ぼっちゃんのブログ

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    タグ:バイク世界一周旅行

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
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    ※大迫さんが自費で世界一周したのは最初らしいですが証明するものはありません。
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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)

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    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務


    『Oldies’60s,& My Hardies in California
    私の二十代 (4)
    入社の翌年、1963年11月、日米宇宙中継テレビ実験放送が開始された。第一報は、米国大統領ケネディがテキサス州ダラスで暗殺されたニュースだった。 翌1964年の東京オリンピック開催、海外渡航自由化を控え、新幹線、高速道路、ホテル等の工事で日本中は活気に持ち溢れていた。工場の煙突から吐き出される黒煙や、活気よく走り回るトラックの排気ガスで建物は霞んで見え、健康を害する「公害」や「過労死」という言葉もなく、日本人は素晴らしい未来の到来を確信し一生懸命に働いていた。 中でも「海外渡航自由化」のニュースは、近い将来日本人が飛行機で世界へ旅する時代の到来を確信させ、オレの生き方を変えるニュースでもあった。 テレビは毎週日曜日の朝放映される、パン・アメリカン航空提供の「兼高かおる世界の旅」番組が大人気だった。 海外渡航自由化のニュースを知った時、 「そうや、これからは飛行機の時代や!人生は一回しかないんや!今のうちに英語を学び、将来は航空会社で働いたろ」と、 航空会社に就職するには必須の英語を学ぶためアメリカ留学を思い立った。米国留学など思いつかない時代だった。 オレは、人に頼りコネで就職したことが、一生消えることのない重い傷として心に残ることに耐えられなかった。そして、オレは自力で自信を持った人生を拓こうと決心した。 今の時代ならパスポートを取得すれば、誰でも簡単に海外旅行出来るが、「海外渡航自由化」といっても、海外留学は外務省の留学試験合格が条件だった。 顎(あご)足付き(国費)外務省留学試験は逆立ちしても、オレの能力では合格不可能だった。だが、自分で旅費、学資、生活費を工面して留学する私費留学試験なら、1%の合格の可能性がある。失敗を恐れずそれに立ち向かってやる。この気力がなくなれば、オレの人生はもう終わりとだと外務省私留学試験受験を決めた。 会社勤めの傍ら睡眠三時間で、私費留学試験へ向け猛勉強を始めた。試験の内容は英語だけと外務省大阪出張所で聞いていた。 睡眠不足は神戸からの通勤電車、神戸の領事館へ日に二回往復する電車の中で補った。 オレの人生で、こんなに必死に集中して勉強したのは、この時が最初であった。留学という目的があり、自分でも驚くほど勉強が面白く身に付いた。勉強は人に強制されてやるものではないと知ったのも、この時であった。 受験勉強と並行して、留学先のロサンゼルスの英語学の入学許可書(I-20)を取とる必要があった。外務省の留学試験に合格しても、このI-20がなければパスポートも米国ビザも申請できい時代だった。このI-20を入手するには英語で手紙を書かねばならず、英語のできないオレは非常にエネルギーと時間を費やした。 翌昭和39年4月、幸運にも私費留学試験に合格した。すると親は 定年まで安心して働ける会社を辞めることに猛反対した。 戦後、アメリカの「総天然色映画」(カラー映画)や人気テレビ・ドラマ「ルート66」に出てくる大きな車、広い芝生の庭、大型冷蔵庫、色鮮やかなペンキで塗られた大きな家、スクールバスでの通学、車に乗ったまま映画が観られるドライブ・イン・シアター、片側四車線も五車線もある高速道路、世界一豊かな国アメリカは、オレに限らず、当時の日本人にとって羨望と憧れの国であった。(つづく)』

    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki



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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話

    ※大迫さんが自費で世界一周したのは最初らしいですが証明するものはありません。

    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

    『「My Oldies in California & Around the world on motorcycle in 1968
    (人生は20代の生き方で決まる)
    (3)
    成績の悪いオレは中学生時代、担任教師から屈辱的な無視されるという耐え難いいじめにあった。それ以後、学生時代の学業に全く身が入らなくなった。
    当時の小中高の教師は一般社会外と切断された狭い教室の世界しか知らないのがほとんどで、日々の交流相手は同僚教師と社会を知らない子供たちだった。父兄からは先生と尊敬され、教科書から抜き取ったような、きれいごとしか言わない世間知らずの教師が多かった。今はモンスター・ピアレンツなる父兄もおり教師も少しは変わったと言われている。
    父は洋服仕立業を営み、オレたち5人兄弟の教育には熱心だった。成績の悪い長男のオレは大学を出ないと良い会社に入れないと、いつも口酸っぱく言われ、仕方なく自分の学力で入れる大学へやっと合格した。
    大学に入っても勉強する気は起らなかった。学校に行く振りして家は出るが、授業をさぼり駅近くのパチンコ屋へ入り浸り、閉店を知らせる「ホタルの光」の曲に追い出され帰路に就く日々が多かった。
    パチンコする金がない時は、当時、人気のあったファインティング原田の影響もあり、ボクシング・ジムへ行き時間つぶし、拳だけは鍛えていた。たまに試合に出ると顔面は腫れあがり、周りの者には又喧嘩したのかと皮肉を言われたが、喧嘩はしたことはなかった。
    ある日、ジムにヤクザまがいの奴が入ってきた。一周間ほど基礎練習と縄跳びをさせていたら、スパ―リングさせろと強硬に言うが、相手が相手なのでジムの練習生は皆丁寧に断っていた。あまりにもしつこいので「恨みっこなしですよ」と断って、オレはこれ幸いと大きなグローブでたたきのばしてやったら、翌日から来なくなった。その後、繁華街をうろついていると、その手の者が数人近づいて来たのでやばいと思い、逃げようとしたら、丁寧にあいさつされオレの方がびっくりした。
    大学の夏冬の休暇中は唯々、パチンコや遊ぶ金欲しさに、デパートや郵便局でバイトに精を出していたのが唯一の思い出のような生活だった。いや、ただ一度だけ、誰が誘ったか思い出せないが学友三人で、富士登山したことがあった。当時、五合目まではバスもなく徒歩で登った。六合目?で台風に会い、山小屋に丸二日間閉じ込められた。登山季節も終わっていたのか、今のように富士登山がブームでなかったのか泊り客もオレたちだけで、薄暗い山小屋の湿りっ気を含んだ布団の中で甲子園の高校野球の決勝戦を携帯ラジオ聴いていたのを思い出した。
    大学卒業近くになり、ゼミの教授に単位が足らず留年を告げられ、バナナ持参(当時バナナは高級高価な果物で、確か、一房約200円、今の価格に直すと約2,000円)で、教授宅前でオレを知っているヤツがいないかキョロキョロ周りを見て、さっと門を潜り、深々と畳に頭を擦りつけ、やっとお情けで卒業できた。
    1962(昭和37)年大学を卒業するも、就職も決まらず親父の知人のコネで、やっと大阪の旅行会社に就職、初任給は18,000円だった。入社すると、一流大学卒の同僚は先輩社員に同行し、得意先を回り営業を学んでいた。オレは業務渡航者のビザ申請書類を作成、日に二回、午前と午後、業務渡航者のビザの申請取得のため神戸の領事館へ行きと、業務渡航者の予防注射接種に検疫所まで連れて行くなど、営業課のサポート的雑用が主な仕事だった。
    同期の連中の希望に満ちた働きぶりを観ているうちに、実力ではなくコネで就職したことが劣等感となり苦しみ、こんな誰でもできる簡単な仕事を毎日していると、情けなく、虚しさ、屈辱感にさいなまれていった。将来に対する夢など全くない、何のため会社勤めしているかもわからず、入社一年目から絵にかいたような灰色の会社勤めであった。(つづく)』

    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki


    1968年のバイク世界一周 [電子書籍版]

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に日本で最初に『バイクで世界一周』した最初のライダーの実話。

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    2018年1月21日(撮影)
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    ツーショット写真
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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務


    本人の同意を得てFacebookより原文転載

    『予告編『私の二十代、My Oldies & Goodies 60s in California』 、
    海外のバイクライダーやその作家に「自費によるバイク世界一周した日本人最初のライダー」とおだてられ、1960年代の経験を[Horizons Unlimited Motorcycle・・・] に英語で連載した。すると信じられないほどの反響があり、国内ライダーからも日本語版の出版はしないのかと問合せを受けた。物書が生業でもない私は出版する気などサラサラないので、読んでくださる人がいるのなら、FaceBookでも書き涯があるので投稿することにした。 私は1960年代$100を懐に米国留学し、作家ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」の舞台になったカリフォルニアの葡萄畑やロサンゼルスの墓地で働いたこと、ガーディナのヘルパーしながら大学へ通ったこと、帰国して航空会社に就活するため出来るだけ多くの世界の名所旧跡を観て帰国した方が有利と考え、旅費と利便性を考慮しバイクで世界を観て回った経験を出版しようと少しずつ書き溜めていた。そんな1988年のある日、作家石川好氏が「ストロベリーロード」で大宅壮一ノンフィクション賞の受賞を知った。読んでみると時代も1960年代、場所も私の住んでいたロサンゼルス近郊ポモナと同じであった。違うのは「イチゴ畑と葡萄畑」だけだった。彼の受賞作品に比べ、私が書いたところで所詮二番煎じ、それに彼の文章のうまさに、売れないと出版をあきらめた。そして帰国から年金生活までの30数年間は人間社会の冒険の日々で、資金と暇さえあれば誰でもできるバイク世界一周のことなど思い出すこともなかった。5,6年前だっただろうか、以前書いていた原稿にバイク世界一周のことを加筆し、500部自費出版したら直ぐ無くなった。今、手元にはもう数冊しか残っていない。時代と共に米国留学生活も旅の形も変化し、簡単にできるようになった。これは1960年代の私の若き日の米国留学生活とバイク世界一周の生き様である。70年、80年、90年、そして21世紀になり米国留学経験者が私の時代と比較しながら、気楽に読んでもらえれば幸いである。私と同世代である元南海の村上雅則選手に刺激を受け野茂英雄選手、若い大谷翔平選手とアメリカで活躍しているのだから、私の経験がもう古いと思わないで参考になれば嬉しい。
    1963年,白黒テレビの日米中継実験の第一報は、米国大統領ケネディの暗殺ニュースだった。テレビはパンアメリカン航空提供「兼高かおる世界の旅」番組が人気の時代だった。翌1964年海外渡航自由化、ヴェトナム戦争、キング牧師の公民権運動、毛沢東の文化大革命、Beatles、ツイギーのミニスカート、ロバート・ケネディ葬儀を見るなどアメリカの激動したOldies60sである。その時代を知らない人には歴史であり、私には昨日の出来事のようで、人生で最もエキサイティングな歴史の時代をアメリカで過ごしたことは宝であり誇りである。内容は1960年代の日本人若者の独立独歩の生き様で、夢と希望を叶えるため、自分の人生、どう生きるか模索していた二十代の事実(ノンフィクション)であり、商品のフィクション小説よりもおもろいかも知れませんゾ。自己啓発のヒントになれば幸である。命の味覚期限切れも近い、風前の灯火の私は82才。夢のない奴には長く、ある者には短い、それが人生である。今は簡単に外国語を翻訳できるアプリもある。旅に出よう、それも若いうちに。あなたの人生を豊かにするためにも。
    地球の年齢45億年、人間の寿命、長くてたかが100年そこそこ、一日も無駄にしてはアキマヘンよ。
    乞うご期待。』
    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki

    1968年のバイク世界一周

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