ぼっちゃんのブログ

当ブログの掲載記事・文章・画像等は
Twitter、2ch、5ch、爆サイなどからの転載です。
様々なグルメ情報や話題をお届けするブログです。

    タグ:バイク世界一周

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    283935615_3236167009963133_8017805639365551195_n

    1968年のバイク世界一周
    旅立ち アメリカへ(1)
    バイクで海外を旅行した経験があるとい外国人たちとFBを通じ交流していたら、日本のライダーはなぜ英語で発信しないのだと聞かれたので、世界を駆け回る有名な日本人ライダー氏に発信されませんかと連絡したが、いくら待っても返事は来なかった。これはアカン、しゃあない、オレが日本代表?として、暇つぶしとボケ防止に少しでも役立つだろうと、忘れていた英語を思い出しながら、過去にバイクで世界旅行した経験を昨年、「Around the world in 1968 on Bike」のタイトルでFBで発信しはじめた。最初は忘れていた横文字作文も苦痛であったが、そのうちに少しは様になってきて楽しくなってきた。そして、世界の多くのバイク愛好者に好評を得た。その中で私を最も驚かせたのは、最初にバイクで世界一周したのは1912年、アメリカ人だそうであるが、当時は自動車産業の発達は欧米のみで、中近東、アジア、南米、アフリカなどにはガソリンスタンドはなく、ガソリンはスポンサー付きで中継地点まで輸送したので、スポンサーなしで世界一周したのは私が最初だと知らされた。もともと私はバイクの世界旅行など金と暇があれば誰でもできると思っていた。だから帰国以来、約50年間、私は日本人社会を生き抜く冒険の日々で、過去を振り返る余裕はなかった。やっと年金暇人になり、過去のバイク旅行の経験を英語で流していたら、今度は多くの人に日本語で流せという要望が多く寄せられ、またまた暇つぶしのネタが出来たと喜んで流した。せっかく読んで戴くのであれば、世界何十万キロ、何百ヵ国走破もいいが、そのバイク旅行の後をどう生きるかが大事であるから、1960年代アメリカでの私の生活や、出来事などの経験を織り交ぜて書かせていただく。面白くないかもしれないが、ご辛抱のほどを切に願う。人間には人の数だけ、生き方がある。その人間の寿命は長くて百年ぐらいだが、地球の年齢は45億年だそうだ。それに比べると人間の寿命など流れ星が右から左へ移動する一瞬の時間である。その一瞬をどう生きるか。子供のとき読んだ本の中にあった「一瞬の命」という言葉がいつも私の脳裏にへばり付いていた。今も・・・。私は学校時代、勉強は全くと言っていいほどしなかった。その結果。成績はいつも無残なものであった。教師というのは成績の良い生徒に対しては、エコ引きするが、成績の悪い生徒にはその反対であることが多い。教師は狭い学校という社会の中で「外」を知らなず、今はどうか知らないが、文部省認定の教科書に沿って生徒に教える教師であった。学生時代を通し、知識はあっても外の社会を知らない教師は常に私は馬鹿にされていた。私は五人兄弟の長男である。一般的には長男はおとなしく、まじめで、弟たちの模範というのが相場である。しかし、私は勉強もせずボクシングジムに通い、親にとってはできの悪い息子であった。しかし、弱い者の正義の味方であった。
     1962(昭和37)年大学卒業と同時に、旅行会社に就職した。大学でも成績が悪かった私は会社でも、二年間雑用だけが仕事だった。人生のすべては学校の成績で決まるのか。人間社会というものはそんなものか。それは私にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
    しかし、当時は就職すれば、定年まで無難に過ごすことが常識であった。まだ一般的には英語を話す人はまれな時代であった。「兼高かおるの世界の旅」や「海外渡航自由化近づく」のニュースに影響受けた私はアメリカ留学し英語を学び、日本経済の発展とともにこれから伸びる航空会社に就職し、人より良い生活をしてやろうという野望が芽生えた。会社を辞めるか、留学するか悩んだ末、アメリカ留学という「人生の途中下車」を選んだ。
    「後悔先に立たず」である。
    『続く』

    1968年のバイク世界一周
    旅立ち
    (2)
    戦後すぐ、アメリカの政治,経済、文化、教育、特に「総天然色映画」(カラー映画のことをそう呼んでいた)に影響されて育った私には、アメリカだけが唯一の「外国」であった。中学校の英語の教科書、「ジャック・アンド・ベティ」の挿絵にあった大きな車、広い芝生の庭、大型冷蔵庫、色鮮やかなペンキで塗られた大きな家、スクールバスでの通学、車に乗ったまま映画が観られるドライブ・イン・シアター、片側四車線も五車線もある高速道路、世界一豊かな国アメリカは、私だけでなく日本国民にとって羨望と憧れの国でもあった。私が留学を思い立った一九六三(昭和三十八)年、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。当時、日本はまだ外貨不足で、外国へ行くには、その国に住んでいるスポンサーを探すか、外務省が実施する国費留学か私費留学、あるいは旅費、その他すべてを丸抱えしてくれるアメリカ政府実施のフルブライト留学試験に合格しなければ旅券は発行されなかった。だから、ごく普通に考えると、私を含め一般の日本人は外国へ行くことなど不可能な半鎖国状態であった。アメリカにスポンサーになってくれる知人も友人もいない、外務省の国費留学試験、米国政府のルブライト試験に合格できる私の確率は0だった。すべてを私費留学試験に託するしかなかった。私費留学は自分で旅費、学費、生活費など賄わなければなないので、政府丸抱えの留学よりは少しは簡単だろうと思い、新たな自分の人生を築くため、会社から帰ってから、睡眠時間はナポレオン並みに三時間に削り、試験に向け基礎から英語の猛勉強を始めた。必死だった。人間、勉強ほど強制されると嫌なものはないが、目的があれば勉強でも楽しくなり、自分でも驚くほど勉強の効率は上がった。翌年、幸運にも試験には合格したが、私の全財産は月給一万八千円から貯めた十万円だけだった。ちなみに私がアメリカへ出発した昭和39年の物価は、国鉄(JR)三宮・大阪間片道30円、新聞一部10円、週刊誌30円、コーヒー一杯30円だった。私は親の反対を押し切っての留学で、無理を言って航空運賃だけを援助してもらい、アメリカへ旅立った。
    一九六四(昭和三十九)年七月二日、敗戦から二十年、東京オリンピックを後三か月後に控えていた。日本の復興を世界にアピールするため東京、大阪は町全体のリホーム(工事)中だった。街全体を覆う埃で建物も太陽も霞んで見えていた。「公害」の言葉もなかった。大阪空港のターミナルビルもまだ進駐軍が使っていた「かまぼこ兵舎」を利用していた。ハイジャックなど考えられない時代で、「ハイジャック」という言葉もなかった。滑走路は入ろうと思えば誰でも簡単に入れるような金網のフェンスで囲まれ、離着機も少なく、私は7,8人しかいない乗客とともに駐機場(エプロン)を歩きながら見送り客とフェンス越しに話しながら機内へ入った。大阪空港からは海外便はまだなく、双発のプロペラ機DC3(29人乗り)で羽田へ、そこからJALのDC8ジエット機でホノルルへ飛び立った。


    写真説明
    伊丹空港:静かなもんであった。背景DC3機
    DC3:ルッツェルン博物館、スイス/2018年8月
    座席数:29席、巡航速度300㎞
    ケネディ暗殺犯人?オズワルド射殺される
    『続く』

    1968年のバイク世界一周
    初めての外国、ハワイ
    (3)
     当時、日本からアメリカ西海岸までの片道航空運賃は、確か十四万八千六百円、私の給料の約七カ月分だった。今の物価指数に比べると途方もなく高かった。CAもスチュワーデスと呼ばれ、足軽が大奥に仕える品格と威厳ある大奥女にサービスを受けるような恐れと緊張を感じた。飛行機に乗るのも外国に行くのも初めての私は胃が痛くなり、日本では全く食べたこともないような豪華な機内食も口に出来なかった。私が初めて足を踏み入れた外国、ハワイ、ホノルル。機内から滑走路へ降り、最初に空を見上げた。詩人高村光太郎の妻智恵子が詠った「東京には空がない」が浮かんだ。ホノルルには日本では見かけることのない青々とした空が広がっていた。1964年東京オリンピックと急速な経済発展を続ける工場の煙突から吐き出される排気ガスで周りの景色が霞んで見え、まだ「公害」という言葉もなかった日本。紺碧の海と空の色彩が素晴らしく健康的なハワイの風景に感動した。ハ発着機も少なく滑走路から二百メートル歩きターミナルビルへ行った。ビルは今とは比べものにならないほど小さく、乗客も少なく閑散としていた。建物の中にはエアコンもなかったが、ビーチから吹き付ける心地よい南国の乾いた風が、開けっぱなしの大きな窓を吹き抜け、寝不足の私を癒してくれた。入国検査で、当時、留学生には義務づけられていたA3サイズほどの大きなレントゲン写真とパスポートを提出すると、係官は、
    「Only $100?(たった百ドルか?)」と、当時はパスポートに記載された日本からの持ち出し外貨額と私の顔を同時に見て言った。白人に英語で話しかけられるのも初めての私は、たった百ドルの所持金ではアメリカに入国できず、即、強制送還されるのではないかと、一瞬、恐怖が襲った。当時、日本を含め後進国の外国人が禁止されている就労目的でアメリカへ入国し、それがばれ、強制送還というニュースが頻繁にあった。父が後で送金してくれると単語を並べ出まかせに言って、何とか無事、入国管理事務所を通過できた。
    英語が話せない私は、出発前、神戸のアメリカ領事館で教えてもらった日系人の経営する「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。空港からホテルへ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行ったことがあると言った。子供の頃見た、あのカッコいい進駐軍の兵士が運転するタクシーに今、敗戦国、日本の若造の私が乗っていることが畏れ多い気分で、その上、彼の英語も理解できず、「YesとI see」の連発だけの私には乗り心地は決してよくはなかった。
    タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した「コバヤシ・ホテル(今のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで四ドル五十セントだった。宿泊代は一泊十ドル。日本人のほとんどが旅館に泊まる時代、ホテルなど「帝国ホテル」の名前ぐらいしか知らなかった。ホテルに泊まるのも、ベッドに寝るのも初めての私は何もかもが珍しかったが、底の浅い風呂タブに無理に体を沈め、石鹸の泡や体のアカの中で洗うのには苦労した。今でもホテルの風呂タブは苦手である。一般論であるが、日本人は清潔好きで 
    風呂好きであるが、白人はおおむね手と足を洗うだけで平気である。ホテルのレストランで食事をするにしても、英語のメニューを見てもわからず、片言の日本語を話すウェイトレスに任せると、バラバラにレタス、チーズ、トマトなどを盛った皿と小さな餅を横に切ったようなパンをもってきた。それをどのようにして食べるもかもわからなかったので、彼女に教えてもらい、パンにはさみケチャップをかけて食べた。それが、今では当たり前のハンバーガーだった。支払いを済ませ出ようとすると「チップ」と言ってきた。いくら払うものかもわからないので今貰った釣銭をテーブルに並べると、薄笑いしながら、その中で一番大きなクウォーター(二十五セント)摘まみ上げポイっとエプロンのポッケットに入れた。
    写真
    DC8 150?席。
    現在よりビーチの砂が多く広かった?
    1968年のバイク世界一周
    ホノルル―サンフランシスコ―ロサンゼルス
    (4)
    今では想像できないが、すでにアメリカの学校は夏休みが始まっていた。しかし、ホテルは客も少なく、ロビーもガランとしていた。ワイキキビーチへアジア系の私がシャツに細いネクタイ、裾幅の広いズボン姿ででかけてみた。ビーチには白人観光客パラパラと海水浴を楽しんでいたが、私の服装は場違いの感じだった。恥ずかしくなり直ぐホテルへ戻った。
    その夜、ウェイトレスに勧められアラモアナ・ホテルの中庭へ、お化け屋敷でも見に出かけるように恐る恐る、観客は白人に囲まれフラダンスショーを見に行った。照明に照らされた青々とした芝生、椰子の木、満天に輝く星の元、色鮮やかなアロハ姿のミュージシャンが奏でるハワイヤン・ミュージックが響き渡り、一本、一ドル(三百六十円)のビールを飲みながら、日本人などほとんどが観たこともないフラダンスショーに誇らしさを少し感じながらの感動、感激の夜たった。ホノルルに一泊し、翌一九六四年七月三日、夜のサンフランシスコ行きの便まで大分時間があった。「金のないお上りさん」の私はホテルの前、歩道の段差に腰を下ろし、タバコを吸っていると、日系二世らしきタクシードライバーが観光しないかと声をかけてきた。空港からのタクシー代、ホテル代、食事代などで私の所持金はすでに八十ドルほどになっていた。タクシードライバーは、日本が海外自由化になったので日本人観光客がドサッと訪れると期待しているがほとんど来ないと愚痴っていた。日本の平均年収(月収ではない)が三十万円($833)ほどの時代、ハワイ一週間旅行費が四十万円($1,111)以上だった。ホノルルからUAでサンフランシスコに飛んだ。上空からゴールデン・ゲート・ブリッジを見たとき意味もなく、「楽しい留学生活」が待ち構えていると心が弾んだ。シスコではその種の男が多く泊まることも知らずYMCAに泊まった。ケーブルカーの運賃は十セントだった。今は$10だそうだ。翌朝、サンフランシスコから乾いた大地の広がるカルフォルニアの上空をルート99に沿ってロサンゼルスへ飛んだ。行った。留学や海外旅行のガイドブックもない時代で、日本人留学生は「リトル・東京」で「皿洗い」し生活費や授業料を稼ぐと、何かで読んだことがあった。英語の話せない私は、日本人町へ行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかると思い、空港からバスで日本人町へ向かった。四車線,五車線もある広いフリーウエイを忙しそうに走り過ぎる車を窓から眺めていると、パリッとした身なりで自信にみなぎったアメリカ人が、大きな車にたった一人しか乗っていなかった。二人、三人と乗った車などほとんど走っていなかった。まだ、日本では車が普及していなかったので、一人しか乗っていないことが驚きだった。バスから望むロサンゼルスは見渡す限り平坦で、芝生の裏庭と前庭、そして色鮮やかな花に囲まれた住宅が続き、フリーウエイを猛スピードで走り抜ける無数の車を見て、アメリカの豊かさと巨大なエネルギーが肌に伝わってきて、アメリカに来た実感が込み上げてきた。
      日本人町に着くと日系人の経営する「パシフィック・ホテル」へ行った。そのホテルはペンキの剥げた薄茶色の三階建で、建物の外には時代物の赤錆びた鉄製の非常階段があった。中は薄暗く、狭いロビーには骨董品のような古いソファーとテーブルが並び、よれよれの背広を着た数人の日系老人たちが新聞を読んだり、将棋を指したりしていた。
    「ワンナイト(一泊)四エン、ウィーキ(週)で二十エンじゃよ」
    将棋盤を囲んでいた日系老人がカウンターへ回り込みながら言った。彼はこのホテルの
    オーナーであった。突然、「ドル」を「エン(円)」、「ウィーク(週)」を「ウィーキ」と言ったので、呆気にとられた。途中ハワイで一泊したので、手元には七十ドルほどしか残っておらず心細く、ひとまず一泊だけにした。
    「続く」
    写真:
    ゴールデン・ゲート・ブリッジ通行料は25セントだったが…
    今は?
    ケーブルカーは10セントだった。今は$10とか・・・。
    右端ターミナルビルは当時21世紀(1960年代)のターミナル的と有名なデザインだったが・・・・・。
    Tony VennettI の「I left my passport? in SFC」が流行っていた。

    1968年のバイク世界一周
    デラノ、カリフォルニア
    葡萄農家でのバイト
    (5)
     一泊四ドルの部屋はスプリングの利かない年代物のベッド、止めてもポタポタと水が滴り落ちるシャワー、長年の使用で変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけだった。アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いホテルで、「発展途上国」日本からの客かロビーで将棋を指している失業者のような老人たちが泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しい年代物のホテルだった。
    三階の部屋からは筋向いに東京銀行、その右手に住友銀行ロサンゼルス支店、日系人の経営する「ニューヨーク・ホテル」、左側に「大阪屋」、「三井大洋堂」、「宮武写真館」、「東京會舘」等、英語と日本語の看板を掲げた店が望めた。その町並みは、当時さえ、すでに日本ではお目にかかれない大正時代か、昭和初期のセピア色の懐かしい風景だった。
     日本人町は数分で通り抜けられるほど小さな一画であった。市役所はどこでも市の中心にあ
    る。ロサンゼルスにしても同じである。だが、市役所から百五十メートルほども離れていないところに、貧相なその日本人町がること自体不思議であった。日本では一流企業で、一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残されたような日本人町の古びた建物で営業しているのを見て、戦勝国アメリカと敗戦国日本の力の差を象徴しており、寂しい感じがしたが、ホテルの入口でボロの衣類をまとった白人の年老いたバアさんが小銭をくれと空き缶を差し出してきたときは、世界一豊かな国アメリカにも乞食がいるのかと矛盾と強烈なショックを受けた。広さ百メートル四方ほどの日本人町(リトル東京)には小さなレストランが四、五軒しかなく、どこのレストランも「皿粗い」など応募していなかった。私は読んだ本の情報に早とちりしたのである。私は「皿洗い」バイト探しに腹がすき、日本人町のレストランに入った。カウンターに座ると、隣に座っていた中年の日系人が「ジャパンから来たのか」と声をかけてきた。私の身なりですぐ日本から来たことが分かったようだ。私が活費や授業料を稼がねばならない事情を話すと「デラノの葡萄畑で、夏の二カ月働けば七百ドル(二十五万円)ぐらいは稼げる」と言った。彼は過去にその葡萄畑で働いたことがあったそうだ。仕事は葡萄の房をハサミで切り取り箱詰めする出来高制だと言った。彼は「行くか?暑いところだゾ」と言った。私は働き稼げるならどんな仕事でも良いと思い「行きます」と言うと、胸ポッケとから手帳を取り出し、葡萄農家の電話番号を書き私にくれた。
    デラノはロサンゼルスの北約三百キロ、中部カリフォルニアにあり、その一帯は葡萄農園が多く、農園は夏の葡萄出荷時になると猫の手も借りたいほど忙しいが、厳しい暑さの中での葡萄摘みに人手が集まらず、労働者確保に苦労していると言った。翌日、ダウンタウンのグレイハウンド・バスのターミナルからサンフランシスコ行きのバスに乗りデラノへ向かった。
    バスはハイウエイ・ルート九九を北へ二時間ほど走ると、ロサンゼルスの色鮮やかなペンキで塗られた家々や、草木が青々と生い茂った風景から、赤土の荒涼たる山々の風景に変わってきた。バスは長い一直線の緩やかな坂を下り降りベーカスフイルドの町を過ぎると葡萄畑が広がり、バスはデラノのバス・ターミナルに着いた。バスを降りた私は日系葡萄農家に迎えを頼む電話をして、バス・ターミナルの外の歩道に腰を下ろしタバコを吸いながら迎えを待った。四時を少し回っていたが、太陽は熱射を浴びせるように照りつけていた。周りを見渡すとデラノは南北に走る一本の広い道路沿いにガソリンスタンド、小さなレストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機械屋などがポツン、ポツンとある葡萄畑に囲まれたほんの数百メートルほどの小さな町であった。交通量も少なく、車は道路沿いの商店へ頭を斜めに向け駐車していた。それは映画「俺たちには明日はない」に出てくるような風景であった。 
     三十分ほど待っていると、小型トラックが止まり葡萄農家のミセス・Kが笑顔で降りてきた。四十代半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿のスラッとした健康的な女性であった。
     私を乗せた小型トラックはデラノの町を出ると、地平線まで広がる葡萄畑の農道を東へ二十分ほど走り、葡萄畑に囲まれた大きな平屋の前で止まった。平屋の前は広場になっており、そこには大樹が一本あった。車が着くと平屋からカーキー色の作業服を着た五十近い恰幅の良い男性がにこやかな顔で、英語混じりの日本語で私に握手を求め、事務所の中へ招き入れた。彼は葡萄農家のオーナー、サムであった。
    平屋はサム一家の母屋兼事務所になっていた。事務所では若い女性三人と作業服姿の中年日系人の男性が事務を執っていた。サムは事務を執っている人たちを私に紹介した。三人の女性はサムの娘、そして日系人ジョージはそこで働く労働者のファーマン(監督)であった。
    写真説明:
    Delano葡萄畑
    Delanoへ行く途中 Route99 Bakersfield
    LA (ロサンゼルス市役所)City Hall
    (続く)

    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々 (その1)
    (6)
    日本人町で「皿洗い」のバイトを見つけられなかった私は、デラノへ葡萄摘のバイトをしに行った。しかし、葡萄農家の主人サムが今年は葡萄の収穫期が遅れているので、二週間ほど葡萄棚の手入れの作業をしてもらうと説明しながら契約の話を始めた。時間給は「一エン十五セン」と、彼もドルやセントのことを「エン(円)」とか「セン(銭)」と言った。
    ロサンゼルスで会った日系人の話では、仕事は葡萄を摘み、箱詰する出来高制(ピース・ワーク)だから、夏休み中働けば日本の年収に匹敵する七百ドル(二十五万二千円)は稼げると、聞いていたのでサムの話はショックだった。そのあとサムは私が寝泊まりする建物へ案内した。それは白ペンキがあっちこっち剥げ落ちた粗末な掘っ建て小屋であった。小屋の中にはスプリングの利かない古いベッドが八つほどあり、裸電球が二、三個ぶら下がり、埃をかぶった年代物の木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれのベッド脇に備え付けられていた。まるで映画で観たアウシュビッツの強制収容所のようで、惨めな気持ちになった。だが、日本では扇風機の普及率がやっと五十パーセントを超えた頃であったが、このオンボロ小屋でも騒音をまき散らす古いエアコンがあった。小屋の入口のドアや窓は、日本では見たこともない網戸付二重ドアになっていた。なるほど、これなら蚊取り線香も蠅取り紙も必要ない。やっぱりここは「アメリカ」だと感心した。ここには、同じようなオンボロ小屋が二十棟ほど軒を並べていた。葡萄の集荷時期には葡萄摘みの日系人労働者が百人以上も寝泊まりするのだと、サムは自慢そうに話した。シャワーとトイレは寝泊まりする小屋の隣の棟にあった。囲いのないシャワーとトイレが十ほど平行に並び、便器に座り隣の者と話たり、前でシャワーを浴びている奴を見ながら糞を垂れる代物だった。
     「カン、カン、カン」と、朝五時、鉄板を叩く金属音が音で日々のスケジュールは始まった。ツバの広い麻製のバッカン帽をかぶり、ジーンズに作業用の革靴を履き食堂へ向う。カリフォルニアはデイライト・セイビング・タイム(夏時間)の季節で、五時はスタンダード・タイム(冬時間)なら四時だ。外はまだ暗く、日本の晩秋のように寒かった。事務所の隣にある食堂はアメリカ映画に出てくる刑務所のように、ステンレス製の長いテーブルと長椅子が整然と並び、百人は座れるものであった。食堂には一見して六十を越えた日系人老人が十七,八人食事を取っていた。若者は一人もいなかった。食事を終えた老人たちは一日遅れで配達される日系新聞、「加州毎日」や「羅府新報」を読み、雑談をしていた。コックは三十を少し出たぐらいの静岡出身の男性で、その奥さんが賄いをしていた。
     食事を取っていると老人たちが、威勢の良い声で私に挨拶の言葉をかけてきた。朝食はスクランブルエッグ,ハム,ベーコン,トースト,コーヒー、オレンジ・ジュース、ミルク、メロンと食べ放題で、日本では食べたこともない豪華なものばかりであった。
    再び「カン、カン、カン」と鉄管の音が響き、葡萄畑へ出発であった。事務所前には監督ジョージの運転するトラックの荷台に全員、といっても、老人が十七、八人と私だけでだが乗り込むと、トラックの前に集まると、トラックは広い敷地を出て、葡萄畑の広がる農道をもうもうと砂塵を上げ東へ向かって猛スピードで走り出した。トラックの荷台は夜明け前の風をもろに受け歯が合わないほど寒く、震えが止まらなかった。葡萄畑の遙か地平線に太陽が昇り始め、月はぼんやりと白く、鮮やかな赤色に染まったセコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が東に小さく輝いていた。トラックがその日の作業場に停まった。葡萄棚の葉の陰になっている葡萄の房に太陽と風を当てるため、垂れ下がった葡萄の蔓を抱え棚の反対側にひっくり返す作業だ。
    老人たちの作業は荒っぽいが、テキパキとして速かった。作業に慣れている老人たちは横並びで機械的に作業しながら、大声で陽気に冗談を言い合いながら前へ前へと進んでいった。葡萄畑は夜間たっぷり水を撒いてあり、足元は泥んこになっていた。葡萄の蔓を抱え、棚の向こう側へひっくり返そうと力を込めると、足がすべり勢い余って一抱えの蔓と共にひっくり返りシャツもジーンズも泥だらけになり、その上に蔓まで引きちぎってしまうことが度々であった。一時間もこの作業をしていると腰がだるくなり、手も挙がらなくなるほど肩が疲れた。ジョージはトラックの荷台に立ち我々の作業の進行状態を監視し、時々大声でどなった。
     太陽が上がるにつれ、葡萄畑に撒かれた水が蒸発し始めた。朝の寒さが嘘のように蒸し暑くなり額からは汗がひっきりなしに滴れ、眼鏡が曇りずれ落ち、作業は遅れる一方だった。空は雲一つなく晴れ渡っていたが、葡萄畑全体から蒸発する水蒸気で太陽も霞み、景色は白く揺れていた。時間の経過と共に太陽は輝きを増し、全てのものをジワジワと焼き尽くすかと思われるほど暑くなった。暑さに堪りかねて葡萄棚の下に日陰を求めて潜り込むと、葡萄畑にしみ込んだ水は湯気を噴き上げ蒸せるように暑く、棚の下から外へ飛び出すと葡萄棚の陰よりは、一瞬、涼しく感じられた。水の蒸発でマッチもタバコも湿って吸えず投げ捨ててしまった。私が立ち止まっていると、いつの間にかジョージはトラックを移動させ、近くの畦道から監視していた。粗末な小屋に寝泊まりし、トラックで葡萄畑に運ばれ、作業中もジョージに監視される私は、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」に登場する貧しい農民のような惨めな気分であった。
    (続く)
    写真:
    このトラックで葡萄畑の行き帰り運ばれた。
    夕飯前、小屋の前で、15セントのビールで老人たちと一服。

    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々(その2)
    (7)
    この一年間、留学試験を目指し、睡眠時間を削って勉強していた私は体力がなかった。葡萄畑はギラギラと照り輝く太陽に晒され、下からは前の晩まかれたスプリンクラーの水が蒸し風呂のように熱気で蒸され、慣れない仕事に気力もなくなり目眩がした。喉が渇いても水飲み場は百メートルほど先にあり、腰を屈め幾つもの葡萄棚の下を潜り抜け、そこまで行くだけで疲れた。さすがに、この暑さはベテランの老人たちにも応えるらしく、朝は元気だった賑やかなおしゃべりもいつの間にか聞こえなくなった。
     昼飯が終わり、午後からの作業が始まった。白く輝く太陽は頭上に留まり、熱射を浴びせ続けていた。ベテランの老人たちも疲れたのか、作業のスピードがガックンとた落ち、                                            
    葡萄畑の温度はゆうに四十度を越していた。炎天下の作業は体力の消耗が激しく、意識はもうろうとして鼻血まで出てきた。私はただ機械的に手を動かし、葡萄の房にかぶさっている葉をのけるだけであった。 
     四時、作業監督ジョージの手が挙がり、やっと朝七時からの作業が終わった。長い一日の作業を終え、疲れ切った囚人のように我々は再びトラックに乗せられ小屋へ連れ戻された。この時の嬉しさはたとえようもなく、稼ぐ必要がなければ、今すぐにでもこの葡萄農家から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
     オンボロ小屋戻り,疲れ切った体を倒れこむようにベッドに横たえると、体中が火傷をしたように熱く痛かった。一週間ほど前、小屋の出入り口の階段を踏み外し、足に包帯を巻き、仕事に出ていないという、同室の老人が痩せて小枝のような手にビール缶を持って私に近づき、疲れ果てている私に飲めと勧めた。朝鮮半島出身だというこの老人は、片言の日本語しか話せなかったが、目覚まし時計代わりに私を起こしてくれたり、ビールをくれたりする親切な老人であった。
     この老人は若い時、アメリカに密入国、それ以後、移民官に捕まるのを恐れ、仕事場を転々としてきた。だから、百ドル前後の年金も貰えず、七十二歳になった今も、季節労働者としてカリフォルニアの農園から農園へ作物の植え付け収穫期に合わせてカリフォルニアのレタス、イチゴ、葡萄畑などを移動し、痩せてはいるが、まだ元気で週に三日はこの農園で働いていると言った。
     夏時間のカリフォルニアは八時を過ぎても外は明るく、事務所前ではサムの三人の娘たちが売店を開き、労働者相手にビールやコカ・コーラ、タバコなどを売っていた。
    年頃の彼女たちは賑やかに、大きな声で日系老人たち相手に呼び込みをしていた。夕食が済むと老人たちは夕涼みを兼ねて売店の周りに集まり、買ったビールを飲みながら、日本語混じりの英語で彼女たちと雑談して楽しむのが日課であった。
     彼女たちは同じ日本人の血が流れているのに、ヤンキー娘のようなに活発で、屈託がなかった。英語の話せない私は彼女たちの振舞いに圧倒された。私も十五セントの缶ビールを買い、老人たちの輪の中に入った。最近は暑い葡萄畑の作業は敬遠され、若者はほとんど来ないと、老人たちは若い私に誰彼となく話しかけてきた。彼らのほとんどは大正の末期から昭和の初期、移民先のペルーやメキシコの国々からアメリカへ密入国した人たちで、画用紙を折り畳んだような古い旅券を持っていた。酔いが回ると、老人たちは大声を張り上げ、古い日本の歌を歌い、にぎやかに取り留めもない会話をしていたが、その表情は何か寂しそうであった。この老人たちはどんな人生を歩んできたのだろうかと、彼らの人生に興味が湧いた。この老人たちのような節労働者は身の回り品と寝る時必要な毛布(ブランケット)を持って農園から農園へ、作物の植え付けや収穫期に合わせてカリフォルニアの農家を一年中移動しながら生活していたので、「ブランケット」と陰ではニックネームで呼ばれていた。
     作業は葡萄の枝葉を棚上げしたり、葡萄の余分な枝葉を切り落として棚に括り付けたりと一貫性のないものだった。一週間が経った朝、葡萄の実りが遅れ、作業はなく、最初の週給日だった。事務所でサムから二十三ドルちょっとのチェックで週給を受け取ったが食事代、税金などが引かれ予想していた金額の半分に愕然とした。夜になると老人たちは五十年型オンボロ車でデラノの町へ繰り出し、稼いだ金を酒や女に使い果たしていた。
    葡萄農家は陸の孤島であった。休日とはいえ、車がなければ動きが取れず、洗濯するか、季節労働者の老人たちと交流を図り、時間を潰さねばならなかった。洗濯は小屋の外にあるコンクリート製の古い流し台でした。日本ではホテルのような特別のところしか蛇口から湯は出ない頃であったが、アメリカではこのような農場でも大きな蛇口から惜しみなく出る湯に、アメリカの豊かさを感じた。老人たちは映りの悪いテレビで、秋の大統領選挙へ向けてのジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会の放送を聞きながら、将棋やカードをして暇をつぶしていた。小屋の外では木陰に椅子を持ち出し、老人たちがお互い散髪をしていた。私も老人たちと、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団した日本人初のメージャーリーガー村上雅則のことや十月の東京オリンピックに向け、今、急ピッチで競技場や高速道路の工事が進んでいることなどを話題に散髪してもらった。
    (続く)
    カリフォルニア中部、デラノ近辺はスタインベックの小説が映画「怒りの葡萄」や「エデンの東」の舞台にもなった所である。

    1968年のバイク世界一周
    Back to Los Angeles
    植村直己と同じ下宿屋?
    (8)
    私がこの葡萄農家に行った年は葡萄の実りが遅く、葡萄摘み労働者はおらず、六十を過ぎた葡萄棚の手入れ作業する日系人労働者が十五、六名だけだった。人生、人それぞれで、多くの彼らは、酒、バクチ、女の生活を続けた挙句、六十歳を過ぎたても季節労働者としてカリフォル二アの農家を転々としている季節労働だった。
    カリフォルニアの遅い夕闇が訪れると、乾燥した葡萄畑の夜空一杯に星が鮮やかに輝き始め、爽やかな風が何処からとなく現れ、炎暑が嘘のように一変した。
    葡萄農家の主、サムは夕食後、葡萄畑に水をまきに行くのが日課だった。その日、小屋の前で夕涼みしている私を見かけたサムは「行かないか」と声をかけてきた。暇な私は断る理由もないので彼の車に乗り込んだ。五分ほど走り、葡萄畑の一角にあるスプリンクラーを開け、水をまき始めた。水を撒く間、彼は両親が和歌山から持って来て植えたというイチジクを「便秘に効く」と美味しそうに食べながら、何気なく彼が抱えている悩みを始めた。その一つが年頃である三人の娘たちの結婚相手が見つからないことであった。民家もほとんどない広いカリフォルニアの農耕地帯、デラノで適齢期の日系人男性を見つけることは至難の業で、いたとしても若者は農業を嫌いサンフランシスコやロサンゼルスなどの都会へ逃げ出していると深刻そうであった。それに農家は人手不足で労働者の賃金は上昇、農家は経営の存続が危ぶまれていると言った。
     三週間が過ぎても葡萄の収穫は始まらなかった。ある日、食堂で日系新聞、「羅府新報」の求人欄に「ガーディナーのヘルパー(庭師の助手)求む。ヒガ・ボーディング」と、あった。私はロサンゼルスンのレストランで会った中年日系人が言った「ガーディナーのヘルパーは金になるがユーは経験がないから無理だ」と言ったことを思い出した。一か八かで、早速、私はロサンゼルスのボーディング(下宿屋)に電話を入れた。夏場は芝生の伸びが早く、ガーディナー(庭師)はヘルパー(助手)が必要であり、ヘルパーの賃金は一日十五ドルにはなるとボーディングの女主人は言った。そして、暑いデラノで働いた奴は根性があるので大丈夫だと付け加えた。
     何時、葡萄が熟れ出来高制の作業が始まるかわからない葡萄農家にいても、後一ヶ月しかない夏休み中に二百ドルも稼げないと思い、私はその下宿屋に入ることにした。サムに事情を話し、ロサンゼルスへ戻ることにした。
    デラノからロサンゼルスにもどり「ヒガ・ボーディング・ハウス」に下宿した。経営者は沖縄から移民したヒガ(比嘉)さんという六十過ぎの老夫婦であった。当時、ロサンゼルスには日系人が経営する下宿屋が数軒あった。日系人はそれを「ボーディング」と呼んでいた。
     ヒガ・ボーディングはベニス通りに面した下宿屋で新旧二棟あった。部屋代は新館が三食付きで月七十ドル、旧館は六十五ドルだった。私は旧館に下宿することにしたが、下宿代を払うとほとんど残っていなかった。
    この年の四月、日本は海外旅行が解禁になり、この下宿は「発展途上国」日本から来た四、五十人の客で繁盛していた。特に、夏場であり、庭師の助手の仕事を紹介してくれるので満室だった。
     ロサンゼルスの庭師は日系人の生業と決まっていた。彼らはロンモア(芝刈機)やホウキなど庭師の七つ道具を小型トラックに積み込み、一人で一軒一軒庭を手入れして回っていた。しかし夏は芝生の伸びが速く、芝生を刈るのに時間を食うので、彼らはヒガ・ボーディングの宿泊客を助手として雇っていた。
     住むところも仕事もない日本から来た者にとって、ヒガ・ボーディングは庭師の助手の仕事を簡単に見つけられる便利な場所である一方、庭師にとっては手軽に助手を調達できる職業斡旋所であった。海外渡航自由化になると、多くの若者たちが観光ビザでロサンゼルスに来て、着くとまずヒガ・ボーディングで荷を解いた。彼らの多くは賃金の高いアメリカで稼ぎ、その後、北米や南米旅行、あるいは世界一周旅行などを志す若者たちであったが、日本ではエリートのアメリカ駐在員も、生活費を切り詰めるため何人か下宿していた。
    下宿人は男性ばかりで、女性はミセス・ヒガと日系人の賄い婦数人だけであった。
    同じ頃、あの有名な冒険家、植村直己も、私と同じようにカリフォルニア中部,デラノ近辺の農園で働いたあと、このボーディングに下宿し、ガーディナーの助手をして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指して、フランスへ旅立ったと後年聞いたことがあるが、同じ下宿屋にいたのなら、顔ぐらい合わせたかもしれないが、当時、彼は有名人でなかったので記憶にはないが戦友だt自負している。庭師たちの朝は早かった。
    私はトラックからエンジン付きの重いロンモアをおろし、裏と表の広い庭の芝生刈りが主な仕事であった。私が芝刈りをしている間、ボスは庭木や花壇の手入れをした。
     芝刈りが終わると芝生の周りを整え、ホースで庭中の芝生やゴミを洗い流す。これで一軒終了である。庭師が一人だと一時間ぐらいかかるが、二人でやると三十分で終えられた。 
     しかし、庭師は私への支払いがあるので、日の長い夏場は普段より多くの客を取るために目いっぱいこき使われた。
    六十四年当時、アメリカの最低賃金は一時間一ドル五セント(三百七十八円)で、日本で稼ぐ一日のバイト料に匹敵した。アメリカ人の平均月収は五百ドル(十八万円)前後であったが、庭師は日本の平均年収七、八百ドル(約二十九万円)に相当する額をひと月で軽く稼いでいた。一方、助手のほうは日給制で、日本の十日分に匹敵する十五ドル(五千四百円)が相場であったが、二世の若者など見向きもしない三Kの仕事であった。
     ハリウッドの映画俳優の庭も手入れに行ったことがある。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付きの豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。
     昭和三十年代、人気テレビ映画「ローハイド」で老コック「ウイシュポン」を演じていた俳優宅にも行った。彼は役のような老人かと思っていたが実際は四十六歳で、二十七歳のワイフと六ヶ月の子供がいた。前年、昭和三十八年「ローハイド」で共演していたクリント・イーストウッドたちとテレビ局の招待で日本を訪れていた。彼は庭先で一緒に写真を撮り、ビールを飲ませてくれる気さくなオッサンだった。あの有名な歌手であり女優であるドリス・ディ宅にも行ったが、目が合っただけでタダのオバさんだった。
    日本を出てからたった二ヶ月の間の出来事だった。
    (続く)
    写真:TV映画「ローハイド(Rawhide)」でClint Eastwoodと共演していたコック役Paul Bringar宅。ガ―ディナーナのヘルパ。
    下宿屋の駐車場:1964年8月

    1968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その1)
    (9)
    八月末、庭師のヘルパーは終わった。私は九月になり州立の英語学校へ入学した。学校は車で十分程の距離であったが、車のない私は下宿屋からバスを乗り換え一時間のほどかかった。
    この英語学校は州立で、授業料は年間たったの一ドル(三百六十円)だった。授業は朝八時から午後二時までと、午後二時半から夜九時までの二部制だった。時間的にヘルパーの仕事は無理だが、私は生活費を稼がねばならなかった。私は授業を午前中に受けて、午後からバイトしようと目論んでいた。しかし、入学すると午後二時半から午後午後九時の授業に振り分けられた。夏の間、稼いだ四百ドルほどは五ヶ月分の下宿代にしかならず、私は学校に行くまでの午前中は、下宿の食堂で日系新聞「羅府新報」の求人欄を見るのが日課になった。だが求人広告も少なく、しかも午前中だけの仕事など皆無だった。英字新聞「ロサンゼルス・タイムス」の求人欄はベトナム戦争のため、軍事産業は人手不足でその種の広告は六、七ページもあったが、英語の話せない私は採用される可能性はないと、最初から諦めて見る気もしなかった。
     学校が始まり、仕事のない私は下宿屋の経営者、ミセス・ヒガに仕事を頼んでいた。
    ある日、ミセス・ヒガが、
    「ローズ・デール・セメタリィ(墓地)で午前中だけでも働ける人手が欲しいと言っているよ。墓だから、気持ち悪がって働き手がないらしいけど・・・。ユー、行ってみる?」と、申し訳なさそうに言った。
    墓であろうが何であろうが、私には午前中働ける仕事はありがたかった。さっそく下宿屋から歩いて数分のローズ・デール墓地へ出かけた。墓地は赤煉瓦の高い塀で囲まれ、入口から奥へアスファルト道路が細く枝分かれしていた。見渡す限り緑の芝生の中に大小の墓石が整然と並び、周囲には色鮮やかなハイビスカスが咲き誇っていた。高々と伸びたパームツリーの葉は爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて風にそよぎ、車の騒音も人影もなく静寂だけが支配する公園のような墓であった。
     事務所に行くと、七十過ぎの温厚そうな日系人が出迎えてくれた。墓地の葬儀一切は中年の白人三人が取り仕切り、武藤さんというこの日系老人は四百メートル四方ほどの墓地の芝刈りと清掃を契約で一手に引き受けていた。墓で働きたい者はいないらしく、即、採用された。時給は一ドル七十セント(¥612/日本の日給ほど)で悪くなかった。勤務時間は午前七時から午後四時までだが、学校があるなら十二時まででもよいと願ったり叶ったりの仕事だった。広い墓地の墓石と墓石の間を手押しの芝刈り機で刈るのが私の仕事であった。
     仕事仲間は四人だった。ひょうきん者の鈴木は三十五、六歳、日本から派遣された駐在員であったが、墓の草刈りのほうが給料はいいと会社を辞めた独身、ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)で、ベトナム戦争がエスカレートするにつれ、ドラフト(徴兵)されることを恐れ正業には就いていなかった。タマシロは口ひげを伸ばし、太ったメキシコ人のような風貌をしていたが、いつもニコニコして愛想の良い二児の父親であった。小柄でハンサムなナカソネは大学で法律を学んでおり、弁護士になるのが夢であった。
     タマシロとナカソネは沖縄から移民したペルー三世で、日本語はほとんどわからなかった。鈴木以外は私と同年代であった。
     朝出勤すると我々は事務所で雑談しながらコーヒーを飲み、小型トラックに草刈機を積込み、広い墓地の曲りくねった「墓道」を仕事場へ向かった。目的地に着くとトラックから芝刈り機を下ろして、墓石と墓石の間隔は約二メートルで、何百もの墓石が一直線に百メートルほど先までのびていた。全員が一列になった墓石の周りを刈りながら先へ先へと進み、一列終われば次の列へと移った。仕事は芝刈機を押したり引いたりするだけの単純作業であった。
     楽しみはコーヒー・ブレイク(休憩)であった。パーム・ツリーの木陰に全員が集まり、墓石に腰かけたりしてコーヒーやコカ・コーラ、ドーナツを飲んだり食ったりしながら、それぞれ思い思いに休憩を取った。
     戦前、日本人学校の教師だった武藤さんは、墓石に腰かけコーヒーを飲みながら、よく太平洋戦争のときの経験を話してくれた。私はコーヒーブレイクの時間に彼の話を聞くのが楽しみであった。戦争が勃発するとすぐ、彼は教師という理由だけでFBIに連行され、数日間スパイ容疑で厳しい取調べを受けた。その後、家財道具を二束三文で売り払い、人間としての人権まで踏みにじまれ、家族ともどもマンザナ収容所送りになった。マンザナは米本土に十ヵ所設けられた収容所のひとつで、中部カリフォルニア、シェラネバダ山麓の砂漠の真中にあった。夏は気温五十度を超えるときもあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付ける空っ風で非常に寒いという劣悪な環境にあった。そのうえ、粗末な造りの建物は床板の隙間から砂塵が部屋の中へ吹き込み、夜ベッドに入ると屋根の隙間から星がきれいに見えたもんだよと、懐かしそうに話してくれた。
     日本語はまったく話せないペルー生まれのタマシロであったが、歌謡曲を唄えばプロ並みにうまく、コーヒーブレイクのときには、大きな墓石の上であぐらを組み、「並木の~雨の~♪」と、昔の歌謡曲「東京の人」をよく歌っていた。ナカソネは休憩時間でも静かに教科書を広げていた。
    (続く)
    968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その2)
    (10)
     墓地では、毎朝、当番制で、ほかの連中より先に薄暗く狭い事務所に来てコーヒーを沸かすことになっていた。皆、この当番がイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤなのではなく、その場所の環境が問題だった。事務所に隣接した作業場には板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が積み上げられ、
    その前には火葬用の焼却炉があった。そして、あとで身元確認するため、生ゴムで造られた火葬され身元不明人のデスマスクが事務所の壁に無造作にぶら下げられていた。生ゴムでできているとはいえ、十五、六個のデスマスクに囲まれ、見つめられているような場所で一人コーヒーを沸かすは、実に気味悪いものであった。時々、白人作業員が事務所前の火葬用焼却炉で火葬をしていた。彼は機械的に黙々と焼却炉の蓋を開け、小さなスコップで中から灰を地面に積み上げていた。火力が強く骨は貝殻を金槌で叩き潰したように小さな粒になっている灰を地面一杯に広げ、金歯を漁っていた。集めた金歯は白人作業員たちが空ビンに溜め、ある程度溜まるとったらバーナーで溶かし金塊にしてポーンショップ(質屋)で売っていた。また、葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った火葬用の雑な棺桶にホトケさんを移し替え、上等のものを葬儀屋に引き取らせ臨時収入にしていた。事務所の隣にある葬祭堂には遺体安置所があった。ときどき、カリフォルニア大の医学生という二十二、三歳の白人女性が中古車で来て、一体三十ドルで「死に化粧」のバイトをしていた。アメリカでは人生の最後だけは、白人も黒人も差別なく、霊柩車は同じ世界一の高級車、黒塗りのキャデラックのリムジンであった。日本と違うのは霊柩車のあとに続く車は昼間でもヘッドライトを点け、二台の白バイが先導し「天国までノン・ストップ」とばかり、赤信号でも止まらずに墓場へ直行する。埋葬のときに掘る穴は白人従業員がパワーシャベルで深さ六フィート(約一・八メートル)を掘ったあと、棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで底のほうを削って作ってた。ロサンゼルス一帯の地下には油脈が通っており、穴の底からジワジワと真っ黒な原油が滲み出てきて靴やシャツを汚しながら彼らは、この作業をやっていた。
     原油の滲み出る墓地に棺桶を埋葬すると棺桶の隙間からそれがしみ込み、ホトケさんが油まみれになるので、コンクリート製の棺桶に木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。墓地で働いていると、宗教に興味がない私でも、仏教の宗教観が自然に体にしみ込んでいることに初めて気づいた。年寄りたちが「ホトケさんが枕元にった」という恐い話や子供のころに見た幽霊映画、そして線香の煙とにおいが漂う薄暗い墓など、どれをとっても薄気味悪い霊の存在が無意識のうちに私の頭にインプットされていた。しかしアメリカでは、亡くなった人の霊がベッドの枕元に立ったとか、雨の夜、額に三角巾をつけたジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたなどという話は聞いたことはなかった。そのためだろうか、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても日本人のそれとまったく違い、薄気味悪いという感情はなかった。もっとも、アメリカの墓地は芝生の広々とした公園のような明るい雰囲気があり、墓場というよりはまさにメモリーパークとそのものであった。宗教の違いといえば仕事仲間のタマシロとナカソネはいつも墓石に向かって便所代わりに小便を飛ばしていたが・・・・・。
    葬儀は洋の東西を問わず厳粛なものである。毎日、埋葬や火葬、墓石に刻まれた故人の
    誕生から死までの歳月を見ていると、人間の一生なんて宇宙の星が瞬きする間に終わってしまうものだと思うようになった。そして「死んで花実が咲くものか」、「生きているうちが華」だという思いが強くなった。
     英語学校は一日も休むことを許されず、病欠の場合は診断書提出が義務付けられていた。学校は学生の出席率を移民局に報告する義務があり、移民局は出席率が悪い学生は認められている週二十一時間以上働いていると認定しビザの更新を認めず、学生は本国に帰らなければならなかった。当時、英語学校の生徒はメキシコ人が二百人近く、日本人留学生は男女二十四、五名いたが、中には留学生とは名ばかりで、豊かなアメリカで生活を希望し、永住権を取得するためアメリカ国籍の日系人や白人と結婚して学校を去る者が多かった。後年、事故でマスメディアの話題になった「ヨット・スクール」の校長もその英語学校で学んでいたような気がするが、同じクラスでなかったので話したことはなかった。
    教師は常にアメリカは世界一豊かで、自由の国であり、「コミュニズム(共産主義)」ほど恐ろしいものはないと、授業から横道に外れ長々と強調することが多かった。私はそれを聞きながら、これはある種の洗脳学校だと思ったが、強制送還されるのが怖いのと授業料が年間一ドルという安さに、教師の言うことを聴き良い子ぶっていた。学校が始まって、直ぐの一九六四年九月中旬、学校の日本人友人に誘われ彼の車でラスベガスへ行った。当時、私は。ラスベガスがどこにあるかも知らなかったが、何か怖い「博打場」ではないかとは思っていた。行くのを躊躇している私に友人は「おもろいところや。行こ、行こ」と言われ、砂漠の中を7時間ほどかけ二人でラスベガスへ行った。初めて見るラスベガスの煌(きら)びやかさに慄いていた私は、一歳年下の彼がする「ダイス」を引っ付き虫のように彼の横で見ていると、「あんたもやれや。あんたが横で見ているとやりにくいわ」と言うので、彼の賭け方を見よう見真似で同じ「ダイス」を始めたラ一時間もしないうちに、目の前にチップが目立つように積み上げられていった。「ダイス」台の周りの人々が騒がしくなってきた。「あんたヤバイで!止め、止め、換えて来たるわ」と彼が言ったが私は訳がわからなかった。彼がチップを現金に換えてきてくれた。その金額は千百ドル前後であった。当時の日本円で約三十九万,平均年収ほどの額、アメリカでも大金だった。彼が「止め」と言ったのは、強盗にやられ殺されるかもしれないと思ったからであった。
    それはギャンブルの賭け方も知らない素人の「ビギナーズ・ラック」であった。私はお礼に百ドルを彼に渡し、七百ドルぐらいの六気筒の中古車フォード・ファルコンを買い、プライバシーのない下宿屋を出て日系人の経営するアパートへ移った。
    (続く)


      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    25508206_1595114163912539_176025597011579915_n


    56485550_2180931441997472_6293773358194491392_n

    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]


    99140931_2650092705237236_8191950114760163328_n (2)

    Osako Yoshiaki (大迫嘉昭)

    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

    99423647_2650098161903357_896221814814932992_n


    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (31)
    翌1968年6月8日朝、オレは悲劇的な死を遂げたロバート・ケネディの葬儀を見ておくべきだとニューヨーク市内へ向かった。
    オレはバイクを駐車場に置き、皮ジャン、皮ズボン姿のまま、群衆で大混雑の中をマンハッタン50丁目と5番街の角、葬儀が執り行われるセント・パトリック大聖堂へ行った。
    葬儀場の周りには多くの警官が、物々しく歩道から大通りへはみ出す群衆を汗だくで、歩道へ押し返しながら警備にあたっていた。
    車から次から次へと降りて、大聖堂へ入る著名人を近くで一目見ようと、群衆はゆっくりと大波のように動きだした。
    オレも群衆の波に飲み込まれ、自分の意思に関係なく大聖堂の近くまで押されて行き、ジョンソン大統領や後の大統領ニクソンなど、多くの著名人が教会の中へ入っていくのを近くで見ることができた。その時、一般日本人でこの葬儀を見たほかにいただろうか。
    葬儀の後、ロバート・ケネディの棺を乗せた黒塗りの車は、ゆっくりとオレの目の前を通り過ぎた。すると、突然あとに続く参列者の長い車の列が止り、群衆の中からざわめきが起り、警察や警備員たちが銃を持って走りだした。それは映画の一場面のような緊迫感あった。
    「ビルの屋上から狙撃があったらしい」という声を聴いたが、それが本当であったどうかはわからなかった。
    たまたま、オレの前に参列者の乗った黒塗りのリムジン車が止り、数人の警備員が駆け寄り、リムジンの周りを囲んだ。一瞬だったが、リムジンの中を覗くと、ダラスで暗殺されたケネディ大統領のジャクリーヌ夫人とその子供たちが乗っていた。10歳前後の男の子と女の子が後ろのシートでふざけ合っているようであった。そして、ジャクリーヌ夫人は子供たちに、静かにするようにとたしなめているように見えた。
    その男の子は1999年、飛行機事故で死んだケネディ・ジュニア、女の子は元米国の駐日大使キャロライン・ケネディであった。
    ロバート・ケネディの棺はセントラル駅から汽車でワシントンのアーリントン墓地へ搬送されたが、何百万人もの人が線路わきで見送り、数人がこの列車に接触して死亡する事故もあった。
    豪華客船で大西洋横断 ヨーロッパへ
    途中、連日雨に逢い、落雷事故にもあったが、小回りが利くバイクにまたがり、道幅の広いハイウエイのアメリカ大陸を旅するのも良いが、風景が日本と違い単調で、名所旧跡、観光地までの距離があまりにも長すぎる。その点日本は少し移動すれば、また違った名所旧跡観光地に出会える。バイク旅は車からの風景とは違う自然の解放感を全身で味わい、快適な宿泊モーテルや食事、ガソリン代も安く素晴らしい旅であったことも事実ではある。
    しかし、バイクで旅行している若者には一人も出逢わなかったし、観光地はどこも静かだった。そのことをレストランで会った車でドライブ旅行している老夫婦にそのことを話すと、アメリカはベトナム戦争中で若者はいつ徴兵されるかわからず、バイク旅行する気持ちなど起こらないのだろうと言った。
    米国大陸横断に掛かった費用は大まかに計算すると以下の
    とおりである。
    横断距離:約5,300km,バイク:Yamaha YM1 305cc(二気筒)30km?/Liter,
    Used Total Gas:49Gallon x $0.30=$14.70, Motel & Food @11 x 23 Days=$253,
    Bike Repair:$100TTL$367.70(¥132,372当時の平均日本の給料2・5か月分ぐらい?)。 
    1968年6月10日、4年間住んだアメリカを離れヨーロッパへ出発
    する日が来た。
    乗船するギリシャ客船が接岸しているピア62(だったと記憶している)へ出航の数時間前ピア(港)へ向かい、バイクが船に積み込まれるのを確認して乗船した。
    今思うのだが、オレの船賃はバイク込みだったのだろうか?
    乗船客はみなドレスアップしていた。オレだけが皮ジャンと皮ズボン姿で、周りの船員や船客の視線は感じていたが、旅行社の社長も服装については、何も言わなかったし、外国航路の客船に乗るのは初めてだったので、この不手際は仕方なかった。
    ボストン、リスボン、ナポリ経由アテネ行き客船はその夜出航した。
    どんな乗り物も料金によって、その快適さやサービスに格差があるが、飛行機や汽車は料金の高いファーストクラスやコンパートメントに乗っても、安全かどうかは事故が起こるまでわからない。
    その点、船は料金が安いほど船底に近い客室へ押し込まれ、事故による浸水や火事などが起きたら、運賃の安い船底に近い船室ほど危険の確率は高いことは間違いないので、気持ちのいいものではなかった。
    オレの部屋はエコノミークラスよりランクの高いツーリスト・クラスであったが、船底により近いところにあり、部屋の両サイドにベッド三段が備え付けてあり、夏休みを利用して旅行する子供ずれのポルトガル、イタリア、ギリシャ系のアメリカ人客で賑わっていた。
    日本人というかアジア人船客はオレ一人で何かと目立つ存在だった。
    ニューヨーク港を出港すると、すぐロビーに夕食のメニューと円形テーブルの指定席表が張り出された。食事はいつも同じテーブルの指定された席と決められていた。
    レストランの、どのテーブルは八人ほど座れる円形のもので、家族連れ、夫婦連れと指定されていたが、どういうわけか、オレは年老いた白人バアさんたちと同じテーブルに指定された。
    食事時間に席に着くと、ときおり愛想笑いし、話しかけてくるバアさんたちに囲まれ、ただ、黙々と運ばれてくる料理を口へ運ぶだけの味気ない場所だった。
    バアさんたちは何が楽しいのか、テーブルに着いてから食事が終わっても一時間以上しゃべりっぱなしであった。オレは十数分ほどで食べ終得ると後は手持無沙汰であった。客船では町のレストランのように、食べ終わると支払いをすませてサッサと出ていくわけにはいかない暗黙のルールがあるのか、飽き飽きするほど長い会話のあと、おもむろにタイミングを合わせたように、何となく席を立って食事は終るのであった。
    オレにとっては、この客船の食事時間は苦行以外の何物でもなかった。夕食時はドレスアップというか背広着用が義務付けられていたが、乗船初日はバッグに詰め込んだ、しわだらけの背広を着ての夕食になった。
    各テーブルには一人のウェイターが付き、朝昼晩と食事のたびに同じウェイターが食事を運んで来たり、食器を下げたりした。
    オレたちのテーブルを世話するウェイターは、五十過ぎのでっぷりした、気難しいブルドッグのような顔つきをしたギリシャ人だったが、おとなしい男だった。
    同席のバアさん連中は食事が終わっても、誰ひとりチップを置かないで出て行くので、オレは気を利かしたつもりで毎回、食事のたびにチップを皿の下に隠すように置いた。
    三日目ぐらいだっただろうか、いつものようにチップを置いて席を立とうとしたら、このウェイターがそっと私に近づき、
    「毎回、毎回、食事のたびにチップをもらうのはありがたいが、客船では下船どきに、まとめてチップを払うもんだョ」と耳元で静かにささやいた。
    その一声を聴いた途端、オレは顔から火が出るように、恥ずかしかったが、彼の眼は優しかった。
    (つづく)

    259962554_4550752941681965_8642376881864311449_n

    260282093_4550754428348483_3002770074201210093_n

    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (32)
    翌朝、オレを乗せたギリシャ客船はボストンに寄港のあと、リスボンへ向け出港した。ニューファンドランド島沖へ向け針路を航行じていることは、iPもない時代、数時間おきにロビーの掲示板に張り出される本客の現在地を示すチャートで知ることができた。
    航海は毎日、霧と小雨でデッキも野外プールも人影はなかった。
    航海中は知り合いになったヨーロッパを旅行するという五、六人の若いアメリカ人の男女と図書室ヨーロッパの地図を広げ、それぞれの旅行計画についてダベッたり、映画館で映画を観ながら居眠りして時間をつぶすしか手立てはなかった。
    オレはリスボンに着いたら地中海沿いに東へ走り、イタリアの南から船でエジプトへ渡り、ピラミッドを観たあとアフリカ大陸の北部サハラ砂漠を地中海沿いに西へ横断、これもまた映画で有名なアルジェのカスバを覗き、モロッコから再びヨーロッパへ渡り、北上するといった大雑把なものだった。
    毎日、映画のプログラムは変わったが「タイタニック」(タイタニックの映画はそれまで何本か制作されていた)だけは、さすが上映されなかった。
    夜は劇場で華やかなショーやダンスパーティが催され、カジノも開かれたが、リクルートスーツのような服では、場違いな格好で一度も出かけなかった。
    場違いといえば、毎日、時間さえあれば部屋で線香を焚き、お経を唱えている若い白人男性がいた。
    周りの者にはその様子が奇妙で、説明してくれと何度も求められが、オレでさえ知らないものをどう答えかもわからず、閉口した。
    独り者のオレには、この船旅はリスボンまでの単なる交通手段でしかなかった。
    ある日、高級船員に声を掛けられ、カフェに誘そわれた。そして、甲板に無造作に置かれ、雨風さらされたバイクを前に、
    「我社の客船でバイクで大西洋を渡る客は、あなたが最初です。良ければその目的を聞かせてほしい」と切り出した。
    オレも船の旅に退屈していたので、コーヒーを戴きながら、日本を出てから、それまでの経験やこれから世界一周するつもりだと質問に答えながら話した。
    すると驚いたことに、その夜、船長主催によるファースト、セカンド・クラスの乗船客数百人のパーティに招待され、船長に紹介され、その客たちを前に英語で、高級船員にした話を又、する羽目になった。その後、オレの話を聴いた船客の豪華な船室に、何度も招待されたが、それがオレには苦になり疲れた。
    それは、それとして、大西洋航路に限らず豪華客船の旅を楽しむには、豊かな年金生活している夫婦連れとか、恋人たち同士でないと独り者には味気ないものだと、つくづく思った。独り者のオレにはこの船旅はリスボンまでの単なる交通手段でしかなかった。
    リスボン、バイクはナポリへ
    6月18日、ニューヨにークを出港してから8日目の深夜2時、リスボン港に着いた。
    乗客は次から次へ下船し、出入国管理局の下船手続きは終わりかけていた。オレの順番が中々来ないので、ポルトガル入国事務官に下船事務を催促すると、机に一冊だけ残っているオレのパスポートを手に取り、ポルトガルのビザがないので下船できないと係官は事務的に言った。
    何ということだ、ニューヨークの旅行社で船を予約した時もポルトガルビザについて、何も言わなかったので、オレはビザの必要など思いもしなかった。
    雰囲気的に客船はもう出航の準備をしているのはわかった。オレはこのまま下船できず、次の寄港地イタリアのナポリまで、乗って行く羽目になるのではと焦りだした。そこへ、この客船のリスボン支社の社員が来たので、事情を話しながら、机に置かれたオレのパスポートを手に取り、気づかれないように気転を利かし、五ドル紙幣を旅券に挟み彼に渡すと、彼はテーブルに座っている係官に耳打ちした。
    「OKだ!すぐ降りろ。すぐ出航するぞ」と、彼はポルトガル訛りの英語でオレに下船を促した。
    オレはあわてていた。身の回り品が詰まったバッグを小脇に抱え大急ぎで、タラップのほうへ走りながら、後ろを振り返り、
    「オレのバイクは?」と、大声で彼に訊くと、
    「大丈夫だ。明日の朝、会社に来てくれ」と、彼は叫んだ。
    下船はできたが、見知らぬ土地で深夜である。どこに泊まっていいのかわからないので、先ほどの社員が下船してくるのを待ってB&B(民宿)とタクシーを手配してもらった。そのあと、一難去ってまた一難が起こることも知らず・・・・。
    「チン、チン、チン」と、心地よい音で私は目覚めた。
    ベッド脇の開き窓を開けると、サンフランシスコのように、向いの建物との間にはさまれた狭い石畳の坂道を、これも又、サンフランシスコのケーブルカーのように電車が下って行くのが目に入った。
    雲ひとつない紺碧の空、朝陽が向かいの建物のガラス窓に反射して、二階のオレの部屋へ射し込み、さわやかで気持ち良いリスボンの朝であった。
    昨夜は下船に手間取り、このB&Bに着いた途端、疲れが出て直ぐベッドに入った。オレの部屋は十畳ほどの広さで、きれいに手入れされた年代物のベッドとバスタブが備え付けられていた。
    手入れが行き届いた部屋の外には小さなテラスがあり、色鮮やかな花の小鉢が置かれていた。
    眼下には南欧風のスペイン瓦の街並が広がり、それを眺めながら、ベッドに用意されたコンチネンタル・ブレックファースト(朝食)を摂った。
    まるで映画の主人公のような優雅な気分であった。それに一泊朝食付きで3ドルという安さである。アメリカに比べると何という安さであろうか。思いもしなかった安さに最高の気分だった。
    身支度をしていると、船会社の若い社員が迎えに来た。バイクを引き取る手続きのため船会社へ出向いた。船会社に行くと事務所の奥から昨夜船にいた社員が出てきて、
    「バイクを下すのを忘れました」と、申し訳なさそうに言った。
    (つづく)
    260624628_4553933504697242_3364443348725052885_n


    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (33)リスボン ポルトガル、ナポリ イタリア
    翌朝、船会社に行くと「バイクを下すのを忘れました」と、申し訳なさそうに言った。
    ギリシャ客船は、今、オレのバイクを積んだままナポリへ航海中だと言った。オレは一瞬、自分の耳を疑った。昨夜、下船するとき確認したにもかかわらず、プロの船会社の社員が客のバイクを下すのを忘れたと言う。ヨーロッパ上陸第一日目から不測の事態がまた起こった。
    やれやれである。客船は二日後、ナポリに着くと言う。ヨーロッパに上陸した途端、計画などない旅であったが、ヨーロッパ上陸第一に目から昨夜のこともあり気分は良くなかった。
    船会社のリスボン責任者は、その客船はギリシャのアテネに寄港し、十日もすれば、再びニューヨークへ向かうためリスボンに寄港するので、それまで待つか、それともナポリまでバイクを引き取りに行くかと、申し訳なさそうに言った。
    二、三日ならリスボン観光を楽しめるので異存はないが、十日はあまりにも長すぎる。仕方がないのでナポリまで取に行くからと飛行機代を請求すると、ギリシャにある本社の承認がないと出せないと言う。電話一本で解決できそうな問題であるが、簡単に行かないようなことを言った。
    本社の承認を取るのに時間がかかりそうな雰囲気であった。上司に言われたのであろうか、オレをB&Bに迎えに来た若い社員が本社から連絡あるまで市内観光に行かないかと誘ってくれた。
    地元の人間なら観光スポットも知っているし、タダの運転手付き車なら断る理由はないので申し出を快く受けた。
    「どこを観たいか」と、聞くから、せっかくポルトガルに来たのだから、
    「ヨーロッパ最西端を見たい」と、言うと、
    「いや、ヨーロッパではなく、ユーラシア大陸の最西端だ」と、若い社員は強調した。なるほど言われると確かにそうである。
    早速、オレは彼の車に乗り込み、リスボン市内からロカ岬へ向かった。
    見渡す限り青い空と紺碧の海が広がる高い丘の上に、ポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンイス詠んだ詩の一部、「ここに地の果て、海が始まる」と、刻まれた石碑があり、ガイド役の社員が英訳してくれた。それを聞いて、ここがアジアまで走る出発点かと、オレは少しに地平線まで広がる大西洋を眺めていた。
    リスボンはテージョ川の川下に沿って開けた町で、「七つの丘の都」といわれるほど坂の多い町であった。
    サン・ジョルジェ城やグラサ展望台に行くと眼下に赤瓦の建物がひしめく市内が一望できた。
    このサン・ジョルジェ城で二人の日本人、それも若い日本航空に務める女性と出遭った。
    外国で、それもヨーロッパの西の端、リスボンで日本人に会うなどは想像もしていなかったので驚いたが、すでに海外渡航自由化後四年も経ち、オレがアメリカへ行く頃に比べ海外旅行する人も多くなり当たり前だったのだ。
    テージョ川には橋が架かり、まるでサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジそのものを眺めているような風景であった。だから坂を上り押ししている電車も小さくサンフランシスコのケーブルカーを真似て作ったそうだ。
    オレを案内してくれた社員と会話していると「カステラ」、「コンペイトウ(金平糖)」、「パン」、「ブランコ」、「キャラメル」など少し発音は違うが日本語と同じものが多く、ポルトガルと日本の過去の交流を実感した。
    午後、市内観光を終え再び船会社へ行ったが、ギリシャの本社から承認の連絡は来ていなかった。ニューヨークのオールバニーでヤマハからエンジンが届くまで、三日も待った経験のあるオレは1,2日待つことにはもう苦にならなかった。
    その夜、市内観光に連れて行ってくれた、若い社員を誘い哀調を帯びたポルトガルの民俗歌謡、ファドを聴かせる店へ行き二人で遅くまで楽しんだ。
    翌朝、船会社へ行くと、飛行機代支払い承認のテレックスが届いていた。内容はアテネの船会社の本社まで取に来いというものだった。勿論、オレはインドまで旅する途中、アテネへも行く予定だったので、リスボン・ナポリ間の飛行機代を立替えておくことを了解した。
    オレのバイクを積んだギリシャ客船は、その日の夕方ナポリ港に着くとのことであった。オレはテレックスのコピーをもらい、皮ジャン、皮ズボンにヘルメット姿のまま、着替えの詰まったバッグを抱え、リスボン空港からナポリ行きのアイタリア航空に乗り込んだ。
    ナポリからヨーロッパ大陸ツーリングへ
    ナポリ港に着くと、客船はちょうど接岸するところだった。ナポリの支社にはすでに連絡が入っていたようで、意外と短時間でバイクの手続きは完了した。
    大雑把であったが、オレの予定ではイタリア南部から船でエジプトへ渡るつもりだった。しかし、船を利用すると、また、リスボン港で起こったようなトラブルが起こると厄介なので、エジプト行きは諦め、その日はナポリ港近くの安宿に入り、今後の計画の練直しをすることにした。
    ナポリ空港で買ったヨーロッパ道路地図はあったがガイドブックを持っていないので、安宿の女主人にナポリ近辺の観光すべきところを聞くと、
    「何を見るかも調べないで、ナポリに来たのか?ポンペイと洗濯を干した風景、それにピッザがここの観光の目玉ョ!」と、
    脂肪太りのからだを揺らして笑った。
    建物と建物の間にロープを張り、そこに洗濯物を干している光景は圧巻だったが道路にはゴミが散らかっており、お世辞にも清潔な町とはいえなかった。
    ナポリは世界三大港とか世界三大夜景で、「ナポリを見てから死ね」といわれているが、ピッザは確かにおいしかったが死ぬ気などさらさら起こるどころか、この汚い町をすぐ逃げ出したくなった。
    翌日、安宿の女将の推薦で、ナポリから南へ約三十キロ、ポンペイの遺跡を訪れることにした。
    紀元七九年の大噴火でポンペイの町が埋まり、死者約三千人の遺跡である。
    発掘された建物や街並みは、約二千年前のものとは思えないほど立派な造りで、石畳の道路馬車の轍も当時の生活跡が偲ばれ、すばらしい遺跡で、ここを訪れることが出来たのはラッキーだった。
    この遺跡を見学の後、エジプト行きを断念したオレは北へ方向を変更しローマへと走り出した。
    いよいよというか、やっとヨーロッパ旅行のスタートであった。
    地図を見るとナポリからローマまでは、たった二百キロぐらいであった。
    アメリカ大陸を横断した私には、その距離の短さに戸惑を感じた。
    葡萄やオリーブ畑が広がる中をイタリアの高速道路E四五を北上した。高速道路のどこの入口近辺には若いヒッチハイカーたちがリックやシャツに自国の小さな国旗を縫い付け、画用紙大の紙に自分の行き先地名を書き、右手の親指を立て乗せてくれる車を待っていた。
    いつ停まってくれるかわからない車を待つ、ヒッチハイカーをし
    り目に気分よくローマへ向け走っていると、日の丸の小旗を登山用リックに差し、路肩で車待ちしている日本人ヒッチハイカーが目に入った。
    オレはこんなところに日本人がおることに驚き、路肩にバイクを停め、十メートルほど後戻りして彼に声をかけた。(つづく)
    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (34)
    ナポリからローマへ行く途中、高速度道路脇にリックを背負った日本人若者が目に入った。こんなこんなところに日本人がおることに驚き、路肩にバイクを停め、十メートルほど後戻りして彼に声をかけた。
    彼は東京の大学生であった。今、日本は学生運動が激しく大学は封鎖され、ノンポリの学生は安いソ連のアエロフロート航空やシベリア鉄道でヨーロッパへ渡り、ヨーロッパ中をヒッチハイクするのがブームであると言った。その彼も鉄道でシベリアを横断してヨーロッパをヒッチハイクで旅行していると言った。
    おレは日本を離れすでに四年になり、iPhone?もガイドブックも持っていなかったのでヨーロッパの情報に疎かった。彼はローマに行くのなら、1960年に開催されたローマ・オリンピックの選手村が今はユースホステル(YH)になっており、安いのでそこに宿泊すべきだと教えてくれた。安く泊まれるに越したことはないので彼の情報はありがたかった。
    彼は、もう二時間も高速道路の入口で待っているが停まってくれる車はないと苦笑いした。気の毒に思ったが、荷を積んだオレのバイクに彼を乗せることはできなかった。
    「一日中待っても、乗せてくれる車を捕まえることもできないこともありますから・・・・」と、彼は待つことに慣れているようで笑いながら言った。彼の周りには、同じような各国のヒッチハイカーが車待ちしていた。
    「すべての道はローマへ通ず」と、謳われた永遠の都ローマ市内に入るが、アメリカの企画整理された道路と違い、この古い都市は道路が入込んだり、曲がりくねったりしており、ユースホステル(YH)探しに一苦労した。
    ローマ・オリンピック開催から八年が過ぎていた。テヴェレ川近く、白ペンキで塗られたYHは清潔で、宿泊料は2ドルとアメリカの一泊7,8ドルの安モーテルに比べても非常に安く、アメリカでは一日15ドル前後の予算で旅していたが、ヨーロッパでは3ドル前後で出来るとわかり、ドルとイタリア・リラの貨幣価値の大きさはうれしい誤算だった。
    夕方、YHに着くと自国の国旗を縫い付けたリックを背負ったヨーロッパ各国の若いヒッチハイカーたちが続々と宿泊するため集まっていた。
    YHの部屋は広く、多くの簡易ベッドが並んでいた。オレがベッドで荷をほどいていると、隣のベッドに同年輩の日本人が針に糸を通し器用にシャツにボタンを取り付けていた。
    型通りのあいさつをしながら、彼の足元に置いてある古いアルミ製の弁当箱に目をやると、小さなハサミなど裁縫道具、それに釣り糸などの道具までが入っていた。オレには考えもつかない準備周到であった。彼は横浜出身の大野といい、口数は少ないが、穏やかで粘り強い感じのする男だった。
    彼はカナダをヒッチハイクで横断、オレが会ったとき彼はローマ観光を終え、翌日はフィレンツェへ向かうと言った。彼とカフテリアで夕食を摂りながら、お互いの今までの旅のことを語り、ローマの地図を広げ、彼にローマ観光の情報を教えてもらった。
    翌朝、彼は日の丸の小旗を縫い付けたリックを背負い、フレンツェへと旅立っていった。
    オレはバイクでローマ市内の観光へ出かけた。オレが知っているローマの観光地や遺跡は映画で観た紀元前80年に造られた円形闘技場コロッセオやスペイン広場、トレビの泉、カラカラ浴場、バチカン宮殿ぐらいだった。
    コロッセオ闘技場は2000年も前に作られ、今にも崩れ落ちそうな古い建造物であったが、周りの近代的な建物とのコントラストが実に美しく感じられた。暴君ネロがライオンを放してユダヤ人を殺していた闘技場は意外に小さく、数万の観衆を収容するような大きさには見えなかった。
    映画「ローマの休日」で有名になったスペイン広場には多くの観光客であふれ、のんびりと思い思いの格好で階段に座りローマの休日を楽しんでいたが、「せっかちな日本人」と自負するオレなど数分も座っておれなかった。
    なぜイタリアにスペイン広場なのかと疑問に思い周りのイタリア人に聞くと、過去にこの広場の近隣にスペイン大使館があったから、そう名付けられただけだと言った。スペイン広場前の大通にセレブ専門のブランド・ショップや高級レストランが軒を並べ、多くの観光客でにぎわっていたが、金銭的余裕のないオレは素通りするだけだった。
    映画「ローマの休日」を観てない人には、トレビの泉は何の変哲もない小さな「池」以外の何物でもない。後ろ向きにコインを泉に投げ入れると、願いごとが叶うそうで、一個投げ入れると再びローマを訪れる夢が叶い、二個投げ入れると愛する人と永遠におられる、三個なら恋人との別れが訪れると言われている。多くのコインを投げ入れれば、それだけ幸運が訪れると宣伝すれば、この泉を管理しているローマ市もより旨味があると思ったが、そこがイタリア人らしい発想なのか、だから誰も二枚以上投げ入れる人はいなかった。
    どこの国のコインを投げ入れると、願いが叶うかわからななかったが、海外渡航自由化後、四年経ち日本人の観光客も多くなったようで1円、5円、10円硬貨などがやたらと目立つトレビの泉であった。
    帰国して夢の航空会社に就職できれば役立つと、夜は必ずその日訪れた名所旧跡のことを詳しく記録していた。
    ローマに着いたときは、すでにロサンゼルスを出発してから大小100以上の名所旧跡を訪れていた。
    ローマで二日間観光したオレは、フィレンツェへ走り出した。ローマ市街を出て、のどかな田園地帯を北へ約300キロ、時折、小さな村のカフェで休憩しながらのんびり走り、日が沈む前にフィレンツェに着いた。
    ローマの安くて清潔なYHに満足したオレは、その後は出来るだけYHに泊まることにした。どこを訪れても、YHの場所を探すにはリックを背負って歩いている若者たちに聞くとすぐわかった。
    広い車道から脇道へ逸れ細い農道を上ると、葡萄畑で囲まれた小高い丘にフィレンツェのYHはあった。このYHでは朝食は外の葡萄棚の下に並べられたテーブルで摂り、デザートは勝手に手を伸ばし葡萄を取って食べられるシステムになっていたが、オレが泊まった時は熟れてない小粒の葡萄ばかり残っていた。
    旅の途中で多くのYHに泊まったが、このYHも忘れられないひとつである。
    ローマで出逢った大野がオレに続いてYHに着いた。彼は車がなかなか停まってくれず、ここまで来るのに二日を費やしたと疲れ切った表情であった。
    翌日、二人でフィレンツェ観光に出かけた。町は二年前(1966年)の大洪水で建物や文化遺産が大被害をうけ復興のさなかであった。フィレンツェが「ルネッサンス発祥の地」であることぐらいは知っていたが、ルネッサンスが何であるか知りもせず、オレはこの町の名前だけに惹かれ訪れただけであった。
    大野はルネッサンスとは十四世紀から十六世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命というか運動のことですよと、実に詳しかった。やはり旅に出る前に行く先々のことを少しは調べておかないと、旅行の楽しみが半減することも事実だと思った。
    この町はアルノ川を挟んで両岸に広がり、ミケランジェロ広場へ行くと「花の聖母教会」と名付けられた町のシンボルでもある白緑ピンクの大理石で幾何学模様に飾られたドゥオーモ大聖堂はじめ、赤瓦の一色の美しい市街地全体が望めた。アルノ川に架かるフィレンツェ最古のヴェッキオ橋の両側には彫金細工店や宝石店が軒を並べ、道路からそのまま入ると橋と気づかない趣になっていた。
    大野とフィレンツェの町を歩き回わりながら、このあと予定なども話し合った。彼もヨーロッパを旅行したあと中近東、インドまで行く予定と言った。
    フィレンツェに二日間滞在し大野はミラノへ、オレはフィレンツェから南西へ約70キロ、地中海に近いピサへあの有名な斜塔を見るため走り出した。(つづく)

    260669306_4557239044366688_6654658784795004006_n

    260491777_4557240014366591_6160668850726148769_n


    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (35)
    フレンツェ―を出発、地中海の町ピザへ向け走り出した。
    ピサの斜塔は大聖堂の鐘塔として1173年工事にかかったが、十メートルほど建設したところで傾きはじめたが造り直しもせず、そのまま増築し約200年後に完成したそうだ。斜塔の入口で入場券売場のオッサンに、
    「日本人なら、造り直すのに、何故造り直さなかったのだ?」と聞くと、
    「ピサの人間は賢いのだ。造りなおしたら経費がかかる。それよりこのまま建設して傾いていることが有名になれば、お前のような観光客が多く来て、その塔上料で建設費が浮くからだ。ユー・ノ(わかる)?」と、イタリアなまりの英語で自慢気に言った。
    ごもっともである。傾いていなければただの鐘塔で、誰もわざわざ見には来ない。狭い大理石でできたラセン階段は700年の間に多くの観光客が上り下りして、すり減ってすべりやすく、その上傾いているので怖かった。
    ピサから地中海に沿って海岸線を走りジェノアのYHに泊まった。
    この町はアメリカ大陸を発見したコロンブスの生まれ故郷であり、物語「母を訪ねて三千里」のマルコ少年が母を捜しにアルゼンチンへ出かけた港でもある。中世自治都市として栄華を誇った歴史ある街らしく、貴族の邸宅や庶民の住宅がその雰囲気を今も伝えていた。
    YHは安く泊まれるだけでなく、夏休みを利用してヨーロッパ中をヒッチハイクしている各国の同世代の若者との出会いもあり、楽しかった。
    カフテリアで夕食を済ませると、誰彼となく、夕涼みを兼ねて海岸へ出かけ、お国訛りの英語でにぎやかに旅での出来事を語り合い、旅の情報交換の場という実益もあり楽しいひと時でもあった。
    朝を迎えると、
    「またどっかで会おなァ」と、それぞれの次の目的地へ旅立つって行った。
    オレはジェノアから青い海と青い空に燦々と輝く太陽に囲まれたフランス南部、地中海に沿いに一般道路を走り、マドリッドをめざし走り出した。このあたりの道路は狭い片側二車線か一車線でカーブも多く、左側は地中海、右側は小高い丘が続き、赤瓦の高級住宅が点在しアメリカのウエスト・コーストの風景に似ていた。
    イタリアも夏のバカンスシーズンがはじまっているらしく、道路は渋滞、車はノロノロと走っていたが、バイクはその間をスイスイと気持ちよく走り抜けられた。突然、オレの前を走っている車のドライバーが唾でもはくのかドアを開けた。一瞬、オレはブレーキをかけたが開いたドアに衝突した。渋滞のためゆっくり走っていたので転倒もせずオレもバイクも無事だったが、中年男性ドライバーが降りてきて、ドアに傷がついたので弁償しろと大声で怒鳴り始めた。傷などついていないのに大袈裟に怒鳴り続けた。
    そのうちに、渋滞で苛立っている、後続のドライバーたちがゾロゾロ降りて来て、
    「早く車を出せ」と、オレに怒鳴り散らしていたドライバーへ文句を言い始めた。
    怒鳴っていたドライバーは、もうオレのことなど忘れたようにドライバー同士で怒鳴り合いを始めた。
    オレは彼らの口論に参加する気など全くなく、これ幸いと彼らの怒鳴り合いを横目に、その場を立ち去った。
    地中海沿いの狭い道路は曲がりくねり、切り立った山を上がり下りしながら赤瓦や白ペンキの邸宅が建ち並ぶ風光明媚なサンレモ、モナコ、ニース、カンヌへと続いている。これらの地名は音楽祭や映画祭などで有名であるが、訪れて初めてそれらの町の場所を正確に知ることができた。
    海岸線に広がる風景はアメリカ西海岸の風景とよく似て素晴らしかったが、気位が高いというかライダー姿ではホテルのレストランで食事を摂ることなど畏れ多く、ほとんど道端のスタンドで立ち食いだった。そのほうがアメリカ的でオレは気楽だった。
    バカンスシーズンの地中海沿岸、コート・ダジュールは道路も観光名所も混雑しており、のんびり見学する気は起らなかった。
    オレは、この混雑する観光地から逃げるように一日中走っては、YHや安宿にたどり着くだけの繰り返しであった。まるで朝出勤に出て、夕方帰宅する生活の糧を稼ぐ労働者たちと違い、距離だけを稼ぐ単純なバイク走行に疲れ、バイク旅の目的である名所旧跡、観光地を訪れることも忘れていた。
    地中海に沿ってフランスからスペインの第二の都市、バルセロナに入った。この町はサンフランシスコのような坂道が多く、テレビのCMなどで見るアントニ・ガウディが1882年に設計し始まったサグラダ・ファミリア(聖家族)教会が、まだ建設中であった。
    周りの人に聞くと、一般の寄付を募りながらの工事で、いつ完成するか誰もわからないと言っていた。オレはどこの街角でも休憩しては地元の人々とちょっとした会話を楽しんだ。これは旅人にとって最も重要な一つである。
    街角で絵を描いている老人がいた。芸術などとは無縁なオレでだが、バイクを停め、後ろからその老人が描くのを眺めていると、その老人がオレに片言の英語で話しかけてきた。老人はピカソが青年期ここで過ごしたことや、どれほどピカソがエネルギッシュな芸術家あるかなど自慢げに熱を込めて語り始めた。
    ピカソは生涯、油絵、版画、彫刻など約164,000点を制作したそうだ。16歳から制作を始めたそうだから、年間約2,000点、一日約6点制作したことになる。オレは専門家でないので、ピカソの作品については素人で、良さは分からないが、その制作に対するエネルギーのすさまじさには脱帽である。
    バルセロナから遥か右手にピレネ山脈を望みながら、アメリカ中西部のような赤土の平原をサラゴサ経由マドリッドへ向かった。
    赤瓦に白ペンキの家が軒を並べる小さな村の午後、暑い日差しの道路には人影もなかった。木陰のある水飲み場で休憩していると、どこからか小さくフラメンコ・ギターの小さな音色が流れてきた。それを聴いていると、スペインに来た実感がわいてきた。スペインでも行き当たりばったり、いろいろなところに行き、いろいろなものを見たが、この小さな村の水飲み場で聴いたフラメンコ・ギターの音色が最も印象に残った素晴らしい、スペインらしいスペインの風景であった。(つづく)

    261664441_4560357317388194_8495792310251670790_n

    260599023_4563348737089052_1329626295498090934_n


    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (36)
    パリ、そして出遭い
    マドリッド市内に入る直ぐ観光案内所へ直行し観光資料もらい、フラメンコ舞踊、闘牛など多くの物を見みたが、闘牛は残酷でやるべきでないと思った。そう、物語で有名なセルバンテス、ドンキホーテ、サンチェ・パンサ像のある「本場」のスペイン広場も訪れた。そのあとマドリッドから約70キロ南、タホ川に囲まれたトレドを訪れた。
    この町全体が博物館のような古い街並みが残っており、中世へタイムスリップしたような気分になる、すばらしい街だった。
    ピレネ山脈越え フランスへ
    マドリッドで数日過ごした後、北へピレネ山脈を越えフランスへ向かった。フランスとの国境の町サンセバスティアンまでは約350キロ、一日で走れる距離である。今は高速道路ができているらしいが、当時は石畳の一般道路が多く走りにくく、その上、スペインとフランスを分ける、自然の国境線ピレネ山脈は標高3,000メートルを超すところもあったが、そんなに高いところは走らなかったが。夏だったが夕闇が迫ると寒く、山奥の安宿に宿泊する羽目になった。
    翌朝、宿を出るとすぐ下りになった。一時間ほど走るとサンセバティアンの町が眼下に見えてきた。早朝だったので、一直線の下り坂の町には人影もなかった。気持ちよく走っていると、突然、建物の中からトラックがゆっくりバックして道路へ出てきた。
    一瞬のことであった。急ブレーキをかけた途端バイクは横転、勢いよく横滑りしながら、ヘルメットが道路と摩擦するガリガリという音を響かせながらトラックの下を通り抜けた。本能的に頭を打ったと思い、もうバイクの旅は終わりだと一瞬思った。
    本能的に仰向けに倒れたままの姿勢で動かないでいた。早朝の衝突音で家々から人が飛び出して倒れているオレの方へ走ってくるのが見えた。そして数人の人がオレを道路脇へ運び、傷や痛みがないか声をかけ介抱してくれた。オレは事故のショックでしばらくは口もきけなかった。道路脇で横になっていると、少しは体中に痛みはあったが、バイクのハンドルが少し曲がった程度の事故でホッとした。たまたま事故を起こしたのが自動車修理工場前であったので、そこでハンドルを修理してもらい、気分が落ち着くのを待って、直ぐ近くのフランス国境を目指した。
    ヨーロッパではポルトガル以外、どこの国もビザの必要はなく、出入国の手続きはどこも簡単でパスポートを提示し、それにスタンプを押してもらい終りであった。
    フランスへ入りパリを目指して北へ走り出すが、少し行くと頭がクラクラして吐き気がし始めた。トラックと衝突したとき頭を打ったのが原因であった。ヘルメットをかぶっていたので大丈夫だと思っていたが気分が悪くなり、走る気力もなくなった。まだ昼前だったが安宿へ入り、氷水を貰い頭を冷やしベッドで安静することにした。
    食事はいつも「オムレツ、オムレツ、オムレツ」
    昼飯も摂らずに熟睡していた。目が覚めると窓の外は暗くなっていた。眠ったおかげで気分もよくなり、腹も空いたので、ホテル内のレストランへ行きメニューを眺めるが、フランス語が全く理解できない。字から判断してわかるのは「オムレツ」だけだった。そのオムレツも十種類以上あり、どんなオムレツかも皆目わからない。ウエイトレスに、
    「英語話せる?」と、英語で聞いても、
    「ノン」とそっけない返答をして、早く注文しろとばかりに、愛想なく突っ立っている。
    フランスでも、地中海沿岸の観光地では英語は通じたが、一歩、観光地を離れると英語が通じなかった。
    腹が立ったが、フランス語が話せないので仕方がなかった。サイコロを投げて決めるように、メニューを指さしてこれだと注文するしかなかった。注文したものの、どんな料理がテーブルに運ばれてくるかわからないほど不安なものはない。フランスに来て初めて、言葉が通じないと、食事も満足に注文できない不便さを実感し、情けなくなった。
    フランス語は英語と発音が違うので地名さえ発音ができず、映画を観て記憶にある地名や、教科書に載っていた歴史で有名な地名以外、通過した町の名前さえ覚えられず、パリまではワインで有名なボルドーぐらいしか覚えていない。ランス人に会ってもお互い言葉が通じないと話す気にもならず、ただ、葡萄畑や農地の広がる中をパリ目指して走るだけであった。
    いくら英語が話せても、フランス語が理解できないと毎回、毎回、食事はほとんどオムレツだった。街角で出会う人との会話もままならず、フランスの風景しか観ることができず、わびしく、面白くも楽しくもなかったが、それも旅の経験だった。語学ができなくても、それなりに外国旅行を楽しむことのできる人の勇気には尊敬に値するとつくづく思った。
    国境からパリまでは景色のよい葡萄畑の広がる丘がどこまでも続き、走っていても気分が爽快だったのが救いだった。
    この年、1968年5月、パリではゼネストを主体とする民衆の反体制運動、いわゆる「五月革命」が勃発していた。
    フランスに入ったのは7月半ばだった。途中であったヒッチハイカーに、パリは騒然としており、危険だからパリだけは行かないほうがいいと聞いていたが、せっかくフランスに来たのだからエッフェル塔、凱旋門、ムーランリュージュ、モンマルトの丘、ルーブル美術館ぐらいは見たい気持ちが強くパリへ向かった。
    パリに入ると静けさを取り戻しており、何事もなかった。フランス語のできないオレは、相変わらずオムレツばかりの食事にうんざりしながらも、パリ市内を走り回って、帰国後、航空会社就活には有利な条件になるからと、聞いたこともない名所旧跡も観光して回った。バイクでの移動は、バスや電車の行先や時刻表を調べる必要もなく、自由に走り回れ、時間の無駄を省け便利であった。
    バイクに疲れ、エッフェル塔の下にある公園のベンチで昼寝をしていると、背広の肩にカメラをぶらさげた同年輩の日本人の若者が声をかけてきた。大阪出身という彼は建築士の勉強のため、ヨーロッパの建物を見て回っていると言った。
    お互い若く、彼も無名時代で、日本へ帰ったら、又会いましょうと約束して別れた彼は、若き日のあの著名な建築家安藤忠雄氏であった。
    彼はその後、日本の建築家から世界の建築家になった。オレなど足元にも及ばない才能あふれた男で、オレの人生に彼ほど刺激を与えた者はいない。英語で思うように自分の意志を伝えられないフランスは最悪であったが、パリで安藤忠雄氏に出逢えたことは、人生最高の収穫のひつであった。職種は違っても、夢を持ちそれを叶えるため、二十代の若さで世界を観ようと実行に移した志はやった者しかわからない。人生は二十代の生き方で決まると言える。(つづく)

    262576031_4566526006771325_2982338005193055674_n


    261643954_4566525670104692_5085079952176223816_n


    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (37)
    フランスからオランダへ
    ルーブル美術館前で、アメリカに住んでいたというフランス人男性が、オレのカリフォルニアのナンバープレートのバイクを見て英語で話しかけてきた。やっと英語の通じたその男にフランスに入ってからは英語が通じず、ほとんど食事はオムレツばかり食っていると愚痴ると、
    「フランス人は英語を理解しても、フランス語以外はわからないふりをするんだ」と、ウインクしながら言った。
    そういえば、そのような話を聞いたことがあった。やはりフランス人は自国語に誇りを持っているは事実のようだ。
    パリでもオムレツばかり食っていると、当時人気のあったシャンソン歌手石井好子の著書「巴里の空の下オムレツのにおいが流れる」を思い出した。それまで知らなかったが、オムレツはフランスの名物料理だったのだ。
    モナリザを見るだけでも価値があるとルーブル美術館へ、そしてパリを駆け足で観光を済ませると英語の通じる国、英国へ行こうと、ぽつりぽつりと小雨が降り始めた田園地帯を北へ、フェリーの発着するル・アーヴァル港へ向かった。この町は第二次世界大戦末期ドイツ軍の砲撃で壊滅的打撃を受けたところである。
    その西側は1944年6月6日、英米連合軍が上陸しフランスのみならずヨーロッパ全体の運命を決めた史上最大の作戦で知られたノルマンディーだった。シトシトと小雨が降る海岸は人影もなく静まり返り、波も穏やかであったが、オレの頭の中を映画「史上最大の作戦」のテーマ曲「The Longest Day」が勇ましく駆け回っていた。
    フランスの観光ポスターやテレビでよく見かける海岸から一キロほど沖に建てられた城のような修道院モン・サン・ミッシルは、この近くであるが、当時、オレはそのようなものがあることさえ知らず、通り過ぎて行った。
    ロンドン
    日本と違いヨーロッパの季節は、夏と冬が同居している。夏だというのに、ル・アーヴァルの港に着いたときは、雨で全身びしょ濡れになり寒く震えが止まらなかった。
    イギリスのドーバー港まで三時間、フェリーの船員に頼み込んで、エンジンルームに入れてもらい、衣類を乾かしながら暖を取った。
    雨雲の垂れこめたドーバーの町から、農地の広がる中を一気にロンドン郊外まで走り、偶然見つけたアメリカ式のレストラン付のモーテルに宿泊した。モーテルの女主人と久しぶりに英語で意志が通じ、「オムレツ」から解放されたオレは、「ツー・エッグ・ウイズ・ベーコン」にトースト、コーヒーのブレックファーストに生き返った気分だった。
    戦後23年経っていたが、偶然そのレストランで逢った初老のイギリス人女性が、オレを日本人かと確認した上で、彼女の主人は戦争中日本軍の捕虜になり、映画「戦場にかける橋」で有名になった泰緬(たいめん)鉄道の工事で過酷な労働と栄養失調で亡くなった一万数千人の捕虜の一人だと憎らしそうな目をオレに向け言った。
    オランダでも日本軍の捕虜になった人に同じような日本軍の残酷さについて聞かされた。
    ドイツのナチスは数百万人のユダヤ人を虐殺した。米国は日本が宣戦布告前にハワイ真珠湾急襲したとか、戦争を早期終わらせるためのに広島、長崎に原爆を投下し、何の罪もない子供や民間人の大人数十万人を一瞬に虐殺した。
    第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった「日ソ中立条約」に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領した。
    当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約17,000人が住んでいたが、ソ連は四島を一方的に自国領に「編入」し、それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いている。ロシアのやり方は火事泥棒そのものである。
    英国人に旅行を楽しんでいるオレに向かい、事実であれ、20数年前の日本兵の英国兵に対する嫌味を言われ気分の良いわけはなかった。あなたの国,イギリスも過去に多くの国々を征服し、蛮行を繰り返した歴史があるではないかと言いたかったが・・・。
    第二次世界大戦中英国軍の捕虜になったK大学の教授の書によると、英国人ほど残虐な国民はいないと書いている。英国の旅に気が進まなくなったオレは、ロンドンでは大英博物館へ行き、観光の目玉の一つ、おもちゃの人形のような衛兵交代の儀式を見て、英国旅行のお茶を濁そうとバッキンガム宮殿へ向かった。
    十時半から始まる儀式を見ようと大勢の観光客が宮殿前に詰めかけていた。その中に日本のある県会議員の団体客がいた。彼らはバイクでヨーロッパを観光しているオレが珍しかったのか、多くの外国人観光客がいる前で、あたかも有名人を囲むようにカメラを向けられ、帰国したら我が町に来てくれと名刺を押しつけられ、嫌な思いをした。
    「ドイツに行ったら、是非、東ベルリンも行くべきだ」と、
    中年の添乗員が教えてくれた。当時、ベルリンは東ドイツ領内で東西べルリンに分断されていた。外国人は戦勝国ソ連が管轄している東ベルリンへの通行は自由と言うので、彼の勧めも年あり是非東ベルリンへも行こうと決めた。
    ダンケルク、アムステルダム
    気の重い英国になったが、多少ロンドンの名所旧跡を訪れ、再びヨーロッパ大陸へ戻るためドーバー港からカレーへ渡った。
    ヨーロッパに上陸以来、中近東の地図探していたが、どこにも売っておらず、そのことが気になっていた。ドーバー港でフェリーを待つ間に売店で、偶然、中近東の道路地図を手に入れることができた。ここで手に入れられたことは本当にラッキーの一言であった。
    霧雨の中、フランスのカレーに上陸、そこから東へ約30キロ行くと、あの有名なダンケルクだった。
    この町の海岸は1940年5月24日から6月4日の間に、ドイツ軍にダンケルクへ追いつめられたイギリス軍、フランス軍の兵士約35万人を救出するため、当時のイギリス首相チャーチルの命により軍艦や民間の貨物船、漁船、ヨット、はしけなどを総動員した史上最大の撤退作戦(ダイナモ作戦)のあったところで映画にもなった。オレが訪れたのは夏の海水浴シーズンであったが、フランス北部は小雨が降っており、海岸は人影もなく、殺風景な激戦の面影を残す古いトーチカが所々に残る寂しい風景だった。
    小雨が降る北海沿いを日本の県ほどの大きさしかないルクセンブルグ、ベルギ―を通過、フランスからオランダ、アムステルダムのYHへ一日で着いた。
    アメリカに比べ、ヨーロッパがこんなに小さいのには驚きだった。
    アムステルダムのYHに着いたときは気づかなかったが、翌朝、外へ出るとYHの周りは「飾り窓(女郎屋)」が軒を並べていた。
    このことはヨーロッパ中を旅しているヒッチハイカーたちの間では知らぬ者はなかった。ほかのYHに泊まりアムステルダムのことが話題に出ると、あのYHそのものが「飾り窓」だと大笑いするほど有名だった。
    アムステルダムといえば「アンネの日記」で有名なアンネ一家と八人のユダヤ人家族がナチスの迫害から隠れるため、1942年から2年間住んでいた部屋が博物館になっているので訪れた。運河沿いの建物はアムステルダムではどこにでもある四階建てで、一階は倉庫、二階は事務所で三、四階を改造してアンネたちは身をひそめ住んでいた部屋であった。隠れ部屋の入口は本棚でカモフラージュされ、その部屋を見ただけで、今でも彼らアンネ一族が身を潜めているような気がした。なぜユダヤ人がモーゼの時代から、これほど嫌われているのかは知らないが・・・・。(つづく)

    261815918_4569647449792514_6162155458461218324_n



    262478409_4569648583125734_6012203298110483159_n


    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (38)
    長崎「オランダ坂」と東ベルリンでの出来事
    アムステルダムは運河のある平坦な美しい町である。坂など見当たらなかった。しかし江戸時代末期、長崎市内にある、あの坂道を「オランダ坂」と呼んでいた。ポルトガルのリスボンは坂の多い町であったが、オランダには急な坂など全くない。江戸時代の長崎の人は、きっとオランダとポルトガルの区別もつかず「オランダ坂」と適当に言っていたのであろうが、きっとあれは「ポルトガル坂」の間違いと思った。調べてみると、長崎の坂は多くの「外国人」がそこを通っていたので「オランダ坂」と呼ばれていただけである。旅は見るだけでなく、疑問を解く楽しみでもある。
    オランダはライン川下流の湿地帯で、国土の四分の一は海面下に位置している。アムステルダム市街から北の田園地帯へ出ると運河沿いに点々と風車小屋の美しい風景が広がっていた。その風景を眺めながらオランダの北端、ゾイデル海をせき止めた長さ約32キロの巨大な防波堤の上にあるハイウエイのような広い道路を渡り、次の国、ドイツへ向かった。真夏だというのに、真冬のような北海から防波堤に吹き付ける横殴りの冷たい風に必死に耐えながらドイツ国境を目指した。
    ドイツ国境近くの町ブレーメンに入ると突然、バイクのチエーンが弛んで垂れ下り歯車から外れカシャ、カシャと嫌な音をだし、ノッキングしてスピードが出なくなった。
    チエーンの弛みをオレは直せなかった。バイクなどほとんど走っていない時代でバイク屋をなど見つからず、やっと自転車屋を見つけ、そこで直してもらい、ハンブルグの安ホテルにチェック・インした。
    エレベーターを降り薄暗い廊下を部屋へ向かっていると、普通の服装をした女性がすれ違いながら、オレにウインクした。振り向くと向こうも立ち止まってオレを見ていた。女性が立ち止まって、オレにウインクするなど、今だかって経験したこともない。どうもおかしいと思い、ホテル前の街路でフランクソーセジを食いながら、屋台のオッサンにその話をすると、
    「オマエは本当に、ここがどこだか知らんのか?」と、噴き出した。
    「今来たばかりで、知るわけない」と、言うと、屋台のオッサンは笑いをこらえながら、
    「ここはレーパーバーンという歓楽街で、ヨーロッパでは知らない人はいないほど有名なところで、『世界で一番罪深い一マイル』と称され、かのビートルズも世界的に有名になる前は、このレーパーバーンが活動の中心地だった」と、言った。
    東ベルリンでの出来事
    翌日、ロンドンのバッキングガム宮殿で会った旅行社の添乗員が教えてくれた東ベルリンへ行くことを楽しみにしていた。バイクを宿泊している安ホテル前の地下駐車場に預け、ハンブルグ空港からパンナム航空で東ドイツ領上空を通過、西ベルリンへ入った。
    1968年当時、冷戦下の東西ベルリンは東ドイツ領内にあり、西ベルリンはフランス、イギリス、アメリカ、東ドイツはソ連に統治され、西ベルリンは西ドイツの飛び地であった。
    西ドイツ側から西ベルリンへ行くには、東ドイツ領を走っている西側の人間は途中下車が禁止されたアウトバーン(高速道路)、鉄道または飛行機で結ばれていた。西ドイツ国籍以外の外交官と外国人は、境にある東西ベルリンの検問所チャーリーポイントを西側からは何の手続きもなく通り、東ベルリンへ行くことができた。偶然かも知れないが、西側チャーリーポイントを通り、東ベルリンへ行くのは、その時はオレ以外誰もいなかった。東側に入るとコンクリートの壁や監視塔、ジグザグに張り巡らされた有刺鉄線のフェンス、通過する車をチェックするブースが設置され、東ドイツの兵隊が東から西への亡命を厳しく見張っていたが、アメリカ側は木造の事務所が設置されアメリカ兵が留守番役のように一人いるだけだった。
    西側のチャーリーポイントを抜け東側に入ると、二度と西側へは帰れないのではないかと不安と恐怖のような不気味さを感じた。東ベルリンの町は社会主義の無機質主義とでもいうか、歴史的建造物などは見当たらず、映画のセットのような建物と略奪された後のように商品の少ない店舗のショーウインドーばかりが目に付き生活の匂いが全く感じられなく、この国の貧しさがわかった。東側検問所の周りでは東ドイツ兵に感じられないように、若いカップルや子供連れの夫婦、老人たちが何か意味ありげにそれとなく歩き回っていた。
    どういう方法かはわからなかったが西側の家族、親せき、知人、友人たちと連絡し、チャーリーポイントでそれとなく会っているように思えた。
    オレがベンチでたばこを吸いながら、その光景を眺めていると、中年の男性が横に座り折り畳んだ封筒をチラッと見せ、
    「西ベルリンのポストに投函してくれないか?」と、たどたどしい英語で話しかけてきたが、検問所の東ドイツ兵に見つかれば、オレの身がどうなるかわからないので怖くなり、彼には悪いと思ったが言葉を交わすことなく、逃げるようにオレはその場を立ち去った。
    外国人は東ベルリンから西ベルリンへは地下鉄でも行けると聞いていたので、乗って西ベルリンへ引き返そうと階段を下り地下鉄の駅へ向かったが人影がないので引き返そうとしたとき、
    「ハルト(止まれ)!」と、コンクリート造りの通路内に響き渡り、シェパード犬を連れた二人の東ドイツ兵が大声で、こっちへ来いと手招きした。
    「駅を間違った」と、英語で言ったが通じず、薄暗い建物へ連れていかれた。中はガランとした小さな体育館ぐらいの広さで、隅のベンチに座らされた。しばらくすると軍服姿の女性が現れ、
    「パスポート」と、無表情に言って、オレのパスポートを取り上げて立ち去った。
    オレは地下鉄の駅を間違えただけで、何も東ドイツの法に触れるようなことはしていなかったが、ここで何年も拘束されることになると、オレの行方を知る者は誰もいないので、どうなるか不安で怖くなった。
    トイレに行きたくなり、ベンチの横にある部屋のドアをそっと開け覗きこんだら、数名の若い東ドイツ兵士がタバコを吸いながら雑談していた。そこは兵士たちの休憩室であった。オレに覗かれた兵士たちはキョトンとしていたが、すぐ柔らかい顔になり兵士の一人がトイレへ案内してくれた。
    意識してオレは笑顔をつくりアメリカからバイクでヨーロッパまで走ってきたと話かけたが、彼らは黙って聞いているだけで何の反応も示さなかった。
    一時間近くベンチで待たされただろうか、例の女兵士がこっちへ来いと奥の部屋から無表情で手招きした。その部屋は事務所のようで軍服を着た七、八人の男女の兵士がデスクワークをしていた。オレは彼らに言われるままに、彼らのデスク前の椅子に座り、日本からここまでのきた話をして、繰り返し質問を受け、やっと彼らは納得したようで、
    中央に座っていた上官のような服装をした兵士がオレのパスポートを返し、
    「西ベルリンへ戻るか、列車でハンブルグへ行くか」と、事務的に尋ねた。
    冷戦時代、共産圏の東ドイツを見るなどできない時代だったので、興味が湧き、
    「列車で行く」と、反射的に答えたが、あとは何を話したかわからないほど疲れを感じた。パスポートを返してもらい、肩に銃をさげた二人の兵士に囲まれるように駅へ連れて行かれ、ハンブルグ行きの列車に乗せられた。
    列車は東ドイツ領の広々とした農村地帯を西へ止まることなく走り続けた。広大な畑では大型の農耕機を使って農作業している農夫や、手伝いをしている子供たちが列車に向かって手を振っているのが印象的だった。
    一度だけ列車は東西ドイツの国境で停まった。
    旧ドイツ軍のナチ親衛隊のような色彩鮮やかな軍服、腰にピストルを携えた東ドイツの兵士が数人停まった列車に乗り込んできて、東ドイツから西へ亡命するのを防ぐためか、時間をかけ乗客全員のパスポートのチェックをした。
    写真:左下アンネの隠れていた建物、アイユコイド防波堤、レーパーバーン・ビートルズも売れない頃はここで活動していたのだ。(つづく)

    263034703_4573295276094398_3309711613491630332_n



    261801689_4573315392759053_1281734088257274973_n


    ldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (39)
    ドイツからスイスへ
    ハンブルグ駅前の広場へ出ると若いヒッチハイカーが七、八人たむろしていた。
    彼らもYHに泊まることは間違いないので彼らにYHの場所を聞き、雑談していると目の前に観光バスが停まり、着飾ってハイヒールを履いた若い日本人女性の一団が降りてきた。
    彼女たちは薄汚れた皮ジャンにジンズ姿で道路脇に座り込み、若いヨーロッパのヒッチハイカーたちと話しているオレが目に入ったのか、
    「あんな服装でよその国へ行くのは日本人の恥だ」とばかり軽蔑の眼差しで、わざと聞こえるような声で通り過ぎて行った。
    穏やかに立ち話の出来る外国の女性たちに比べ、外国で同じ日本人であるオレを見ると、あからさまに嫌味な顔を意識的にする若い日本女性が多かった。
    まだ旅費も高く海外旅行は高根の花の時代、日本人の前では決して見せることのない遜(へりくだ)った態度で若い外国に声を掛けられると、態度を一変し、彼らの後に付いていく日本女性を何度も見かけた。その後、日本人女性はナンパし易いと外国人男性に広まった。
    今は着飾って、ハイヒール履き海外旅行する人などいないが、当時は日本人も外国旅行慣れしておらず、国際化していなかったのも一因だったのであろう。。
    ハンブルグのYHもアムステルダム同様、レーパーバーンという歓楽街近くにあり、日本人ハイカーに会えるので、安ホテルからそこへ移った。バイクで走っていると、ほとんど一日中人と話さないし、食事も一人、だから日本人ハイカーに会うとうれしく一緒に観光、食事、旅先の情報交換とそれも旅の楽しみだった。
    エンジンの調子は良かったが、バイクのチエーンの緩み、それにスペインでトラックと衝突したとき応急処置したハンドルが少し曲がっており、長時間走ると、少しではあったが腰がねじれ、だるくなるのでデッセルドルフのヤマハ・ヨーロッパ支社へ出向き修理点検してもらうことにした。現在、ヤマハの支社も世界中に網羅しているが、当時はアメリカにロサンゼルスとチェリーヒルズ(ニュージャージー州)、ヨーロッパにはデッセルドルフ(ドイツ)の二か国しかなかった。ここで整備しないと後はインドまで行けるかどうかは運だけであったバイクが動かなくなったら、飛行機で帰国する気でいた。
    バイクの点検を終えるとバイクも生き返ったように乗り心地が良くなり、気持ちも新たにケルン、ボンを観光、左側にライン川を上り下りする貨物船、観光船、ローレライ、葡萄畑など素晴らしい風景を眺めながらスイス国境目指し走り出した。
    夕立の中、虹のかかったライン川を渡るとスイスのバーゼルだった。バーゼルはフランス・ドイツと国境を接するスイス第三の都市である。スイスは九州より少し大きいぐらいの国であるがどこも絵葉書のようなきれいな風景が広がり、今まで美しいと思って旅の途中撮っていた写真が詰まらないように思えるぐらい美しい国で、心身ともに癒された。
    スイスは永世中立国、平和のシンボルのような国と思われているが、国民皆兵制度があり、タクシーの運ちゃん、駅員、学校の先生まで定期的に訓練に参加する義務がある。
    銃器はそれぞれの各自自宅に保管している。スイスの山道や牧草地を走っていると軍服姿で訓練している数人のグループをよく見かけた。ジュネーブ、チュリッヒ、グリンデルワルト、ユングフラウ、ツェルマットとどこもスイスの観光地は美しく清潔で、人々は謙虚で豊かな生活のできるこの国がうらやましかった。
    ジュネ―ブでは国際連合の諸機関を訪れ、ヒッチハイカーの情報でレマン湖にかかる橋を渡り旧市街にあるデパートのブッフェに入り、年金生活者らしい人々と話しながら食べた安いシチューの味が忘れられない。
    ツェルマットの出遭い
    あの有名なマッターホルンを望もうと高いアルプスに囲まれた牧草地帯に点在する小さな集落を走り抜け、ツェルマットの地入口に着いた。煤煙をまき散らす車やバイクは町へ入ることはすでにこの時代禁止されていた。オレは観光客用の広い駐車場にバイクを置き、身の回り品を詰めたバッグを肩に担ぎ、歩いて町に入った。
    標高1,600メートルのツェルマットの町まではスイス国鉄の列車が来ており、さらに、そこからマッターホルンの麓、標高3,089メートルのゴルナーグラートまでも登山電車で昇れた。
    駅の観光案内所で地図をもらい、それを観ながらYHへ行った。
    ツェルマットの町はスイスならどこでもある高い山に囲まれたV字型の谷底にある細長い町並みで、車がやっと一台通れるほどのメイン・ストリートが一本町の中心を貫いていた。その両側にはホテル、レストラン、土産やなどが軒を並べている。YHは十分ほど歩いた町のはずれ、美しいマッタ―ホルンや小さなツェルマットの町が一望できる小高い丘の上にあった。
    YHは白い三階建てで窓はスイス特有の花壇で飾られ、40人ほどは宿泊できる三段ベッドが備えられた男子用と女子用の二部屋、それにレストラン、シャワーもある清潔なYHだった。若い経営者夫婦には五歳ぐらいの男の子が一人おり、二十歳前後の「ジュンちゃん」という京都の若者が働いていた。彼は当時としては珍しいスキーのインストラクターになるためスイスのスキー留学し、雪のない夏場はこのYHでバイトしていた。彼は愛想の良い働き者で経営者や泊り客の人気者だった。
    オレが訪れたときは夏休みのシーズン中で、特に人気のあるマッターホルンの登山口ツェルマットのYHはヨーロッパ中の若者で賑わっていた。
    シベリア大陸横断鉄道やアエロフロート機を利用してヨーロッパ旅行を楽しんでいる日本の若者も五、六人宿泊していた。
    翌朝、階下のレストランで食事をしていると、
    「オジさんじゃない?」と、
    20歳ぐらいの日本女性が笑顔で声をかけてきた。
    28歳のオレに「オジさん」とはと一瞬驚いたが、初対面ながら嫌味もなく活発な女性にあっけにとられた。
    彼女はオレがバーゼルのガソリン・スタンドで給油していたとき、ヒッチハイク中で乗せてもらっていた車から、オレが日本人であることがわかったらしく、大声であいさつしたと言った。ヘルメットをかぶっているオレにはその声は聞こえなかったが、走り去る車から誰かが手を振っている姿を思い出した。
    秋田から来たという女性、菊地さんはドイツで間借りして、夏の間ヨーロッパ中を旅していると言った。彼女は女性の一人旅は危ないからと、途中で知り合った岸という男性をボディ・ガードに二人でヒッチハイクしていた。(つづく)
    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (40)スイスからオーストリアへ
    ボディ・ガードの岸は彼女より一、二歳年上であったが気の優しそうな物静かな男で、彼女の方が朗らかで元気が良くリーダシップを取っているようだった。
    オレはこのYHから眺められるマッターホルンやツェルマットの町が気に入り、旅の疲れを癒すためにも、そのYHで一週間ほど滞在することにした。滞在中、毎日、日本人から来た若い宿泊者たちとゴルナーグラートへ歩いて登り、マッターホルンやゴルナーグラート氷河、高山植物の咲き乱れる中をハイキング、夜はツェルマット町へ繰り出しスナックで飲みながら、それぞれの出身地やそれまでの旅の経験などを語り、楽しいひと時を過ごした。日本を離れてから四年間、日本の情報に飢えていたオレはここでの一週間が最も旅の中で、最も楽しく思い出ある時間であった。
    ウィーン
    ソ連軍チェコ侵攻
    ツェルマットで出逢った秋田の菊地さんと岸は二日ほど滞在するとオーストリアのウィーンへ向け出発した。ツェルマットで一週間ほど滞在したオレも元気の良い彼女にもう一度会いたくなり、会えるかどうかわからなかったが、オーストリアのウィーンを目指すことにした。
    スイスのツェルマットからオーストリアのウィーンまでは約600キロ、高速道路を走れば時間は短縮できるが、ただ突っ走るだけでは、出来るだけ多くの観光地を観るというオレの目的に反するでいつものように一般道路を走り、オーストリアを目指した。
    小さな国土のスイスから、東西に延びる長細いオーストリアへ入り、西はスイス、北にドイツのバイエルン州、南にイタリアとの国境を接するチロル地方を東へ走った。
    牛や羊が放牧された緑の美しい牧歌的な景観や家々の窓に飾られた色とりどりの花々、車もほとんど通らない小さな田舎道の脇道にテーブルを出した小さなカフェ、すべてが自然に溶け込み旅情をかきたて心が和み、疲れると道端の雑草の上に寝転び、サンタモニカ・ビーチで出逢った女性のことや、帰国後のことを考え、疲れては一眠りして「花の都」ウィーンを目指した。
    オーストリアのインスブルグ領経由ザルツブルグへ行く途中、小さな駅前の安宿にチェック・インした。夜中に何気なく二階のベッド部屋の窓のカーテンの隙間から駅を見ると、暗闇の中、戦車や装甲車を積んだ長い貨物列車が停まっていた。当時、1968年、チェコスロバキアは言論や集会の自由、市場経済の導入など自由化政策の導入を推し進めていた。
    この「プラハの春」と呼ばれる動きを封じ込めるため、ソ連を軸とするワルシャワ条約機構軍がワルシャワへ侵攻するのではないかという危機感があった。多分、貨物列車の戦車はNATO軍が警備のためドイツ・チェコスロバキア国境へ移動中だったのか、ナチ・ドイツ軍の映画を観ているような重々しい駅の周りの雰囲気だった。
    1968年8月20日、ソ連軍がプラハへ侵攻した日、ウィーンのYHに着いたら、ボディ・ガードの岸と別行動をとったという菊地さんに幸運にも再会できた。
    その夜、オレは彼女を誘い二人でドナウ川のほとりを散歩、ロマンチックなウィーンの夜だったが、彼女には許婚がいると知らされた。
    翌朝、彼女に二度と会えないと思い、オレは彼女を誘いYHで朝食をしたいと思い彼女を探したが、すでに旅の次の目的地へ出発したのか見つけることはできなかった。オレはがっかりもしたが、ソ連軍ワシャワ侵攻という歴史的な大事件に遭遇し、好奇心旺盛なオレはチェコスロバキア国境へ向かった。国境はワルシャワ機構軍の兵隊が物々しく警備しており、ピリピリした空気が支配しており、彼らの罵声を背にオレは今来た道を引き返えしミューヘンへ向かった。
    ミュンヘンでの再会
    二日後、市庁舎の塔にある人形劇の仕掛け時計とビールで有名なミュンヘンのYHに着くと、ローマのYHで逢った横浜の大野、秋田の菊地さんとまた会った。偶然というか、日本人の移動形態が似通っているのか、ヨーロッパを走っている間、同じように多くの日本人に何度も会った。大野と菊地さんはお互い初対面だった。
    その夜、三人でヒットラーがナチ党の旗揚げをやったことでも有名なホフブロイハウスという三百年以上の歴史を持つビャホールへ出かけた。
    このビャホールは天井の高い一階のホールは数百人も収容できる建物で、観光客も地元の客といっしょに巨大なジョッキになみなみと注がれたビールを飲み、にぎやかに歌い、語り合い楽しんでいた。
    我々も長い木製のテーブルに陣取り、ミュンヘン名物の白ソーセージをおつまみに、思い切り飲み、周りの観光客と一緒に楽しんだ。
    ビールを飲みながらフィレンツェで大野と話した中近東からイン
    ドへの具体的な旅の話になった。大野はドイツ中古車を買って中近東を横断することにしたと言った。そして、中近東の夏は暑いから涼しい季節になってから出発することなど、具体的な話になった。
    その話を聞いていた菊地さんも、
    「私も行く!」と、酔いに任せて元気な声を上げた。
    オレは彼女が中近東横断するはずはない、酔った勢いで言ったのだと思い、
    「わかった!じゃあ、まだ二か月ほどあるが、10月15日、アテネのYHで会おう」と、言うことになった。
    アテネは、リスボンからナポリまでバイクを引き取りに行ったとき、オレが立替えていた飛行機賃をアテネの船会社で受取ることになっていたからだ。
    翌日、当たり前のように、それぞれの次の目的地へ散って行った。オレは北欧を目指すことにした。ミュンヘンから北へ向かい、フェリーでバルト海を渡り、一日かけてデンマークのレズビュハウン港へ着いた。
    デンマークからスェーデンへ
    北欧 忘れられない想い出
    レズビュハウン港から、八月末であったが、秋風が身に染みる平坦な田園が広がる道路を北へ数時間、コペンハーゲンに着いた。
    コペンハーゲンの名物と言えばアンデルセン童話の「人魚姫」を題材に造られた人魚姫の像とチボリ公園が有名である。この人魚姫の像は高さ八十センチと小さく、像の背後には海を隔てて造船所が見え、「世界三大がっかり」と評されていた。
    一般的には人魚の下半身は魚のシッポであるが、モデルの足があまりにも美しかったので、製作者がこの人魚姫の像の下半身に脚を付けたけたのは有名な話である。
    1968年当時、デンマークはインフレで賃金も高く、コペンハーゲンの街は日本人ヒッチハイカーたちで溢れかえっていた。
    コペンハーゲン駅周辺の繁華街にあるレストランでテーブルの片づけや皿洗いのスタッフはほとんどが日本の若者だった。
    YHにも多くの日本人若者が長期滞在し、この街でバイトして稼いでは次の目的地へ旅立っていた。
    コペンハーゲンのYHに着いた翌朝、オレは目が覚めると、疲れがひどく起き上がれなくなった。
    YHにはチェックアウト時間があったが、オレは理由を言って特別に許可をもらい、宿泊客の出払った三段ベッドが並ぶ部屋で朝食も摂らず横になっていた。だが、昼過ぎになると気分がよくなり、夕方になると朝の疲れがウソのように体の調子がよくなった。
    そして、このYHに泊まっている日本人のヒッチハイカーたちに誘われたり誘ったりして駅前のカフェやチボリ公園でビールを飲み、駄弁り、夕日の沈みが遅く、涼しい北欧の夏の夜を楽しんだ。
    しかし、次の朝、目が覚めると、また疲れがひどく起き上がれなくなり、夕方になると元気になった。このような体調が一週間ほど繰り返し続いたが、オレは長旅の単なる疲れと思い、保険も持たずの旅だったので医者にも行かなかった。後年、毎日起こる、その体調の原因は低血圧症の症状だったとわかった。(つづく)
    262499105_4580283692062223_3118449238588394708_n


    261815918_4569647449792514_6162155458461218324_n


    263489457_4580353622055230_5420842419794963788_n


    262679168_4580291808728078_8715533532546260605_n


    263476661_4580356225388303_703204571576631118_n


    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki



    ※ご本人様の承諾を得てブログ掲載しています。

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
    56485550_2180931441997472_6293773358194491392_n




    ※大迫さんが自費で世界一周したのは最初らしいですが証明するものはありません。

    99140931_2650092705237236_8191950114760163328_n (2)
    大迫嘉昭(おおさこよしあき)

    25508206_1595114163912539_176025597011579915_n

    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務
    70381193_2426391317451482_633239498402037760_n


    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (6)
    目が覚めると腹が減った。レストランへのあるロビーに下りると、当時、人気のあった東宝映画「駅前」シリーズのハワイ編撮影に来ていた。その場で、偶然、俳優の森繁久弥、フランキー堺、監督の佐伯幸三たちに偶然、出逢った。彼らも食事に行く途中であった。海外渡航自由化になり三か月経っていたが、ホテルの日本人客はオレと彼らだけらしく、ロビーも閑散としていた。
    こんなところに日本の若者がいると驚いたようで、フランキー堺がオレに声をかけてきた。
    「良いなぁ、オレも留学したいなぁ」と、真面目な顔で彼は答えた。しばらく彼らと雑談した。オレが帰国した後、彼はニューヨークへ留学したことを知った。
    カウンターに着き、メニューを見るが英語で注文する料理が分からず、片言の日本語を話す日系ウエイトレスに任せると、バラバラにレタス、チーズ、トマトなどを盛った皿と小さな鏡餅のようなパンをもってきた。それをどのようにして食べるもかもわからず、彼女に教えてもらい、皿に盛った野菜やチーズをパンにはさみケチャップをかけて食べた。それは、今なら幼稚園児でも知っているハンバーガーなる料理であった。
    食事代1ドル数セントを払いカウンターを離れようとすると、ウェイレスが、
    「ユー・チップ」と、つっけんどんに言った。
    オレはチップを払った経験もなく、いくら払って良いかもわからずズボンのポケットに手を突っ込み、ニッケル(五セント)やダイム(10セント)、クオーター(25セント)などの小銭を取だしカウンターに置くと、彼女はニコッとお世辞笑いしながら一番大きなコイン(25セント)を指でつまみあげ、エプロンのポケットへポイッとほり込んだ。その額は日本円で90円、神戸・大阪間大人三人分の電車代に匹敵する大金であった。
    オレが会社を辞めた1964年4月の給料は20,000円だった。日本円に換算すると、その食事代はチップ込みで約660円だった。1ドル360円時代、食事代とチップだけで日給近くが吹き飛び、オレはアメリカの物価高さに身の縮む思いがした。
    アメリカへ出発する頃、JTBはハワイ7泊9日旅行を36万円で売り出していた。この価格は今なら受け入れられるが、今の価格にすると500万円ぐらいと非常に高価なハワイ旅行であった。
    その夜、ホテルのウエイトレスの勧めで、アラモアナ・ホテルへフラダンスショー見に出かけた。今と違い、車も人通りも少ないワイキキ通りに面した、そのホテルに行くと、入口にアメリカ映画に出てくるような華やかなムームーやアロハシャツで着飾った多くの白人紳士淑女たちが賑やかに立ち話していた。
    半袖に裾幅の広いズボン姿のオレは、その服装の紳士淑女の横を通るだけでオレは気おくれして、中々ホテルの中へ足が向かなかった。
    しばらくホテルの前を行ったり来たりしていると、オレと同じように40歳前後の日本人らしき男がウロウロしていた。声をかけると日本人だった。彼もそのショーを見に来たようで、
    「一人ですか?商用ですか?留学です。フラダンスショーを観に来たのですが・・・・。勇気がいりますよね・・・・。じゃあ一緒に観ましょう・・・・。」と、
    お互い自嘲気味な会話をしながら、フラダンスショーの催される、色鮮やかな照明が照らされたホテルの中庭へ、まるでお化け屋敷に入るような緊張した気分で行った。
    照明に照らだされた青々とした芝生、椰子の木、満天に輝く星の元、色鮮やかなアロハ姿のポリネシア系ミュージシャンが奏でるハワイヤン・ミュージックが響き渡り、健康的な日焼けしたポリネシア系美女たちのフラダンスショーが始まった。
    「知り合えてよかったですね」と言うと、彼も初めてニューヨークへ行くと言う、その商社員と一本、一ドル(360円)のビールを飲みながら、雑談していると緊張感が薄れ、初めて見るフラダンスショーに感動、感激の夜たった。日本とハワイ、たった8時間の距離で、夢を見ているような別世界があるのかと驚きと興奮の中でフラダンスショーを楽しんだ。
    251417836_4480546042035989_388777971152887972_n


    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (7)
    その日の深夜便でホノルルを発ち、7月4日、ロサンゼルス空港に着いた。英語の話せないオレは疲労困憊の末、なんとか日本人町へ行くバスを探し乗り込んだ。
    海外旅行のガイドブックもない時代だったが、日本人留学生は「リトル・トーキョー(日本人町)で「皿洗い」して生活費や授業料を稼ぐと、何かで読んだことがあった。
    だから、英語の話せないオレは、それをうのみにして日本人町へ行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかると疑いもしなかった。
     バスは初めて見る四車線、五車線もある広いフリーウェイを経験したこともない100キロほどの速さで走った。車窓から眺めていると、パリっとした身なりの自信にみなぎったアメリカ人男性が大きな車に一人しか乗っていなかった。まだ日本では車が普及していなかったので、二人、三人ではなく、一人しか乗っていないのに驚いた。
    日本人町に着くと、バス停のベンチに座っていた日系の老婆に聞き日系人の経営する「パシフィック・ホテル」へ行った。
    そのホテルはペンキの剥げた薄茶色の三階建で、建物の外には時代物の赤さびた鉄製の非常階があった。中に入るとよれよれの背広を着た数人の日系老人たちが新聞を読んだり、将棋を指したりしていた。
    「ワンナイト(一泊)4エン、ウィーキ(週)で20エンよ」と、
    将棋盤を囲んでいた一人の日系老人がカウンターへ回り込みながら言った。彼はこのホテルのオーナーであった。
    突然、「ドル」を「エン(円)」とか「ウィーク(週)」を「ウィーキ」と言ったので、オレは呆気にとられた。
    途中ハワイで一泊したので、手元には七十ドルほどだけしか残っておらず心細く、ひとまず一泊分だけ払った。三階の部屋にはスプリングの利かない年代物のベッド、ポタポタと水が滴り落ちて止まらないシャワー、長年の使用で変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけだった。
    アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いというか古いホテルで、オレのような「発展途上国」日本からの客かロビーで将棋を指していている失業者のような老人たちが泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しい年代物のホテルであった。
    三階の部屋からは筋向いに東京銀行、その右手に住友銀行ロサンゼルス支店、「ニューヨーク・ホテル」、左側に「旅行社三井大洋堂」、「宮武写真館」、「レストラン東京會舘」等、英語と日本語の看板を掲げた店が軒を並べ、その当時さえ、すでに日本ではお目にかかれない大正時代か、昭和初期のセピア色の懐かしい風景だった。
    日本では一流企業で、一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残された日本人町の古びた建物で営業している光景は戦勝国アメリカと敗戦国日本の力の差を象徴しており、寂しい気持ちになった。しかし、ホテルの入口でボロの衣類をまとった白人の年老いたバアさんが空き缶を差し出し、小銭をくれと迫ってきたとき、世界一豊かな国アメリカにも乞食がいるのかとこれは強烈なショックだった。
    スタインベックの舞台、葡萄園でのアルバイト
    「パシフィック・ホテル」にチェック・インを済ませると、「皿洗い」のバイト探しに出かけた。しかし、日本人町は想像していたような大きな町でなく、どこの日本人レストランも人手を必要としていなかった。オレはがっかりして、ホテルへ戻り、ホテルの主人に事情を話すと、
    「ガーディナーのヘルパーをやると金にはなるが経験がないと・・・」と言ったあと、デラノの葡萄摘みのバイトはどうかと勧めてくれた。
    ホテルの主人とデラノの葡萄農家の経営者は太平洋戦争中マンザナの強制収容所で知り合った友人だと言った。
    デラノはロサンゼルスの北約200キロ、中部カリフォルニアにあり、その一帯は葡萄農園が多いそうだ。農園は夏の葡萄出荷時になると猫の手も借りたいほど忙しいが、厳しい暑さ中での葡萄摘みに人手が集まらず、労働者を確保に苦労しているから、必ず仕事はあると言った。オレはすぐ稼がねばならなったので、彼の話を聞き、早速デラノ行きを決めた。
    翌日、ホテルの主人から葡萄園の電話番号をもらい、ダウンタウンのグレイハウンド・バスのターミナルからサンフランシスコ行きに乗り込んだ。
    251012419_4480544358702824_3391124786017988828_n


    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (8)
    バスにはオレのように、葡萄摘みの仕事に行くのであろうか、家族連れメキシコ人、車を運転できない年老いた白人、貧しそうな黒人たちで満員だった。
    バスは北へ一直線に延びるハイウエイ・ルート99を二時間ほど走り、ベーカスフイルドの町を過ぎると、見渡す限りバスの周りは葡萄畑が広がりはじめた。バスは広い萄畑の中をしばらく走ると、ルート99を降り、サザン・パシュフィック鉄道のガード下をくぐり抜けデラノのバス・ターミナルに着いた。
    バスを降りたオレは、ターミナル内の公衆電話ボックスに入り、Kという葡萄農家へ迎えを頼んだ。迎えを待つ間、ターミナル前のベンチに腰を下ろし、タバコを吸いながら時計を見ると四時を少し回っていたが、頭上では熱射を浴びせる白い太陽が照りつけていた。周りを見渡すとデラノの町は南北に走る一本の広い道路に沿ってガソリン・スタンド、小さなレストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機械屋などがポツン、ポツンと幅広いルート99と並行に走っている大通り沿いにある、ほんの数百メートルほどの小さな町だった。
    車も全くと言っていいほど走っておらず、数台の車が道路沿いの商店へ頭を斜めに向け駐車していた。それは映画「俺たちには明日はない」で観たさびれた町の風景そのものであった。
    30分ほどバスターミナル前のベンチで待っていると、小型のピックアップ・トラックが止まり、K葡萄農家のミセス・Kが笑顔で降りてきた。40代半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジンズ、セミ・ブーツ姿のスラッとした健康的な日系女性で、英語のアクセントはあったが綺麗な日本語を話した。
    オレを乗せた小型トラックはデラノの町を出ると、地平線まで葡萄畑が広がる一本の農道を東へ20分ほど走り、葡萄畑に囲まれた大きな平屋の前で止まった。すると、オレの到着を待っていたかのように、恰幅のがっちりした50歳前後の日系男性が平屋から出てきて、英語混じりの日本語で、にこやかにオレに話しかけ平屋建ての中へ招き入れた。彼はこの葡萄農家のオーナー、サムであった。平屋はサム一家母屋兼事務所らしく、若い女性3人と作業服姿の中年日系の男性が事務を執っていた。サムは事務を執っている人たちをオレに紹介した。三人の女性はサムの娘、そして日系人ジョージはそこで働く労働者のファーマン(監督)であった。
    雑談の後、葡萄収穫期が少し遅れているので、2週間ほど葡萄畑の雑用をしてもらうとサムは切り出した。カリフォルニアの最低賃金は時間給1ドル10セントであったが、この葡萄園は1ドル15セントだとサムは言った。
    ロサンゼルスのホテルの主人は,仕事は葡萄を摘み、箱詰する出来高制(ピース・ワーク)で、夏休みの二か月も働けば、日本の平均年収に匹敵する700ドル(252,000円)は稼げると言っていたので、サムの話はショックだった。
    賃金と仕事の話が済むと、サムはオレが寝泊まりする白ペンキが剥げ落ちた粗末な掘っ建て小屋へ案内した。小屋の中は広かったが、スプリングの利きの悪い古いベッドが八つほどあり、裸電球が2、3個天井からぶら下がり、埃をかぶった年代物の木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれのベッド脇に備え付けられているだけだった。
    外はまだ明るかったが部屋の中は薄暗く、まるで映画で観たアウシュビッツ強制収容所のようで、惨めな気持ちになった。
    だが、日本は扇風機の普及率がやっと50パーセントを超えた頃だったが、このオンボロ小屋には騒音をまき散らす古いエアコンがあった。小屋の入口のドアや窓は、日本では見たこともない網戸付二重ドアになっていた。なるほど、これなら「蚊取り線香」も「蠅取り紙」も必要ない。
    「やっぱり、ここはアメリカ!すごい!」と、戦争後の後進国日本に比べその違いに驚くだけであった。
    この葡萄農家には、同じような労働者が寝泊まりするオンボロ小屋が20棟ほど軒を並べていた。サムはオレに施設のことを説明しながら、葡萄摘みの最盛期には日系人労働者が80人以上も寝泊まりするのだと、自慢そうに話した。
    シャワーとトイレは一か所、寝泊まりする小屋の外にあった。囲いのないシャワーとトイレが十ほど平行に並び、便器に座り隣の者と話たり、前でシャワーを浴びている奴を見ながら糞を垂れたりする代物であった。
    私の小屋には先客が1人いた。日系人のようであるが「骨と皮だけ」という表現がピッタリの痩せた老人で、右足の脛から下は包帯をグルグル巻きにし、身動き一つしないでベッドに横たわっていたので死んでいるのではないかと、薄気味が悪かった。


    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (9)
    カン、カン、カンと鉄版を叩く音が響き渡り眠が覚めた。眠い目を擦りながら時計を見ると、五時だ。カリフォルニアはデイライト・セイビング・タイム(夏時間)の季節で、5時はスタンダード・タイム(冬時間)なら4時である。葡萄農家での初日が始まった。サムから支給されたツバの広い麻製のバッカン帽をかぶり、ジンズに作業用の革靴を履き食堂へ向かった。外はまだ夜のとばりが残り、事務所の隣にある食堂の明かりだけが外にかすかに漏れ、日本の晩秋のように寒かった。
    オレが食堂に行くと、ミセスKがそこにいる人たちを紹介した。すると17,8人食事を摂っていた一見して60を越たと分かる日系人老人たちが威勢良く、オレに挨拶の声をかけてきた。
    若者は一人もいなかった。広い食堂には100人ほどは座れるステンレス製の長いテーブルと長椅子が整然と並び、すでに朝食を終えた何人かの老人たちは、サンフランシスコやロサンゼルスから送られてくるという日系新聞「加州毎日」や「羅府新報」を読み、雑談をしていた。コックは30を少し出たぐらいの静岡出身の男性で、彼の奥さんと葡萄農家のミセスKが賄いをしていた。朝食はスクランブルエッグ,ハム,ベーコン,トースト,コーヒー、オレンジ・ジュース、ミルク、メロンと、日本では食べたこともない豪華なものばかりで、しかも食べ放題とあってオレは大満足だった。
    再びカン、カン、カンと音が響いた。この葡萄農家の日々のスケジュールは、この鉄板の音で規則正しく進められ、葡萄畑へ出発の合図であった。老人たちに促され、オレは彼らの後について食堂を出た。
    事務所前にはエンジンをかけたままのトラックが停まっていた。
    全員といっても老人が17,8人とオレだけで、トラックの前に集まると、カウボーイハットに作業服、黒のブーツを履いたファーマン(監督)のジョージが、威厳を保つように無言で運転席から降りてきた。彼は雰囲気からして、何となく陰険で嫌な感じのする日系二世の男だった。
    ジョージはオレの方へちらっと目を向けながら、老人労働者の一人と小声でなにか話し始めた。話が終わると、
    「さあ、ヤングメン、乗った、乗った」と、その老人がオレを促した。
    老人たちはお互い手を握り、引っ張ってトラックの荷台に乗り込んだ。
    オレも言われるままに、老人たちの後について乗り込んだ。トラックの荷台は両側が長椅子になっており、お互い向き合って座った。
    トラックは葡萄畑主サム家の広い敷地を出ると、見渡す限り葡萄畑の広がる農道をもうもうと砂塵を上げ、東へ向かって猛スピードで走り出した。トラックの荷台は、夜明け前の風をもろに受け、歯が合わないほど寒く震えが止まらなかった。
    葡萄畑の遙か地平線に太陽が昇り始めていた。月はぼんやりと白く、鮮やかな赤色に染まったセコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が遥か東に小さく寒々と輝いていた。
    「ヤングメン。今日は葡萄の蔓(つる)をひっくり返す作業じゃ。ミーがヘルプするから心配すんナ、わかったナ!」と、先ほどジョージと話していた老人が、猛スピードで走る荷台で中腰になり、私の耳元に口を当て大声で指示した。
    我々を乗せたトラックは、葡萄畑に囲まれた一本農道を10分ほど砂塵まき散らし走り、広大な葡萄畑の一角に止まった。
    トラックの荷台に立ち、この広大な葡萄畑の先々まで目を向けると、日本の葡萄棚とは違い高さ一・五メートルほどの細い柱に細い鉄のワイヤーが通してあり、それに沿って葡萄の蔓が這わせてあった。一本の葡萄棚の長さは見当がつかないほど長く、その長い葡萄棚も何本ぐらいあるのか、数えてみる気など起こらなかった。葡萄棚は幅約一・五メートルおきに遙か先まで畝をなし、まるで竿に布団を干したように葡萄の蔓が棚を這っていた。
    その日は成熟の遅れた葡萄の成熟を促すため、葉の陰になっている葡萄の房に太陽と風が当十分当てるため、垂れ下がった葡萄の蔓を抱え棚の反対側にひっくり返す、布団干しのような作業だった。
    老人たちとオレが、一本、一本の長い葡萄棚に沿って横一列に並ぶと、トラックの荷台に立ったジョージが手を上げ作業開始の合図をした。
    ジョージの合図とともに老人たちとオレは、全員がプールに飛び込むように腰を曲げ、垂れ下がった葡萄の蔓を両手で抱え上げ、棚の反対側へひっくり返しながら前進を始めた。
    老人たちの作業は荒っぽいが、テキパキとして速かった。初日のオレは葡萄の実が落ちないかと気にしながら作業するので時間がかかり、老人たちに遅れ、がだんだん距離は開いていった。
    しかし、成熟遅れの葡萄の実は硬く荒っぽく取り扱っても房から外れ、落ちなかった。
    作業慣れしている老人たちは葡萄棚に沿って、作業しながら大声で陽気に冗談を言い合いながら前へ前へと進んでいった。
    葡萄畑は夜間スプリンクラーで撒いた水をたっぷり吸い込んでおり、足元は泥沼状態になっていた。葡萄の蔓を抱え、棚の向こう側へひっくり返そうと力を込めると、足がすべり勢い余って一抱えの蔓と共に何度もひっくり返り、すぐシャツもジンズも泥に染まった。おまけに、ひっくり返るたびに、勢いで蔓まで引きちぎること限りナシだった。
    一時間もこの作業をしていると、腰がだるくなり、手も上がらなくなるほど肩が疲れ、老人たちとの距離はますます開いていった。
    250930081_4480544998702760_7057029324825838970_n

    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (10)
    葡萄畑の温度はゆうに40度を越していた。炎天下の作業は体力の消耗が激しく、意識はもうろうとして鼻血まで出てきた。オレはただ機械的に手を動かしていたが、作業している感覚はもうなかった。ジョージはオレたちの作業スピードが落ちたのを見逃すはずはなく、いつの間にかトラックから降りて、
    「サボルナ!」と、妙な日本語で怒鳴ったが、老人たちはいつものことだと意にも介していなかった。
    サングラスをかけたジョージは、トラックの荷台で飲み物を手に、フラフラになって作業しているオレたちの姿を楽しむかのように監視していた。その姿は、まるで映画に出てくる南部の綿摘み黒人奴隷をこき使う白人のように思え憎たらしかった。
    夕方4時、トラックの荷台からジョージの右手が挙がり、やっと朝7時からの作業が終わった。
    炎天下の長い一日の作業を終え、疲れ切った囚人か奴隷のように我われは再びトラックに乗せられ、掘っ建て小屋へ連れ戻された。この時のうれしさはたとえようもなかった。金銭的に働く必要がなければ、直ぐにでも逃げ出したい気持だった。
    粗末な小屋に寝泊まりし、トラックで葡萄畑に運ばれ、作業中もジョージに監視される生活は経験はないが、まるでナチス・ドイツの強制収容所に入れられたユダヤ人か、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」に登場する中西部の貧しい農民のような気分だった。人間、多少なりともお金がないと奴隷扱いされる生活もあると知った。
    オンボロ小屋に戻り、疲れ切った体を倒れ込むようにベッドに横たえると、長袖を着ていたが、一日中熱い太陽の下で働き、体中水ぶくれの火傷を負い耐えられないほど痛かった。
    身動き一つせずベッドに寝ていた同室の老人が、両手にビールの入った缶を持ってヨロヨロとオレのベッドに近づいて来て、
    「ドリンク、ドリンク」と、ビールを勧めてくれた。
    この老人は朝鮮半島出身で日本語は少ししか理解できないと言った。
    彼は足に包帯を巻き、立っているのが辛そうで、見るからに痛々しかったが、毎朝、目覚まし時計の代わりに、疲れ切って起きないオレを起こしてくれ、そして、葡萄畑から帰って来ると、ビールをくれる親切な老人だった。
    彼の包帯姿は一週間ほど前、小屋の入口にある段差を踏み外して怪我したと、照れくさそうに歯のない口で小さく笑った。
    オレはこの老人が、何故、ここにいるのかと不思議に思い尋ねてみた。彼の話によると子どもの頃、家が貧しく、知り合いの同国人に連れられアメリカに密入国し、それ以後、移民局に捕まるのを恐れる中、季節労働者としてカリフォルニア中の農家を季節労働者として転々としてきたと言った。
    だから年金手続きもせず、100ドルほどの年金ももらえず、72歳になったその頃も、カリフォルニア特産であるレタス、イチゴ、葡萄といった作物の植え付けや収穫の季節労働者として農園や農家を回っていると寂しそうに語った。
    足を痛めてからは、この数日は寝たり起きたりだが、痩せてはいるがまだ元気で、週に三日はこの葡萄農園で働いていると、痛めた足を軽くさすりながら言った。
    夏時間のカリフォルニアは、午後8時を過ぎても外は明るく、暑い夏の夜だった。日系三世であるサムの娘たち三人は夕食後、事務所前の大樹の下で臨時の売店を開き、年老いた働者相手にビールやコカ・コーラ、タバコなどを売り始めた。
    夕食を済ませた老人たちは、夕涼みを兼ねて売店を囲むように集まり、買ったビールを飲みながら、日本語交じりの英語で彼女たちと雑談して楽しむのが日課だった。
    彼女たちは同じ日本人の血が流れているがヤンキー娘のように活発で、屈託がなかった。英語の話せないオレは、彼女たちの振舞いに圧倒され、彼女たちの働きぶりを呆気にとられ眺めているだけだった。
    彼女たちは、愛嬌を振りまきながら、
    「ビアー?コーク?」と、声高らかに、アイス・ボックスからビールやコカ・コーラを元気よく取りだし、オレにも買えと笑顔で迫ってきた。
    オレは15セントでビールの小瓶を買い、老人たちの中に入った。
    「ユー、ようこんな暑いところへ来たな。今日、来たんじゃったかな、いや昨日じゃったな、まあ、そんなことはどうでもエエ、さあ、飲め、飲め」と、老人たちは誰彼となく、オレにビールを勧めてくれた。
    「ここには若い人来んのですか?」と、ビールを飲みながら聞くと、
    「ヤングメンはめったに来んな。ユーみたいな変わり者しか来んよハハハッ」と、笑った。
    最近は暑い葡萄畑の作業は敬遠され、若者はほとんど来ないと、老人たちは若いオレに誰彼となく話しかけてきて、ビールを勧めてくれた。
    彼らのほとんどは大正の末期から昭和の初期、移民船で南米諸国へ行く途中、アメリカへ密入国した人たちで、画用紙を折り畳んだような古い旅券を大事に持っていた。
    酔いが回ると、老人たちは大を張り上げ、古い日本の歌を歌い、若い時白人男性と喧嘩して勝ったとか、ギャンブルで大金を儲けたとか、呑屋の白人女性にもてた自慢話をオレにしてきたが、その表情には何か寂しさが漂っていた。
    オレは同室の朝鮮半島出身老人をはじめ、ここの老人たちはどんな人生を歩んできたのだろうかと、彼らが歩んできた人生に興味が湧いてきた。
    この老人たち、節労働者は身の回り品と寝る時必要な毛布(ブランケット)を持って農園から農園へ、作物の植え付けや収穫期に合わせてカリフォルニア中の農家を一年中移動しながら生活していたので、雇い主であるサムやジョージは陰では「ブランケット」とニックネームで呼んでいた。
    葡萄の枝葉を棚上げする作業や、葡萄の余分な枝葉を切り落として棚に括り付けるなど一貫性のない作業の日々だった。
    一週間が経った土曜日の朝、最初の週給日だった。事務所でミセス・Kから23ドルちょっとのチェックで週給が支払われた。食事代、税金などが引かれ予想していた金額の半分に愕然とした。
    週休二日制のアメリカでも夏の葡萄収穫時は、土曜日も働くと聴いていたが葡萄の成熟が遅れ、その日は無給の休暇となった。稼ぐためには、嫌なジョージの監視の下、猛暑の葡萄畑で働く方が良いと思ったのは自分でも意外だった。(つづく)

    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki


    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]




    【1968年のバイク世界一周 ⑥~⑩ 【大迫嘉昭】】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』のライダーの実話
    99140931_2650092705237236_8191950114760163328_n (2)
    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

    56485550_2180931441997472_6293773358194491392_n

    Oldies’60s,&
    My Hardies in California
    私の二十代
    (5)
    入国審査場で審査官に求めに従い入学許可書、伝染病の結核を患っていないことを証明するA3サイ図の胸のレントゲン写真、それにパスポートを提出すると、
    「たった100ドルしか持っていないのか?」と、
    白人入国審査官は、パスポートの最後の頁に記載された、日本銀行の外貨額持ち出し許可額とオレの顔をまじまじと見た。
    ほんの20年前、日本との戦争に勝った国、アメリカ人に英語で話した経験もなく、命の綱である百ドルの所持金、それに片道切符ではアメリカへの入国拒否、即、強制送還されるのではないかと不安と恐怖で心臓はパクパクと波打ち、パニック状態に陥った。
    「現金を持っていると危険だから、後で父が送金してくれる」と、とっさに知っている限りの単語を必死に並べ、何とか無事入国管理所を通過し、流れ出る額の汗を拭きながら、空港ターミナルビルの外へ出た。
    すると、そこには映画で見たことのある、美しく着飾ったポリネシア系美人のフラダンサーが数人、微笑みながら空港から出てくる乗客一人ひとりの首に、ハワイの綺麗な花で作ったレイをかけていた。
    彼女たちは、オレにもかけようとしたが、所持金100ドルしか所持金のないオレは、情けないことに代金を取られるものと勘違いし、彼女たちが親切にオレの首にかけようとしたその綺麗なレイを断った。それはハワイを訪れた人を歓迎するタダだったのだのだが・・・・・・。
    英語の話せないオレは、出発前、渡航客のビザ取得の仕事で顔馴染みになっていた神戸アメリカ領事館のスタッフから得ていた情報で、ホノルルでは日系人経営の「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。
    空港から「コバヤシ・ホテル」へ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行った経験があると言った。
    それを聴いた途端、子供の頃、神戸の街角を派手な化粧、ファッションの日本人女性を連れ歩いていた戦勝国、アメリカの進駐軍兵士が、今アロハ・シャツを着て運転するタクシーに敗戦国、日本の若造のオレが乗っていることに何か言い知れぬ違和感と畏れで緊張した。
    その上、彼の英語もほとんど理解できず、
    「オー、アイ・シー、オー、アイ・シー」と、私はわかったような生返事の連発で、ホテルに着くまで乗り心地は実によくなかった。
    タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した
    「コバヤシ・ホテル(現在のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで約4ドル50セントだった。
    ホテル代は一泊10ドル(3,600円)と高いのに驚いた。
    当時、日本の高級旅館が一泊二食付1,300円ほどだったので、手持ち100ドルしかなかったオレはこのホテルの宿泊代は今もはっきり覚えている。
    当時の一般日本人には、ホテルなどという気の利いた宿泊施設は無縁なものだった。ほとんどの日本人は旅館を利用していた。オレもホテル宿泊、ベッドなる寝具に寝るのも初めての経験で、ホテルの何もかもが珍しかった。
    風呂は日本のそれと違い、肩までどっぷり浸かることも出来ない狭く浅いタブで体を洗った垢が、タブから出ようとすると体中にこびりつき気持ち悪くかった。だから、今でも海外のホテルの風呂タブは嫌いである。
    部屋の見るもの使うものすべてが初めてで珍しく、記念にと、着替えもせずベッドに潜り込んでいる自分をセルフタイマー付(自動シャッター)のカメラで撮るなどしているうちに、時差と慣れない外国旅行の疲れで、そのまま眠り込んでしまった。(つづく)



    引用元:
    https://www.facebook.com/osako.yoshiaki

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に日本で最初に『バイクで世界一周』した最初のライダーの実話。








    56485550_2180931441997472_6293773358194491392_n



    26239495_965767110247179_5219327266813188829_n (2)

    大迫嘉昭(おおさこよしあき) 1939年 兵庫県神戸市生まれ 1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社 1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学 1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周 1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス) 1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務
    『Oldies’60s,&
    My Hardies in California
    私の二十代
    (2)
    駅のエスカレーターに乗るといつも思うが、あれは人の一生に似ている。電車を降り、ホームからエスカレーターに乗り改札階へ上る途中、何気なく後ろを振り返ると、いつの間にか多くの人がオレの後に列を作り続いて上がってくる。前を見上げるともう改札口の手前、降り口である。
    これは正に人生である。意識しようが、しまいが多くの人間が日々誕生しているのだ。エスカレーターを降りる瞬間、今まで意識することもなかった、自分の人生の終焉の近づきをふと感じる。
    人は年齢を重ね、終焉が近づくと、誰もが自分の人生はこれでよかったのだろうかと、一度や二度は思うときがあるはずである。
    命の賞味期限切れも近い自身の人生を振り返ってみると、人生の基礎は、若い時、それも二十代の生き様で決ったと思う。
    同窓会に行くと必ず一人や二人出世した奴がいる。「アイツは学生時代から成績が良かったからナ」と、妬みではなく、羨望の言葉が飛び交う内に、彼の家族のDNAにまで発展する。そして「やっぱりナ」と終結する。
    DNAで人生が決まるのであれば、オレは人生に希望も夢もなくなり、生きる意味もなかったと思う。人間は考える葦、知恵をも持ち合わせている。それを活かし生きる。それには人とは違う経験、努力、頭脳の使い方で自分なりの人生を模索できるのではないだろうか。
    それには読書も大切な要素である。本は自分にない他人のすばらしい知識や経験を安価な方法で学べる知的道具である。時には古本屋で安く手に入れた一冊が、高価な貴金属品や装束品など比較にできないほど、人生を決定づけるような影響を与えこともある。
    だからといって、水泳の本を読めば泳げるという保証はない。泳げるようになるには、死ぬ危険のある水の中へ飛び込む勇気が必要である。
    出版社は儲けるために内容は二の次、今、最も知名度のあるアイドルや芸能人や時の人が書いたものを優先的に出版する。出版社に売り込んだが、なしのつぶてである。生意気かも知れないがオレの経験が若い人の自己啓発のヒントになればと投稿を思い立った。
    人生で最も大切なことは、夢を持ち、それを叶えるためのと努力だと思う。努力は決して裏切らないが、後悔は、すべきことをしなかったことへの恐ろしい代償が待ち受けている。
    それに劣等感、人は劣等感という言葉を生きる上で否定的に受け止めるが、自分を活かす最も素晴らしい力でもある。人はそれを克服すために頑張る。頑張るという言葉は、困難なこと、しんどいことをするときに出る言葉で、楽しいことをしているときには出ない言葉である。
    年齢と共に人間みな体力は衰え、しわが増えるのを忘れず、知性をだけでも磨きたいと思っている。(つづく)』

    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki
    【1968年のバイク世界一周 ② 【大迫嘉昭】】の続きを読む

    このページのトップヘ