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    カテゴリ:バイク > 世界一周

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (11)
    オレの心配事は葡萄が一刻も早く熟し、その房を切り取り箱詰めするピース・ワークで稼ぐことができるかどうかであった。
    休日の葡萄畑は陸の孤島。車がなければ動きが取れず、洗濯し「ブランケット(老人たち)」と交流を図り、退屈な一日を過ごすことになった。
    洗濯は小屋の外にあるコンクリート製の古い流し台でした。日本ではホテルのような特別のところしか、蛇口から湯は出ない頃であったが、アメリカではこのような農家でさえ当たり前のように太い蛇口から出る湯は使い放題だった。
    洗濯物はロープを張って干すと太陽の熱射をもろに受け、30分ほどでスルメのように固く乾き、ジンズは折り畳むのに苦労するほどパサパサに乾燥した。
    洗濯を終えると、もうすることは何もなかった。ふと思い出して日本へ手紙を書こうとしたが、葡萄の枝葉をハサミで切る作業で指が腫れ上がっており、ボールペンを握れば指が痛く諦めた。退屈しのぎに、朝鮮半島出身老人が寝そべっているベッドに行き、映りの悪い白黒テレビを見せてもらうことにした。
    英語は理解できなかったが、秋の大統領選挙へ向けてのジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会の放送をしていた。共和党のジョンソン大統領は一年前、ケネディが暗殺され後、副大統領から格上げされた大統領であったが、政治力は民主党のゴールド・ウォーターのほうが上だといわれていた。
    さすがに人種の坩堝アメリカである。オレが作業している葡萄畑の周辺でも一票でも多く得るためアジア系有権者を対象に「金水(ゴールド・ウォーター)」と漢字で印刷したステッィカを貼った選挙運動カーが走っていた。英語が理解できないとテレビを見ていても面白くなく、ほかの老人たちの小屋を覗きに行った。彼らの小屋でもジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会のテレビ放送を流していたが、誰もそれには無関心に将棋やカードに熱中していた。
    小屋の外では、鹿児島出身のテッド老人が木陰に椅子を持ち出し、宮城県出身のケン老人の散髪を終えたところだった。
    「ユーも坊主にせんか」と言うので、オレも暑いのでテッドにバリカンで丸坊主にしてもらうことにした。彼に言われるままに半そでの下着を脱ぎ、上半身裸になり散髪が始まった。
    黙って座っていると間が持てないので、オレは南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団した、日本人初のメージャーリーガー村上雅則のことや、十月の東京オリンピックに向け、今、急ピッチで競技場や高速道路の工事が進んでいることなどを話題にし、切れの悪いバリカンに我慢しながら話題の散髪だった。
    この葡萄農家に来てから、オレの興味は、この老人たちが、どのような人生を歩んできたのかということだった。散髪してもらいながら、テッドのそれまでの人生を聞いてみたくなり、
    「何でアメリカに来たんですか。良かったら聴かせてくれませんか?」と言うと、彼は突然無口になり、切れの悪いバリカンの動きが止った。
    人には聞かれたくないものがある。
    その時、オレは聞く話題でないことを一瞬に悟ったが、とぼけたふりをして振り返って、
    「どうしたのですか」と、声をかけた。
    その時、オレができることは、バリカンの止まったままの頭を下に向け身動きひとつせず、彼の反応を待つしかなかった。
    「ユー、幾つや」
    「24です・・・」
    非常に気まずい一瞬だったが、
    「そうか」と、続けた後、テッドはため息をつき、ボソボソと小さな声で彼の今までの人生を悔やむような声で話し始めた。
    テッドが20歳の頃、アメリカで一儲けし、郷里の村に水道を敷いた人から成功物語を聴き、彼も一獲千金の夢を抱いてアメリカ行きを決行したと、語り始めた。
    ところが乗り込んだ船はアメリカに寄らずメキシコに入港してしまった。
    その船にはテッド青年のような若者が30人ほど乗り込んでいた。その中の4,5人の青年たちはメキシコに入港した船から飛び込んでメキシコへ密入国し、メキシコ人農家でタダ働きしながら北へ北へと進み、国境を越えアメリカへ密入国したそうだ。
    当時、若かったテッドは旅券さえあればどこの国にも入国できると思っていたそうで、目的地であるアメリカのビザさえ持っていなかったそうだ。アメリカへ密入国してからは早く金を貯め、「故郷に錦を飾る」日を夢見て、昼夜、鉄道工事現場や白人農場で、少しばかり蓄えが出来た。
    ある夜、仲間の日本人と酒を飲み、酔っぱらって眠込んだ隙に、苦労してため込んだ全財産を仲間に持ち逃げされ,そのことがあってから彼は自暴自棄になり、酒、バクチ、女の生活を続けた挙句、六十歳を過ぎたその時も夢を叶えるえることなく、季節労働者としてカリフォル二アの農家を転々としていると自嘲気味に言った。
    大樹の木陰で散髪しているオレの横では、いつの間にかブランケットたちが将棋盤を囲み、「金を取れ」とか「飛車を張れ」などと盛んに大声援を出し葡萄園の休日を楽しんでいたが、この老人たちの人生もテッド同様の人生を歩んだように思えた。




    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (12)
    カリフォルニアの遅い夕闇が訪れると、乾燥した葡萄畑の夜空一杯に星が鮮やかに輝き始め、爽やかな風が何処からとなく現れ、昼間の葡萄畑の炎暑が嘘のように一変した。
    給料の出た週末の夕食後、テッドやブランケットの季節労働者たち四、五人がデラノのダウンタウンケンへ飲みに行くらしくオレも誘われた。飲みに行く金のないオレは断ったが無理やり誘われ、行く羽目になった。
    彼らの中ではケンだけが大事に使っている、今にもエンストしそうな50年代の古い年代のフォードに乗り込んだ。エンジンが始動すると、黒煙のにおいと爆音に驚いたのか、夕闇の農道へウサギが葡萄畑から飛びだし、ヘッドライトの前を横切った。無数のアンパンほどの大のガマガエルは微動ともせず農道に居座っていた。それをケンのオンボロ車はビシッ、ビシッとイヤな嫌な音を立て轢き殺しながら、葡萄畑の農道をデラノの飲屋へと飛ばした。
    デラノの町には、葡萄畑で働く季節労働者が相手の飲屋が多くあった。車を飲屋の裏の駐車場に止め、オレは老人たちの後について小さなバーへ入った。
    バーのオーナーは、日本に進駐していた米兵と結婚、夫の除隊と共に米国に移住、その後離婚した「戦争花嫁」と呼ばれていた中年女性が経営していた。オーナーともう一人同じ境遇の日本女性が働いていた。飲んでいるうちに、老人たちが葡萄畑で、時々、大声で口論しているのは、このバーの女性たちのことが原因であることがおぼろげながら理解できた。
    作業には日が経つに連れ慣れていったが、照りつける太陽の熱さに慣れることはできなかった。太陽は常に頭上で輝き、葡萄畑を焼き尽くすような熱さであった。スプリンクラーで捲かれた水は蒸発の勢いを増し、立ち昇る水蒸気で葡萄畑の風景は大気の中にゆらゆら動いていた。我々は激しく照りつける太陽を少しでも遮るため長袖のシャツを着て作業していたが、オレの体には火傷のようにあちこちに小さな水脹れができ、その水脹れを体中から噴き出る大粒の汗は塩の塊となって刺激し、ベッドで横になると飛び上がるように痛かった。
    葡萄畑での唯一の楽しみは、中年の白人夫婦が豆腐売りのラッパのような音を流しながら、葡萄畑の農道を午前と午後フード・トラックにハンバーガー、サンドイッチ、コーヒーやコーラなど冷えた飲物を積みゆっくりと動き回っていた。オレは老人たちに頼まれ、駄賃を貰い、何本もの葡萄棚の下を潜り抜け、農道のフード・トラックを追いかけ買いに行った。日によっては数回買いに行くこともあったので、フード・トラックの夫婦とは馴染みになり、時々、大きな紙カップに入れたアイスクリームをくれた。そんなちょっとした親切心が酷暑の葡萄畑で働くオレの心を癒してくれた。
    オレは腕時計を凝視しながら、ジョージがトラックの上からの合図を待った。ジョージの大声とともに、やっと長い一日が終った。
    キャンプへ戻るトラックの上で葡萄畑を眺めながら、また明日もここで働くのかと思うと恐怖感を覚える日々が続いた。
    季節労働者ブランケットの連中さえ、南カリフォルニアのレモンやイチゴ畑で働く方がずっと楽で、葡萄畑は暑くつらい仕事だと言っていた。
    この葡萄農家キャンプに来て、三週間が過ぎても葡萄の収穫は始まらなかった。
    ある朝、食堂で日系新聞「羅府新報」の求人欄を見ると「ガーディナーのヘルパー(庭師の助手)求む。ヒガ・ボーディング」と、載っていた。
    オレはロサンゼルスのホテルの主人が言った『ガーディナーのヘルパー』のことを思い出した。
    早速、オレはロサンゼルスのボーディング(下宿屋)に電話を入れた。ロサンゼルスの家はどこも広い庭があり、家主はガーディナー(庭師)と契約して、庭の手入れ頼んでいた。夏場は芝生の伸びが早く、その芝生を刈るのがヘルパー(助手)の主な仕事で、夏場はヘルパーが必要で、ヘルパーの賃金は一日15ドルだとボーディングの女主人は言った。
    何時ピース・ワークが始まるか分からないキャンプにいても、後一ヶ月ほどしかない夏休み中に、200百ドルも稼ぐことは不可能と判断、葡萄畑の主人サムに事情を話し、ロサンゼルスの下宿屋に入ることにした。
    このデラノの名前が一躍アメリカ中に知れ渡るような事件がレーガン・カリフォルニア知事時代(1970年代)に起こった。
    オレと同じようにデラノの葡萄農家で働いていた日系人やメキシコ人農業労働者たちが、ナショナル・ワーカーズ・アソシエイション(全国農業労働者結社)のあと押しによって、いっせいに葡萄摘みをボイコットした。
    それまではカリフォルニアの最低賃金にも満たない時給一ドルそこそこの賃金で、朝早くから夕方まで奴隷のようにこき使われ、トタンとタール紙でできた粗末なバラック小屋に寝泊まりしながら、労働契約を結ぶ請負人や仲介者の言いなりになっていた彼らが、ついに立ち上がったのである。まさに、オレが働いたデラノはスタインベックの「怒りの葡萄」の舞台そのものであった。
    そして、それまで無縁であった、医療手当、有給休暇、年金給付の権利などを、何百万人もの支持を得て勝ち取ったのである。
    時間的には短かったが、オレも「怒りの葡萄」の主人公たちと同じ場所で、同じような経験をしていたのである。
    そう言えば、第三者には取り立てて大事そうには思えないが、オレには忘れることのできない想い出がある。
    植村直己の著書「青春を山に賭けて」に、彼はオレより二か月早い1964年5月、横浜港からブラジル移民船に乗り、サンフランシスコとロサンゼルスの中間地、「パレア」の葡萄畑で働いた。何とそこはオレが働いた葡萄農家のデラノ近くであった。
    事実は小説より奇なりである。
    彼は「青春を山に賭けて」の中で彼は、「日中は40度の高温が続き、砂地の幅射熱を受けると、いても立ってもいられないほど暑いところだった」、「朝早くから働きに駆り出された」、「葡萄棚の中に巣を作っている蜂の大群に刺された」、「賃金は日本のそれとは比べ物になかった」とか、オレが同じ時期(1964年)、同じようにカリフォルニア中部の葡萄畑で終えが経験したことや感じたのと同じことを書いている。
    だから、彼も同じように、目的に向かい、百ドル前後を懐に渡米し、オレと同じデラノ近辺の葡萄農家で働いていた彼を戦友だと誇りに思っている。


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    Oldies60s & My Hardies in California
    私の二十代
    (13)
    皆さま、いつも下手な昔話を読んでい戴き感謝しております。書き手と読み手とは感じ方が違い、素人の私は、60年代アメリカが激動した時代の生き様を試行錯誤しながら書いています。読み手は長いと読む気がしなくなると思いますので、今日から今までの三分の一の長さにしてみます。ご意見頂ければ幸いです。
    ガーディナーのヘルパー葡萄の収穫期の遅れで、稼げなかったオレは、新聞広告で見つけたガ―ディナーのヘルパーをして稼ごうと、デラノからロサンゼルスへ戻り下宿した。下宿屋の経営者は沖縄から移民したヒガ(比嘉)という六十過ぎの老夫婦だった。当時、ロサンゼルスには日系人が経営する下宿屋が数軒あった。日系人はそれを「ボーディング」と呼んでいた。中でもヒガ・ボーディングはその歴史の長さと部屋数の多いことで日系人社会では知らぬ者はいなかった。
    同じ頃、あの有名な冒険家植村直己も、オレと同じようにカリフォルニア中部の農園で働いたあと、このボーディングに下宿し、ガーディナーのヘルパーをして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指して、フランスへ旅立ったと後で知った。同じ下宿屋にいたのなら、顔ぐらい合わせたかもしれない。彼も無名時代だったので、逢ったかどうかどうか確信はない。
    私が、ミセス・ヒガにデラノでの事情を話すと、「デラノで働いていたの?それじゃヘルパーはそれに比べるとイージーよ。でも、経験がないから2,3日ガーディナーについて見習いをするの。ユー、ノー(わかった?)」と、言って部屋へ案内した。
    ヒガ・ボーディングは元々白人が所有していた大きな舘で、ロサンゼルスの中心地のベニス通りとウエスタン通りの交差点近く、ベニス通りに面していた。交差点の周りにはガソリン・スタンドで有名な「76」、スーパー「SAFEWAY」やこまごました商店が軒を並べた黒人の多い街だったが、黒人街と言うほどではなかった。
    二階建ての古びた大きな館のような二棟には8、9部屋あり、各部屋には3つか、4つのベッド、それに時代物の机と椅子が備えてあるだけで、それ以外、家具らしきものはなかった。その建物の裏は広い駐車場になっていた。部屋代も新館と旧館とは違い、旧舘のオレの部屋代は、三食付き65ドルだった。下宿代を払うとほとんど残らなかった。
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    My Hardies in California 
    私の二十代
    (14)ガーディナーのヘルパー
    この年(昭和39年)4月、日本は海外渡航が解禁になり、どこで知ったのか発展途上国日本からのアメリカへ来る旅行者間では、ガーディナーのヘルパーをして稼ぐ最高の下宿屋と有名だった。特に夏場は芝生の伸びる季節で、このヒガ・ボーディングは満室だった。
    1960年代、ロサンゼルスのガーディナー(庭師)は日系人の生業だった。彼らは芝刈機、庭帚、枝切りハサミなどガーディナーの七つ道具を小型トラックに積み込み、一人で一軒一軒長期間契約している顧客の庭を手入れして回っていた。
    しかし、夏は芝生の伸びが速く、ガーディナー一人では芝生を刈ったり、花壇の手入れするのに時間を食うので、彼らガーディナーはヒガ・ボーディングの下宿人をヘルパーとして雇い使っていた。
    当時のガーディナーは終戦の1945(昭和20)年後半に「短農(短期農業実習)」という名目のもと、アメリカ政府の恩恵に与かり、日本からアメリカへ渡った「戦後移民」だった。「短農」たちはアメリカ人の嫌がる、低賃金でカリフォルニア中部のサリナス、フレスノ、デラノなどの農園で働き、契約期間が終わると米国政府から永住権を与えられ、自由の身となった彼らは、日系人の多いロサンゼルスに流れ込み、ヒガ・ボーディングに下宿した。だから、ミセス・ヒガとガーディナーたちは身内のように親しかった。そして、短農出身者は業農園で働いていた特技を生かし、ガーディナーの仕事を始め、アメリカでの生活の基盤を築いていった。
    日本人ガーディナーはまじめで仕事の出来上がりがきれいと評判だった。ビバリーヒルズ、ハリウッドなど白人金持が住んでいる地区だけでなく、ロサンゼルス郡の市や街がアメリカで最も美しいと言われているのは、オレたちがおるからだと日系ガーディナーたちは自慢気に言っていた。それは間違いではなかったが、ガーディナーたちの顧客取り合い競争も一因あったと思う。
    海外渡航自由化になり、住むところも仕事もない日本から来た者にとって、ヒガ・ボーディングはガーディナーのヘルパーの仕事を簡単に見つけることのできる職業斡旋所であり、ガーディナーにとって役に立つ仕事のできるヘルパーを採用できる所であった。そして、ヒガ・ボーディングは仕事を求め日本からの下宿人で潤い、三者の思惑がうまく噛み合っていた。
    海外渡航自由化後、多くの日本人若者たちが観光ビザでロサンゼルスに着くと、まずヒガ・ボーディングで荷を解いた。彼らの多くは賃金の高いアメリカで稼いだあと、北米や南米旅行、あるいは世界一周旅行などを志す若者たちであった。発展途上国日本ではエリートのアメリカ駐在員も、生活費を切り詰めるための下宿屋でもあった。
    写真は現在の元ヒガ・ボ-ディングの建物
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    My Hardies in California 
    私の二十代
    (15)ガーディナーのヘルパー
    下宿人は男性ばかりで、女性はミセス・ヒガと日系人の賄い婦数人だけであった。ガーディナーたちの朝は早かった。下宿人たちは六時頃から朝食を摂り、食堂でガーディナーが来るのを待った。
    作業着に汗で塩の噴いた野球帽を被ったガーディナーたちが、建物の広い駐車場にトラックを停め、次から次へとヘルパーを採用するため食堂へ入ってくると、ミセス・ヒガは経験豊かなヘルパ-を下宿人の中からテキパキと選び、ガーディナーに紹介していた。
    経験のないオレは、2,3日タダ働きして仕事を覚え、ヘルパー業を始めた。
    毎朝、オレはボーディングが用意してくれるサンドイッチにバナナなど果物の入ったアルミ製アメリカの弁当箱を持って、その日の雇主であるガーディナーのトラックに乗り込んだ。
    ガーディナーの中でも昔からやっている年寄り連中は、ハリウッド地区やビバリヒルス地区などの大金持ちを顧客に持ち、大きな舘の庭の手入に一日中へばりつきで、移動なく、ガソリン代も最小で済み稼ぎも良かった。一般的にはガーディナーの顧客は、広いロサンゼルス中に点々と散らばり、移動に時間がかかっていた。ガーディナーは、顧客の庭の広さや月に何回、訪問し庭を手入れするかなどを基準に、顧客と契約を交わしていた。
    この移動中、ヘルパーはガーディナーの運転するトラックの横に座り休憩できたが、ガーディンナーはガソリン代や一日で周る顧客数によっては、収入に影響していた。
    当時のロサンゼルスの街並みや白人住宅街、プール付きの家や庭は映画やテレビでしか観たことしかなく、素晴らしいアメリカの風景にダダ驚くだけだった。
    顧客の家に着くと、ヘルパーオレはトラックから、エンジン付きの重いロンモア(草刈り機)を降ろし、どの家の正方形に固定化された広い裏と表の庭の芝生刈りが主な仕事だった。
    オレが芝刈りをしている間、ボス(雇い主はそう呼ばれていた)のガーディナーは表や裏の庭木や花壇の手入れをした。芝刈りが終わると、水圧が強く、勢い強く噴き出す直径2cmほどの長いホースで庭、玄関、ガーレジのごみを洗い流し、一軒終了。これをガーディナーが一人でやると一時間ぐらいかかるが、二人でやると三十分以内で終わった。ヘルパーはテキパキと動かないと、ボスからミセス・ヒガに連絡が行き、翌日から仕事がもらえなかった。重い草刈り機と共にプールに落ち、油でプールを汚し、プールの清掃代を払う羽目になったペルパーもいた。
    芝生の伸びが早い夏は、ガーディナーはヘルパーのオレの支払もあり、日の長い夏場であり普段より多くの客を取り、目いっぱいこき使われた。
    1964年当時、1ドルは固定相場で360円だった。アメリカの最低賃金は時間1ドル5セント(378円)で、日本のバイト料の1日分に匹敵した。
    アメリカ人の平均月収は約500ドル(18万円)前後であったが、ガーディナーの月収は日本の平均年収約29万円に匹敵する700から800ドルを1か月で軽く稼いでいた。一方、ヘルパーは日給制で、一日15ドル(5,400円)、日本の10日分に匹敵したが、二世の若者など見向きもしない仕事だった。
    ハリウッドの映画俳優の庭も何軒か手入れに行った。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付き豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。ハリウッドの映画俳優の庭も何軒か手入れに行った。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付き豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。
    昭和三十年代、人気テレビ映画「ローハイド」で老コック「ウイシュポン」を演じていた俳優(写真・ポール・ブラインガール)の庭も手入れした。
    彼は役のような老人かと思っていたが、実際は四十六歳で、二十七歳のワイフと六ヶ月の子供がいた。
    前年、昭和三十七・八年頃、「ローハイド」で共演していたクリント・イーストウッドたちとテレビ局の招待で日本を訪れていたので、二度目に彼の庭の手入れに行った時、オレは彼と庭先で一緒に写真を撮り、仕事が終わるとビールを飲ませてくれた気さくなオッサンだった。
    あの有名な歌手であり、女優であるドリス・ディ宅にも行ったが、目が合っただけでタダのオバさんだった。
    ちなみに、ドリス・ディといえば、「センチメンタル・ジャーニー」
    「二人でお茶を」「ケ・セラ・セラ」などの大ヒット曲で知られ、その後、女優業に力を注ぐようになった。オレが会った時は四十歳ぐらいで、この数年後(六八年)から始まる「ドリス・ディ・ショー」というこれまた人気テレビ番組開始までの、半ば引退同然のような休養中の時期だった。
    ガーディナーの中には、「発展途上国」日本から来たヘルパーを、明らかに見下しているような奴もいた。
    自分たちが米国で苦労したのであれば、あとから来た同胞日本人には親切にしてやるべきだと思うが、同朋でありながら新参者を受け入れない雰囲気があった。しかし、同国人といえ、競争相手が増えると、自分たちの職場を取られてしまうと恐れがあったからだ。だから、こうした傾向はどこの国の移民でもあったようだ。
    観光ビザでアメリカに入国して働くことは違法だった。ガーディナーたちはほとんどのヘルパーが観光ビザで入国していることを知っていた。だから、ヘルパーはボスであるガーディナーに楯突くと移民局に密告され、強制送還されることを恐れて彼を雇っているボスには文句の一つも言えなかった。ボスともめたヘルパーがボスに移民局へ密告され、日本へ強制送還された話は何度となく聞いた。今は水節約でどこの前庭も芝生ないようですね。
    (つづく)
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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki




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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
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    ※大迫さんが自費で世界一周したのは最初らしいですが証明するものはありません。

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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)

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    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務
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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (6)
    目が覚めると腹が減った。レストランへのあるロビーに下りると、当時、人気のあった東宝映画「駅前」シリーズのハワイ編撮影に来ていた。その場で、偶然、俳優の森繁久弥、フランキー堺、監督の佐伯幸三たちに偶然、出逢った。彼らも食事に行く途中であった。海外渡航自由化になり三か月経っていたが、ホテルの日本人客はオレと彼らだけらしく、ロビーも閑散としていた。
    こんなところに日本の若者がいると驚いたようで、フランキー堺がオレに声をかけてきた。
    「良いなぁ、オレも留学したいなぁ」と、真面目な顔で彼は答えた。しばらく彼らと雑談した。オレが帰国した後、彼はニューヨークへ留学したことを知った。
    カウンターに着き、メニューを見るが英語で注文する料理が分からず、片言の日本語を話す日系ウエイトレスに任せると、バラバラにレタス、チーズ、トマトなどを盛った皿と小さな鏡餅のようなパンをもってきた。それをどのようにして食べるもかもわからず、彼女に教えてもらい、皿に盛った野菜やチーズをパンにはさみケチャップをかけて食べた。それは、今なら幼稚園児でも知っているハンバーガーなる料理であった。
    食事代1ドル数セントを払いカウンターを離れようとすると、ウェイレスが、
    「ユー・チップ」と、つっけんどんに言った。
    オレはチップを払った経験もなく、いくら払って良いかもわからずズボンのポケットに手を突っ込み、ニッケル(五セント)やダイム(10セント)、クオーター(25セント)などの小銭を取だしカウンターに置くと、彼女はニコッとお世辞笑いしながら一番大きなコイン(25セント)を指でつまみあげ、エプロンのポケットへポイッとほり込んだ。その額は日本円で90円、神戸・大阪間大人三人分の電車代に匹敵する大金であった。
    オレが会社を辞めた1964年4月の給料は20,000円だった。日本円に換算すると、その食事代はチップ込みで約660円だった。1ドル360円時代、食事代とチップだけで日給近くが吹き飛び、オレはアメリカの物価高さに身の縮む思いがした。
    アメリカへ出発する頃、JTBはハワイ7泊9日旅行を36万円で売り出していた。この価格は今なら受け入れられるが、今の価格にすると500万円ぐらいと非常に高価なハワイ旅行であった。
    その夜、ホテルのウエイトレスの勧めで、アラモアナ・ホテルへフラダンスショー見に出かけた。今と違い、車も人通りも少ないワイキキ通りに面した、そのホテルに行くと、入口にアメリカ映画に出てくるような華やかなムームーやアロハシャツで着飾った多くの白人紳士淑女たちが賑やかに立ち話していた。
    半袖に裾幅の広いズボン姿のオレは、その服装の紳士淑女の横を通るだけでオレは気おくれして、中々ホテルの中へ足が向かなかった。
    しばらくホテルの前を行ったり来たりしていると、オレと同じように40歳前後の日本人らしき男がウロウロしていた。声をかけると日本人だった。彼もそのショーを見に来たようで、
    「一人ですか?商用ですか?留学です。フラダンスショーを観に来たのですが・・・・。勇気がいりますよね・・・・。じゃあ一緒に観ましょう・・・・。」と、
    お互い自嘲気味な会話をしながら、フラダンスショーの催される、色鮮やかな照明が照らされたホテルの中庭へ、まるでお化け屋敷に入るような緊張した気分で行った。
    照明に照らだされた青々とした芝生、椰子の木、満天に輝く星の元、色鮮やかなアロハ姿のポリネシア系ミュージシャンが奏でるハワイヤン・ミュージックが響き渡り、健康的な日焼けしたポリネシア系美女たちのフラダンスショーが始まった。
    「知り合えてよかったですね」と言うと、彼も初めてニューヨークへ行くと言う、その商社員と一本、一ドル(360円)のビールを飲みながら、雑談していると緊張感が薄れ、初めて見るフラダンスショーに感動、感激の夜たった。日本とハワイ、たった8時間の距離で、夢を見ているような別世界があるのかと驚きと興奮の中でフラダンスショーを楽しんだ。
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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (7)
    その日の深夜便でホノルルを発ち、7月4日、ロサンゼルス空港に着いた。英語の話せないオレは疲労困憊の末、なんとか日本人町へ行くバスを探し乗り込んだ。
    海外旅行のガイドブックもない時代だったが、日本人留学生は「リトル・トーキョー(日本人町)で「皿洗い」して生活費や授業料を稼ぐと、何かで読んだことがあった。
    だから、英語の話せないオレは、それをうのみにして日本人町へ行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかると疑いもしなかった。
     バスは初めて見る四車線、五車線もある広いフリーウェイを経験したこともない100キロほどの速さで走った。車窓から眺めていると、パリっとした身なりの自信にみなぎったアメリカ人男性が大きな車に一人しか乗っていなかった。まだ日本では車が普及していなかったので、二人、三人ではなく、一人しか乗っていないのに驚いた。
    日本人町に着くと、バス停のベンチに座っていた日系の老婆に聞き日系人の経営する「パシフィック・ホテル」へ行った。
    そのホテルはペンキの剥げた薄茶色の三階建で、建物の外には時代物の赤さびた鉄製の非常階があった。中に入るとよれよれの背広を着た数人の日系老人たちが新聞を読んだり、将棋を指したりしていた。
    「ワンナイト(一泊)4エン、ウィーキ(週)で20エンよ」と、
    将棋盤を囲んでいた一人の日系老人がカウンターへ回り込みながら言った。彼はこのホテルのオーナーであった。
    突然、「ドル」を「エン(円)」とか「ウィーク(週)」を「ウィーキ」と言ったので、オレは呆気にとられた。
    途中ハワイで一泊したので、手元には七十ドルほどだけしか残っておらず心細く、ひとまず一泊分だけ払った。三階の部屋にはスプリングの利かない年代物のベッド、ポタポタと水が滴り落ちて止まらないシャワー、長年の使用で変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけだった。
    アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いというか古いホテルで、オレのような「発展途上国」日本からの客かロビーで将棋を指していている失業者のような老人たちが泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しい年代物のホテルであった。
    三階の部屋からは筋向いに東京銀行、その右手に住友銀行ロサンゼルス支店、「ニューヨーク・ホテル」、左側に「旅行社三井大洋堂」、「宮武写真館」、「レストラン東京會舘」等、英語と日本語の看板を掲げた店が軒を並べ、その当時さえ、すでに日本ではお目にかかれない大正時代か、昭和初期のセピア色の懐かしい風景だった。
    日本では一流企業で、一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残された日本人町の古びた建物で営業している光景は戦勝国アメリカと敗戦国日本の力の差を象徴しており、寂しい気持ちになった。しかし、ホテルの入口でボロの衣類をまとった白人の年老いたバアさんが空き缶を差し出し、小銭をくれと迫ってきたとき、世界一豊かな国アメリカにも乞食がいるのかとこれは強烈なショックだった。
    スタインベックの舞台、葡萄園でのアルバイト
    「パシフィック・ホテル」にチェック・インを済ませると、「皿洗い」のバイト探しに出かけた。しかし、日本人町は想像していたような大きな町でなく、どこの日本人レストランも人手を必要としていなかった。オレはがっかりして、ホテルへ戻り、ホテルの主人に事情を話すと、
    「ガーディナーのヘルパーをやると金にはなるが経験がないと・・・」と言ったあと、デラノの葡萄摘みのバイトはどうかと勧めてくれた。
    ホテルの主人とデラノの葡萄農家の経営者は太平洋戦争中マンザナの強制収容所で知り合った友人だと言った。
    デラノはロサンゼルスの北約200キロ、中部カリフォルニアにあり、その一帯は葡萄農園が多いそうだ。農園は夏の葡萄出荷時になると猫の手も借りたいほど忙しいが、厳しい暑さ中での葡萄摘みに人手が集まらず、労働者を確保に苦労しているから、必ず仕事はあると言った。オレはすぐ稼がねばならなったので、彼の話を聞き、早速デラノ行きを決めた。
    翌日、ホテルの主人から葡萄園の電話番号をもらい、ダウンタウンのグレイハウンド・バスのターミナルからサンフランシスコ行きに乗り込んだ。
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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (8)
    バスにはオレのように、葡萄摘みの仕事に行くのであろうか、家族連れメキシコ人、車を運転できない年老いた白人、貧しそうな黒人たちで満員だった。
    バスは北へ一直線に延びるハイウエイ・ルート99を二時間ほど走り、ベーカスフイルドの町を過ぎると、見渡す限りバスの周りは葡萄畑が広がりはじめた。バスは広い萄畑の中をしばらく走ると、ルート99を降り、サザン・パシュフィック鉄道のガード下をくぐり抜けデラノのバス・ターミナルに着いた。
    バスを降りたオレは、ターミナル内の公衆電話ボックスに入り、Kという葡萄農家へ迎えを頼んだ。迎えを待つ間、ターミナル前のベンチに腰を下ろし、タバコを吸いながら時計を見ると四時を少し回っていたが、頭上では熱射を浴びせる白い太陽が照りつけていた。周りを見渡すとデラノの町は南北に走る一本の広い道路に沿ってガソリン・スタンド、小さなレストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機械屋などがポツン、ポツンと幅広いルート99と並行に走っている大通り沿いにある、ほんの数百メートルほどの小さな町だった。
    車も全くと言っていいほど走っておらず、数台の車が道路沿いの商店へ頭を斜めに向け駐車していた。それは映画「俺たちには明日はない」で観たさびれた町の風景そのものであった。
    30分ほどバスターミナル前のベンチで待っていると、小型のピックアップ・トラックが止まり、K葡萄農家のミセス・Kが笑顔で降りてきた。40代半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジンズ、セミ・ブーツ姿のスラッとした健康的な日系女性で、英語のアクセントはあったが綺麗な日本語を話した。
    オレを乗せた小型トラックはデラノの町を出ると、地平線まで葡萄畑が広がる一本の農道を東へ20分ほど走り、葡萄畑に囲まれた大きな平屋の前で止まった。すると、オレの到着を待っていたかのように、恰幅のがっちりした50歳前後の日系男性が平屋から出てきて、英語混じりの日本語で、にこやかにオレに話しかけ平屋建ての中へ招き入れた。彼はこの葡萄農家のオーナー、サムであった。平屋はサム一家母屋兼事務所らしく、若い女性3人と作業服姿の中年日系の男性が事務を執っていた。サムは事務を執っている人たちをオレに紹介した。三人の女性はサムの娘、そして日系人ジョージはそこで働く労働者のファーマン(監督)であった。
    雑談の後、葡萄収穫期が少し遅れているので、2週間ほど葡萄畑の雑用をしてもらうとサムは切り出した。カリフォルニアの最低賃金は時間給1ドル10セントであったが、この葡萄園は1ドル15セントだとサムは言った。
    ロサンゼルスのホテルの主人は,仕事は葡萄を摘み、箱詰する出来高制(ピース・ワーク)で、夏休みの二か月も働けば、日本の平均年収に匹敵する700ドル(252,000円)は稼げると言っていたので、サムの話はショックだった。
    賃金と仕事の話が済むと、サムはオレが寝泊まりする白ペンキが剥げ落ちた粗末な掘っ建て小屋へ案内した。小屋の中は広かったが、スプリングの利きの悪い古いベッドが八つほどあり、裸電球が2、3個天井からぶら下がり、埃をかぶった年代物の木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれのベッド脇に備え付けられているだけだった。
    外はまだ明るかったが部屋の中は薄暗く、まるで映画で観たアウシュビッツ強制収容所のようで、惨めな気持ちになった。
    だが、日本は扇風機の普及率がやっと50パーセントを超えた頃だったが、このオンボロ小屋には騒音をまき散らす古いエアコンがあった。小屋の入口のドアや窓は、日本では見たこともない網戸付二重ドアになっていた。なるほど、これなら「蚊取り線香」も「蠅取り紙」も必要ない。
    「やっぱり、ここはアメリカ!すごい!」と、戦争後の後進国日本に比べその違いに驚くだけであった。
    この葡萄農家には、同じような労働者が寝泊まりするオンボロ小屋が20棟ほど軒を並べていた。サムはオレに施設のことを説明しながら、葡萄摘みの最盛期には日系人労働者が80人以上も寝泊まりするのだと、自慢そうに話した。
    シャワーとトイレは一か所、寝泊まりする小屋の外にあった。囲いのないシャワーとトイレが十ほど平行に並び、便器に座り隣の者と話たり、前でシャワーを浴びている奴を見ながら糞を垂れたりする代物であった。
    私の小屋には先客が1人いた。日系人のようであるが「骨と皮だけ」という表現がピッタリの痩せた老人で、右足の脛から下は包帯をグルグル巻きにし、身動き一つしないでベッドに横たわっていたので死んでいるのではないかと、薄気味が悪かった。


    Oldies’60s,&
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    私の二十代
    (9)
    カン、カン、カンと鉄版を叩く音が響き渡り眠が覚めた。眠い目を擦りながら時計を見ると、五時だ。カリフォルニアはデイライト・セイビング・タイム(夏時間)の季節で、5時はスタンダード・タイム(冬時間)なら4時である。葡萄農家での初日が始まった。サムから支給されたツバの広い麻製のバッカン帽をかぶり、ジンズに作業用の革靴を履き食堂へ向かった。外はまだ夜のとばりが残り、事務所の隣にある食堂の明かりだけが外にかすかに漏れ、日本の晩秋のように寒かった。
    オレが食堂に行くと、ミセスKがそこにいる人たちを紹介した。すると17,8人食事を摂っていた一見して60を越たと分かる日系人老人たちが威勢良く、オレに挨拶の声をかけてきた。
    若者は一人もいなかった。広い食堂には100人ほどは座れるステンレス製の長いテーブルと長椅子が整然と並び、すでに朝食を終えた何人かの老人たちは、サンフランシスコやロサンゼルスから送られてくるという日系新聞「加州毎日」や「羅府新報」を読み、雑談をしていた。コックは30を少し出たぐらいの静岡出身の男性で、彼の奥さんと葡萄農家のミセスKが賄いをしていた。朝食はスクランブルエッグ,ハム,ベーコン,トースト,コーヒー、オレンジ・ジュース、ミルク、メロンと、日本では食べたこともない豪華なものばかりで、しかも食べ放題とあってオレは大満足だった。
    再びカン、カン、カンと音が響いた。この葡萄農家の日々のスケジュールは、この鉄板の音で規則正しく進められ、葡萄畑へ出発の合図であった。老人たちに促され、オレは彼らの後について食堂を出た。
    事務所前にはエンジンをかけたままのトラックが停まっていた。
    全員といっても老人が17,8人とオレだけで、トラックの前に集まると、カウボーイハットに作業服、黒のブーツを履いたファーマン(監督)のジョージが、威厳を保つように無言で運転席から降りてきた。彼は雰囲気からして、何となく陰険で嫌な感じのする日系二世の男だった。
    ジョージはオレの方へちらっと目を向けながら、老人労働者の一人と小声でなにか話し始めた。話が終わると、
    「さあ、ヤングメン、乗った、乗った」と、その老人がオレを促した。
    老人たちはお互い手を握り、引っ張ってトラックの荷台に乗り込んだ。
    オレも言われるままに、老人たちの後について乗り込んだ。トラックの荷台は両側が長椅子になっており、お互い向き合って座った。
    トラックは葡萄畑主サム家の広い敷地を出ると、見渡す限り葡萄畑の広がる農道をもうもうと砂塵を上げ、東へ向かって猛スピードで走り出した。トラックの荷台は、夜明け前の風をもろに受け、歯が合わないほど寒く震えが止まらなかった。
    葡萄畑の遙か地平線に太陽が昇り始めていた。月はぼんやりと白く、鮮やかな赤色に染まったセコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が遥か東に小さく寒々と輝いていた。
    「ヤングメン。今日は葡萄の蔓(つる)をひっくり返す作業じゃ。ミーがヘルプするから心配すんナ、わかったナ!」と、先ほどジョージと話していた老人が、猛スピードで走る荷台で中腰になり、私の耳元に口を当て大声で指示した。
    我々を乗せたトラックは、葡萄畑に囲まれた一本農道を10分ほど砂塵まき散らし走り、広大な葡萄畑の一角に止まった。
    トラックの荷台に立ち、この広大な葡萄畑の先々まで目を向けると、日本の葡萄棚とは違い高さ一・五メートルほどの細い柱に細い鉄のワイヤーが通してあり、それに沿って葡萄の蔓が這わせてあった。一本の葡萄棚の長さは見当がつかないほど長く、その長い葡萄棚も何本ぐらいあるのか、数えてみる気など起こらなかった。葡萄棚は幅約一・五メートルおきに遙か先まで畝をなし、まるで竿に布団を干したように葡萄の蔓が棚を這っていた。
    その日は成熟の遅れた葡萄の成熟を促すため、葉の陰になっている葡萄の房に太陽と風が当十分当てるため、垂れ下がった葡萄の蔓を抱え棚の反対側にひっくり返す、布団干しのような作業だった。
    老人たちとオレが、一本、一本の長い葡萄棚に沿って横一列に並ぶと、トラックの荷台に立ったジョージが手を上げ作業開始の合図をした。
    ジョージの合図とともに老人たちとオレは、全員がプールに飛び込むように腰を曲げ、垂れ下がった葡萄の蔓を両手で抱え上げ、棚の反対側へひっくり返しながら前進を始めた。
    老人たちの作業は荒っぽいが、テキパキとして速かった。初日のオレは葡萄の実が落ちないかと気にしながら作業するので時間がかかり、老人たちに遅れ、がだんだん距離は開いていった。
    しかし、成熟遅れの葡萄の実は硬く荒っぽく取り扱っても房から外れ、落ちなかった。
    作業慣れしている老人たちは葡萄棚に沿って、作業しながら大声で陽気に冗談を言い合いながら前へ前へと進んでいった。
    葡萄畑は夜間スプリンクラーで撒いた水をたっぷり吸い込んでおり、足元は泥沼状態になっていた。葡萄の蔓を抱え、棚の向こう側へひっくり返そうと力を込めると、足がすべり勢い余って一抱えの蔓と共に何度もひっくり返り、すぐシャツもジンズも泥に染まった。おまけに、ひっくり返るたびに、勢いで蔓まで引きちぎること限りナシだった。
    一時間もこの作業をしていると、腰がだるくなり、手も上がらなくなるほど肩が疲れ、老人たちとの距離はますます開いていった。
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    My Hardies in California 
    私の二十代
    (10)
    葡萄畑の温度はゆうに40度を越していた。炎天下の作業は体力の消耗が激しく、意識はもうろうとして鼻血まで出てきた。オレはただ機械的に手を動かしていたが、作業している感覚はもうなかった。ジョージはオレたちの作業スピードが落ちたのを見逃すはずはなく、いつの間にかトラックから降りて、
    「サボルナ!」と、妙な日本語で怒鳴ったが、老人たちはいつものことだと意にも介していなかった。
    サングラスをかけたジョージは、トラックの荷台で飲み物を手に、フラフラになって作業しているオレたちの姿を楽しむかのように監視していた。その姿は、まるで映画に出てくる南部の綿摘み黒人奴隷をこき使う白人のように思え憎たらしかった。
    夕方4時、トラックの荷台からジョージの右手が挙がり、やっと朝7時からの作業が終わった。
    炎天下の長い一日の作業を終え、疲れ切った囚人か奴隷のように我われは再びトラックに乗せられ、掘っ建て小屋へ連れ戻された。この時のうれしさはたとえようもなかった。金銭的に働く必要がなければ、直ぐにでも逃げ出したい気持だった。
    粗末な小屋に寝泊まりし、トラックで葡萄畑に運ばれ、作業中もジョージに監視される生活は経験はないが、まるでナチス・ドイツの強制収容所に入れられたユダヤ人か、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」に登場する中西部の貧しい農民のような気分だった。人間、多少なりともお金がないと奴隷扱いされる生活もあると知った。
    オンボロ小屋に戻り、疲れ切った体を倒れ込むようにベッドに横たえると、長袖を着ていたが、一日中熱い太陽の下で働き、体中水ぶくれの火傷を負い耐えられないほど痛かった。
    身動き一つせずベッドに寝ていた同室の老人が、両手にビールの入った缶を持ってヨロヨロとオレのベッドに近づいて来て、
    「ドリンク、ドリンク」と、ビールを勧めてくれた。
    この老人は朝鮮半島出身で日本語は少ししか理解できないと言った。
    彼は足に包帯を巻き、立っているのが辛そうで、見るからに痛々しかったが、毎朝、目覚まし時計の代わりに、疲れ切って起きないオレを起こしてくれ、そして、葡萄畑から帰って来ると、ビールをくれる親切な老人だった。
    彼の包帯姿は一週間ほど前、小屋の入口にある段差を踏み外して怪我したと、照れくさそうに歯のない口で小さく笑った。
    オレはこの老人が、何故、ここにいるのかと不思議に思い尋ねてみた。彼の話によると子どもの頃、家が貧しく、知り合いの同国人に連れられアメリカに密入国し、それ以後、移民局に捕まるのを恐れる中、季節労働者としてカリフォルニア中の農家を季節労働者として転々としてきたと言った。
    だから年金手続きもせず、100ドルほどの年金ももらえず、72歳になったその頃も、カリフォルニア特産であるレタス、イチゴ、葡萄といった作物の植え付けや収穫の季節労働者として農園や農家を回っていると寂しそうに語った。
    足を痛めてからは、この数日は寝たり起きたりだが、痩せてはいるがまだ元気で、週に三日はこの葡萄農園で働いていると、痛めた足を軽くさすりながら言った。
    夏時間のカリフォルニアは、午後8時を過ぎても外は明るく、暑い夏の夜だった。日系三世であるサムの娘たち三人は夕食後、事務所前の大樹の下で臨時の売店を開き、年老いた働者相手にビールやコカ・コーラ、タバコなどを売り始めた。
    夕食を済ませた老人たちは、夕涼みを兼ねて売店を囲むように集まり、買ったビールを飲みながら、日本語交じりの英語で彼女たちと雑談して楽しむのが日課だった。
    彼女たちは同じ日本人の血が流れているがヤンキー娘のように活発で、屈託がなかった。英語の話せないオレは、彼女たちの振舞いに圧倒され、彼女たちの働きぶりを呆気にとられ眺めているだけだった。
    彼女たちは、愛嬌を振りまきながら、
    「ビアー?コーク?」と、声高らかに、アイス・ボックスからビールやコカ・コーラを元気よく取りだし、オレにも買えと笑顔で迫ってきた。
    オレは15セントでビールの小瓶を買い、老人たちの中に入った。
    「ユー、ようこんな暑いところへ来たな。今日、来たんじゃったかな、いや昨日じゃったな、まあ、そんなことはどうでもエエ、さあ、飲め、飲め」と、老人たちは誰彼となく、オレにビールを勧めてくれた。
    「ここには若い人来んのですか?」と、ビールを飲みながら聞くと、
    「ヤングメンはめったに来んな。ユーみたいな変わり者しか来んよハハハッ」と、笑った。
    最近は暑い葡萄畑の作業は敬遠され、若者はほとんど来ないと、老人たちは若いオレに誰彼となく話しかけてきて、ビールを勧めてくれた。
    彼らのほとんどは大正の末期から昭和の初期、移民船で南米諸国へ行く途中、アメリカへ密入国した人たちで、画用紙を折り畳んだような古い旅券を大事に持っていた。
    酔いが回ると、老人たちは大を張り上げ、古い日本の歌を歌い、若い時白人男性と喧嘩して勝ったとか、ギャンブルで大金を儲けたとか、呑屋の白人女性にもてた自慢話をオレにしてきたが、その表情には何か寂しさが漂っていた。
    オレは同室の朝鮮半島出身老人をはじめ、ここの老人たちはどんな人生を歩んできたのだろうかと、彼らが歩んできた人生に興味が湧いてきた。
    この老人たち、節労働者は身の回り品と寝る時必要な毛布(ブランケット)を持って農園から農園へ、作物の植え付けや収穫期に合わせてカリフォルニア中の農家を一年中移動しながら生活していたので、雇い主であるサムやジョージは陰では「ブランケット」とニックネームで呼んでいた。
    葡萄の枝葉を棚上げする作業や、葡萄の余分な枝葉を切り落として棚に括り付けるなど一貫性のない作業の日々だった。
    一週間が経った土曜日の朝、最初の週給日だった。事務所でミセス・Kから23ドルちょっとのチェックで週給が支払われた。食事代、税金などが引かれ予想していた金額の半分に愕然とした。
    週休二日制のアメリカでも夏の葡萄収穫時は、土曜日も働くと聴いていたが葡萄の成熟が遅れ、その日は無給の休暇となった。稼ぐためには、嫌なジョージの監視の下、猛暑の葡萄畑で働く方が良いと思ったのは自分でも意外だった。(つづく)

    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki


    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]
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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』のライダーの実話
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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California
    私の二十代
    (5)
    入国審査場で審査官に求めに従い入学許可書、伝染病の結核を患っていないことを証明するA3サイ図の胸のレントゲン写真、それにパスポートを提出すると、
    「たった100ドルしか持っていないのか?」と、
    白人入国審査官は、パスポートの最後の頁に記載された、日本銀行の外貨額持ち出し許可額とオレの顔をまじまじと見た。
    ほんの20年前、日本との戦争に勝った国、アメリカ人に英語で話した経験もなく、命の綱である百ドルの所持金、それに片道切符ではアメリカへの入国拒否、即、強制送還されるのではないかと不安と恐怖で心臓はパクパクと波打ち、パニック状態に陥った。
    「現金を持っていると危険だから、後で父が送金してくれる」と、とっさに知っている限りの単語を必死に並べ、何とか無事入国管理所を通過し、流れ出る額の汗を拭きながら、空港ターミナルビルの外へ出た。
    すると、そこには映画で見たことのある、美しく着飾ったポリネシア系美人のフラダンサーが数人、微笑みながら空港から出てくる乗客一人ひとりの首に、ハワイの綺麗な花で作ったレイをかけていた。
    彼女たちは、オレにもかけようとしたが、所持金100ドルしか所持金のないオレは、情けないことに代金を取られるものと勘違いし、彼女たちが親切にオレの首にかけようとしたその綺麗なレイを断った。それはハワイを訪れた人を歓迎するタダだったのだのだが・・・・・・。
    英語の話せないオレは、出発前、渡航客のビザ取得の仕事で顔馴染みになっていた神戸アメリカ領事館のスタッフから得ていた情報で、ホノルルでは日系人経営の「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。
    空港から「コバヤシ・ホテル」へ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行った経験があると言った。
    それを聴いた途端、子供の頃、神戸の街角を派手な化粧、ファッションの日本人女性を連れ歩いていた戦勝国、アメリカの進駐軍兵士が、今アロハ・シャツを着て運転するタクシーに敗戦国、日本の若造のオレが乗っていることに何か言い知れぬ違和感と畏れで緊張した。
    その上、彼の英語もほとんど理解できず、
    「オー、アイ・シー、オー、アイ・シー」と、私はわかったような生返事の連発で、ホテルに着くまで乗り心地は実によくなかった。
    タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した
    「コバヤシ・ホテル(現在のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで約4ドル50セントだった。
    ホテル代は一泊10ドル(3,600円)と高いのに驚いた。
    当時、日本の高級旅館が一泊二食付1,300円ほどだったので、手持ち100ドルしかなかったオレはこのホテルの宿泊代は今もはっきり覚えている。
    当時の一般日本人には、ホテルなどという気の利いた宿泊施設は無縁なものだった。ほとんどの日本人は旅館を利用していた。オレもホテル宿泊、ベッドなる寝具に寝るのも初めての経験で、ホテルの何もかもが珍しかった。
    風呂は日本のそれと違い、肩までどっぷり浸かることも出来ない狭く浅いタブで体を洗った垢が、タブから出ようとすると体中にこびりつき気持ち悪くかった。だから、今でも海外のホテルの風呂タブは嫌いである。
    部屋の見るもの使うものすべてが初めてで珍しく、記念にと、着替えもせずベッドに潜り込んでいる自分をセルフタイマー付(自動シャッター)のカメラで撮るなどしているうちに、時差と慣れない外国旅行の疲れで、そのまま眠り込んでしまった。(つづく)



    引用元:
    https://www.facebook.com/osako.yoshiaki

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
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    ※大迫さんが自費で世界一周したのは最初らしいですが証明するものはありません。
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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)

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    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務


    『Oldies’60s,& My Hardies in California
    私の二十代 (4)
    入社の翌年、1963年11月、日米宇宙中継テレビ実験放送が開始された。第一報は、米国大統領ケネディがテキサス州ダラスで暗殺されたニュースだった。 翌1964年の東京オリンピック開催、海外渡航自由化を控え、新幹線、高速道路、ホテル等の工事で日本中は活気に持ち溢れていた。工場の煙突から吐き出される黒煙や、活気よく走り回るトラックの排気ガスで建物は霞んで見え、健康を害する「公害」や「過労死」という言葉もなく、日本人は素晴らしい未来の到来を確信し一生懸命に働いていた。 中でも「海外渡航自由化」のニュースは、近い将来日本人が飛行機で世界へ旅する時代の到来を確信させ、オレの生き方を変えるニュースでもあった。 テレビは毎週日曜日の朝放映される、パン・アメリカン航空提供の「兼高かおる世界の旅」番組が大人気だった。 海外渡航自由化のニュースを知った時、 「そうや、これからは飛行機の時代や!人生は一回しかないんや!今のうちに英語を学び、将来は航空会社で働いたろ」と、 航空会社に就職するには必須の英語を学ぶためアメリカ留学を思い立った。米国留学など思いつかない時代だった。 オレは、人に頼りコネで就職したことが、一生消えることのない重い傷として心に残ることに耐えられなかった。そして、オレは自力で自信を持った人生を拓こうと決心した。 今の時代ならパスポートを取得すれば、誰でも簡単に海外旅行出来るが、「海外渡航自由化」といっても、海外留学は外務省の留学試験合格が条件だった。 顎(あご)足付き(国費)外務省留学試験は逆立ちしても、オレの能力では合格不可能だった。だが、自分で旅費、学資、生活費を工面して留学する私費留学試験なら、1%の合格の可能性がある。失敗を恐れずそれに立ち向かってやる。この気力がなくなれば、オレの人生はもう終わりとだと外務省私留学試験受験を決めた。 会社勤めの傍ら睡眠三時間で、私費留学試験へ向け猛勉強を始めた。試験の内容は英語だけと外務省大阪出張所で聞いていた。 睡眠不足は神戸からの通勤電車、神戸の領事館へ日に二回往復する電車の中で補った。 オレの人生で、こんなに必死に集中して勉強したのは、この時が最初であった。留学という目的があり、自分でも驚くほど勉強が面白く身に付いた。勉強は人に強制されてやるものではないと知ったのも、この時であった。 受験勉強と並行して、留学先のロサンゼルスの英語学の入学許可書(I-20)を取とる必要があった。外務省の留学試験に合格しても、このI-20がなければパスポートも米国ビザも申請できい時代だった。このI-20を入手するには英語で手紙を書かねばならず、英語のできないオレは非常にエネルギーと時間を費やした。 翌昭和39年4月、幸運にも私費留学試験に合格した。すると親は 定年まで安心して働ける会社を辞めることに猛反対した。 戦後、アメリカの「総天然色映画」(カラー映画)や人気テレビ・ドラマ「ルート66」に出てくる大きな車、広い芝生の庭、大型冷蔵庫、色鮮やかなペンキで塗られた大きな家、スクールバスでの通学、車に乗ったまま映画が観られるドライブ・イン・シアター、片側四車線も五車線もある高速道路、世界一豊かな国アメリカは、オレに限らず、当時の日本人にとって羨望と憧れの国であった。(つづく)』

    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki



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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話

    ※大迫さんが自費で世界一周したのは最初らしいですが証明するものはありません。

    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

    『「My Oldies in California & Around the world on motorcycle in 1968
    (人生は20代の生き方で決まる)
    (3)
    成績の悪いオレは中学生時代、担任教師から屈辱的な無視されるという耐え難いいじめにあった。それ以後、学生時代の学業に全く身が入らなくなった。
    当時の小中高の教師は一般社会外と切断された狭い教室の世界しか知らないのがほとんどで、日々の交流相手は同僚教師と社会を知らない子供たちだった。父兄からは先生と尊敬され、教科書から抜き取ったような、きれいごとしか言わない世間知らずの教師が多かった。今はモンスター・ピアレンツなる父兄もおり教師も少しは変わったと言われている。
    父は洋服仕立業を営み、オレたち5人兄弟の教育には熱心だった。成績の悪い長男のオレは大学を出ないと良い会社に入れないと、いつも口酸っぱく言われ、仕方なく自分の学力で入れる大学へやっと合格した。
    大学に入っても勉強する気は起らなかった。学校に行く振りして家は出るが、授業をさぼり駅近くのパチンコ屋へ入り浸り、閉店を知らせる「ホタルの光」の曲に追い出され帰路に就く日々が多かった。
    パチンコする金がない時は、当時、人気のあったファインティング原田の影響もあり、ボクシング・ジムへ行き時間つぶし、拳だけは鍛えていた。たまに試合に出ると顔面は腫れあがり、周りの者には又喧嘩したのかと皮肉を言われたが、喧嘩はしたことはなかった。
    ある日、ジムにヤクザまがいの奴が入ってきた。一周間ほど基礎練習と縄跳びをさせていたら、スパ―リングさせろと強硬に言うが、相手が相手なのでジムの練習生は皆丁寧に断っていた。あまりにもしつこいので「恨みっこなしですよ」と断って、オレはこれ幸いと大きなグローブでたたきのばしてやったら、翌日から来なくなった。その後、繁華街をうろついていると、その手の者が数人近づいて来たのでやばいと思い、逃げようとしたら、丁寧にあいさつされオレの方がびっくりした。
    大学の夏冬の休暇中は唯々、パチンコや遊ぶ金欲しさに、デパートや郵便局でバイトに精を出していたのが唯一の思い出のような生活だった。いや、ただ一度だけ、誰が誘ったか思い出せないが学友三人で、富士登山したことがあった。当時、五合目まではバスもなく徒歩で登った。六合目?で台風に会い、山小屋に丸二日間閉じ込められた。登山季節も終わっていたのか、今のように富士登山がブームでなかったのか泊り客もオレたちだけで、薄暗い山小屋の湿りっ気を含んだ布団の中で甲子園の高校野球の決勝戦を携帯ラジオ聴いていたのを思い出した。
    大学卒業近くになり、ゼミの教授に単位が足らず留年を告げられ、バナナ持参(当時バナナは高級高価な果物で、確か、一房約200円、今の価格に直すと約2,000円)で、教授宅前でオレを知っているヤツがいないかキョロキョロ周りを見て、さっと門を潜り、深々と畳に頭を擦りつけ、やっとお情けで卒業できた。
    1962(昭和37)年大学を卒業するも、就職も決まらず親父の知人のコネで、やっと大阪の旅行会社に就職、初任給は18,000円だった。入社すると、一流大学卒の同僚は先輩社員に同行し、得意先を回り営業を学んでいた。オレは業務渡航者のビザ申請書類を作成、日に二回、午前と午後、業務渡航者のビザの申請取得のため神戸の領事館へ行きと、業務渡航者の予防注射接種に検疫所まで連れて行くなど、営業課のサポート的雑用が主な仕事だった。
    同期の連中の希望に満ちた働きぶりを観ているうちに、実力ではなくコネで就職したことが劣等感となり苦しみ、こんな誰でもできる簡単な仕事を毎日していると、情けなく、虚しさ、屈辱感にさいなまれていった。将来に対する夢など全くない、何のため会社勤めしているかもわからず、入社一年目から絵にかいたような灰色の会社勤めであった。(つづく)』

    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki


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