューセッツやコネチカット、ニュージャージー州などニューヨーク州と隣接した州のナンバーの車がやたらと目に付きはじめた。
    ニューヨーク市街に近づくにつれ映画や写真で見慣れた摩天楼が迫ってきた。
    走行距離は五千キロ近くになっていた。
    しかし、何か変だ。昼間というのに行き交う車はみなヘッドライトを点け、スピードを落としてゆっくりと走っていた。
    世界最大の町、ニューヨークの繁華街、42丁目と7番街のブロードウェイの交差点にあるタイムズ・スクエアに着いた。
    ここでも車はライトを点灯してゆっくりと走っていた。町は人通りも少なく静まり返り、想像していた活気ある大都会ニューヨークの賑わいはなかった。
    給油のためガソリン・スタンドに入ると、スタッフの数人が事務所の中で客のオレを無視し、テレビを観ていて出てこないので、文句を言ってやろうと事務所の中へ入ると、
    「ボブ(ロバート)・ケネディが暗殺されたんだ。お前も観ろよ」と、彼らは報道番組に夢中になりながら言った。
    オレも驚き、彼らの中に入りテレビに目をやると、ロバート・ケネディがカリフォルニアでの大統領予備選に勝利した6月5日の夜、オレの住んでいたアパート近くにあるロサンゼルス・アンバサダーホテルで祝賀会のあと、多くの支持者との混乱を避けるため、ホテルの調理場を通って会場外の専用車に乗り込もうとホテルを出ようとしたとき、パレスチナ系アメリカ人に頭を銃撃され死亡したと、テレビはくり返し、くり返しアナウンサーのヒステリックな声と生々しい現場の映像を流していた。
    オレがアメリカへ行く前年の1963年、大統領であった兄ジョン・ケネディが暗殺され、今度はアメリカを去ろうとした1968年、次期大統領間違いなしといわれた弟ロバート・ケネディ暗殺され全米が悲しみと混乱に包まれた日、オレはロサンゼルスから19日間を費やし、5,000キロをバイクで旅しニューヨークに着いた日であった。
    オレにとってアメリカ大陸横断はインドまでのバイク旅行のほんの足慣らしであり、大陸横断の達成感や疲れは全く感じなかった。
    しかし、この暗殺ニュースを聞き、何か悪いことが起こるような予感がした。マンハッタンの中心街でロバート・ケネディ暗殺のニュースを知ったオレは、ニューヨーク市内のホテルは全米はじめ、世界中からロバート・ケネディの葬儀を一目見ようと予約が殺到するに違いないと思ったオレは、直ちにホテルを確保しようとホテルを回ったが確保できなかった。
    YMCAへも行ったが、そこもラフな服装をしたヒッピーまがいの若者たちが予約を取るため長蛇の列を作っていた。
    どんなところでもいい、とにかく泊まるところを確保しようとニューヨーク市内を何時間も走り回っていると、偶然、予約できる黒人経営のホテルを見つけた。やっとホテルを確保した喜びとともに我に返ると、そのホテルの出入口には黒人がたむろし、酒ビンや新聞紙が散乱していた。
    なんとなく嫌な予感が当たるように思えた。カウンターにいるたった一人の黒人スタッフからキーを受け取り部屋へ行こうとエレベーターに乗ると、ドアは手で開け閉めする朽ちた旧式のものであった。
    五階だったと記憶しているが、エレベーターを降りると、廊下は薄暗く、人がやっとすれ違いできるほどの狭さで、部屋には古く汚いベッドとゴミ箱用の古いバケツ、それに水の出ないシャワーだけであった。
    オレは、ホテルの入り口で酒をラッパ飲みしながら、たむろしている黒人たちが夜中にオレの部屋へ押し入り、寝ているオレを襲い、下手をすると殺されるのではないかと不安と恐怖で着替えもせず、ベッドにしばらく腰かけていた。ジッと一晩中そのまま起きていられるわけがないと思い、本能的に用心のため部屋のドアのそばにゴミ箱用のアルミ製バケツを置き、ドアが開くとバケツに当たり音がするようにした。
    反面、頭のどこかで、世界一殺人の多いニューヨークでも映画であるようなことは起こるまいという思いもしたがサバイバルナイフを握って、起きておこうとベッドにもたれていたが、疲れが出たのか眠り込み、目が覚めると無事に朝を迎えていた。
    あとでわかったのであるが、そのホテルは、何と当時アメリカで最も殺人の多いニューヨークのハレム地区のホテルだった。何も起こらなかったこと自体、単にラッキーだったのかもしれない。
    この不気味な恐ろしいホテルから逃げるようにチェック・アウトしてタイムズ・スクエアへ行き、街角で「ニューヨーク・タイムス」を買い、カフェへ入り、ドーナツとコーヒーの朝食を摂りながら、ヨーロッパ行きの船を予約するため広告欄で旅行社を探していると、何社かの中にこのカフェの近くに一社、日本人が経営する旅行社があった。朝食の後、広告にあった古い高層ビルの狭い一室に、中年の日本人社長が一人で営業していた。
    社長は日本からの観光客が増え、日本の旅行社からニューヨーク観光のバスを手配する旅行社を始めてまだ三年、ヨーロッパへ船で行く客はオレが初めてだと苦笑しながら電話帳を広げ,何社かの船会社に電話をかけ続けた。
    そして、最も早いヨーロッパへは六月十日、ニューヨーク出航のリスボン(ポルトガル)行きがあるが、学校の夏休みが始まり、エコノミークラスは満席で取れないと言った。できるだけ安い船室を予約したかったが、仕方なく、一段高いツーリスト・クラスを374ドル(約13万円、当時の日本人の給料の三か月分)払い、即、予約した。
    リスボン行きの船の予約が済むと、アメリカ大陸を横断したオレのバイクを総点検しておいた方が良いと思い、ハドソン川のリンカーン・トンネルをくぐり、ニューヨークの北西約130キロ、ニュージャージーのヤマハ・ニュージャシー支社へ行った。
    ロサンゼルス・ヤマハのAさんから連絡があったらしく、インドまで走るのだからヤマハの名誉にかかわるからと、白人メカニックは時間をかけ、丁寧に整備してくれ、整備費もまけてくれた。
    その夜はヤマハ支社のある、チェリーヒルのモーテルに泊まった。
    (つづく)

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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki


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