ぼっちゃんのブログ

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    タグ:大迫嘉昭

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    旅立ち アメリカへ(1)
    バイクで海外を旅行した経験があるとい外国人たちとFBを通じ交流していたら、日本のライダーはなぜ英語で発信しないのだと聞かれたので、世界を駆け回る有名な日本人ライダー氏に発信されませんかと連絡したが、いくら待っても返事は来なかった。これはアカン、しゃあない、オレが日本代表?として、暇つぶしとボケ防止に少しでも役立つだろうと、忘れていた英語を思い出しながら、過去にバイクで世界旅行した経験を昨年、「Around the world in 1968 on Bike」のタイトルでFBで発信しはじめた。最初は忘れていた横文字作文も苦痛であったが、そのうちに少しは様になってきて楽しくなってきた。そして、世界の多くのバイク愛好者に好評を得た。その中で私を最も驚かせたのは、最初にバイクで世界一周したのは1912年、アメリカ人だそうであるが、当時は自動車産業の発達は欧米のみで、中近東、アジア、南米、アフリカなどにはガソリンスタンドはなく、ガソリンはスポンサー付きで中継地点まで輸送したので、スポンサーなしで世界一周したのは私が最初だと知らされた。もともと私はバイクの世界旅行など金と暇があれば誰でもできると思っていた。だから帰国以来、約50年間、私は日本人社会を生き抜く冒険の日々で、過去を振り返る余裕はなかった。やっと年金暇人になり、過去のバイク旅行の経験を英語で流していたら、今度は多くの人に日本語で流せという要望が多く寄せられ、またまた暇つぶしのネタが出来たと喜んで流した。せっかく読んで戴くのであれば、世界何十万キロ、何百ヵ国走破もいいが、そのバイク旅行の後をどう生きるかが大事であるから、1960年代アメリカでの私の生活や、出来事などの経験を織り交ぜて書かせていただく。面白くないかもしれないが、ご辛抱のほどを切に願う。人間には人の数だけ、生き方がある。その人間の寿命は長くて百年ぐらいだが、地球の年齢は45億年だそうだ。それに比べると人間の寿命など流れ星が右から左へ移動する一瞬の時間である。その一瞬をどう生きるか。子供のとき読んだ本の中にあった「一瞬の命」という言葉がいつも私の脳裏にへばり付いていた。今も・・・。私は学校時代、勉強は全くと言っていいほどしなかった。その結果。成績はいつも無残なものであった。教師というのは成績の良い生徒に対しては、エコ引きするが、成績の悪い生徒にはその反対であることが多い。教師は狭い学校という社会の中で「外」を知らなず、今はどうか知らないが、文部省認定の教科書に沿って生徒に教える教師であった。学生時代を通し、知識はあっても外の社会を知らない教師は常に私は馬鹿にされていた。私は五人兄弟の長男である。一般的には長男はおとなしく、まじめで、弟たちの模範というのが相場である。しかし、私は勉強もせずボクシングジムに通い、親にとってはできの悪い息子であった。しかし、弱い者の正義の味方であった。
     1962(昭和37)年大学卒業と同時に、旅行会社に就職した。大学でも成績が悪かった私は会社でも、二年間雑用だけが仕事だった。人生のすべては学校の成績で決まるのか。人間社会というものはそんなものか。それは私にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
    しかし、当時は就職すれば、定年まで無難に過ごすことが常識であった。まだ一般的には英語を話す人はまれな時代であった。「兼高かおるの世界の旅」や「海外渡航自由化近づく」のニュースに影響受けた私はアメリカ留学し英語を学び、日本経済の発展とともにこれから伸びる航空会社に就職し、人より良い生活をしてやろうという野望が芽生えた。会社を辞めるか、留学するか悩んだ末、アメリカ留学という「人生の途中下車」を選んだ。
    「後悔先に立たず」である。
    『続く』
    1968年のバイク世界一周
    旅立ち
    (2)
    戦後すぐ、アメリカの政治,経済、文化、教育、特に「総天然色映画」(カラー映画のことをそう呼んでいた)に影響されて育った私には、アメリカだけが唯一の「外国」であった。中学校の英語の教科書、「ジャック・アンド・ベティ」の挿絵にあった大きな車、広い芝生の庭、大型冷蔵庫、色鮮やかなペンキで塗られた大きな家、スクールバスでの通学、車に乗ったまま映画が観られるドライブ・イン・シアター、片側四車線も五車線もある高速道路、世界一豊かな国アメリカは、私だけでなく日本国民にとって羨望と憧れの国でもあった。私が留学を思い立った一九六三(昭和三十八)年、ケネディ大統領がダラスで暗殺された。当時、日本はまだ外貨不足で、外国へ行くには、その国に住んでいるスポンサーを探すか、外務省が実施する国費留学か私費留学、あるいは旅費、その他すべてを丸抱えしてくれるアメリカ政府実施のフルブライト留学試験に合格しなければ旅券は発行されなかった。だから、ごく普通に考えると、私を含め一般の日本人は外国へ行くことなど不可能な半鎖国状態であった。アメリカにスポンサーになってくれる知人も友人もいない、外務省の国費留学試験、米国政府のルブライト試験に合格できる私の確率は0だった。すべてを私費留学試験に託するしかなかった。私費留学は自分で旅費、学費、生活費など賄わなければなないので、政府丸抱えの留学よりは少しは簡単だろうと思い、新たな自分の人生を築くため、会社から帰ってから、睡眠時間はナポレオン並みに三時間に削り、試験に向け基礎から英語の猛勉強を始めた。必死だった。人間、勉強ほど強制されると嫌なものはないが、目的があれば勉強でも楽しくなり、自分でも驚くほど勉強の効率は上がった。翌年、幸運にも試験には合格したが、私の全財産は月給一万八千円から貯めた十万円だけだった。ちなみに私がアメリカへ出発した昭和39年の物価は、国鉄(JR)三宮・大阪間片道30円、新聞一部10円、週刊誌30円、コーヒー一杯30円だった。私は親の反対を押し切っての留学で、無理を言って航空運賃だけを援助してもらい、アメリカへ旅立った。
    一九六四(昭和三十九)年七月二日、敗戦から二十年、東京オリンピックを後三か月後に控えていた。日本の復興を世界にアピールするため東京、大阪は町全体のリホーム(工事)中だった。街全体を覆う埃で建物も太陽も霞んで見えていた。「公害」の言葉もなかった。大阪空港のターミナルビルもまだ進駐軍が使っていた「かまぼこ兵舎」を利用していた。ハイジャックなど考えられない時代で、「ハイジャック」という言葉もなかった。滑走路は入ろうと思えば誰でも簡単に入れるような金網のフェンスで囲まれ、離着機も少なく、私は7,8人しかいない乗客とともに駐機場(エプロン)を歩きながら見送り客とフェンス越しに話しながら機内へ入った。大阪空港からは海外便はまだなく、双発のプロペラ機DC3(29人乗り)で羽田へ、そこからJALのDC8ジエット機でホノルルへ飛び立った。
    写真説明
    伊丹空港:静かなもんであった。背景DC3機
    DC3:ルッツェルン博物館、スイス/2018年8月
    座席数:29席、巡航速度300㎞
    ケネディ暗殺犯人?オズワルド射殺される
    『続く』
    1968年のバイク世界一周
    初めての外国、ハワイ
    (3)
     当時、日本からアメリカ西海岸までの片道航空運賃は、確か十四万八千六百円、私の給料の約七カ月分だった。今の物価指数に比べると途方もなく高かった。CAもスチュワーデスと呼ばれ、足軽が大奥に仕える品格と威厳ある大奥女にサービスを受けるような恐れと緊張を感じた。飛行機に乗るのも外国に行くのも初めての私は胃が痛くなり、日本では全く食べたこともないような豪華な機内食も口に出来なかった。私が初めて足を踏み入れた外国、ハワイ、ホノルル。機内から滑走路へ降り、最初に空を見上げた。詩人高村光太郎の妻智恵子が詠った「東京には空がない」が浮かんだ。ホノルルには日本では見かけることのない青々とした空が広がっていた。1964年東京オリンピックと急速な経済発展を続ける工場の煙突から吐き出される排気ガスで周りの景色が霞んで見え、まだ「公害」という言葉もなかった日本。紺碧の海と空の色彩が素晴らしく健康的なハワイの風景に感動した。ハ発着機も少なく滑走路から二百メートル歩きターミナルビルへ行った。ビルは今とは比べものにならないほど小さく、乗客も少なく閑散としていた。建物の中にはエアコンもなかったが、ビーチから吹き付ける心地よい南国の乾いた風が、開けっぱなしの大きな窓を吹き抜け、寝不足の私を癒してくれた。入国検査で、当時、留学生には義務づけられていたA3サイズほどの大きなレントゲン写真とパスポートを提出すると、係官は、
    「Only $100?(たった百ドルか?)」と、当時はパスポートに記載された日本からの持ち出し外貨額と私の顔を同時に見て言った。白人に英語で話しかけられるのも初めての私は、たった百ドルの所持金ではアメリカに入国できず、即、強制送還されるのではないかと、一瞬、恐怖が襲った。当時、日本を含め後進国の外国人が禁止されている就労目的でアメリカへ入国し、それがばれ、強制送還というニュースが頻繁にあった。父が後で送金してくれると単語を並べ出まかせに言って、何とか無事、入国管理事務所を通過できた。
    英語が話せない私は、出発前、神戸のアメリカ領事館で教えてもらった日系人の経営する「コバヤシ・ホテル(Waikiki Grand Hotel)」に宿泊することに決めていた。空港からホテルへ向う白人のタクシー運転手は進駐軍として日本に行ったことがあると言った。子供の頃見た、あのカッコいい進駐軍の兵士が運転するタクシーに今、敗戦国、日本の若造の私が乗っていることが畏れ多い気分で、その上、彼の英語も理解できず、「YesとI see」の連発だけの私には乗り心地は決してよくはなかった。
    タクシー代は空港からホノルル動物園横、カパフル通りに面した「コバヤシ・ホテル(今のクイーン・カピオラ二・ホテル)」まで、チップ込みで四ドル五十セントだった。宿泊代は一泊十ドル。日本人のほとんどが旅館に泊まる時代、ホテルなど「帝国ホテル」の名前ぐらいしか知らなかった。ホテルに泊まるのも、ベッドに寝るのも初めての私は何もかもが珍しかったが、底の浅い風呂タブに無理に体を沈め、石鹸の泡や体のアカの中で洗うのには苦労した。今でもホテルの風呂タブは苦手である。一般論であるが、日本人は清潔好きで 
    風呂好きであるが、白人はおおむね手と足を洗うだけで平気である。ホテルのレストランで食事をするにしても、英語のメニューを見てもわからず、片言の日本語を話すウェイトレスに任せると、バラバラにレタス、チーズ、トマトなどを盛った皿と小さな餅を横に切ったようなパンをもってきた。それをどのようにして食べるもかもわからなかったので、彼女に教えてもらい、パンにはさみケチャップをかけて食べた。それが、今では当たり前のハンバーガーだった。支払いを済ませ出ようとすると「チップ」と言ってきた。いくら払うものかもわからないので今貰った釣銭をテーブルに並べると、薄笑いしながら、その中で一番大きなクウォーター(二十五セント)摘まみ上げポイっとエプロンのポッケットに入れた。
    写真
    DC8 150?席。

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    現在よりビーチの砂が多く広かった?
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    1968年のバイク世界一周
    ホノルル―サンフランシスコ―ロサンゼルス
    (4)
    今では想像できないが、すでにアメリカの学校は夏休みが始まっていた。しかし、ホテルは客も少なく、ロビーもガランとしていた。ワイキキビーチへアジア系の私がシャツに細いネクタイ、裾幅の広いズボン姿ででかけてみた。ビーチには白人観光客パラパラと海水浴を楽しんでいたが、私の服装は場違いの感じだった。恥ずかしくなり直ぐホテルへ戻った。
    その夜、ウェイトレスに勧められアラモアナ・ホテルの中庭へ、お化け屋敷でも見に出かけるように恐る恐る、観客は白人に囲まれフラダンスショーを見に行った。照明に照らされた青々とした芝生、椰子の木、満天に輝く星の元、色鮮やかなアロハ姿のミュージシャンが奏でるハワイヤン・ミュージックが響き渡り、一本、一ドル(三百六十円)のビールを飲みながら、日本人などほとんどが観たこともないフラダンスショーに誇らしさを少し感じながらの感動、感激の夜たった。ホノルルに一泊し、翌一九六四年七月三日、夜のサンフランシスコ行きの便まで大分時間があった。「金のないお上りさん」の私はホテルの前、歩道の段差に腰を下ろし、タバコを吸っていると、日系二世らしきタクシードライバーが観光しないかと声をかけてきた。空港からのタクシー代、ホテル代、食事代などで私の所持金はすでに八十ドルほどになっていた。タクシードライバーは、日本が海外自由化になったので日本人観光客がドサッと訪れると期待しているがほとんど来ないと愚痴っていた。日本の平均年収(月収ではない)が三十万円($833)ほどの時代、ハワイ一週間旅行費が四十万円($1,111)以上だった。ホノルルからUAでサンフランシスコに飛んだ。上空からゴールデン・ゲート・ブリッジを見たとき意味もなく、「楽しい留学生活」が待ち構えていると心が弾んだ。シスコではその種の男が多く泊まることも知らずYMCAに泊まった。ケーブルカーの運賃は十セントだった。今は$10だそうだ。翌朝、サンフランシスコから乾いた大地の広がるカルフォルニアの上空をルート99に沿ってロサンゼルスへ飛んだ。行った。留学や海外旅行のガイドブックもない時代で、日本人留学生は「リトル・東京」で「皿洗い」し生活費や授業料を稼ぐと、何かで読んだことがあった。英語の話せない私は、日本人町へ行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかると思い、空港からバスで日本人町へ向かった。四車線,五車線もある広いフリーウエイを忙しそうに走り過ぎる車を窓から眺めていると、パリッとした身なりで自信にみなぎったアメリカ人が、大きな車にたった一人しか乗っていなかった。二人、三人と乗った車などほとんど走っていなかった。まだ、日本では車が普及していなかったので、一人しか乗っていないことが驚きだった。バスから望むロサンゼルスは見渡す限り平坦で、芝生の裏庭と前庭、そして色鮮やかな花に囲まれた住宅が続き、フリーウエイを猛スピードで走り抜ける無数の車を見て、アメリカの豊かさと巨大なエネルギーが肌に伝わってきて、アメリカに来た実感が込み上げてきた。
      日本人町に着くと日系人の経営する「パシフィック・ホテル」へ行った。そのホテルはペンキの剥げた薄茶色の三階建で、建物の外には時代物の赤錆びた鉄製の非常階段があった。中は薄暗く、狭いロビーには骨董品のような古いソファーとテーブルが並び、よれよれの背広を着た数人の日系老人たちが新聞を読んだり、将棋を指したりしていた。
    「ワンナイト(一泊)四エン、ウィーキ(週)で二十エンじゃよ」
    将棋盤を囲んでいた日系老人がカウンターへ回り込みながら言った。彼はこのホテルの
    オーナーであった。突然、「ドル」を「エン(円)」、「ウィーク(週)」を「ウィーキ」と言ったので、呆気にとられた。途中ハワイで一泊したので、手元には七十ドルほどしか残っておらず心細く、ひとまず一泊だけにした。
    「続く」
    写真:
    ゴールデン・ゲート・ブリッジ通行料は25セントだったが…
    今は?
    ケーブルカーは10セントだった。今は$10とか・・・。
    右端ターミナルビルは当時21世紀(1960年代)のターミナル的と有名なデザインだったが・・・・・。
    Tony VennettI の「I left my passport? in SFC」が流行っていた。



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    1968年のバイク世界一周
    デラノ、カリフォルニア
    葡萄農家でのバイト
    (5)
     一泊四ドルの部屋はスプリングの利かない年代物のベッド、止めてもポタポタと水が滴り落ちるシャワー、長年の使用で変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけだった。アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いホテルで、「発展途上国」日本からの客かロビーで将棋を指している失業者のような老人たちが泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しい年代物のホテルだった。
    三階の部屋からは筋向いに東京銀行、その右手に住友銀行ロサンゼルス支店、日系人の経営する「ニューヨーク・ホテル」、左側に「大阪屋」、「三井大洋堂」、「宮武写真館」、「東京會舘」等、英語と日本語の看板を掲げた店が望めた。その町並みは、当時さえ、すでに日本ではお目にかかれない大正時代か、昭和初期のセピア色の懐かしい風景だった。
     日本人町は数分で通り抜けられるほど小さな一画であった。市役所はどこでも市の中心にあ
    る。ロサンゼルスにしても同じである。だが、市役所から百五十メートルほども離れていないところに、貧相なその日本人町がること自体不思議であった。日本では一流企業で、一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残されたような日本人町の古びた建物で営業しているのを見て、戦勝国アメリカと敗戦国日本の力の差を象徴しており、寂しい感じがしたが、ホテルの入口でボロの衣類をまとった白人の年老いたバアさんが小銭をくれと空き缶を差し出してきたときは、世界一豊かな国アメリカにも乞食がいるのかと矛盾と強烈なショックを受けた。広さ百メートル四方ほどの日本人町(リトル東京)には小さなレストランが四、五軒しかなく、どこのレストランも「皿粗い」など応募していなかった。私は読んだ本の情報に早とちりしたのである。私は「皿洗い」バイト探しに腹がすき、日本人町のレストランに入った。カウンターに座ると、隣に座っていた中年の日系人が「ジャパンから来たのか」と声をかけてきた。私の身なりですぐ日本から来たことが分かったようだ。私が活費や授業料を稼がねばならない事情を話すと「デラノの葡萄畑で、夏の二カ月働けば七百ドル(二十五万円)ぐらいは稼げる」と言った。彼は過去にその葡萄畑で働いたことがあったそうだ。仕事は葡萄の房をハサミで切り取り箱詰めする出来高制だと言った。彼は「行くか?暑いところだゾ」と言った。私は働き稼げるならどんな仕事でも良いと思い「行きます」と言うと、胸ポッケとから手帳を取り出し、葡萄農家の電話番号を書き私にくれた。
    デラノはロサンゼルスの北約三百キロ、中部カリフォルニアにあり、その一帯は葡萄農園が多く、農園は夏の葡萄出荷時になると猫の手も借りたいほど忙しいが、厳しい暑さの中での葡萄摘みに人手が集まらず、労働者確保に苦労していると言った。翌日、ダウンタウンのグレイハウンド・バスのターミナルからサンフランシスコ行きのバスに乗りデラノへ向かった。
    バスはハイウエイ・ルート九九を北へ二時間ほど走ると、ロサンゼルスの色鮮やかなペンキで塗られた家々や、草木が青々と生い茂った風景から、赤土の荒涼たる山々の風景に変わってきた。バスは長い一直線の緩やかな坂を下り降りベーカスフイルドの町を過ぎると葡萄畑が広がり、バスはデラノのバス・ターミナルに着いた。バスを降りた私は日系葡萄農家に迎えを頼む電話をして、バス・ターミナルの外の歩道に腰を下ろしタバコを吸いながら迎えを待った。四時を少し回っていたが、太陽は熱射を浴びせるように照りつけていた。周りを見渡すとデラノは南北に走る一本の広い道路沿いにガソリンスタンド、小さなレストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機械屋などがポツン、ポツンとある葡萄畑に囲まれたほんの数百メートルほどの小さな町であった。交通量も少なく、車は道路沿いの商店へ頭を斜めに向け駐車していた。それは映画「俺たちには明日はない」に出てくるような風景であった。 
     三十分ほど待っていると、小型トラックが止まり葡萄農家のミセス・Kが笑顔で降りてきた。四十代半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿のスラッとした健康的な女性であった。
     私を乗せた小型トラックはデラノの町を出ると、地平線まで広がる葡萄畑の農道を東へ二十分ほど走り、葡萄畑に囲まれた大きな平屋の前で止まった。平屋の前は広場になっており、そこには大樹が一本あった。車が着くと平屋からカーキー色の作業服を着た五十近い恰幅の良い男性がにこやかな顔で、英語混じりの日本語で私に握手を求め、事務所の中へ招き入れた。彼は葡萄農家のオーナー、サムであった。
    平屋はサム一家の母屋兼事務所になっていた。事務所では若い女性三人と作業服姿の中年日系人の男性が事務を執っていた。サムは事務を執っている人たちを私に紹介した。三人の女性はサムの娘、そして日系人ジョージはそこで働く労働者のファーマン(監督)であった。
    写真説明:
    Delano葡萄畑

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    Delanoへ行く途中 Route99 Bakersfield
    LA (ロサンゼルス市役所)City Hall


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    (続く)



    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々 (その1)
    (6)
    日本人町で「皿洗い」のバイトを見つけられなかった私は、デラノへ葡萄摘のバイトをしに行った。しかし、葡萄農家の主人サムが今年は葡萄の収穫期が遅れているので、二週間ほど葡萄棚の手入れの作業をしてもらうと説明しながら契約の話を始めた。時間給は「一エン十五セン」と、彼もドルやセントのことを「エン(円)」とか「セン(銭)」と言った。
    ロサンゼルスで会った日系人の話では、仕事は葡萄を摘み、箱詰する出来高制(ピース・ワーク)だから、夏休み中働けば日本の年収に匹敵する七百ドル(二十五万二千円)は稼げると、聞いていたのでサムの話はショックだった。そのあとサムは私が寝泊まりする建物へ案内した。それは白ペンキがあっちこっち剥げ落ちた粗末な掘っ建て小屋であった。小屋の中にはスプリングの利かない古いベッドが八つほどあり、裸電球が二、三個ぶら下がり、埃をかぶった年代物の木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれのベッド脇に備え付けられていた。まるで映画で観たアウシュビッツの強制収容所のようで、惨めな気持ちになった。だが、日本では扇風機の普及率がやっと五十パーセントを超えた頃であったが、このオンボロ小屋でも騒音をまき散らす古いエアコンがあった。小屋の入口のドアや窓は、日本では見たこともない網戸付二重ドアになっていた。なるほど、これなら蚊取り線香も蠅取り紙も必要ない。やっぱりここは「アメリカ」だと感心した。ここには、同じようなオンボロ小屋が二十棟ほど軒を並べていた。葡萄の集荷時期には葡萄摘みの日系人労働者が百人以上も寝泊まりするのだと、サムは自慢そうに話した。シャワーとトイレは寝泊まりする小屋の隣の棟にあった。囲いのないシャワーとトイレが十ほど平行に並び、便器に座り隣の者と話たり、前でシャワーを浴びている奴を見ながら糞を垂れる代物だった。
     「カン、カン、カン」と、朝五時、鉄板を叩く金属音が音で日々のスケジュールは始まった。ツバの広い麻製のバッカン帽をかぶり、ジーンズに作業用の革靴を履き食堂へ向う。カリフォルニアはデイライト・セイビング・タイム(夏時間)の季節で、五時はスタンダード・タイム(冬時間)なら四時だ。外はまだ暗く、日本の晩秋のように寒かった。事務所の隣にある食堂はアメリカ映画に出てくる刑務所のように、ステンレス製の長いテーブルと長椅子が整然と並び、百人は座れるものであった。食堂には一見して六十を越えた日系人老人が十七,八人食事を取っていた。若者は一人もいなかった。食事を終えた老人たちは一日遅れで配達される日系新聞、「加州毎日」や「羅府新報」を読み、雑談をしていた。コックは三十を少し出たぐらいの静岡出身の男性で、その奥さんが賄いをしていた。
     食事を取っていると老人たちが、威勢の良い声で私に挨拶の言葉をかけてきた。朝食はスクランブルエッグ,ハム,ベーコン,トースト,コーヒー、オレンジ・ジュース、ミルク、メロンと食べ放題で、日本では食べたこともない豪華なものばかりであった。
    再び「カン、カン、カン」と鉄管の音が響き、葡萄畑へ出発であった。事務所前には監督ジョージの運転するトラックの荷台に全員、といっても、老人が十七、八人と私だけでだが乗り込むと、トラックの前に集まると、トラックは広い敷地を出て、葡萄畑の広がる農道をもうもうと砂塵を上げ東へ向かって猛スピードで走り出した。トラックの荷台は夜明け前の風をもろに受け歯が合わないほど寒く、震えが止まらなかった。葡萄畑の遙か地平線に太陽が昇り始め、月はぼんやりと白く、鮮やかな赤色に染まったセコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が東に小さく輝いていた。トラックがその日の作業場に停まった。葡萄棚の葉の陰になっている葡萄の房に太陽と風を当てるため、垂れ下がった葡萄の蔓を抱え棚の反対側にひっくり返す作業だ。
    老人たちの作業は荒っぽいが、テキパキとして速かった。作業に慣れている老人たちは横並びで機械的に作業しながら、大声で陽気に冗談を言い合いながら前へ前へと進んでいった。葡萄畑は夜間たっぷり水を撒いてあり、足元は泥んこになっていた。葡萄の蔓を抱え、棚の向こう側へひっくり返そうと力を込めると、足がすべり勢い余って一抱えの蔓と共にひっくり返りシャツもジーンズも泥だらけになり、その上に蔓まで引きちぎってしまうことが度々であった。一時間もこの作業をしていると腰がだるくなり、手も挙がらなくなるほど肩が疲れた。ジョージはトラックの荷台に立ち我々の作業の進行状態を監視し、時々大声でどなった。
     太陽が上がるにつれ、葡萄畑に撒かれた水が蒸発し始めた。朝の寒さが嘘のように蒸し暑くなり額からは汗がひっきりなしに滴れ、眼鏡が曇りずれ落ち、作業は遅れる一方だった。空は雲一つなく晴れ渡っていたが、葡萄畑全体から蒸発する水蒸気で太陽も霞み、景色は白く揺れていた。時間の経過と共に太陽は輝きを増し、全てのものをジワジワと焼き尽くすかと思われるほど暑くなった。暑さに堪りかねて葡萄棚の下に日陰を求めて潜り込むと、葡萄畑にしみ込んだ水は湯気を噴き上げ蒸せるように暑く、棚の下から外へ飛び出すと葡萄棚の陰よりは、一瞬、涼しく感じられた。水の蒸発でマッチもタバコも湿って吸えず投げ捨ててしまった。私が立ち止まっていると、いつの間にかジョージはトラックを移動させ、近くの畦道から監視していた。粗末な小屋に寝泊まりし、トラックで葡萄畑に運ばれ、作業中もジョージに監視される私は、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」に登場する貧しい農民のような惨めな気分であった。
    (続く)
    写真:
    このトラックで葡萄畑の行き帰り運ばれた。
    夕飯前、小屋の前で、15セントのビールで老人たちと一服。
    1968年のバイク世界一周
    葡萄畑の日々(その2)
    (7)
    この一年間、留学試験を目指し、睡眠時間を削って勉強していた私は体力がなかった。葡萄畑はギラギラと照り輝く太陽に晒され、下からは前の晩まかれたスプリンクラーの水が蒸し風呂のように熱気で蒸され、慣れない仕事に気力もなくなり目眩がした。喉が渇いても水飲み場は百メートルほど先にあり、腰を屈め幾つもの葡萄棚の下を潜り抜け、そこまで行くだけで疲れた。さすがに、この暑さはベテランの老人たちにも応えるらしく、朝は元気だった賑やかなおしゃべりもいつの間にか聞こえなくなった。
     昼飯が終わり、午後からの作業が始まった。白く輝く太陽は頭上に留まり、熱射を浴びせ続けていた。ベテランの老人たちも疲れたのか、作業のスピードがガックンとた落ち、                                            
    葡萄畑の温度はゆうに四十度を越していた。炎天下の作業は体力の消耗が激しく、意識はもうろうとして鼻血まで出てきた。私はただ機械的に手を動かし、葡萄の房にかぶさっている葉をのけるだけであった。 
     四時、作業監督ジョージの手が挙がり、やっと朝七時からの作業が終わった。長い一日の作業を終え、疲れ切った囚人のように我々は再びトラックに乗せられ小屋へ連れ戻された。この時の嬉しさはたとえようもなく、稼ぐ必要がなければ、今すぐにでもこの葡萄農家から逃げ出したい気持ちで一杯だった。
     オンボロ小屋戻り,疲れ切った体を倒れこむようにベッドに横たえると、体中が火傷をしたように熱く痛かった。一週間ほど前、小屋の出入り口の階段を踏み外し、足に包帯を巻き、仕事に出ていないという、同室の老人が痩せて小枝のような手にビール缶を持って私に近づき、疲れ果てている私に飲めと勧めた。朝鮮半島出身だというこの老人は、片言の日本語しか話せなかったが、目覚まし時計代わりに私を起こしてくれたり、ビールをくれたりする親切な老人であった。
     この老人は若い時、アメリカに密入国、それ以後、移民官に捕まるのを恐れ、仕事場を転々としてきた。だから、百ドル前後の年金も貰えず、七十二歳になった今も、季節労働者としてカリフォルニアの農園から農園へ作物の植え付け収穫期に合わせてカリフォルニアのレタス、イチゴ、葡萄畑などを移動し、痩せてはいるが、まだ元気で週に三日はこの農園で働いていると言った。
     夏時間のカリフォルニアは八時を過ぎても外は明るく、事務所前ではサムの三人の娘たちが売店を開き、労働者相手にビールやコカ・コーラ、タバコなどを売っていた。
    年頃の彼女たちは賑やかに、大きな声で日系老人たち相手に呼び込みをしていた。夕食が済むと老人たちは夕涼みを兼ねて売店の周りに集まり、買ったビールを飲みながら、日本語混じりの英語で彼女たちと雑談して楽しむのが日課であった。
     彼女たちは同じ日本人の血が流れているのに、ヤンキー娘のようなに活発で、屈託がなかった。英語の話せない私は彼女たちの振舞いに圧倒された。私も十五セントの缶ビールを買い、老人たちの輪の中に入った。最近は暑い葡萄畑の作業は敬遠され、若者はほとんど来ないと、老人たちは若い私に誰彼となく話しかけてきた。彼らのほとんどは大正の末期から昭和の初期、移民先のペルーやメキシコの国々からアメリカへ密入国した人たちで、画用紙を折り畳んだような古い旅券を持っていた。酔いが回ると、老人たちは大声を張り上げ、古い日本の歌を歌い、にぎやかに取り留めもない会話をしていたが、その表情は何か寂しそうであった。この老人たちはどんな人生を歩んできたのだろうかと、彼らの人生に興味が湧いた。この老人たちのような節労働者は身の回り品と寝る時必要な毛布(ブランケット)を持って農園から農園へ、作物の植え付けや収穫期に合わせてカリフォルニアの農家を一年中移動しながら生活していたので、「ブランケット」と陰ではニックネームで呼ばれていた。
     作業は葡萄の枝葉を棚上げしたり、葡萄の余分な枝葉を切り落として棚に括り付けたりと一貫性のないものだった。一週間が経った朝、葡萄の実りが遅れ、作業はなく、最初の週給日だった。事務所でサムから二十三ドルちょっとのチェックで週給を受け取ったが食事代、税金などが引かれ予想していた金額の半分に愕然とした。夜になると老人たちは五十年型オンボロ車でデラノの町へ繰り出し、稼いだ金を酒や女に使い果たしていた。
    葡萄農家は陸の孤島であった。休日とはいえ、車がなければ動きが取れず、洗濯するか、季節労働者の老人たちと交流を図り、時間を潰さねばならなかった。洗濯は小屋の外にあるコンクリート製の古い流し台でした。日本ではホテルのような特別のところしか蛇口から湯は出ない頃であったが、アメリカではこのような農場でも大きな蛇口から惜しみなく出る湯に、アメリカの豊かさを感じた。老人たちは映りの悪いテレビで、秋の大統領選挙へ向けてのジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会の放送を聞きながら、将棋やカードをして暇をつぶしていた。小屋の外では木陰に椅子を持ち出し、老人たちがお互い散髪をしていた。私も老人たちと、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団した日本人初のメージャーリーガー村上雅則のことや十月の東京オリンピックに向け、今、急ピッチで競技場や高速道路の工事が進んでいることなどを話題に散髪してもらった。
    (続く)
    カリフォルニア中部、デラノ近辺はスタインベックの小説が映画「怒りの葡萄」や「エデンの東」の舞台にもなった所である。


    1968年のバイク世界一周
    Back to Los Angeles
    植村直己と同じ下宿屋?
    (8)
    私がこの葡萄農家に行った年は葡萄の実りが遅く、葡萄摘み労働者はおらず、六十を過ぎた葡萄棚の手入れ作業する日系人労働者が十五、六名だけだった。人生、人それぞれで、多くの彼らは、酒、バクチ、女の生活を続けた挙句、六十歳を過ぎたても季節労働者としてカリフォル二アの農家を転々としている季節労働だった。
    カリフォルニアの遅い夕闇が訪れると、乾燥した葡萄畑の夜空一杯に星が鮮やかに輝き始め、爽やかな風が何処からとなく現れ、炎暑が嘘のように一変した。
    葡萄農家の主、サムは夕食後、葡萄畑に水をまきに行くのが日課だった。その日、小屋の前で夕涼みしている私を見かけたサムは「行かないか」と声をかけてきた。暇な私は断る理由もないので彼の車に乗り込んだ。五分ほど走り、葡萄畑の一角にあるスプリンクラーを開け、水をまき始めた。水を撒く間、彼は両親が和歌山から持って来て植えたというイチジクを「便秘に効く」と美味しそうに食べながら、何気なく彼が抱えている悩みを始めた。その一つが年頃である三人の娘たちの結婚相手が見つからないことであった。民家もほとんどない広いカリフォルニアの農耕地帯、デラノで適齢期の日系人男性を見つけることは至難の業で、いたとしても若者は農業を嫌いサンフランシスコやロサンゼルスなどの都会へ逃げ出していると深刻そうであった。それに農家は人手不足で労働者の賃金は上昇、農家は経営の存続が危ぶまれていると言った。
     三週間が過ぎても葡萄の収穫は始まらなかった。ある日、食堂で日系新聞、「羅府新報」の求人欄に「ガーディナーのヘルパー(庭師の助手)求む。ヒガ・ボーディング」と、あった。私はロサンゼルスンのレストランで会った中年日系人が言った「ガーディナーのヘルパーは金になるがユーは経験がないから無理だ」と言ったことを思い出した。一か八かで、早速、私はロサンゼルスのボーディング(下宿屋)に電話を入れた。夏場は芝生の伸びが早く、ガーディナー(庭師)はヘルパー(助手)が必要であり、ヘルパーの賃金は一日十五ドルにはなるとボーディングの女主人は言った。そして、暑いデラノで働いた奴は根性があるので大丈夫だと付け加えた。
     何時、葡萄が熟れ出来高制の作業が始まるかわからない葡萄農家にいても、後一ヶ月しかない夏休み中に二百ドルも稼げないと思い、私はその下宿屋に入ることにした。サムに事情を話し、ロサンゼルスへ戻ることにした。
    デラノからロサンゼルスにもどり「ヒガ・ボーディング・ハウス」に下宿した。経営者は沖縄から移民したヒガ(比嘉)さんという六十過ぎの老夫婦であった。当時、ロサンゼルスには日系人が経営する下宿屋が数軒あった。日系人はそれを「ボーディング」と呼んでいた。
     ヒガ・ボーディングはベニス通りに面した下宿屋で新旧二棟あった。部屋代は新館が三食付きで月七十ドル、旧館は六十五ドルだった。私は旧館に下宿することにしたが、下宿代を払うとほとんど残っていなかった。
    この年の四月、日本は海外旅行が解禁になり、この下宿は「発展途上国」日本から来た四、五十人の客で繁盛していた。特に、夏場であり、庭師の助手の仕事を紹介してくれるので満室だった。
     ロサンゼルスの庭師は日系人の生業と決まっていた。彼らはロンモア(芝刈機)やホウキなど庭師の七つ道具を小型トラックに積み込み、一人で一軒一軒庭を手入れして回っていた。しかし夏は芝生の伸びが速く、芝生を刈るのに時間を食うので、彼らはヒガ・ボーディングの宿泊客を助手として雇っていた。
     住むところも仕事もない日本から来た者にとって、ヒガ・ボーディングは庭師の助手の仕事を簡単に見つけられる便利な場所である一方、庭師にとっては手軽に助手を調達できる職業斡旋所であった。海外渡航自由化になると、多くの若者たちが観光ビザでロサンゼルスに来て、着くとまずヒガ・ボーディングで荷を解いた。彼らの多くは賃金の高いアメリカで稼ぎ、その後、北米や南米旅行、あるいは世界一周旅行などを志す若者たちであったが、日本ではエリートのアメリカ駐在員も、生活費を切り詰めるため何人か下宿していた。
    下宿人は男性ばかりで、女性はミセス・ヒガと日系人の賄い婦数人だけであった。
    同じ頃、あの有名な冒険家、植村直己も、私と同じようにカリフォルニア中部,デラノ近辺の農園で働いたあと、このボーディングに下宿し、ガーディナーの助手をして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指して、フランスへ旅立ったと後年聞いたことがあるが、同じ下宿屋にいたのなら、顔ぐらい合わせたかもしれないが、当時、彼は有名人でなかったので記憶にはないが戦友だt自負している。庭師たちの朝は早かった。
    私はトラックからエンジン付きの重いロンモアをおろし、裏と表の広い庭の芝生刈りが主な仕事であった。私が芝刈りをしている間、ボスは庭木や花壇の手入れをした。
     芝刈りが終わると芝生の周りを整え、ホースで庭中の芝生やゴミを洗い流す。これで一軒終了である。庭師が一人だと一時間ぐらいかかるが、二人でやると三十分で終えられた。 
     しかし、庭師は私への支払いがあるので、日の長い夏場は普段より多くの客を取るために目いっぱいこき使われた。
    六十四年当時、アメリカの最低賃金は一時間一ドル五セント(三百七十八円)で、日本で稼ぐ一日のバイト料に匹敵した。アメリカ人の平均月収は五百ドル(十八万円)前後であったが、庭師は日本の平均年収七、八百ドル(約二十九万円)に相当する額をひと月で軽く稼いでいた。一方、助手のほうは日給制で、日本の十日分に匹敵する十五ドル(五千四百円)が相場であったが、二世の若者など見向きもしない三Kの仕事であった。
     ハリウッドの映画俳優の庭も手入れに行ったことがある。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付きの豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。
     昭和三十年代、人気テレビ映画「ローハイド」で老コック「ウイシュポン」を演じていた俳優宅にも行った。彼は役のような老人かと思っていたが実際は四十六歳で、二十七歳のワイフと六ヶ月の子供がいた。前年、昭和三十八年「ローハイド」で共演していたクリント・イーストウッドたちとテレビ局の招待で日本を訪れていた。彼は庭先で一緒に写真を撮り、ビールを飲ませてくれる気さくなオッサンだった。あの有名な歌手であり女優であるドリス・ディ宅にも行ったが、目が合っただけでタダのオバさんだった。
    日本を出てからたった二ヶ月の間の出来事だった。
    (続く)

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    写真:TV映画「ローハイド(Rawhide)」でClint Eastwoodと共演していたコック役Paul Bringar宅。ガ―ディナーナのヘルパ。
    下宿屋の駐車場:1964年8月

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    1968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その1)
    (9)
    八月末、庭師のヘルパーは終わった。私は九月になり州立の英語学校へ入学した。学校は車で十分程の距離であったが、車のない私は下宿屋からバスを乗り換え一時間のほどかかった。
    この英語学校は州立で、授業料は年間たったの一ドル(三百六十円)だった。授業は朝八時から午後二時までと、午後二時半から夜九時までの二部制だった。時間的にヘルパーの仕事は無理だが、私は生活費を稼がねばならなかった。私は授業を午前中に受けて、午後からバイトしようと目論んでいた。しかし、入学すると午後二時半から午後午後九時の授業に振り分けられた。夏の間、稼いだ四百ドルほどは五ヶ月分の下宿代にしかならず、私は学校に行くまでの午前中は、下宿の食堂で日系新聞「羅府新報」の求人欄を見るのが日課になった。だが求人広告も少なく、しかも午前中だけの仕事など皆無だった。英字新聞「ロサンゼルス・タイムス」の求人欄はベトナム戦争のため、軍事産業は人手不足でその種の広告は六、七ページもあったが、英語の話せない私は採用される可能性はないと、最初から諦めて見る気もしなかった。
     学校が始まり、仕事のない私は下宿屋の経営者、ミセス・ヒガに仕事を頼んでいた。
    ある日、ミセス・ヒガが、
    「ローズ・デール・セメタリィ(墓地)で午前中だけでも働ける人手が欲しいと言っているよ。墓だから、気持ち悪がって働き手がないらしいけど・・・。ユー、行ってみる?」と、申し訳なさそうに言った。
    墓であろうが何であろうが、私には午前中働ける仕事はありがたかった。さっそく下宿屋から歩いて数分のローズ・デール墓地へ出かけた。墓地は赤煉瓦の高い塀で囲まれ、入口から奥へアスファルト道路が細く枝分かれしていた。見渡す限り緑の芝生の中に大小の墓石が整然と並び、周囲には色鮮やかなハイビスカスが咲き誇っていた。高々と伸びたパームツリーの葉は爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて風にそよぎ、車の騒音も人影もなく静寂だけが支配する公園のような墓であった。
     事務所に行くと、七十過ぎの温厚そうな日系人が出迎えてくれた。墓地の葬儀一切は中年の白人三人が取り仕切り、武藤さんというこの日系老人は四百メートル四方ほどの墓地の芝刈りと清掃を契約で一手に引き受けていた。墓で働きたい者はいないらしく、即、採用された。時給は一ドル七十セント(¥612/日本の日給ほど)で悪くなかった。勤務時間は午前七時から午後四時までだが、学校があるなら十二時まででもよいと願ったり叶ったりの仕事だった。広い墓地の墓石と墓石の間を手押しの芝刈り機で刈るのが私の仕事であった。
     仕事仲間は四人だった。ひょうきん者の鈴木は三十五、六歳、日本から派遣された駐在員であったが、墓の草刈りのほうが給料はいいと会社を辞めた独身、ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)で、ベトナム戦争がエスカレートするにつれ、ドラフト(徴兵)されることを恐れ正業には就いていなかった。タマシロは口ひげを伸ばし、太ったメキシコ人のような風貌をしていたが、いつもニコニコして愛想の良い二児の父親であった。小柄でハンサムなナカソネは大学で法律を学んでおり、弁護士になるのが夢であった。
     タマシロとナカソネは沖縄から移民したペルー三世で、日本語はほとんどわからなかった。鈴木以外は私と同年代であった。
     朝出勤すると我々は事務所で雑談しながらコーヒーを飲み、小型トラックに草刈機を積込み、広い墓地の曲りくねった「墓道」を仕事場へ向かった。目的地に着くとトラックから芝刈り機を下ろして、墓石と墓石の間隔は約二メートルで、何百もの墓石が一直線に百メートルほど先までのびていた。全員が一列になった墓石の周りを刈りながら先へ先へと進み、一列終われば次の列へと移った。仕事は芝刈機を押したり引いたりするだけの単純作業であった。
     楽しみはコーヒー・ブレイク(休憩)であった。パーム・ツリーの木陰に全員が集まり、墓石に腰かけたりしてコーヒーやコカ・コーラ、ドーナツを飲んだり食ったりしながら、それぞれ思い思いに休憩を取った。
     戦前、日本人学校の教師だった武藤さんは、墓石に腰かけコーヒーを飲みながら、よく太平洋戦争のときの経験を話してくれた。私はコーヒーブレイクの時間に彼の話を聞くのが楽しみであった。戦争が勃発するとすぐ、彼は教師という理由だけでFBIに連行され、数日間スパイ容疑で厳しい取調べを受けた。その後、家財道具を二束三文で売り払い、人間としての人権まで踏みにじまれ、家族ともどもマンザナ収容所送りになった。マンザナは米本土に十ヵ所設けられた収容所のひとつで、中部カリフォルニア、シェラネバダ山麓の砂漠の真中にあった。夏は気温五十度を超えるときもあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付ける空っ風で非常に寒いという劣悪な環境にあった。そのうえ、粗末な造りの建物は床板の隙間から砂塵が部屋の中へ吹き込み、夜ベッドに入ると屋根の隙間から星がきれいに見えたもんだよと、懐かしそうに話してくれた。
     日本語はまったく話せないペルー生まれのタマシロであったが、歌謡曲を唄えばプロ並みにうまく、コーヒーブレイクのときには、大きな墓石の上であぐらを組み、「並木の~雨の~♪」と、昔の歌謡曲「東京の人」をよく歌っていた。ナカソネは休憩時間でも静かに教科書を広げていた。
    (続く)


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    1968年のバイク世界一周
    墓地で働く(その2)
    (10)
     墓地では、毎朝、当番制で、ほかの連中より先に薄暗く狭い事務所に来てコーヒーを沸かすことになっていた。皆、この当番がイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤなのではなく、その場所の環境が問題だった。事務所に隣接した作業場には板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が積み上げられ、
    その前には火葬用の焼却炉があった。そして、あとで身元確認するため、生ゴムで造られた火葬され身元不明人のデスマスクが事務所の壁に無造作にぶら下げられていた。生ゴムでできているとはいえ、十五、六個のデスマスクに囲まれ、見つめられているような場所で一人コーヒーを沸かすは、実に気味悪いものであった。時々、白人作業員が事務所前の火葬用焼却炉で火葬をしていた。彼は機械的に黙々と焼却炉の蓋を開け、小さなスコップで中から灰を地面に積み上げていた。火力が強く骨は貝殻を金槌で叩き潰したように小さな粒になっている灰を地面一杯に広げ、金歯を漁っていた。集めた金歯は白人作業員たちが空ビンに溜め、ある程度溜まるとったらバーナーで溶かし金塊にしてポーンショップ(質屋)で売っていた。また、葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った火葬用の雑な棺桶にホトケさんを移し替え、上等のものを葬儀屋に引き取らせ臨時収入にしていた。事務所の隣にある葬祭堂には遺体安置所があった。ときどき、カリフォルニア大の医学生という二十二、三歳の白人女性が中古車で来て、一体三十ドルで「死に化粧」のバイトをしていた。アメリカでは人生の最後だけは、白人も黒人も差別なく、霊柩車は同じ世界一の高級車、黒塗りのキャデラックのリムジンであった。日本と違うのは霊柩車のあとに続く車は昼間でもヘッドライトを点け、二台の白バイが先導し「天国までノン・ストップ」とばかり、赤信号でも止まらずに墓場へ直行する。埋葬のときに掘る穴は白人従業員がパワーシャベルで深さ六フィート(約一・八メートル)を掘ったあと、棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで底のほうを削って作ってた。ロサンゼルス一帯の地下には油脈が通っており、穴の底からジワジワと真っ黒な原油が滲み出てきて靴やシャツを汚しながら彼らは、この作業をやっていた。
     原油の滲み出る墓地に棺桶を埋葬すると棺桶の隙間からそれがしみ込み、ホトケさんが油まみれになるので、コンクリート製の棺桶に木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。墓地で働いていると、宗教に興味がない私でも、仏教の宗教観が自然に体にしみ込んでいることに初めて気づいた。年寄りたちが「ホトケさんが枕元にった」という恐い話や子供のころに見た幽霊映画、そして線香の煙とにおいが漂う薄暗い墓など、どれをとっても薄気味悪い霊の存在が無意識のうちに私の頭にインプットされていた。しかしアメリカでは、亡くなった人の霊がベッドの枕元に立ったとか、雨の夜、額に三角巾をつけたジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたなどという話は聞いたことはなかった。そのためだろうか、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても日本人のそれとまったく違い、薄気味悪いという感情はなかった。もっとも、アメリカの墓地は芝生の広々とした公園のような明るい雰囲気があり、墓場というよりはまさにメモリーパークとそのものであった。宗教の違いといえば仕事仲間のタマシロとナカソネはいつも墓石に向かって便所代わりに小便を飛ばしていたが・・・・・。
    葬儀は洋の東西を問わず厳粛なものである。毎日、埋葬や火葬、墓石に刻まれた故人の
    誕生から死までの歳月を見ていると、人間の一生なんて宇宙の星が瞬きする間に終わってしまうものだと思うようになった。そして「死んで花実が咲くものか」、「生きているうちが華」だという思いが強くなった。
     英語学校は一日も休むことを許されず、病欠の場合は診断書提出が義務付けられていた。学校は学生の出席率を移民局に報告する義務があり、移民局は出席率が悪い学生は認められている週二十一時間以上働いていると認定しビザの更新を認めず、学生は本国に帰らなければならなかった。当時、英語学校の生徒はメキシコ人が二百人近く、日本人留学生は男女二十四、五名いたが、中には留学生とは名ばかりで、豊かなアメリカで生活を希望し、永住権を取得するためアメリカ国籍の日系人や白人と結婚して学校を去る者が多かった。後年、事故でマスメディアの話題になった「ヨット・スクール」の校長もその英語学校で学んでいたような気がするが、同じクラスでなかったので話したことはなかった。
    教師は常にアメリカは世界一豊かで、自由の国であり、「コミュニズム(共産主義)」ほど恐ろしいものはないと、授業から横道に外れ長々と強調することが多かった。私はそれを聞きながら、これはある種の洗脳学校だと思ったが、強制送還されるのが怖いのと授業料が年間一ドルという安さに、教師の言うことを聴き良い子ぶっていた。学校が始まって、直ぐの一九六四年九月中旬、学校の日本人友人に誘われ彼の車でラスベガスへ行った。当時、私は。ラスベガスがどこにあるかも知らなかったが、何か怖い「博打場」ではないかとは思っていた。行くのを躊躇している私に友人は「おもろいところや。行こ、行こ」と言われ、砂漠の中を7時間ほどかけ二人でラスベガスへ行った。初めて見るラスベガスの煌(きら)びやかさに慄いていた私は、一歳年下の彼がする「ダイス」を引っ付き虫のように彼の横で見ていると、「あんたもやれや。あんたが横で見ているとやりにくいわ」と言うので、彼の賭け方を見よう見真似で同じ「ダイス」を始めたラ一時間もしないうちに、目の前にチップが目立つように積み上げられていった。「ダイス」台の周りの人々が騒がしくなってきた。「あんたヤバイで!止め、止め、換えて来たるわ」と彼が言ったが私は訳がわからなかった。彼がチップを現金に換えてきてくれた。その金額は千百ドル前後であった。当時の日本円で約三十九万,平均年収ほどの額、アメリカでも大金だった。彼が「止め」と言ったのは、強盗にやられ殺されるかもしれないと思ったからであった。
    それはギャンブルの賭け方も知らない素人の「ビギナーズ・ラック」であった。私はお礼に百ドルを彼に渡し、七百ドルぐらいの六気筒の中古車フォード・ファルコンを買い、プライバシーのない下宿屋を出て日系人の経営するアパートへ移った。
    (続く)

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    写真:墓地ラスベガスで勝ち買った中古車フォード・
    ファルコン、色は気に入ったが、よくバッテリーがあがる難儀な車だった。駐車場、エアコン、電話代、風呂すべて込み
    八畳二間?で$45であった。

    (1)~(10)

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]
    1968年のバイク世界一周【電子書籍】[ 大迫 嘉昭 ]


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    Osako Yoshiaki (大迫嘉昭)

    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (31)
    翌1968年6月8日朝、オレは悲劇的な死を遂げたロバート・ケネディの葬儀を見ておくべきだとニューヨーク市内へ向かった。
    オレはバイクを駐車場に置き、皮ジャン、皮ズボン姿のまま、群衆で大混雑の中をマンハッタン50丁目と5番街の角、葬儀が執り行われるセント・パトリック大聖堂へ行った。
    葬儀場の周りには多くの警官が、物々しく歩道から大通りへはみ出す群衆を汗だくで、歩道へ押し返しながら警備にあたっていた。
    車から次から次へと降りて、大聖堂へ入る著名人を近くで一目見ようと、群衆はゆっくりと大波のように動きだした。
    オレも群衆の波に飲み込まれ、自分の意思に関係なく大聖堂の近くまで押されて行き、ジョンソン大統領や後の大統領ニクソンなど、多くの著名人が教会の中へ入っていくのを近くで見ることができた。その時、一般日本人でこの葬儀を見たほかにいただろうか。
    葬儀の後、ロバート・ケネディの棺を乗せた黒塗りの車は、ゆっくりとオレの目の前を通り過ぎた。すると、突然あとに続く参列者の長い車の列が止り、群衆の中からざわめきが起り、警察や警備員たちが銃を持って走りだした。それは映画の一場面のような緊迫感あった。
    「ビルの屋上から狙撃があったらしい」という声を聴いたが、それが本当であったどうかはわからなかった。
    たまたま、オレの前に参列者の乗った黒塗りのリムジン車が止り、数人の警備員が駆け寄り、リムジンの周りを囲んだ。一瞬だったが、リムジンの中を覗くと、ダラスで暗殺されたケネディ大統領のジャクリーヌ夫人とその子供たちが乗っていた。10歳前後の男の子と女の子が後ろのシートでふざけ合っているようであった。そして、ジャクリーヌ夫人は子供たちに、静かにするようにとたしなめているように見えた。
    その男の子は1999年、飛行機事故で死んだケネディ・ジュニア、女の子は元米国の駐日大使キャロライン・ケネディであった。
    ロバート・ケネディの棺はセントラル駅から汽車でワシントンのアーリントン墓地へ搬送されたが、何百万人もの人が線路わきで見送り、数人がこの列車に接触して死亡する事故もあった。
    豪華客船で大西洋横断 ヨーロッパへ
    途中、連日雨に逢い、落雷事故にもあったが、小回りが利くバイクにまたがり、道幅の広いハイウエイのアメリカ大陸を旅するのも良いが、風景が日本と違い単調で、名所旧跡、観光地までの距離があまりにも長すぎる。その点日本は少し移動すれば、また違った名所旧跡観光地に出会える。バイク旅は車からの風景とは違う自然の解放感を全身で味わい、快適な宿泊モーテルや食事、ガソリン代も安く素晴らしい旅であったことも事実ではある。
    しかし、バイクで旅行している若者には一人も出逢わなかったし、観光地はどこも静かだった。そのことをレストランで会った車でドライブ旅行している老夫婦にそのことを話すと、アメリカはベトナム戦争中で若者はいつ徴兵されるかわからず、バイク旅行する気持ちなど起こらないのだろうと言った。
    米国大陸横断に掛かった費用は大まかに計算すると以下の
    とおりである。
    横断距離:約5,300km,バイク:Yamaha YM1 305cc(二気筒)30km?/Liter,
    Used Total Gas:49Gallon x $0.30=$14.70, Motel & Food @11 x 23 Days=$253,
    Bike Repair:$100TTL$367.70(¥132,372当時の平均日本の給料2・5か月分ぐらい?)。 
    1968年6月10日、4年間住んだアメリカを離れヨーロッパへ出発
    する日が来た。
    乗船するギリシャ客船が接岸しているピア62(だったと記憶している)へ出航の数時間前ピア(港)へ向かい、バイクが船に積み込まれるのを確認して乗船した。
    今思うのだが、オレの船賃はバイク込みだったのだろうか?
    乗船客はみなドレスアップしていた。オレだけが皮ジャンと皮ズボン姿で、周りの船員や船客の視線は感じていたが、旅行社の社長も服装については、何も言わなかったし、外国航路の客船に乗るのは初めてだったので、この不手際は仕方なかった。
    ボストン、リスボン、ナポリ経由アテネ行き客船はその夜出航した。
    どんな乗り物も料金によって、その快適さやサービスに格差があるが、飛行機や汽車は料金の高いファーストクラスやコンパートメントに乗っても、安全かどうかは事故が起こるまでわからない。
    その点、船は料金が安いほど船底に近い客室へ押し込まれ、事故による浸水や火事などが起きたら、運賃の安い船底に近い船室ほど危険の確率は高いことは間違いないので、気持ちのいいものではなかった。
    オレの部屋はエコノミークラスよりランクの高いツーリスト・クラスであったが、船底により近いところにあり、部屋の両サイドにベッド三段が備え付けてあり、夏休みを利用して旅行する子供ずれのポルトガル、イタリア、ギリシャ系のアメリカ人客で賑わっていた。
    日本人というかアジア人船客はオレ一人で何かと目立つ存在だった。
    ニューヨーク港を出港すると、すぐロビーに夕食のメニューと円形テーブルの指定席表が張り出された。食事はいつも同じテーブルの指定された席と決められていた。
    レストランの、どのテーブルは八人ほど座れる円形のもので、家族連れ、夫婦連れと指定されていたが、どういうわけか、オレは年老いた白人バアさんたちと同じテーブルに指定された。
    食事時間に席に着くと、ときおり愛想笑いし、話しかけてくるバアさんたちに囲まれ、ただ、黙々と運ばれてくる料理を口へ運ぶだけの味気ない場所だった。
    バアさんたちは何が楽しいのか、テーブルに着いてから食事が終わっても一時間以上しゃべりっぱなしであった。オレは十数分ほどで食べ終得ると後は手持無沙汰であった。客船では町のレストランのように、食べ終わると支払いをすませてサッサと出ていくわけにはいかない暗黙のルールがあるのか、飽き飽きするほど長い会話のあと、おもむろにタイミングを合わせたように、何となく席を立って食事は終るのであった。
    オレにとっては、この客船の食事時間は苦行以外の何物でもなかった。夕食時はドレスアップというか背広着用が義務付けられていたが、乗船初日はバッグに詰め込んだ、しわだらけの背広を着ての夕食になった。
    各テーブルには一人のウェイターが付き、朝昼晩と食事のたびに同じウェイターが食事を運んで来たり、食器を下げたりした。
    オレたちのテーブルを世話するウェイターは、五十過ぎのでっぷりした、気難しいブルドッグのような顔つきをしたギリシャ人だったが、おとなしい男だった。
    同席のバアさん連中は食事が終わっても、誰ひとりチップを置かないで出て行くので、オレは気を利かしたつもりで毎回、食事のたびにチップを皿の下に隠すように置いた。
    三日目ぐらいだっただろうか、いつものようにチップを置いて席を立とうとしたら、このウェイターがそっと私に近づき、
    「毎回、毎回、食事のたびにチップをもらうのはありがたいが、客船では下船どきに、まとめてチップを払うもんだョ」と耳元で静かにささやいた。
    その一声を聴いた途端、オレは顔から火が出るように、恥ずかしかったが、彼の眼は優しかった。
    (つづく)

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    オレの二十代
    (32)
    翌朝、オレを乗せたギリシャ客船はボストンに寄港のあと、リスボンへ向け出港した。ニューファンドランド島沖へ向け針路を航行じていることは、iPもない時代、数時間おきにロビーの掲示板に張り出される本客の現在地を示すチャートで知ることができた。
    航海は毎日、霧と小雨でデッキも野外プールも人影はなかった。
    航海中は知り合いになったヨーロッパを旅行するという五、六人の若いアメリカ人の男女と図書室ヨーロッパの地図を広げ、それぞれの旅行計画についてダベッたり、映画館で映画を観ながら居眠りして時間をつぶすしか手立てはなかった。
    オレはリスボンに着いたら地中海沿いに東へ走り、イタリアの南から船でエジプトへ渡り、ピラミッドを観たあとアフリカ大陸の北部サハラ砂漠を地中海沿いに西へ横断、これもまた映画で有名なアルジェのカスバを覗き、モロッコから再びヨーロッパへ渡り、北上するといった大雑把なものだった。
    毎日、映画のプログラムは変わったが「タイタニック」(タイタニックの映画はそれまで何本か制作されていた)だけは、さすが上映されなかった。
    夜は劇場で華やかなショーやダンスパーティが催され、カジノも開かれたが、リクルートスーツのような服では、場違いな格好で一度も出かけなかった。
    場違いといえば、毎日、時間さえあれば部屋で線香を焚き、お経を唱えている若い白人男性がいた。
    周りの者にはその様子が奇妙で、説明してくれと何度も求められが、オレでさえ知らないものをどう答えかもわからず、閉口した。
    独り者のオレには、この船旅はリスボンまでの単なる交通手段でしかなかった。
    ある日、高級船員に声を掛けられ、カフェに誘そわれた。そして、甲板に無造作に置かれ、雨風さらされたバイクを前に、
    「我社の客船でバイクで大西洋を渡る客は、あなたが最初です。良ければその目的を聞かせてほしい」と切り出した。
    オレも船の旅に退屈していたので、コーヒーを戴きながら、日本を出てから、それまでの経験やこれから世界一周するつもりだと質問に答えながら話した。
    すると驚いたことに、その夜、船長主催によるファースト、セカンド・クラスの乗船客数百人のパーティに招待され、船長に紹介され、その客たちを前に英語で、高級船員にした話を又、する羽目になった。その後、オレの話を聴いた船客の豪華な船室に、何度も招待されたが、それがオレには苦になり疲れた。
    それは、それとして、大西洋航路に限らず豪華客船の旅を楽しむには、豊かな年金生活している夫婦連れとか、恋人たち同士でないと独り者には味気ないものだと、つくづく思った。独り者のオレにはこの船旅はリスボンまでの単なる交通手段でしかなかった。
    リスボン、バイクはナポリへ
    6月18日、ニューヨにークを出港してから8日目の深夜2時、リスボン港に着いた。
    乗客は次から次へ下船し、出入国管理局の下船手続きは終わりかけていた。オレの順番が中々来ないので、ポルトガル入国事務官に下船事務を催促すると、机に一冊だけ残っているオレのパスポートを手に取り、ポルトガルのビザがないので下船できないと係官は事務的に言った。
    何ということだ、ニューヨークの旅行社で船を予約した時もポルトガルビザについて、何も言わなかったので、オレはビザの必要など思いもしなかった。
    雰囲気的に客船はもう出航の準備をしているのはわかった。オレはこのまま下船できず、次の寄港地イタリアのナポリまで、乗って行く羽目になるのではと焦りだした。そこへ、この客船のリスボン支社の社員が来たので、事情を話しながら、机に置かれたオレのパスポートを手に取り、気づかれないように気転を利かし、五ドル紙幣を旅券に挟み彼に渡すと、彼はテーブルに座っている係官に耳打ちした。
    「OKだ!すぐ降りろ。すぐ出航するぞ」と、彼はポルトガル訛りの英語でオレに下船を促した。
    オレはあわてていた。身の回り品が詰まったバッグを小脇に抱え大急ぎで、タラップのほうへ走りながら、後ろを振り返り、
    「オレのバイクは?」と、大声で彼に訊くと、
    「大丈夫だ。明日の朝、会社に来てくれ」と、彼は叫んだ。
    下船はできたが、見知らぬ土地で深夜である。どこに泊まっていいのかわからないので、先ほどの社員が下船してくるのを待ってB&B(民宿)とタクシーを手配してもらった。そのあと、一難去ってまた一難が起こることも知らず・・・・。
    「チン、チン、チン」と、心地よい音で私は目覚めた。
    ベッド脇の開き窓を開けると、サンフランシスコのように、向いの建物との間にはさまれた狭い石畳の坂道を、これも又、サンフランシスコのケーブルカーのように電車が下って行くのが目に入った。
    雲ひとつない紺碧の空、朝陽が向かいの建物のガラス窓に反射して、二階のオレの部屋へ射し込み、さわやかで気持ち良いリスボンの朝であった。
    昨夜は下船に手間取り、このB&Bに着いた途端、疲れが出て直ぐベッドに入った。オレの部屋は十畳ほどの広さで、きれいに手入れされた年代物のベッドとバスタブが備え付けられていた。
    手入れが行き届いた部屋の外には小さなテラスがあり、色鮮やかな花の小鉢が置かれていた。
    眼下には南欧風のスペイン瓦の街並が広がり、それを眺めながら、ベッドに用意されたコンチネンタル・ブレックファースト(朝食)を摂った。
    まるで映画の主人公のような優雅な気分であった。それに一泊朝食付きで3ドルという安さである。アメリカに比べると何という安さであろうか。思いもしなかった安さに最高の気分だった。
    身支度をしていると、船会社の若い社員が迎えに来た。バイクを引き取る手続きのため船会社へ出向いた。船会社に行くと事務所の奥から昨夜船にいた社員が出てきて、
    「バイクを下すのを忘れました」と、申し訳なさそうに言った。
    (つづく)
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    オレの二十代
    (33)リスボン ポルトガル、ナポリ イタリア
    翌朝、船会社に行くと「バイクを下すのを忘れました」と、申し訳なさそうに言った。
    ギリシャ客船は、今、オレのバイクを積んだままナポリへ航海中だと言った。オレは一瞬、自分の耳を疑った。昨夜、下船するとき確認したにもかかわらず、プロの船会社の社員が客のバイクを下すのを忘れたと言う。ヨーロッパ上陸第一日目から不測の事態がまた起こった。
    やれやれである。客船は二日後、ナポリに着くと言う。ヨーロッパに上陸した途端、計画などない旅であったが、ヨーロッパ上陸第一に目から昨夜のこともあり気分は良くなかった。
    船会社のリスボン責任者は、その客船はギリシャのアテネに寄港し、十日もすれば、再びニューヨークへ向かうためリスボンに寄港するので、それまで待つか、それともナポリまでバイクを引き取りに行くかと、申し訳なさそうに言った。
    二、三日ならリスボン観光を楽しめるので異存はないが、十日はあまりにも長すぎる。仕方がないのでナポリまで取に行くからと飛行機代を請求すると、ギリシャにある本社の承認がないと出せないと言う。電話一本で解決できそうな問題であるが、簡単に行かないようなことを言った。
    本社の承認を取るのに時間がかかりそうな雰囲気であった。上司に言われたのであろうか、オレをB&Bに迎えに来た若い社員が本社から連絡あるまで市内観光に行かないかと誘ってくれた。
    地元の人間なら観光スポットも知っているし、タダの運転手付き車なら断る理由はないので申し出を快く受けた。
    「どこを観たいか」と、聞くから、せっかくポルトガルに来たのだから、
    「ヨーロッパ最西端を見たい」と、言うと、
    「いや、ヨーロッパではなく、ユーラシア大陸の最西端だ」と、若い社員は強調した。なるほど言われると確かにそうである。
    早速、オレは彼の車に乗り込み、リスボン市内からロカ岬へ向かった。
    見渡す限り青い空と紺碧の海が広がる高い丘の上に、ポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンイス詠んだ詩の一部、「ここに地の果て、海が始まる」と、刻まれた石碑があり、ガイド役の社員が英訳してくれた。それを聞いて、ここがアジアまで走る出発点かと、オレは少しに地平線まで広がる大西洋を眺めていた。
    リスボンはテージョ川の川下に沿って開けた町で、「七つの丘の都」といわれるほど坂の多い町であった。
    サン・ジョルジェ城やグラサ展望台に行くと眼下に赤瓦の建物がひしめく市内が一望できた。
    このサン・ジョルジェ城で二人の日本人、それも若い日本航空に務める女性と出遭った。
    外国で、それもヨーロッパの西の端、リスボンで日本人に会うなどは想像もしていなかったので驚いたが、すでに海外渡航自由化後四年も経ち、オレがアメリカへ行く頃に比べ海外旅行する人も多くなり当たり前だったのだ。
    テージョ川には橋が架かり、まるでサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジそのものを眺めているような風景であった。だから坂を上り押ししている電車も小さくサンフランシスコのケーブルカーを真似て作ったそうだ。
    オレを案内してくれた社員と会話していると「カステラ」、「コンペイトウ(金平糖)」、「パン」、「ブランコ」、「キャラメル」など少し発音は違うが日本語と同じものが多く、ポルトガルと日本の過去の交流を実感した。
    午後、市内観光を終え再び船会社へ行ったが、ギリシャの本社から承認の連絡は来ていなかった。ニューヨークのオールバニーでヤマハからエンジンが届くまで、三日も待った経験のあるオレは1,2日待つことにはもう苦にならなかった。
    その夜、市内観光に連れて行ってくれた、若い社員を誘い哀調を帯びたポルトガルの民俗歌謡、ファドを聴かせる店へ行き二人で遅くまで楽しんだ。
    翌朝、船会社へ行くと、飛行機代支払い承認のテレックスが届いていた。内容はアテネの船会社の本社まで取に来いというものだった。勿論、オレはインドまで旅する途中、アテネへも行く予定だったので、リスボン・ナポリ間の飛行機代を立替えておくことを了解した。
    オレのバイクを積んだギリシャ客船は、その日の夕方ナポリ港に着くとのことであった。オレはテレックスのコピーをもらい、皮ジャン、皮ズボンにヘルメット姿のまま、着替えの詰まったバッグを抱え、リスボン空港からナポリ行きのアイタリア航空に乗り込んだ。
    ナポリからヨーロッパ大陸ツーリングへ
    ナポリ港に着くと、客船はちょうど接岸するところだった。ナポリの支社にはすでに連絡が入っていたようで、意外と短時間でバイクの手続きは完了した。
    大雑把であったが、オレの予定ではイタリア南部から船でエジプトへ渡るつもりだった。しかし、船を利用すると、また、リスボン港で起こったようなトラブルが起こると厄介なので、エジプト行きは諦め、その日はナポリ港近くの安宿に入り、今後の計画の練直しをすることにした。
    ナポリ空港で買ったヨーロッパ道路地図はあったがガイドブックを持っていないので、安宿の女主人にナポリ近辺の観光すべきところを聞くと、
    「何を見るかも調べないで、ナポリに来たのか?ポンペイと洗濯を干した風景、それにピッザがここの観光の目玉ョ!」と、
    脂肪太りのからだを揺らして笑った。
    建物と建物の間にロープを張り、そこに洗濯物を干している光景は圧巻だったが道路にはゴミが散らかっており、お世辞にも清潔な町とはいえなかった。
    ナポリは世界三大港とか世界三大夜景で、「ナポリを見てから死ね」といわれているが、ピッザは確かにおいしかったが死ぬ気などさらさら起こるどころか、この汚い町をすぐ逃げ出したくなった。
    翌日、安宿の女将の推薦で、ナポリから南へ約三十キロ、ポンペイの遺跡を訪れることにした。
    紀元七九年の大噴火でポンペイの町が埋まり、死者約三千人の遺跡である。
    発掘された建物や街並みは、約二千年前のものとは思えないほど立派な造りで、石畳の道路馬車の轍も当時の生活跡が偲ばれ、すばらしい遺跡で、ここを訪れることが出来たのはラッキーだった。
    この遺跡を見学の後、エジプト行きを断念したオレは北へ方向を変更しローマへと走り出した。
    いよいよというか、やっとヨーロッパ旅行のスタートであった。
    地図を見るとナポリからローマまでは、たった二百キロぐらいであった。
    アメリカ大陸を横断した私には、その距離の短さに戸惑を感じた。
    葡萄やオリーブ畑が広がる中をイタリアの高速道路E四五を北上した。高速道路のどこの入口近辺には若いヒッチハイカーたちがリックやシャツに自国の小さな国旗を縫い付け、画用紙大の紙に自分の行き先地名を書き、右手の親指を立て乗せてくれる車を待っていた。
    いつ停まってくれるかわからない車を待つ、ヒッチハイカーをし
    り目に気分よくローマへ向け走っていると、日の丸の小旗を登山用リックに差し、路肩で車待ちしている日本人ヒッチハイカーが目に入った。
    オレはこんなところに日本人がおることに驚き、路肩にバイクを停め、十メートルほど後戻りして彼に声をかけた。(つづく)
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    オレの二十代
    (34)
    ナポリからローマへ行く途中、高速度道路脇にリックを背負った日本人若者が目に入った。こんなこんなところに日本人がおることに驚き、路肩にバイクを停め、十メートルほど後戻りして彼に声をかけた。
    彼は東京の大学生であった。今、日本は学生運動が激しく大学は封鎖され、ノンポリの学生は安いソ連のアエロフロート航空やシベリア鉄道でヨーロッパへ渡り、ヨーロッパ中をヒッチハイクするのがブームであると言った。その彼も鉄道でシベリアを横断してヨーロッパをヒッチハイクで旅行していると言った。
    おレは日本を離れすでに四年になり、iPhone?もガイドブックも持っていなかったのでヨーロッパの情報に疎かった。彼はローマに行くのなら、1960年に開催されたローマ・オリンピックの選手村が今はユースホステル(YH)になっており、安いのでそこに宿泊すべきだと教えてくれた。安く泊まれるに越したことはないので彼の情報はありがたかった。
    彼は、もう二時間も高速道路の入口で待っているが停まってくれる車はないと苦笑いした。気の毒に思ったが、荷を積んだオレのバイクに彼を乗せることはできなかった。
    「一日中待っても、乗せてくれる車を捕まえることもできないこともありますから・・・・」と、彼は待つことに慣れているようで笑いながら言った。彼の周りには、同じような各国のヒッチハイカーが車待ちしていた。
    「すべての道はローマへ通ず」と、謳われた永遠の都ローマ市内に入るが、アメリカの企画整理された道路と違い、この古い都市は道路が入込んだり、曲がりくねったりしており、ユースホステル(YH)探しに一苦労した。
    ローマ・オリンピック開催から八年が過ぎていた。テヴェレ川近く、白ペンキで塗られたYHは清潔で、宿泊料は2ドルとアメリカの一泊7,8ドルの安モーテルに比べても非常に安く、アメリカでは一日15ドル前後の予算で旅していたが、ヨーロッパでは3ドル前後で出来るとわかり、ドルとイタリア・リラの貨幣価値の大きさはうれしい誤算だった。
    夕方、YHに着くと自国の国旗を縫い付けたリックを背負ったヨーロッパ各国の若いヒッチハイカーたちが続々と宿泊するため集まっていた。
    YHの部屋は広く、多くの簡易ベッドが並んでいた。オレがベッドで荷をほどいていると、隣のベッドに同年輩の日本人が針に糸を通し器用にシャツにボタンを取り付けていた。
    型通りのあいさつをしながら、彼の足元に置いてある古いアルミ製の弁当箱に目をやると、小さなハサミなど裁縫道具、それに釣り糸などの道具までが入っていた。オレには考えもつかない準備周到であった。彼は横浜出身の大野といい、口数は少ないが、穏やかで粘り強い感じのする男だった。
    彼はカナダをヒッチハイクで横断、オレが会ったとき彼はローマ観光を終え、翌日はフィレンツェへ向かうと言った。彼とカフテリアで夕食を摂りながら、お互いの今までの旅のことを語り、ローマの地図を広げ、彼にローマ観光の情報を教えてもらった。
    翌朝、彼は日の丸の小旗を縫い付けたリックを背負い、フレンツェへと旅立っていった。
    オレはバイクでローマ市内の観光へ出かけた。オレが知っているローマの観光地や遺跡は映画で観た紀元前80年に造られた円形闘技場コロッセオやスペイン広場、トレビの泉、カラカラ浴場、バチカン宮殿ぐらいだった。
    コロッセオ闘技場は2000年も前に作られ、今にも崩れ落ちそうな古い建造物であったが、周りの近代的な建物とのコントラストが実に美しく感じられた。暴君ネロがライオンを放してユダヤ人を殺していた闘技場は意外に小さく、数万の観衆を収容するような大きさには見えなかった。
    映画「ローマの休日」で有名になったスペイン広場には多くの観光客であふれ、のんびりと思い思いの格好で階段に座りローマの休日を楽しんでいたが、「せっかちな日本人」と自負するオレなど数分も座っておれなかった。
    なぜイタリアにスペイン広場なのかと疑問に思い周りのイタリア人に聞くと、過去にこの広場の近隣にスペイン大使館があったから、そう名付けられただけだと言った。スペイン広場前の大通にセレブ専門のブランド・ショップや高級レストランが軒を並べ、多くの観光客でにぎわっていたが、金銭的余裕のないオレは素通りするだけだった。
    映画「ローマの休日」を観てない人には、トレビの泉は何の変哲もない小さな「池」以外の何物でもない。後ろ向きにコインを泉に投げ入れると、願いごとが叶うそうで、一個投げ入れると再びローマを訪れる夢が叶い、二個投げ入れると愛する人と永遠におられる、三個なら恋人との別れが訪れると言われている。多くのコインを投げ入れれば、それだけ幸運が訪れると宣伝すれば、この泉を管理しているローマ市もより旨味があると思ったが、そこがイタリア人らしい発想なのか、だから誰も二枚以上投げ入れる人はいなかった。
    どこの国のコインを投げ入れると、願いが叶うかわからななかったが、海外渡航自由化後、四年経ち日本人の観光客も多くなったようで1円、5円、10円硬貨などがやたらと目立つトレビの泉であった。
    帰国して夢の航空会社に就職できれば役立つと、夜は必ずその日訪れた名所旧跡のことを詳しく記録していた。
    ローマに着いたときは、すでにロサンゼルスを出発してから大小100以上の名所旧跡を訪れていた。
    ローマで二日間観光したオレは、フィレンツェへ走り出した。ローマ市街を出て、のどかな田園地帯を北へ約300キロ、時折、小さな村のカフェで休憩しながらのんびり走り、日が沈む前にフィレンツェに着いた。
    ローマの安くて清潔なYHに満足したオレは、その後は出来るだけYHに泊まることにした。どこを訪れても、YHの場所を探すにはリックを背負って歩いている若者たちに聞くとすぐわかった。
    広い車道から脇道へ逸れ細い農道を上ると、葡萄畑で囲まれた小高い丘にフィレンツェのYHはあった。このYHでは朝食は外の葡萄棚の下に並べられたテーブルで摂り、デザートは勝手に手を伸ばし葡萄を取って食べられるシステムになっていたが、オレが泊まった時は熟れてない小粒の葡萄ばかり残っていた。
    旅の途中で多くのYHに泊まったが、このYHも忘れられないひとつである。
    ローマで出逢った大野がオレに続いてYHに着いた。彼は車がなかなか停まってくれず、ここまで来るのに二日を費やしたと疲れ切った表情であった。
    翌日、二人でフィレンツェ観光に出かけた。町は二年前(1966年)の大洪水で建物や文化遺産が大被害をうけ復興のさなかであった。フィレンツェが「ルネッサンス発祥の地」であることぐらいは知っていたが、ルネッサンスが何であるか知りもせず、オレはこの町の名前だけに惹かれ訪れただけであった。
    大野はルネッサンスとは十四世紀から十六世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命というか運動のことですよと、実に詳しかった。やはり旅に出る前に行く先々のことを少しは調べておかないと、旅行の楽しみが半減することも事実だと思った。
    この町はアルノ川を挟んで両岸に広がり、ミケランジェロ広場へ行くと「花の聖母教会」と名付けられた町のシンボルでもある白緑ピンクの大理石で幾何学模様に飾られたドゥオーモ大聖堂はじめ、赤瓦の一色の美しい市街地全体が望めた。アルノ川に架かるフィレンツェ最古のヴェッキオ橋の両側には彫金細工店や宝石店が軒を並べ、道路からそのまま入ると橋と気づかない趣になっていた。
    大野とフィレンツェの町を歩き回わりながら、このあと予定なども話し合った。彼もヨーロッパを旅行したあと中近東、インドまで行く予定と言った。
    フィレンツェに二日間滞在し大野はミラノへ、オレはフィレンツェから南西へ約70キロ、地中海に近いピサへあの有名な斜塔を見るため走り出した。(つづく)

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    オレの二十代
    (35)
    フレンツェ―を出発、地中海の町ピザへ向け走り出した。
    ピサの斜塔は大聖堂の鐘塔として1173年工事にかかったが、十メートルほど建設したところで傾きはじめたが造り直しもせず、そのまま増築し約200年後に完成したそうだ。斜塔の入口で入場券売場のオッサンに、
    「日本人なら、造り直すのに、何故造り直さなかったのだ?」と聞くと、
    「ピサの人間は賢いのだ。造りなおしたら経費がかかる。それよりこのまま建設して傾いていることが有名になれば、お前のような観光客が多く来て、その塔上料で建設費が浮くからだ。ユー・ノ(わかる)?」と、イタリアなまりの英語で自慢気に言った。
    ごもっともである。傾いていなければただの鐘塔で、誰もわざわざ見には来ない。狭い大理石でできたラセン階段は700年の間に多くの観光客が上り下りして、すり減ってすべりやすく、その上傾いているので怖かった。
    ピサから地中海に沿って海岸線を走りジェノアのYHに泊まった。
    この町はアメリカ大陸を発見したコロンブスの生まれ故郷であり、物語「母を訪ねて三千里」のマルコ少年が母を捜しにアルゼンチンへ出かけた港でもある。中世自治都市として栄華を誇った歴史ある街らしく、貴族の邸宅や庶民の住宅がその雰囲気を今も伝えていた。
    YHは安く泊まれるだけでなく、夏休みを利用してヨーロッパ中をヒッチハイクしている各国の同世代の若者との出会いもあり、楽しかった。
    カフテリアで夕食を済ませると、誰彼となく、夕涼みを兼ねて海岸へ出かけ、お国訛りの英語でにぎやかに旅での出来事を語り合い、旅の情報交換の場という実益もあり楽しいひと時でもあった。
    朝を迎えると、
    「またどっかで会おなァ」と、それぞれの次の目的地へ旅立つって行った。
    オレはジェノアから青い海と青い空に燦々と輝く太陽に囲まれたフランス南部、地中海に沿いに一般道路を走り、マドリッドをめざし走り出した。このあたりの道路は狭い片側二車線か一車線でカーブも多く、左側は地中海、右側は小高い丘が続き、赤瓦の高級住宅が点在しアメリカのウエスト・コーストの風景に似ていた。
    イタリアも夏のバカンスシーズンがはじまっているらしく、道路は渋滞、車はノロノロと走っていたが、バイクはその間をスイスイと気持ちよく走り抜けられた。突然、オレの前を走っている車のドライバーが唾でもはくのかドアを開けた。一瞬、オレはブレーキをかけたが開いたドアに衝突した。渋滞のためゆっくり走っていたので転倒もせずオレもバイクも無事だったが、中年男性ドライバーが降りてきて、ドアに傷がついたので弁償しろと大声で怒鳴り始めた。傷などついていないのに大袈裟に怒鳴り続けた。
    そのうちに、渋滞で苛立っている、後続のドライバーたちがゾロゾロ降りて来て、
    「早く車を出せ」と、オレに怒鳴り散らしていたドライバーへ文句を言い始めた。
    怒鳴っていたドライバーは、もうオレのことなど忘れたようにドライバー同士で怒鳴り合いを始めた。
    オレは彼らの口論に参加する気など全くなく、これ幸いと彼らの怒鳴り合いを横目に、その場を立ち去った。
    地中海沿いの狭い道路は曲がりくねり、切り立った山を上がり下りしながら赤瓦や白ペンキの邸宅が建ち並ぶ風光明媚なサンレモ、モナコ、ニース、カンヌへと続いている。これらの地名は音楽祭や映画祭などで有名であるが、訪れて初めてそれらの町の場所を正確に知ることができた。
    海岸線に広がる風景はアメリカ西海岸の風景とよく似て素晴らしかったが、気位が高いというかライダー姿ではホテルのレストランで食事を摂ることなど畏れ多く、ほとんど道端のスタンドで立ち食いだった。そのほうがアメリカ的でオレは気楽だった。
    バカンスシーズンの地中海沿岸、コート・ダジュールは道路も観光名所も混雑しており、のんびり見学する気は起らなかった。
    オレは、この混雑する観光地から逃げるように一日中走っては、YHや安宿にたどり着くだけの繰り返しであった。まるで朝出勤に出て、夕方帰宅する生活の糧を稼ぐ労働者たちと違い、距離だけを稼ぐ単純なバイク走行に疲れ、バイク旅の目的である名所旧跡、観光地を訪れることも忘れていた。
    地中海に沿ってフランスからスペインの第二の都市、バルセロナに入った。この町はサンフランシスコのような坂道が多く、テレビのCMなどで見るアントニ・ガウディが1882年に設計し始まったサグラダ・ファミリア(聖家族)教会が、まだ建設中であった。
    周りの人に聞くと、一般の寄付を募りながらの工事で、いつ完成するか誰もわからないと言っていた。オレはどこの街角でも休憩しては地元の人々とちょっとした会話を楽しんだ。これは旅人にとって最も重要な一つである。
    街角で絵を描いている老人がいた。芸術などとは無縁なオレでだが、バイクを停め、後ろからその老人が描くのを眺めていると、その老人がオレに片言の英語で話しかけてきた。老人はピカソが青年期ここで過ごしたことや、どれほどピカソがエネルギッシュな芸術家あるかなど自慢げに熱を込めて語り始めた。
    ピカソは生涯、油絵、版画、彫刻など約164,000点を制作したそうだ。16歳から制作を始めたそうだから、年間約2,000点、一日約6点制作したことになる。オレは専門家でないので、ピカソの作品については素人で、良さは分からないが、その制作に対するエネルギーのすさまじさには脱帽である。
    バルセロナから遥か右手にピレネ山脈を望みながら、アメリカ中西部のような赤土の平原をサラゴサ経由マドリッドへ向かった。
    赤瓦に白ペンキの家が軒を並べる小さな村の午後、暑い日差しの道路には人影もなかった。木陰のある水飲み場で休憩していると、どこからか小さくフラメンコ・ギターの小さな音色が流れてきた。それを聴いていると、スペインに来た実感がわいてきた。スペインでも行き当たりばったり、いろいろなところに行き、いろいろなものを見たが、この小さな村の水飲み場で聴いたフラメンコ・ギターの音色が最も印象に残った素晴らしい、スペインらしいスペインの風景であった。(つづく)

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    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (36)
    パリ、そして出遭い
    マドリッド市内に入る直ぐ観光案内所へ直行し観光資料もらい、フラメンコ舞踊、闘牛など多くの物を見みたが、闘牛は残酷でやるべきでないと思った。そう、物語で有名なセルバンテス、ドンキホーテ、サンチェ・パンサ像のある「本場」のスペイン広場も訪れた。そのあとマドリッドから約70キロ南、タホ川に囲まれたトレドを訪れた。
    この町全体が博物館のような古い街並みが残っており、中世へタイムスリップしたような気分になる、すばらしい街だった。
    ピレネ山脈越え フランスへ
    マドリッドで数日過ごした後、北へピレネ山脈を越えフランスへ向かった。フランスとの国境の町サンセバスティアンまでは約350キロ、一日で走れる距離である。今は高速道路ができているらしいが、当時は石畳の一般道路が多く走りにくく、その上、スペインとフランスを分ける、自然の国境線ピレネ山脈は標高3,000メートルを超すところもあったが、そんなに高いところは走らなかったが。夏だったが夕闇が迫ると寒く、山奥の安宿に宿泊する羽目になった。
    翌朝、宿を出るとすぐ下りになった。一時間ほど走るとサンセバティアンの町が眼下に見えてきた。早朝だったので、一直線の下り坂の町には人影もなかった。気持ちよく走っていると、突然、建物の中からトラックがゆっくりバックして道路へ出てきた。
    一瞬のことであった。急ブレーキをかけた途端バイクは横転、勢いよく横滑りしながら、ヘルメットが道路と摩擦するガリガリという音を響かせながらトラックの下を通り抜けた。本能的に頭を打ったと思い、もうバイクの旅は終わりだと一瞬思った。
    本能的に仰向けに倒れたままの姿勢で動かないでいた。早朝の衝突音で家々から人が飛び出して倒れているオレの方へ走ってくるのが見えた。そして数人の人がオレを道路脇へ運び、傷や痛みがないか声をかけ介抱してくれた。オレは事故のショックでしばらくは口もきけなかった。道路脇で横になっていると、少しは体中に痛みはあったが、バイクのハンドルが少し曲がった程度の事故でホッとした。たまたま事故を起こしたのが自動車修理工場前であったので、そこでハンドルを修理してもらい、気分が落ち着くのを待って、直ぐ近くのフランス国境を目指した。
    ヨーロッパではポルトガル以外、どこの国もビザの必要はなく、出入国の手続きはどこも簡単でパスポートを提示し、それにスタンプを押してもらい終りであった。
    フランスへ入りパリを目指して北へ走り出すが、少し行くと頭がクラクラして吐き気がし始めた。トラックと衝突したとき頭を打ったのが原因であった。ヘルメットをかぶっていたので大丈夫だと思っていたが気分が悪くなり、走る気力もなくなった。まだ昼前だったが安宿へ入り、氷水を貰い頭を冷やしベッドで安静することにした。
    食事はいつも「オムレツ、オムレツ、オムレツ」
    昼飯も摂らずに熟睡していた。目が覚めると窓の外は暗くなっていた。眠ったおかげで気分もよくなり、腹も空いたので、ホテル内のレストランへ行きメニューを眺めるが、フランス語が全く理解できない。字から判断してわかるのは「オムレツ」だけだった。そのオムレツも十種類以上あり、どんなオムレツかも皆目わからない。ウエイトレスに、
    「英語話せる?」と、英語で聞いても、
    「ノン」とそっけない返答をして、早く注文しろとばかりに、愛想なく突っ立っている。
    フランスでも、地中海沿岸の観光地では英語は通じたが、一歩、観光地を離れると英語が通じなかった。
    腹が立ったが、フランス語が話せないので仕方がなかった。サイコロを投げて決めるように、メニューを指さしてこれだと注文するしかなかった。注文したものの、どんな料理がテーブルに運ばれてくるかわからないほど不安なものはない。フランスに来て初めて、言葉が通じないと、食事も満足に注文できない不便さを実感し、情けなくなった。
    フランス語は英語と発音が違うので地名さえ発音ができず、映画を観て記憶にある地名や、教科書に載っていた歴史で有名な地名以外、通過した町の名前さえ覚えられず、パリまではワインで有名なボルドーぐらいしか覚えていない。ランス人に会ってもお互い言葉が通じないと話す気にもならず、ただ、葡萄畑や農地の広がる中をパリ目指して走るだけであった。
    いくら英語が話せても、フランス語が理解できないと毎回、毎回、食事はほとんどオムレツだった。街角で出会う人との会話もままならず、フランスの風景しか観ることができず、わびしく、面白くも楽しくもなかったが、それも旅の経験だった。語学ができなくても、それなりに外国旅行を楽しむことのできる人の勇気には尊敬に値するとつくづく思った。
    国境からパリまでは景色のよい葡萄畑の広がる丘がどこまでも続き、走っていても気分が爽快だったのが救いだった。
    この年、1968年5月、パリではゼネストを主体とする民衆の反体制運動、いわゆる「五月革命」が勃発していた。
    フランスに入ったのは7月半ばだった。途中であったヒッチハイカーに、パリは騒然としており、危険だからパリだけは行かないほうがいいと聞いていたが、せっかくフランスに来たのだからエッフェル塔、凱旋門、ムーランリュージュ、モンマルトの丘、ルーブル美術館ぐらいは見たい気持ちが強くパリへ向かった。
    パリに入ると静けさを取り戻しており、何事もなかった。フランス語のできないオレは、相変わらずオムレツばかりの食事にうんざりしながらも、パリ市内を走り回って、帰国後、航空会社就活には有利な条件になるからと、聞いたこともない名所旧跡も観光して回った。バイクでの移動は、バスや電車の行先や時刻表を調べる必要もなく、自由に走り回れ、時間の無駄を省け便利であった。
    バイクに疲れ、エッフェル塔の下にある公園のベンチで昼寝をしていると、背広の肩にカメラをぶらさげた同年輩の日本人の若者が声をかけてきた。大阪出身という彼は建築士の勉強のため、ヨーロッパの建物を見て回っていると言った。
    お互い若く、彼も無名時代で、日本へ帰ったら、又会いましょうと約束して別れた彼は、若き日のあの著名な建築家安藤忠雄氏であった。
    彼はその後、日本の建築家から世界の建築家になった。オレなど足元にも及ばない才能あふれた男で、オレの人生に彼ほど刺激を与えた者はいない。英語で思うように自分の意志を伝えられないフランスは最悪であったが、パリで安藤忠雄氏に出逢えたことは、人生最高の収穫のひつであった。職種は違っても、夢を持ちそれを叶えるため、二十代の若さで世界を観ようと実行に移した志はやった者しかわからない。人生は二十代の生き方で決まると言える。(つづく)

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    オレの二十代
    (37)
    フランスからオランダへ
    ルーブル美術館前で、アメリカに住んでいたというフランス人男性が、オレのカリフォルニアのナンバープレートのバイクを見て英語で話しかけてきた。やっと英語の通じたその男にフランスに入ってからは英語が通じず、ほとんど食事はオムレツばかり食っていると愚痴ると、
    「フランス人は英語を理解しても、フランス語以外はわからないふりをするんだ」と、ウインクしながら言った。
    そういえば、そのような話を聞いたことがあった。やはりフランス人は自国語に誇りを持っているは事実のようだ。
    パリでもオムレツばかり食っていると、当時人気のあったシャンソン歌手石井好子の著書「巴里の空の下オムレツのにおいが流れる」を思い出した。それまで知らなかったが、オムレツはフランスの名物料理だったのだ。
    モナリザを見るだけでも価値があるとルーブル美術館へ、そしてパリを駆け足で観光を済ませると英語の通じる国、英国へ行こうと、ぽつりぽつりと小雨が降り始めた田園地帯を北へ、フェリーの発着するル・アーヴァル港へ向かった。この町は第二次世界大戦末期ドイツ軍の砲撃で壊滅的打撃を受けたところである。
    その西側は1944年6月6日、英米連合軍が上陸しフランスのみならずヨーロッパ全体の運命を決めた史上最大の作戦で知られたノルマンディーだった。シトシトと小雨が降る海岸は人影もなく静まり返り、波も穏やかであったが、オレの頭の中を映画「史上最大の作戦」のテーマ曲「The Longest Day」が勇ましく駆け回っていた。
    フランスの観光ポスターやテレビでよく見かける海岸から一キロほど沖に建てられた城のような修道院モン・サン・ミッシルは、この近くであるが、当時、オレはそのようなものがあることさえ知らず、通り過ぎて行った。
    ロンドン
    日本と違いヨーロッパの季節は、夏と冬が同居している。夏だというのに、ル・アーヴァルの港に着いたときは、雨で全身びしょ濡れになり寒く震えが止まらなかった。
    イギリスのドーバー港まで三時間、フェリーの船員に頼み込んで、エンジンルームに入れてもらい、衣類を乾かしながら暖を取った。
    雨雲の垂れこめたドーバーの町から、農地の広がる中を一気にロンドン郊外まで走り、偶然見つけたアメリカ式のレストラン付のモーテルに宿泊した。モーテルの女主人と久しぶりに英語で意志が通じ、「オムレツ」から解放されたオレは、「ツー・エッグ・ウイズ・ベーコン」にトースト、コーヒーのブレックファーストに生き返った気分だった。
    戦後23年経っていたが、偶然そのレストランで逢った初老のイギリス人女性が、オレを日本人かと確認した上で、彼女の主人は戦争中日本軍の捕虜になり、映画「戦場にかける橋」で有名になった泰緬(たいめん)鉄道の工事で過酷な労働と栄養失調で亡くなった一万数千人の捕虜の一人だと憎らしそうな目をオレに向け言った。
    オランダでも日本軍の捕虜になった人に同じような日本軍の残酷さについて聞かされた。
    ドイツのナチスは数百万人のユダヤ人を虐殺した。米国は日本が宣戦布告前にハワイ真珠湾急襲したとか、戦争を早期終わらせるためのに広島、長崎に原爆を投下し、何の罪もない子供や民間人の大人数十万人を一瞬に虐殺した。
    第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった「日ソ中立条約」に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領した。
    当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約17,000人が住んでいたが、ソ連は四島を一方的に自国領に「編入」し、それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いている。ロシアのやり方は火事泥棒そのものである。
    英国人に旅行を楽しんでいるオレに向かい、事実であれ、20数年前の日本兵の英国兵に対する嫌味を言われ気分の良いわけはなかった。あなたの国,イギリスも過去に多くの国々を征服し、蛮行を繰り返した歴史があるではないかと言いたかったが・・・。
    第二次世界大戦中英国軍の捕虜になったK大学の教授の書によると、英国人ほど残虐な国民はいないと書いている。英国の旅に気が進まなくなったオレは、ロンドンでは大英博物館へ行き、観光の目玉の一つ、おもちゃの人形のような衛兵交代の儀式を見て、英国旅行のお茶を濁そうとバッキンガム宮殿へ向かった。
    十時半から始まる儀式を見ようと大勢の観光客が宮殿前に詰めかけていた。その中に日本のある県会議員の団体客がいた。彼らはバイクでヨーロッパを観光しているオレが珍しかったのか、多くの外国人観光客がいる前で、あたかも有名人を囲むようにカメラを向けられ、帰国したら我が町に来てくれと名刺を押しつけられ、嫌な思いをした。
    「ドイツに行ったら、是非、東ベルリンも行くべきだ」と、
    中年の添乗員が教えてくれた。当時、ベルリンは東ドイツ領内で東西べルリンに分断されていた。外国人は戦勝国ソ連が管轄している東ベルリンへの通行は自由と言うので、彼の勧めも年あり是非東ベルリンへも行こうと決めた。
    ダンケルク、アムステルダム
    気の重い英国になったが、多少ロンドンの名所旧跡を訪れ、再びヨーロッパ大陸へ戻るためドーバー港からカレーへ渡った。
    ヨーロッパに上陸以来、中近東の地図探していたが、どこにも売っておらず、そのことが気になっていた。ドーバー港でフェリーを待つ間に売店で、偶然、中近東の道路地図を手に入れることができた。ここで手に入れられたことは本当にラッキーの一言であった。
    霧雨の中、フランスのカレーに上陸、そこから東へ約30キロ行くと、あの有名なダンケルクだった。
    この町の海岸は1940年5月24日から6月4日の間に、ドイツ軍にダンケルクへ追いつめられたイギリス軍、フランス軍の兵士約35万人を救出するため、当時のイギリス首相チャーチルの命により軍艦や民間の貨物船、漁船、ヨット、はしけなどを総動員した史上最大の撤退作戦(ダイナモ作戦)のあったところで映画にもなった。オレが訪れたのは夏の海水浴シーズンであったが、フランス北部は小雨が降っており、海岸は人影もなく、殺風景な激戦の面影を残す古いトーチカが所々に残る寂しい風景だった。
    小雨が降る北海沿いを日本の県ほどの大きさしかないルクセンブルグ、ベルギ―を通過、フランスからオランダ、アムステルダムのYHへ一日で着いた。
    アメリカに比べ、ヨーロッパがこんなに小さいのには驚きだった。
    アムステルダムのYHに着いたときは気づかなかったが、翌朝、外へ出るとYHの周りは「飾り窓(女郎屋)」が軒を並べていた。
    このことはヨーロッパ中を旅しているヒッチハイカーたちの間では知らぬ者はなかった。ほかのYHに泊まりアムステルダムのことが話題に出ると、あのYHそのものが「飾り窓」だと大笑いするほど有名だった。
    アムステルダムといえば「アンネの日記」で有名なアンネ一家と八人のユダヤ人家族がナチスの迫害から隠れるため、1942年から2年間住んでいた部屋が博物館になっているので訪れた。運河沿いの建物はアムステルダムではどこにでもある四階建てで、一階は倉庫、二階は事務所で三、四階を改造してアンネたちは身をひそめ住んでいた部屋であった。隠れ部屋の入口は本棚でカモフラージュされ、その部屋を見ただけで、今でも彼らアンネ一族が身を潜めているような気がした。なぜユダヤ人がモーゼの時代から、これほど嫌われているのかは知らないが・・・・。(つづく)

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    オレの二十代
    (38)
    長崎「オランダ坂」と東ベルリンでの出来事
    アムステルダムは運河のある平坦な美しい町である。坂など見当たらなかった。しかし江戸時代末期、長崎市内にある、あの坂道を「オランダ坂」と呼んでいた。ポルトガルのリスボンは坂の多い町であったが、オランダには急な坂など全くない。江戸時代の長崎の人は、きっとオランダとポルトガルの区別もつかず「オランダ坂」と適当に言っていたのであろうが、きっとあれは「ポルトガル坂」の間違いと思った。調べてみると、長崎の坂は多くの「外国人」がそこを通っていたので「オランダ坂」と呼ばれていただけである。旅は見るだけでなく、疑問を解く楽しみでもある。
    オランダはライン川下流の湿地帯で、国土の四分の一は海面下に位置している。アムステルダム市街から北の田園地帯へ出ると運河沿いに点々と風車小屋の美しい風景が広がっていた。その風景を眺めながらオランダの北端、ゾイデル海をせき止めた長さ約32キロの巨大な防波堤の上にあるハイウエイのような広い道路を渡り、次の国、ドイツへ向かった。真夏だというのに、真冬のような北海から防波堤に吹き付ける横殴りの冷たい風に必死に耐えながらドイツ国境を目指した。
    ドイツ国境近くの町ブレーメンに入ると突然、バイクのチエーンが弛んで垂れ下り歯車から外れカシャ、カシャと嫌な音をだし、ノッキングしてスピードが出なくなった。
    チエーンの弛みをオレは直せなかった。バイクなどほとんど走っていない時代でバイク屋をなど見つからず、やっと自転車屋を見つけ、そこで直してもらい、ハンブルグの安ホテルにチェック・インした。
    エレベーターを降り薄暗い廊下を部屋へ向かっていると、普通の服装をした女性がすれ違いながら、オレにウインクした。振り向くと向こうも立ち止まってオレを見ていた。女性が立ち止まって、オレにウインクするなど、今だかって経験したこともない。どうもおかしいと思い、ホテル前の街路でフランクソーセジを食いながら、屋台のオッサンにその話をすると、
    「オマエは本当に、ここがどこだか知らんのか?」と、噴き出した。
    「今来たばかりで、知るわけない」と、言うと、屋台のオッサンは笑いをこらえながら、
    「ここはレーパーバーンという歓楽街で、ヨーロッパでは知らない人はいないほど有名なところで、『世界で一番罪深い一マイル』と称され、かのビートルズも世界的に有名になる前は、このレーパーバーンが活動の中心地だった」と、言った。
    東ベルリンでの出来事
    翌日、ロンドンのバッキングガム宮殿で会った旅行社の添乗員が教えてくれた東ベルリンへ行くことを楽しみにしていた。バイクを宿泊している安ホテル前の地下駐車場に預け、ハンブルグ空港からパンナム航空で東ドイツ領上空を通過、西ベルリンへ入った。
    1968年当時、冷戦下の東西ベルリンは東ドイツ領内にあり、西ベルリンはフランス、イギリス、アメリカ、東ドイツはソ連に統治され、西ベルリンは西ドイツの飛び地であった。
    西ドイツ側から西ベルリンへ行くには、東ドイツ領を走っている西側の人間は途中下車が禁止されたアウトバーン(高速道路)、鉄道または飛行機で結ばれていた。西ドイツ国籍以外の外交官と外国人は、境にある東西ベルリンの検問所チャーリーポイントを西側からは何の手続きもなく通り、東ベルリンへ行くことができた。偶然かも知れないが、西側チャーリーポイントを通り、東ベルリンへ行くのは、その時はオレ以外誰もいなかった。東側に入るとコンクリートの壁や監視塔、ジグザグに張り巡らされた有刺鉄線のフェンス、通過する車をチェックするブースが設置され、東ドイツの兵隊が東から西への亡命を厳しく見張っていたが、アメリカ側は木造の事務所が設置されアメリカ兵が留守番役のように一人いるだけだった。
    西側のチャーリーポイントを抜け東側に入ると、二度と西側へは帰れないのではないかと不安と恐怖のような不気味さを感じた。東ベルリンの町は社会主義の無機質主義とでもいうか、歴史的建造物などは見当たらず、映画のセットのような建物と略奪された後のように商品の少ない店舗のショーウインドーばかりが目に付き生活の匂いが全く感じられなく、この国の貧しさがわかった。東側検問所の周りでは東ドイツ兵に感じられないように、若いカップルや子供連れの夫婦、老人たちが何か意味ありげにそれとなく歩き回っていた。
    どういう方法かはわからなかったが西側の家族、親せき、知人、友人たちと連絡し、チャーリーポイントでそれとなく会っているように思えた。
    オレがベンチでたばこを吸いながら、その光景を眺めていると、中年の男性が横に座り折り畳んだ封筒をチラッと見せ、
    「西ベルリンのポストに投函してくれないか?」と、たどたどしい英語で話しかけてきたが、検問所の東ドイツ兵に見つかれば、オレの身がどうなるかわからないので怖くなり、彼には悪いと思ったが言葉を交わすことなく、逃げるようにオレはその場を立ち去った。
    外国人は東ベルリンから西ベルリンへは地下鉄でも行けると聞いていたので、乗って西ベルリンへ引き返そうと階段を下り地下鉄の駅へ向かったが人影がないので引き返そうとしたとき、
    「ハルト(止まれ)!」と、コンクリート造りの通路内に響き渡り、シェパード犬を連れた二人の東ドイツ兵が大声で、こっちへ来いと手招きした。
    「駅を間違った」と、英語で言ったが通じず、薄暗い建物へ連れていかれた。中はガランとした小さな体育館ぐらいの広さで、隅のベンチに座らされた。しばらくすると軍服姿の女性が現れ、
    「パスポート」と、無表情に言って、オレのパスポートを取り上げて立ち去った。
    オレは地下鉄の駅を間違えただけで、何も東ドイツの法に触れるようなことはしていなかったが、ここで何年も拘束されることになると、オレの行方を知る者は誰もいないので、どうなるか不安で怖くなった。
    トイレに行きたくなり、ベンチの横にある部屋のドアをそっと開け覗きこんだら、数名の若い東ドイツ兵士がタバコを吸いながら雑談していた。そこは兵士たちの休憩室であった。オレに覗かれた兵士たちはキョトンとしていたが、すぐ柔らかい顔になり兵士の一人がトイレへ案内してくれた。
    意識してオレは笑顔をつくりアメリカからバイクでヨーロッパまで走ってきたと話かけたが、彼らは黙って聞いているだけで何の反応も示さなかった。
    一時間近くベンチで待たされただろうか、例の女兵士がこっちへ来いと奥の部屋から無表情で手招きした。その部屋は事務所のようで軍服を着た七、八人の男女の兵士がデスクワークをしていた。オレは彼らに言われるままに、彼らのデスク前の椅子に座り、日本からここまでのきた話をして、繰り返し質問を受け、やっと彼らは納得したようで、
    中央に座っていた上官のような服装をした兵士がオレのパスポートを返し、
    「西ベルリンへ戻るか、列車でハンブルグへ行くか」と、事務的に尋ねた。
    冷戦時代、共産圏の東ドイツを見るなどできない時代だったので、興味が湧き、
    「列車で行く」と、反射的に答えたが、あとは何を話したかわからないほど疲れを感じた。パスポートを返してもらい、肩に銃をさげた二人の兵士に囲まれるように駅へ連れて行かれ、ハンブルグ行きの列車に乗せられた。
    列車は東ドイツ領の広々とした農村地帯を西へ止まることなく走り続けた。広大な畑では大型の農耕機を使って農作業している農夫や、手伝いをしている子供たちが列車に向かって手を振っているのが印象的だった。
    一度だけ列車は東西ドイツの国境で停まった。
    旧ドイツ軍のナチ親衛隊のような色彩鮮やかな軍服、腰にピストルを携えた東ドイツの兵士が数人停まった列車に乗り込んできて、東ドイツから西へ亡命するのを防ぐためか、時間をかけ乗客全員のパスポートのチェックをした。
    写真:左下アンネの隠れていた建物、アイユコイド防波堤、レーパーバーン・ビートルズも売れない頃はここで活動していたのだ。(つづく)

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    オレの二十代
    (39)
    ドイツからスイスへ
    ハンブルグ駅前の広場へ出ると若いヒッチハイカーが七、八人たむろしていた。
    彼らもYHに泊まることは間違いないので彼らにYHの場所を聞き、雑談していると目の前に観光バスが停まり、着飾ってハイヒールを履いた若い日本人女性の一団が降りてきた。
    彼女たちは薄汚れた皮ジャンにジンズ姿で道路脇に座り込み、若いヨーロッパのヒッチハイカーたちと話しているオレが目に入ったのか、
    「あんな服装でよその国へ行くのは日本人の恥だ」とばかり軽蔑の眼差しで、わざと聞こえるような声で通り過ぎて行った。
    穏やかに立ち話の出来る外国の女性たちに比べ、外国で同じ日本人であるオレを見ると、あからさまに嫌味な顔を意識的にする若い日本女性が多かった。
    まだ旅費も高く海外旅行は高根の花の時代、日本人の前では決して見せることのない遜(へりくだ)った態度で若い外国に声を掛けられると、態度を一変し、彼らの後に付いていく日本女性を何度も見かけた。その後、日本人女性はナンパし易いと外国人男性に広まった。
    今は着飾って、ハイヒール履き海外旅行する人などいないが、当時は日本人も外国旅行慣れしておらず、国際化していなかったのも一因だったのであろう。。
    ハンブルグのYHもアムステルダム同様、レーパーバーンという歓楽街近くにあり、日本人ハイカーに会えるので、安ホテルからそこへ移った。バイクで走っていると、ほとんど一日中人と話さないし、食事も一人、だから日本人ハイカーに会うとうれしく一緒に観光、食事、旅先の情報交換とそれも旅の楽しみだった。
    エンジンの調子は良かったが、バイクのチエーンの緩み、それにスペインでトラックと衝突したとき応急処置したハンドルが少し曲がっており、長時間走ると、少しではあったが腰がねじれ、だるくなるのでデッセルドルフのヤマハ・ヨーロッパ支社へ出向き修理点検してもらうことにした。現在、ヤマハの支社も世界中に網羅しているが、当時はアメリカにロサンゼルスとチェリーヒルズ(ニュージャージー州)、ヨーロッパにはデッセルドルフ(ドイツ)の二か国しかなかった。ここで整備しないと後はインドまで行けるかどうかは運だけであったバイクが動かなくなったら、飛行機で帰国する気でいた。
    バイクの点検を終えるとバイクも生き返ったように乗り心地が良くなり、気持ちも新たにケルン、ボンを観光、左側にライン川を上り下りする貨物船、観光船、ローレライ、葡萄畑など素晴らしい風景を眺めながらスイス国境目指し走り出した。
    夕立の中、虹のかかったライン川を渡るとスイスのバーゼルだった。バーゼルはフランス・ドイツと国境を接するスイス第三の都市である。スイスは九州より少し大きいぐらいの国であるがどこも絵葉書のようなきれいな風景が広がり、今まで美しいと思って旅の途中撮っていた写真が詰まらないように思えるぐらい美しい国で、心身ともに癒された。
    スイスは永世中立国、平和のシンボルのような国と思われているが、国民皆兵制度があり、タクシーの運ちゃん、駅員、学校の先生まで定期的に訓練に参加する義務がある。
    銃器はそれぞれの各自自宅に保管している。スイスの山道や牧草地を走っていると軍服姿で訓練している数人のグループをよく見かけた。ジュネーブ、チュリッヒ、グリンデルワルト、ユングフラウ、ツェルマットとどこもスイスの観光地は美しく清潔で、人々は謙虚で豊かな生活のできるこの国がうらやましかった。
    ジュネ―ブでは国際連合の諸機関を訪れ、ヒッチハイカーの情報でレマン湖にかかる橋を渡り旧市街にあるデパートのブッフェに入り、年金生活者らしい人々と話しながら食べた安いシチューの味が忘れられない。
    ツェルマットの出遭い
    あの有名なマッターホルンを望もうと高いアルプスに囲まれた牧草地帯に点在する小さな集落を走り抜け、ツェルマットの地入口に着いた。煤煙をまき散らす車やバイクは町へ入ることはすでにこの時代禁止されていた。オレは観光客用の広い駐車場にバイクを置き、身の回り品を詰めたバッグを肩に担ぎ、歩いて町に入った。
    標高1,600メートルのツェルマットの町まではスイス国鉄の列車が来ており、さらに、そこからマッターホルンの麓、標高3,089メートルのゴルナーグラートまでも登山電車で昇れた。
    駅の観光案内所で地図をもらい、それを観ながらYHへ行った。
    ツェルマットの町はスイスならどこでもある高い山に囲まれたV字型の谷底にある細長い町並みで、車がやっと一台通れるほどのメイン・ストリートが一本町の中心を貫いていた。その両側にはホテル、レストラン、土産やなどが軒を並べている。YHは十分ほど歩いた町のはずれ、美しいマッタ―ホルンや小さなツェルマットの町が一望できる小高い丘の上にあった。
    YHは白い三階建てで窓はスイス特有の花壇で飾られ、40人ほどは宿泊できる三段ベッドが備えられた男子用と女子用の二部屋、それにレストラン、シャワーもある清潔なYHだった。若い経営者夫婦には五歳ぐらいの男の子が一人おり、二十歳前後の「ジュンちゃん」という京都の若者が働いていた。彼は当時としては珍しいスキーのインストラクターになるためスイスのスキー留学し、雪のない夏場はこのYHでバイトしていた。彼は愛想の良い働き者で経営者や泊り客の人気者だった。
    オレが訪れたときは夏休みのシーズン中で、特に人気のあるマッターホルンの登山口ツェルマットのYHはヨーロッパ中の若者で賑わっていた。
    シベリア大陸横断鉄道やアエロフロート機を利用してヨーロッパ旅行を楽しんでいる日本の若者も五、六人宿泊していた。
    翌朝、階下のレストランで食事をしていると、
    「オジさんじゃない?」と、
    20歳ぐらいの日本女性が笑顔で声をかけてきた。
    28歳のオレに「オジさん」とはと一瞬驚いたが、初対面ながら嫌味もなく活発な女性にあっけにとられた。
    彼女はオレがバーゼルのガソリン・スタンドで給油していたとき、ヒッチハイク中で乗せてもらっていた車から、オレが日本人であることがわかったらしく、大声であいさつしたと言った。ヘルメットをかぶっているオレにはその声は聞こえなかったが、走り去る車から誰かが手を振っている姿を思い出した。
    秋田から来たという女性、菊地さんはドイツで間借りして、夏の間ヨーロッパ中を旅していると言った。彼女は女性の一人旅は危ないからと、途中で知り合った岸という男性をボディ・ガードに二人でヒッチハイクしていた。(つづく)
    Oldies’60s, Hardies in California 
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    オレの二十代
    (40)スイスからオーストリアへ
    ボディ・ガードの岸は彼女より一、二歳年上であったが気の優しそうな物静かな男で、彼女の方が朗らかで元気が良くリーダシップを取っているようだった。
    オレはこのYHから眺められるマッターホルンやツェルマットの町が気に入り、旅の疲れを癒すためにも、そのYHで一週間ほど滞在することにした。滞在中、毎日、日本人から来た若い宿泊者たちとゴルナーグラートへ歩いて登り、マッターホルンやゴルナーグラート氷河、高山植物の咲き乱れる中をハイキング、夜はツェルマット町へ繰り出しスナックで飲みながら、それぞれの出身地やそれまでの旅の経験などを語り、楽しいひと時を過ごした。日本を離れてから四年間、日本の情報に飢えていたオレはここでの一週間が最も旅の中で、最も楽しく思い出ある時間であった。
    ウィーン
    ソ連軍チェコ侵攻
    ツェルマットで出逢った秋田の菊地さんと岸は二日ほど滞在するとオーストリアのウィーンへ向け出発した。ツェルマットで一週間ほど滞在したオレも元気の良い彼女にもう一度会いたくなり、会えるかどうかわからなかったが、オーストリアのウィーンを目指すことにした。
    スイスのツェルマットからオーストリアのウィーンまでは約600キロ、高速道路を走れば時間は短縮できるが、ただ突っ走るだけでは、出来るだけ多くの観光地を観るというオレの目的に反するでいつものように一般道路を走り、オーストリアを目指した。
    小さな国土のスイスから、東西に延びる長細いオーストリアへ入り、西はスイス、北にドイツのバイエルン州、南にイタリアとの国境を接するチロル地方を東へ走った。
    牛や羊が放牧された緑の美しい牧歌的な景観や家々の窓に飾られた色とりどりの花々、車もほとんど通らない小さな田舎道の脇道にテーブルを出した小さなカフェ、すべてが自然に溶け込み旅情をかきたて心が和み、疲れると道端の雑草の上に寝転び、サンタモニカ・ビーチで出逢った女性のことや、帰国後のことを考え、疲れては一眠りして「花の都」ウィーンを目指した。
    オーストリアのインスブルグ領経由ザルツブルグへ行く途中、小さな駅前の安宿にチェック・インした。夜中に何気なく二階のベッド部屋の窓のカーテンの隙間から駅を見ると、暗闇の中、戦車や装甲車を積んだ長い貨物列車が停まっていた。当時、1968年、チェコスロバキアは言論や集会の自由、市場経済の導入など自由化政策の導入を推し進めていた。
    この「プラハの春」と呼ばれる動きを封じ込めるため、ソ連を軸とするワルシャワ条約機構軍がワルシャワへ侵攻するのではないかという危機感があった。多分、貨物列車の戦車はNATO軍が警備のためドイツ・チェコスロバキア国境へ移動中だったのか、ナチ・ドイツ軍の映画を観ているような重々しい駅の周りの雰囲気だった。
    1968年8月20日、ソ連軍がプラハへ侵攻した日、ウィーンのYHに着いたら、ボディ・ガードの岸と別行動をとったという菊地さんに幸運にも再会できた。
    その夜、オレは彼女を誘い二人でドナウ川のほとりを散歩、ロマンチックなウィーンの夜だったが、彼女には許婚がいると知らされた。
    翌朝、彼女に二度と会えないと思い、オレは彼女を誘いYHで朝食をしたいと思い彼女を探したが、すでに旅の次の目的地へ出発したのか見つけることはできなかった。オレはがっかりもしたが、ソ連軍ワシャワ侵攻という歴史的な大事件に遭遇し、好奇心旺盛なオレはチェコスロバキア国境へ向かった。国境はワルシャワ機構軍の兵隊が物々しく警備しており、ピリピリした空気が支配しており、彼らの罵声を背にオレは今来た道を引き返えしミューヘンへ向かった。
    ミュンヘンでの再会
    二日後、市庁舎の塔にある人形劇の仕掛け時計とビールで有名なミュンヘンのYHに着くと、ローマのYHで逢った横浜の大野、秋田の菊地さんとまた会った。偶然というか、日本人の移動形態が似通っているのか、ヨーロッパを走っている間、同じように多くの日本人に何度も会った。大野と菊地さんはお互い初対面だった。
    その夜、三人でヒットラーがナチ党の旗揚げをやったことでも有名なホフブロイハウスという三百年以上の歴史を持つビャホールへ出かけた。
    このビャホールは天井の高い一階のホールは数百人も収容できる建物で、観光客も地元の客といっしょに巨大なジョッキになみなみと注がれたビールを飲み、にぎやかに歌い、語り合い楽しんでいた。
    我々も長い木製のテーブルに陣取り、ミュンヘン名物の白ソーセージをおつまみに、思い切り飲み、周りの観光客と一緒に楽しんだ。
    ビールを飲みながらフィレンツェで大野と話した中近東からイン
    ドへの具体的な旅の話になった。大野はドイツ中古車を買って中近東を横断することにしたと言った。そして、中近東の夏は暑いから涼しい季節になってから出発することなど、具体的な話になった。
    その話を聞いていた菊地さんも、
    「私も行く!」と、酔いに任せて元気な声を上げた。
    オレは彼女が中近東横断するはずはない、酔った勢いで言ったのだと思い、
    「わかった!じゃあ、まだ二か月ほどあるが、10月15日、アテネのYHで会おう」と、言うことになった。
    アテネは、リスボンからナポリまでバイクを引き取りに行ったとき、オレが立替えていた飛行機賃をアテネの船会社で受取ることになっていたからだ。
    翌日、当たり前のように、それぞれの次の目的地へ散って行った。オレは北欧を目指すことにした。ミュンヘンから北へ向かい、フェリーでバルト海を渡り、一日かけてデンマークのレズビュハウン港へ着いた。
    デンマークからスェーデンへ
    北欧 忘れられない想い出
    レズビュハウン港から、八月末であったが、秋風が身に染みる平坦な田園が広がる道路を北へ数時間、コペンハーゲンに着いた。
    コペンハーゲンの名物と言えばアンデルセン童話の「人魚姫」を題材に造られた人魚姫の像とチボリ公園が有名である。この人魚姫の像は高さ八十センチと小さく、像の背後には海を隔てて造船所が見え、「世界三大がっかり」と評されていた。
    一般的には人魚の下半身は魚のシッポであるが、モデルの足があまりにも美しかったので、製作者がこの人魚姫の像の下半身に脚を付けたけたのは有名な話である。
    1968年当時、デンマークはインフレで賃金も高く、コペンハーゲンの街は日本人ヒッチハイカーたちで溢れかえっていた。
    コペンハーゲン駅周辺の繁華街にあるレストランでテーブルの片づけや皿洗いのスタッフはほとんどが日本の若者だった。
    YHにも多くの日本人若者が長期滞在し、この街でバイトして稼いでは次の目的地へ旅立っていた。
    コペンハーゲンのYHに着いた翌朝、オレは目が覚めると、疲れがひどく起き上がれなくなった。
    YHにはチェックアウト時間があったが、オレは理由を言って特別に許可をもらい、宿泊客の出払った三段ベッドが並ぶ部屋で朝食も摂らず横になっていた。だが、昼過ぎになると気分がよくなり、夕方になると朝の疲れがウソのように体の調子がよくなった。
    そして、このYHに泊まっている日本人のヒッチハイカーたちに誘われたり誘ったりして駅前のカフェやチボリ公園でビールを飲み、駄弁り、夕日の沈みが遅く、涼しい北欧の夏の夜を楽しんだ。
    しかし、次の朝、目が覚めると、また疲れがひどく起き上がれなくなり、夕方になると元気になった。このような体調が一週間ほど繰り返し続いたが、オレは長旅の単なる疲れと思い、保険も持たずの旅だったので医者にも行かなかった。後年、毎日起こる、その体調の原因は低血圧症の症状だったとわかった。(つづく)
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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki



    ※ご本人様の承諾を得てブログ掲載しています。

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話



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    Osako Yoshiaki (大迫嘉昭)

    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (21)
    アメリカ生活にもすっかり慣れた1966年、ベトナム戦争の拡大とともに忘れられない事件や事故が内外ともに多発した。
    二月、北海道千歳空港発羽田行き全日空ボーイング727機が東京湾に墜落、乗員とも233人全員が死亡、一機の死者としては当時世界航空機史上最悪であった。
    全日空機の事故から一ヶ月後の2月4日、同じく羽田空港でカナダ太平洋航空のDC8型機が着陸に失敗、72人中、64人が死亡する事故が起きた。翌日の5日、今度は英国のBOACのボーイング707型旅客機が富士山で墜落、113人全員が死亡した。
    この航空機事故は、二日続きの航空史上例のない大惨事であった。カナダ太平洋航空機の事故は、いつも行くアパート近くのコンビニで売っている「ロサンゼルス・タイムズ」を見て知った。
    その日の夕方、同じコンビニの前を通ると、航空機事故を報じた新聞が再び目に入った。
    「今朝の新聞,まだ売れ残っているのか?」と、なじみの店主に訊くと、
    「朝から、そんなことを訊くのはお前で8,9人ぐらいだ。無理もないけど。よく見ろよ。二日続いて同じ国で、それも100マイル(160キロ)以内でこんな飛行機事故が起こるなんて初めてだもんな」と、
    ユダヤ人の店主は両手広げ、大げさに驚くしぐさをした。
    時差の関係で、アメリカでは二つの事故は朝刊と夕刊に載った。
    だから、このような錯覚を起こしたのだ。忘れることのできない日本の航空事故であった。
    ベトナム戦争と公民権運動
    当時、世界一豊かで自由な国、アメリカは国内外に抱えた問題が拡大しつつあった。内においては、黒人やほかのマイナリティ(少数民族)が教育、雇用、住居、司法などの分野における人種差別に抗議し、白人と同等の権利の保障を要求する運動が起こっていた。その代表的な運動がマーティーン・ルーサー・キング牧師の指導した非暴力による直接の抗議行動、いわゆる公民権運動であった。
    外に対しては、私がガーディナーのヘルパーをしていた1964年8月に起こったトンキン湾事件である。ベトナム北部にあるこの水域で、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたとして、アメリカ空軍は北ベトナムの沿岸基地を爆撃、ジョンソン大統領は戦争遂行の権限を議会に求めた。議会は圧倒的多数でこれを承認、これを契機に北ベトナムの爆撃と地上部隊の大量派遣に踏み出した。この事件によってアメリカは、少なくとも国内的には、ベトナム戦争に介入する大義名分を得た。
    この二つの歴史的事件は、毎日トップニュースとしてテレビ、新聞などで大々的に取り上げられた。だがオレの知る限り、アメリカはベトナムで戦争している一方で宇宙ロケットを打ち上げていた。戦争は本来、国全体が団結して敵に立ち向かうものだと思っていたが、アメリカは片手間にやっているような感じで、周りのアメリカ人も他人事みたいなゆとりがあり、最初の頃は戦争の緊張感もなく周りのアメリカ人は表面上、何事もなく日常生活を続けていた。
    1965年三月の初め、南ベトナム空軍機とアメリカ空軍機160機以上が北ベトナムの弾薬貯蔵庫や海軍の軍事施設を爆撃、70から80パーセントを破壊したとメディアは報じた。この出撃はアメリカのベトナム戦争介入以来、最大規模だった。それから数日後、アメリカは戦車を含む重装備の海兵隊3,500名を北ベトナムのダナン海岸に上陸させた。
    テレビや新聞はこのニュースを連日大々的に取りあげ、いくら直接関係のないオレでも、アメリカに住んでいると、アメリカが本気でベトナムへ介入していくのを肌で感じ始めた。
    アメリカに行くまでは、アメリカの大学は中産階級の子弟が学び、卒業後はエリートとして敷かれたレールに乗りまっしぐらに出世街道を走るものであり、日本の60年安保のような過激な政治運動とは無関係なものだと思っていた。
    だが、英語学校に入学した64年9月、カリフォルニア大学バークレー校で、それまで黙認されていた大学の正門前でのスピーチを学校側が禁じたことに端を発し、学生たちがそれに反発して大学は大混乱に陥り、12月に大学側が警察を導入して、800人以上の学生が逮捕されるというかってなかった事態が起こった。
    この大混乱の中で学生たちは、大学というものは大学の管理エリートによって、企業が求める知識を学生に詰め込む単なる工場に過ぎないと認識し、学生の権利を少しでも侵害するすべてのものに反撃し始めた。アメリカという「豊かな社会」で育ったエリート学生たちは、同じアメリカで差別を受けている黒人を助ける運動を始めるとともに、自分たちの権利を主張する運動の拠点を大学内部に設立した。
    当時、ロサンゼルス市内では、テキサスなど南部の州のナンバープレートをつけた車をよく見かけた。乗っているのは99パーセント黒人であった。
    南部の州と違い、ここカルフォルニアではトイレ、レストラン、バスも白人用、黒人用という区別がなかった。南部に比べあからさまな差別のないカリフォルニアへ、多くの黒人が移動してきていた。
    1965年8月12日、ロサンゼルスの南約16キロ、ワッツ地区で黒人暴動が起こった。
    この暴動の発端は、ワッツ地区の路上で黒人の酔っ払い運転者を白人警官が逮捕しようとしたことがきっかけだった。黒人群衆と警官隊との間でトラブルが発生し、アッという間に大規模な暴動に発展してしまった。暴動の背景には、ロサンゼルス市警察署長が差別主義的な考えの持ち主であったため、黒人の間に警察官に対する不満がたまっていたことも一因だったようだ。
    この暴動は寝苦しい夏の夜、一週間も続き、死亡34人(うち黒人に15人)、1.000人以上の重軽傷者が出て、1,000戸近くの建物が破損、破壊された。殺された者の中には日系二世の若者もいた。
    暴動が収まった翌日からは、暴動で殺された黒人たちの葬儀がオレの働いていた墓でも行われ、墓堀の手伝いに駆り出され、芝刈りどころではない忙しく暑い夏の日々がしばらく続いた。
    (つづく)

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (22)
    当時、日本では車を持っている人はほんの一握りであったが、ロサンゼルスの住宅は、どこもガレージ付で、どの家庭でも最低一台の車があった。
    運転できない者や車を買う金のない者は、この広い土地ではまったく身動きができない。移動は総てが車で日常生活に欠くべからざる靴のようであった。
    車に乗ったまま映画を見るドライブ・イン・シアターをはじめ、ドライブイン・レストラン、ドライブイン・バンクまでが、すでに当たり前にあった。
    映画やテレビは、オリーブ油できれいに日焼けした若者の青春像を「サンタモニカ・ビーチ」や「車」とともに、南カリフォルニアの若者の生活様式として、アメリカはもとより全世界に伝えていた。
    その映画やテレビが作り物であるにしろ、ハンドルを握り、車のラジオから流れる「ビーチボーイ」を聴きながらフリーウェイを、ビーチロードをドライブするだけで、貧乏留学生のオレでも「南カリフォルニアの青い風」が体中を吹き抜けるような爽やかな気持ちになった。
    カリフォルニアはアメリカ中からだけではなく、世界中から人々が集まってくる二十世紀のアメリカ新大陸のように思えた。
    そこには巨大なエネルギーと富が渦巻いており、夢が溢れているようだった。人間にとって全てのものに恵まれた南カリフォルニアで生活すれば、心身共に健康になり、夢も無限に大きくなるような気がした。
    「地図を見ると、日本はソ連(ロシア)や中国から石を投げると届きそうな距離にある。核弾頭が打ち込まれる恐怖はないのか?」と、アメリカ人から時々聞かれたことがあった。
    日本にいたときはソ連(ロシア)や中国からミサイルが飛んでくると考えもしなかったが、アメリカに住んで世界地図を広げ眺めると、日本列島は北のカムチャック半島か近くら南は台湾の近くまで約三千キロ細長く伸び、確かに、中国やソ連(ロシア)からの攻撃を防ぐアメリカの防波堤になっているように思えた。
    それは、あたかもアメリカとキューバの位置関係のように見えた。アメリカはキューバにソ連(ロシア)のミサイルが配置され、「アメリカの喉元に刺さったトゲ」を撤去させるため、フルシチョフとケネディ大統領は第三次世界大戦の勃発を予測させるようなキューバ危機を起こした。
    アメリカから見れば、日本は中国やソ連(ロシア)に対する最前線基地であったが、反対に中国やソ連(ロシア)から見れば、日本は喉元に刺さったアメリカの「トゲ」に見えただろう。見る立場が違うと考え方も違うのだ。
    アメリカ生活の四年中、忘れられないのはベトナム戦争のエスカレーションとアメリカに来て三か月後の1964年10月、開催された東京オリンピックである。
    日本を出発する頃は、日本中、どこのデパートのショーウインドーも華やかにオリンピック開催を祝う飾りつけをし、日本全体がオリンピック一色のにぎわいを呈していた。
    ロサンゼルスの日系新聞「羅府新報」も連日のように、「受け入れ進む羽田―浜松間モノレール」、オリンピックに向け「ホテル・ニューオータニ」、「東京プリンスホテル・オープン」、「ホテル・ニューオータニの高層スカイラウンジ見物人客で大混乱、ホテル側急きょ整理券発行に大わらわ」、「伊東と熱海の旅館9万人のベッドを空け外国人客に備える」等々、国を挙げてのオリンピックムードを伝えていた。しかし、働くことと学校だけのオレにはオリンピック開催直前まで、他人事で興味もなかった。
    それよりも、当時、日本ではボーリングするのに5,6時間も待たされるほどのブームだったが、ロサンゼルスでは待つことなく、すぐ出きることが嬉しかった。オレは1964年10月9日、、学校仲間と日系人の経営するボーリング場で、10セント(36円)のコカ・コーラ―を飲み、ボーリングをしながら、時差の関係で金曜日の夜中に中継された東京オリンピックの開催式を偶然観た。
    テレビ画面の鮮明度は、前年の十一月、ケネディ大統領が暗殺されたときの衛星中継に比べ、格段とよくなっており、国内放送を観ているようだった。
    開会式の中継は二時間ほどであったが、東京国立競技場の熱狂的な歓声とは裏腹に、アメリカ人アナウンサーが淡々と「英語」で放送する画面には、感激も感動も起こらなかった。
    日本のバレーボールチームが優勝した試合もテレビで観たが、「英語の実況放送」だったので、
    「ああ、女子バレーボールは日本が金メダルか」という程度のあっさりした印象だった。
    オリンピック開催中、日本では一億総国民がテレビにかじりついて大盛況のようであったが、オレはアメリカでテレビを通じて、オリンピックに熱狂する日本人を冷静に観察することができた。
    「日本女子バレーボール金!金!金メダル!」とアナウンサーまでが興奮して大声を上げ、それを観戦している一億総国民は日の丸が揚がり、「君が代」が演奏されると感動と感激の涙を流したと「羅府新報」に載った。
    オリンピックの翌年、ロサンゼルスにある「東宝ラブレア劇場」で東京オリンピックの記録映画が上映された。観客はほとんど日系人、日本からの駐在員家族、留学生で、観客もそうであったと思うが、オレも、前年、東京で開催されたオリンピックの雰囲気を味わうため観に行った。
    女子バレーボールの優勝シーンは、当日のアナウンサーの日本語実況入りであったが、英語によるテレビ放送で観たときと違って感動した。アナウンサーは視聴者を感動させ、感激を煽るのが実にうまいものだと、つくづく感心した。それに母国語というのは、感性や感情に直接訴えるものがある。
    反面、一億総国民が熱狂しているのを外から観ていると、それが健全なスポーツ大会と違い、戦前のドイツのベルリン・オリンピックのようなヒットラー・ナチス党のもとでのようなものであれば、危険な方向へ走り出す可能性もなきしもあらずと、一瞬過ったのも事実であった。(つづく)


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    Oldies’60s, Hardies in California 
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    オレの二十代
    (23)
    ベトナム戦争、ワッツの暴動、キング牧師の公民権運動、カリフォルニア大学バークレー校の「学生の反乱」はオレにとっても、無関心ではおれない出来事であったが、取り立てて切実な問題ではなかった。
    朝6時に起床し、7時から12時まで墓地で働き、午後2時から9時まで大学で授業を受け、アパートに帰って、簡単な夕食を摂り、シャワーを浴び、真夜に床に就くまで囚人のような規則正しい日々の繰り返しだった。
    アメリカ社会が激動する時代、アメリカ音楽は黄金時代だった。オレの心を癒してくれたのは、トランジェスター(携帯)ラジオから流れるビートルズの「アイ・ウオン・ツ・ホールド・ユアー・ハンド」、「シー・ラブ・ユー」、ダイアナ・ロスとスプリームスの「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ」、「ユー・キープ・ミー・ハンキン・オン」、スコット・マッケンジの「花のサンフランシスコ」、ビーチ・ボーイズの「サーフィン・U.S.A.」,ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」、ビー・シーズの「マサチューセッツ」など Oldies,60sのヒット曲であった。まさに音楽は黄金時代であった。
    今でも「Oldies,60s」の曲を聴くと,当時のことが鮮明に思い出される。
    1965年5月、中国では毛沢東指導による「封建的文化、資本主義的文化を批判し、新しく社会主義的文化を創生しよう」という名目の「文化大革命」が始まった。
    イギリスのツイギーのミニスカートが流行、ビートルズ旋風、学生の反戦運動、ヒッピーの出現が世界の若者文化を変えていった。さらには、サンセット・ブルバード(大通り)界隈を旧ドイツ軍のヘルメットをかぶり、鎖をネックレスのように体にまとったオートバイ軍団「ヘルズ・エンジェルス」が我が物顔に走り回り、ジョン・バェズ、ボブ・ディランなどの反体制的なフォークソングが流行り、アウトロウたちの暴力に満ちた映画「俺たちには明日はない」が若者たちの絶大な人気を集めた。こうした若者たちによる豊かな社会に対する反逆、文化の急激な変化に、オレはアメリカという国がほころびていくように思えた。
    ベトナム戦争はますますエスカレートの一途をたどり、戦死者の数は週に100人を越すようになり、米軍の苦戦は誰の目にも明らかであった。アメリカのベトナム派遣兵が47万人を越え始め、アメリカ政府はアメリカ在住外国人、すなわち、駐在員、留学生、観光ビザで滞在している者もドラフト(徴兵)の対象にすると発表した。アメリカ各地では黒人解放運動や学生運動が急進化し、政治的反戦運動も全国的な広がり、中学時代見たアメリカ映画によく描かれた「静かで豊な50年代のアメリカ」のイメージは幻のごとく消えていた。反面、トヨタ、日産、ホンダなど日本車がロサンゼルスの街角で、月に何台か見かけるようになってきた。
    バイクで帰国へ
    私は大学でビジネス・マネージメントという、日本ではまだ馴染みがない分野を専攻していた。企業が新製品を売る場合、商品の価格、販売戦略をどのように立てるかを目的とする学問であった。
    やみくもに足と顔で稼ぐ日本式経営はもう時代遅れで、この学問は帰国し就職したら役立つと思った。
    同じ頃、日本は経済発展とともに海外旅行ブームが始まった。ロサンゼルスの街角にも日本人観光客が目立ち始め、ロサンゼルスにある日米の航空会社は日本人観光客に対応する「日本語のできる社員」の募集を始めた。
    オレがアメリカ留学した目的は英語を学び、将来、航空会社で働くことだった。アメリカの航空会社は給料も良いし、安く日本に行けるし、週休二日制もない、シャワーも風呂もなく、銭湯を利用し、狭い家、車も持てない日本よりも、豊かな生活が出来るアメリカに住みたいと心が揺れ出し始めた。
    オレは年に一、二度しか着ない、しわだらけの背広をクリーニングに出し、墓の仕事を休み勇んでダウンタウンの日本航空、パン・アメリカン、ノースウエスト航空へ履歴書を携え訪問した。
    日本で旅行会社勤めの経験あるオレは直ぐ内定したが、会社が永住権手続きをしてくれるものと思っていたのが甘かった。最終的にはグリーン・カード(永住権)がないという理由ですべて不採用になった。
    永住権のあるアメリカ女性と結婚すれば、問題は簡単に解決したであろうが、単に就職のために結婚する気にはならなかった。
    オレは28歳になっていた。常識的には結婚し、家庭を持つ歳頃であった。アメリカで航空会社に就職できなければ、留学の意味がなくなった。ならば帰国して航空会社の就職口を探そうと決めた。
    居間の壁に掛けたアメリカの地図を眺めると、アメリカに四年住んでいたが、その間ロサンゼルス、サンフランシスコ、ヨセミテ、ラスベガスぐらいしか行ったことがないのに気づいた。
    帰国して航空会社へ就活しても、たったこれだけのアメリカを見ただけでは、就職に有利な条件にはならないことは確実であった。
    「一見は百聞に如かず」である。アメリカを、いや世界中を旅行し、できるだけ多くの名所旧跡、観光地を観て帰国すれば航空会社への就活には有利だろうと考えた。
    それに、年齢的にも人生で長旅できる時間的余裕も今しかないし、同時に未知の国を見てみたいという好奇心がオレを大いに刺激した。それに、帰国後の人生の再出発へのターニング・ポイントとして、何か達成感を味わってみたいという思いが頭の中で渦巻き始めた。
    2018年の海外出国者数は約1,900万人である。オレがアメリカへ行った1964年、海外へ出国した日本人数は約12万人だった。そのほとんどが業務渡航者で、留学や観光で出国した日本人は数万に過ぎなかった。その渡航先もほとんど香港や台湾であった。アメリカ留学の帰路、世界を観て回るなど、誰も思いつかない時代だった。
    誰もが出来ないことができるチャンスが目の前にあった。何とオレは先見の明のある運の良い男だと思った。オレは大学に残るより、世界を観て回る旅のほうが自分の人生に価値はある思い、すぐ学校を辞めた。
    「時は金なり」だ。
    学校を辞め、働けば移民局に捕まり、日本へ強制送還される恐れはあった。しかし、オレには、もう、そんなことは問題でなかった。
    移民局に捕まった時はその時だと、学校を辞めるとオレはガソリン・スタンド、ガーディナーのヘルパーなど、レストランの皿洗いと時間の許す限り昼夜に関係なく働きはじめた。
    その甲斐あって、10か月ほど今までコツコツと大学の授業料に貯めていた分を合わせ3,000ドル(108万円)ほど貯まった。
    いよいよ旅の計画である。同じ旅行するにしても飛行機で名所旧跡を訪ねる旅では面白味がなかった。四年間使っていた自分の中古車でアメリカ大陸を横断、ニューヨークまで行き、船でヨーロッパへ渡り、中近東、インドまで行こうと考えた。(つづく)

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    オレの二十代
    (24)
    当時は冷戦時代でソ連や共産圏は通過、入国できなかった。インドまでと考えたのは、そこから先はベトナム戦争で通過できないことは常識だった。
    早速、ヨーロッパや中近東のことを調べようとしても、今のようにiPhone,コンピュター、日本語の世界ガイドブックもない時代、大雑把なロードマップを買い込み、ガソリン代や宿泊代など諸々計算すると、今の所持金では、とても車でインドまでは行くのは不可能とわかった。
    1967年のある日、久しぶりに同じアパートの住人ヤマハの駐在員Aさんに会い、雑談の中で、オレの世界旅行計画の話したところ、
    「車で行くのですか?車はガソリンを食いますよ。バイクで行ったらどうですか」と、さりげなく勧められた。
    オレはバイクに乗ったこともなく、それよりもバイクに無関心で、バイクの性能に関しても全く無知で、車で世界旅行することしか頭になかった。日本のバイクの性能は非常に良く、海外のレースでも常に上位入賞を果たしており、ガソリンも車に比べ消費慮も極端に少なく、一人で旅行するならバイクですよと説得され、
    「そうか、バイクという手もあったのか、それなら・・・」と、即、バイクで行くことに決めた。
    1968年1月、オレは当時、最も排気量の大きかったアメリカ向け輸出用バイク305CCの「ヤマハYM1」を750ドル(27万円)で購入し、出発は雪を警戒し、アメリカ東部に春が訪れる5月と決めた。
    (写真、旅のために買ったバイク。当時としては一番大型だった)。
    アメリカに来て以来の四年間、学校と仕事だけという生活パターンだったオレは、この二つをやめると、刑期を終え、刑務所から出てきたような解放感を全身で感じ、初めて、自分がロサンゼルスに住んでいたのだと実感した。反面、学校と仕事のみだった生活習慣が抜け切れず、肉体的には健康だったが脳の回路が鈍くなったのか、日々の行動範囲を思うように広げられなくなっていた。
    冒険というのは堀江健一や植村直己のように小さなヨットで太平洋を横断するとか、極寒の南極を単独で横断するとか命の危険を承知に、自然の猛威を相手に挑戦することだとオレは思っている。昨今、経験も知名度もない自称冒険家が自分の野望、野心を叶えるためスポンサーを探し、寄付集めする輩が多い。人間、その数だけ考え方、生き方があることは認めるが、他力本願の風潮は感心しない。
    オレはバイクで世界一周したが冒険だと思ったことはない。オレのバイク世界一周のことを敢えて今流に言うなら、100ドルを懐に米国留学し、自力で学費や生活費、バイク一周旅行費を稼いだ、その努力に対する褒美だと思っている。
    バイクは飛行機、客船、汽車、バス等の交通機関同様、単に旅費と利便性を考慮した上、移動手段に使用しただけである。
    出発前は長距離走行に慣れる練習もせず、日々、車代わりにバイクを使っていただけである。アメリカの生活に慣れていたので、バイクでアメリカ大陸横断といっても、日本国内を旅行するような感覚で、準備らしい準備は全くしなかった。
    最も大事なことは不測の事態に対し、臨機応変に対処することで、必要な物はお金さえあれば、途中で買えばいいと暢気に構えていた。
    多少はヨーロッパの情報は知りたかったが、当時、日本語の海外ガイドブックなどの出版物はまだなく、行ったこともない土地や国のことを想像することもなかった。
    東京ローズ
    出発が近づくと少しでも節約しようと、四年間住んでいたアパートを引き払い、八十過ぎた日系人夫婦が経営する古い一軒家の安い貸間へ引っ越した。
    シャワーはあったが台所はなく外食になった。家主は一階に住み、二階が貸間になっていた。階段を上がると正面が狭い私の部屋で、その隣には六十過ぎの日系二世のガーディナーが借りていた。
    彼は、いつも朝早く、仕事用の道具を満載したトラックで近くの「デニーズ」へ寄り、そこで朝食を摂り、仕事に出かけ昼過ぎには帰って来ていた。そのあと、彼は窓のブラインドを降ろし、趣味である自分で撮った16mm映像をひとりで楽しむのが彼の日課,趣味だった。。
    彼はアメリカ国籍だったが、戦時中、強制収容所に入れられ、アリカ政府を嫌っていたが、
    「ジャパンに行ったこともないし、ここに住むしかない」と、世間とは没交渉で、最低限の生活費を稼ぐだけの孤独な老ガーディナーだった。
    彼の隣の部屋には27,8歳のベトナム帰りの帰米(アメリカ生まれの日本育ち)が住んでいた。戦車の機関銃兵であった彼はブッシ、ュ(やぶ)に潜んでいるべトコン(ベトナム解放前線)を撃ち数名を殺したが、あとで、射殺したのはべトコンではなく、南ベトナム人であったことが判明した。彼の上官は事実が軍の上層部に知れるのを恐れ、その証拠隠滅のため死体にガソリンをかけ、燃やしたそうだ。彼は除隊後も、そのことが脳裏から離れず熟睡できず、気分がすぐれないと言って、ほとんど部屋に閉じこもっていた。
    家主夫婦には嫁いでいる四十前後の知的な娘がいた。彼女は時々、実家に来て、年老いた両親の身の回りの世話をしていた。
    あるとき家主がオレに、娘は太平洋戦争が始まる前日本へ行き、戦争が始まると米国へ帰国できなくなり、NHKラジオ「セロアワー」のDJをしていた女性アナウンサーだったと何気なく言った。
    東京ローズはあの有名なアイバ・戸栗だけだと思っていたが、その娘は数人いた東京ローズの一人だったそうだ。アイバ・はアメリカの兵士を悩ますような色っぽい声ではなかったとか、アメリカ兵が聴いた声はジェーン・須山の声だよと、娘から聞いていたのか、家主の話はまんざら嘘ではないように思えた。ある時、家主に頼まれその娘の家の庭掃除に行ったら、昭和天皇によく似た主人がいいたので、家主にそのことを言ったら娘は皇族の一人と結婚していると言った。
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    オレの二十代
    (25)
    旅立ち 世界一周へ
    年が明けた1968年初頭、身の回りの物を整理の合間に、ほとんど毎日、暇に任せアパートから三十分ほどのサンタモニカ・ビーチで竿を垂れながら、四年間の日々を思い返し解放感を満喫していた。
    釣りに行く楽しみはそれだけではなかった。時々ビーチを散歩している女性、東京のファッション・デザイナーというオレと同年配の知的な美人に会うことだった。そのうちに親しくなり、マリブビーチのハイウェィR1脇にある女優や男優の大きな写真が飾ってあるウエスト・コースト風の有名なレストランで彼女と昼食をして優雅で楽しい時間を過ごした。
    彼女は離婚問題で揉めている主人から、ロサンゼルスへ逃げてきた複雑な事情があった。この知的なファション・デザイナーの女性にもっと早く会っておけば良かったという思いもあったが、バイク旅行の出発が近づき良い思い出として、それで終わった。反対に思い出すと腹が立つが、四年間の間に神戸から来たという、知り合いでもない若者が三度オレのアパートに転がり込んできた。行く当てもないというのでオレのアパートに泊めたが、どのようにして、オレのアパートの居所を知ったのか、今は思い出せない出来事だった。オレも仕事と学校で奴らの世話など出来なかったのが、ある日、帰宅すると忽然と奴らは消えていた。その一人がオレの中古車とペンタックス・カメラと交換した奴だった。
    バイク旅行に最適な季節五月がきた。
    部屋の窓を開け夜空を見上げると、宝石を散りばめたように何億年も前に遠いところからやってきた無数の星が輝いていた。
    それに比べると人間の一生なんて、せいぜいで百年である。流れ星が左から右へ移動する時間にも足らないぐらい短い。人間の寿命は宇宙の時間に比べ一瞬だと知りながら、有史以来、人間は殺し合いをやめない。主義主張と人間の命とではどっちが大切かわかっているのに人間は戦争という名のもとに限りなく殺し合う歴史の連続だ。
    平和な時は虫も殺さない人間が,戦争になると平気で人を殺す。人間はどうしてこうも愚かな動物なのだろうか?地球に人間という生き物が存在する限り、人間同士の殺し合いはなくならないのだろうか?
    当時、ただ世界一豊かなアメリカに住みたいがため、主義主張もなく命と引き換えに、ベトナムの前線に送り込まれる可能性の高いアメリカの軍隊に志願した日本人がいた。そこまでしてアメリカの永住権を手に入れる価値があるのだろうか?人には人それぞれの価値観がある。日本で稼ぐより数倍もある豊かなアメリカ、エアコン、風呂付のない家、車も持てない日本。だから渡航自由化後、観光ビザでアメリカに入った日本人の多くは、アメリカの豊かな生活を手に入れるため、志願兵という命と引き換えに、危険を冒してまでも永住権を取得しようとする日本人がいたのだ。
    今でも紛争地で勤務するアメリカ兵は永住権獲得のための「アメリカ人」が多いと言われている。
    オレは世界の名所旧跡観光地を訪れながらバイクで旅行する日が近づいてきた。
    一年を通じて、ほとんど晴れのロサンゼルスに、出発前日の夜雨が降った。朝目が覚めると、太平洋からさわやかな風がロサンゼルスの大盆地を吹き抜け、街全体を覆っていたスモッグは北の丘陵地帯に押し流しされていた。そして、大都会ロサンゼルスを囲んだ丘陵や遠くの山々が驚くほどくっきりと見えた。まさに、街が名のごとく「天使(Los Angeles)の街」になった1968年5月19日、約2,200ドル(当時のレートで約80万円)のトラベラーズ・チェック、車と交換したペンタックス・カメラ、皮のズボン、下着各一枚、背広上下一着などを入れた布製の袋をバイクの後ろに括り付け、ハンドルにはテント地の水筒をぶら下げ、夜明け前、仕事に出かける親しくしていた孤独な隣室の老ガーディナーと「デニーズ」で別れの朝食を摂った。
    そして、オレはこれからどこまで無事に走れるわからないヤマハYM1にまたがり、一路、東へニューヨークを目指し、ルート66をシカゴまで走る予定であったが、ルート66はオレのアパートの北20キロほどのパサデナまで行かないと入口ないので、数年前完成した近くの、ルート10を東へ走り出した。
    当時は車の免許所を持っておればバイクの免許所は不要で、バイクに乗るにはヘルメットの着用という規則もなかった。
    ルート66は1962年、NHKで放映されたアメリカの人気テレビ・ドラマ、青春アベンチャー・ストーリー「ルート66」で、シカゴとロサンゼルスを結ぶルート66と呼ばれるハイウェイを二人の若者がコルベット・スティングレーに乗って旅しながら、途クス・オン・ルート・シックスティーシックス」が鮮明に記憶として残っていたことも一因であった。
    しかし、オレはアメリカに来た時働いた、ジョン・スタインベックの「怒りの葡」の中で描かれていた、あのルート66を旅してみたいという気持ちの方が強かった。
    この小説は、カリフォルニアへ移住するオクラホマの貧しい農民一家が、偏見や貧困といった様々な問題を乗り越え、明るい未来を求め西部へ向かう内容の作品である。その中で、スタインベックは、このルート66を「マザーロード」と呼び、克明に描写している。
    だから、世界旅行を思いついたときから、あの有名なサンタモニカからシカゴまでの2,347(3,755キロ)マイルのルート66を走ることは、オレには自然な成り行きだった。
    それ以外のルートを走ってアメリカ横断するなどは全く考えなかった。
    バイクを購入してから出発すまで、一日で最も長く走った距離は100キロにも満たなかったが、ラスベガスまで約500キロ走ることに全然何の不安も感じなかった。
    大都会ロサンゼルスが目覚め始めた静かなハイウェイをヘッドライト付け、窓を閉め切った車から、声は聞こえなかったが、運転する中年男性が親指を立て、バイクのオレに顔を向け、「グッド・ラック」と旅の安全を祈っているように微笑み、ヤマハM1オレの横を通り過ぎて行った。
    ロサンゼルスを抜け、東のサンバーナーディーノの山を登り切ると、そこから先は見渡す限り荒野だった。日本が今のように豊かな国になるなど考えられなかった時代だった。帰国して航空会社に就職できれば別だが、米国に比べ給料も安く、週休二日制もない、長期の休暇も取れない日本の会社に就職すれば、もう二度とアメリカには来ることはできないと思っていた。
    反面、『ビギナーズラック』の夢が蘇り、これも航空会社就活の勉強?と、敢えて初日はギャンブルの歓楽街ラスベガスに宿泊することにした。
    雲ひとつない砂漠の中を一直線に伸びるハイウェイ、五月のさわやかな空の下、風と太陽を浴びながら、オレの「ヤマハYM1」はエンジン音と耳元で風を切る心地よい音だけが支配する中を快走した。それはオレだけが感じる、初めての自由と解放感の心地よいツーリングの始まりだった。
    ロサンゼルスとラスベガスの中間にあるバーストウはガソリン・スタンドとレストランが数軒あるだけの、西部劇に出てくるような小さな町だった。
    この町からは北東のラスベガスへ向かうルート15と枝分かれして、ルート66は南東へ延びアリゾナ州のキングマンへと続く。バーストウはロサンゼルスからラスベガスやルート66を通り東へ旅する人には給油し、レストランで休憩する重要な小さな宿場町のような街だった。
    ここバーストウから北東へ約10キロ行くと、昔の鉱山跡キャリコのゴースト・タウンは観光客に人気があるとレストランのウエイトレスが教えてくれた。
    日本の観光客がロサンゼルスからラスベガスへ移動するとき、このゴースト・タウンを訪れることを勧める資料になると写真を撮り、案内所で資料を集め、ノートに簡単な印象などをメモし、デスバレー(死の谷)経由、砂漠をラスベガスへ向かった。
    砂漠では夕日が地平線に沈んだ途端、夕闇があたり一面を覆う。すると、ラスベガスの40キロほど手前、カリフォルニア州とネバダ州の州境あたりから、東の空がまばゆいばかりに明るく輝く不夜城ラスベガスの灯りが目に入ってきた。
    大陸横断初日、これから先、どれほど費用が掛かるかの不安を抱えながらラスベガス泊まり、勝つ確率の低さやブラック・ジャックに手をだし、幸運にも約200ドル(36,000円)を手に入れた。
    オレは出発前にモーテル代、ガソリン代、食事代など一日15ドル、ニューヨークまで二週間かかるとして合計200ドルは必要と計算していたので、この夜は、数時間でアメリカ大陸横断に必要な費用を稼ぐ、二度目の「ビギナーズ?・ラック」だった。
    翌朝は疲れで朝寝坊し、ラスベガス出発は昼前になった。
    写真:R15カリコへ、カリコ・ゴーストタウン、デスバレーへ(つづく)

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    オレの二十代
    (26)
    翌朝は疲れで朝寝坊し、ラスベガス出発は昼前になった。ラスベガスから東北へルート93を一時間ほど走ると、コロラド河をせき止めた黒部ダムに似たフーバーダムに到達した。
    このダムの上も黒部ダムと同じように道路になっており、このダムそのものがアリゾナ州とネバダ州の州境になっていた。このダムを渡り切ると時差があり一時間進へ進んだ。
    フーバーダムを越え、アリゾナ州へ入ると、赤土色の山肌に囲まれたルート93から先は見渡す限り眼下に草木一本生えていない本物の砂漠が南東へ広がっていた。
    はるか遠くの山並みも霞み、砂漠の中は片側二車線の広いハイウェイが一直線に南へ伸び、すれ違う車も少なく思い出したように、時々すれ違った。
    雲ひとつない紺碧の空見上げると、すべてのものを焼き尽くそうとしているのか、獲物を狙うように、太陽は身動きもせず熱く輝き、五月の季節感はみじんもなかった。だが風を切って走るバイクのオレにはさわやかだった。
    走っても、走っても風景に変化はなく、同じ場所にバイクが停まっているような錯覚に陥った。オレは心地よいリズム感あふれるエンジンの金属音の響きの中で、米国留学を志し外務省留学試験に向け頑張っていた頃を思い出していた。
    ラスベガスから約二時間、キングマンに着いた。ロサンゼルスからラスベガスへ向かう途中の町、バーストウでルート15と枝分かれしたルート66は、ここキングマンの町でルート93と交わった。
    キングマンはバーストウ同様、ガソリン・スタンド、レストランなど数十軒ほどしかない小さな町であるが、グランドキャニオン、ラスベガス,バーストウ経由ロサンゼルスへの交通の要所だった。
    今はどうか知らないが、当時は日本のように飲物だけを出す「喫茶店」はなかった。
    キングマンの「レストラン」でコーヒーを飲み一服、ここからオレは初めて、ルート66に乗り込み東へ走り出した。
    オレがバイク旅行した1968年当時、日本で中山道の馬籠宿、妻籠宿、奈良井宿などへ旅行する人が少なかったように、ルート66も今のようには注目されていなかった。ベトナム戦争の影響か、アメリカの工場製品の増加とともに、トラックの交通量の急激な増加の中ルート66は大規模な工事中で、その後ルート66の廃線が増え、1985年、「(I‐40)インターステーツ40となったが、最近、歴史的な道路として、再びルート66は世界中の愛好者に脚光を浴びている。
    前夜、ラスベガスで遅くまで遊び、朝寝坊をしてラスベガスを出発したのが昼前だったので、グランドキャニオンへの入口、ウイリアムスのモーテルに着いたのは夜だった。
    翌朝は気合を入れて早起きし、グランドキャニオンへ行くためルート66を離れ、ルート64を北へ向った。
    砂漠地帯から、緩やかな上り下りする針葉樹の森林地帯を約一時間走ると視界が広がり、映画や写真でお馴染みの雄大なグランドキャニオンの風景が、「まさに」、突然、目の前に広がった。
    コロラド河の浸食作用により、1,000メートル以上の深い大渓谷を形成した想像もつかない年月と自然の力のすごさ、そして、自分という人間の小ささを思い知らされ、人間の小さな悩みなど吹っ飛ばしてくれるような雄大な景色である。
    グランドキャニオンは東の川上から西の川下まで、約450キロ、東京・京都間ほどの長さである。
    グランドキャニオンの絶景を見たあと、モニュメントンバレーへ行こうと、渓谷に沿ってルート64を東へ走っていくと、次第に渓谷の幅も狭くなり、浅くなっていった。
    左側の渓谷の絶景に気を取られ、覗きこむように走っていると、突然、直線道路はカーブした下り坂になり、オレはハンドルを取られ砂山に横転した。ゆっくり走っていたのでけがはないと思ったが、右片足が転倒したバイクと道路の間にはさまれ、倒れたバイクは重くて一人では挟まれた足を抜くことは不可能だった。助けを呼ぼうにも周りには人影もなく、車の往来もなかった。
    足を抜こうとしばらく焦り、もがいていると、偶然、本当に偶然であった。通りがかった車が停まり、二人の中年男性が降りてきてオレのバイクを起こしてくれた。
    彼らが去ったあと、緊張がほぐれたのか、足や皮ズボンのベルトあたりに激痛が走りだした。横転したとき、ふくらはぎに熱いマフラーが当たっていたのだ。皮ズボンの上からといえ、足にやけどを負い、腰を力強く捻ったようでベルトで切ったらしく、腹の回りは血だらけになっていた。
    出発するとき、周りの者に
    「数日走って、疲れ、またロサンゼルスへ帰ってくるんじゃないのか」と、冗談交じりに言われていたので、事故を起こした時、一瞬、その言葉がよぎった。
    傷口が痛く走れないのでモニュメントバレー行きをあきらめ、右に折れフラッグスタッフへ向かい、昼食もとらずに途中のモーテルへ入った。気が付いたら朝になっていた。
    初めて経験した事故のショックとツーリング疲れで、皮ジャンバー、ズボンも脱がずに眠ってしまっていた。
    痛みで目が覚め裸になると右足ふくらはぎに五センチ四方ぐらいやけどを負い、ヘソの右を八センチほどズボンのベルトで擦り剥いていた。
    モーテルの女主人に傷の手当を頼むと、
    「医者に行った方が良いよ」と言ったが、米国では保険がないと治療費が驚くほど高いので、
    「たいした傷でない」と言って、モーテルの女主人に簡単な治療をしてもらった。
    バイク保険があるか、ないかも知らず掛けていなかった。痛さをこらえながら再びらゆっくりとフラッグスタッフのから再びルート66を東へ走り出した。砂漠地帯のアリゾナでもこの辺りは赤松の森林が続き走っていても気持ちがよく、傷の痛みも和らいできた。
    アメリカは国土が広く、ハイウェイは一直線で道幅も広く、その上、車の往来も少なく走りやすい。ときどき給油や食事はルート66を下りて小さな町でやった。
    開拓が盛んであった時代は、賑わっていたのであろう町の建物の多くは朽ち果て、死んだような静けさが漂っていた。それが、反面、古きアメリカを想像させ懐かしい気持ちにさせ大変気に入った。
    ヨセミテやグランドキャニオンも観光名所としては日本の観光客には受けるだろうが、こんな寂れた町にも観光客が来てくれ時代が来るなど想像もしなかった。
    ヨセミテやグランドキャニオンも観光名所としては日本の観光客には受けるだろうが、こんな寂れた町にも観光客が来てくれ時代が来るなど想像もしなかったが、それが、今やアメリカや日本でも古き良き時代の「ルート66」として蘇った。
    ロサンゼルスを出発して三日目、予定通り観光資源を訪れながらすでに800キロぐらいアメリカの内陸部へ入り込んでいた。(つづく)

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    オレの二十代
    (27)
    ルート66
    アリゾナ州フラッグスタッフからルート66を56キロほど東へ行くと、「233」と数字だけ書いた出口だ。その横に「メテオ・クレーター」と注意しないと見過ごすような小さな案内板があった。
    その案内板の(Creator)に興味を持ったオレはルート66を出て、南へ10キロほど走ると、赤土色の平原にバスほどの大きさのものから、車ほどの岩が点々と赤土色の大平原に転がっていた。そして突然、平原の中に「メテオ・クレーター」という約5億年前、隕石が衝突してできたという世界最大級のクレーターが現れた。
    転がっている岩は、隕石の衝突で地表からはじき飛ばされた岩であることは一目瞭然であった。小さな粉塵はハワイまで飛んで行ったと立て看板に記されていた。このクレーターはほとんど風化せず残っている世界で唯一の貴重なクレーターだそうだ。
    直径40メートルほどの隕石が地表に衝突してできたクレーターは直径約1・4キロ、周り4キロ、深さ約150メートルのお椀型をしており、その大きさに圧倒された。月へ行ったNASAの宇宙飛行士たちが訓練したのもこのクレーターだったのかと、読んだことのある記事を思い出した。グランドキャニオンよりも気に入った。
    アリゾナとニューメキシコの州境に来ると「Come Again」とか「Welcome To New Mexico」と一目でわかる大きな標識が立っていた。
    ニューメキシコ州は標高約900メートルから3,900メートルと高低差の激しい州である。走っていると急に寒くなったり暑くなったりした。
    この州の面積は日本よりすこし小さいが、人口は100万(現在約200万)と少ない。だから日本ならどこでも視界に入る民家もここでは見当たらなかった。人に出会うのもガソリン・スタンドやレストランレスぐらいであった。
    時々、獲物を狙うように赤土の丘に身をひそめ、違反者を待ち受けているハイウェイ・パトロールーの警官に何度か停められた。
    オレの場合はスピード違反で停められたのではなく、
    「ガソリンと水は大丈夫か?」と、親切心で停められたのだ。水はテント用の布地の水筒に入れ、ハンドルに吊り下げて走っていたので、水筒は風を受け適当に冷えバイク旅行には最高の水筒であった。
    ルート66沿いのレストランに立ち寄るのも楽しみだった。ルート66沿いのレストランの多くは大型トレーラーのドライバーたちの楽しみの場になっていた。
    レストランに入ると、サングラス、赤のシャツ、ジンズにブルーのネッカチーフを首に巻いたオバちゃんドライバーがいた。彼女はカウンターで食事を摂りながら親しそうにウエイトレスたちと賑やかな声で話し合っていた。私と目が合うと、
    「兄ちゃん、きのうも見たけど何処へ向かってんや?」と、
    大阪のオバちゃんのような口調で声をかけてきた。もちろん英語である。このオバちゃんは大型コンテナを運ぶトレーラーの運転手であった。
    もう数えきれないほど、このルート66を走り、アメリカを横断し、馴染みのレストランで食事を摂り、ウエイトレスや運転手たちと話すのが楽しみだと言っていた。
    大型トレーラーの運転手たちは陽気で親しみやすく、何度となく途中のレストランで会った運転手たちとの会話は、英語に不自由を感じなくなっていたオレのバイクアメリカ大陸横断中の楽しみでもあった。だが、長距離をツーリングしているライダーには一人も出会わなかった。
    バイクでアメリカ横断が流行りだしたのは69年、映画「イージーライダー」の公開以後である。
    大平原を一直線に緩やかに上ったり下ったりと、単調な風景のルート66を一日中走るのは実に退屈であった。
    時には眠気が襲うこともあったが、考えごとをして走ろうと思うが、また、グランドキャニオンで起こしたような事故の危険があるので出来なかった。
    疲れ、同じような直線道路を走っていると、はるか遠くに見える山を上りきれば、景色が一変するかもしれないと期待しながら走るが、上りきると、また、はるか彼方まで緩やかに下っているだけで、変化のない同じような大平原の風景が広がっているハイウェイの連続であった。
    途中で立ち寄るガソリン・スタンドやレストランで近くに旧所名跡はないかと尋ねても、大げさに両手をひろげ、
    「見てのとおりだ」と、そっけなく言うだけの大平原の広がるニューメキシコ州だった
    大平原のルート66と沿ってアメリカ横断鉄道が並行しておると
    ころもあり、1キロ以上もあろうかと思える長い貨物列車が後ろから近づいてくると私もスピードあげ競争を試みた。機関車からは並行して走るオレに汽笛を鳴らし、手を振って応えてくれた。半日も抜いたり、抜かれたりしながら走ったこともあった。
    大平原を一直線に延びる単調なルート66では、このような単純な気分転換もオレには必要であった。
    ニューメキシコ州の首都アルバカーキーは丼ぶりのような盆地の底に広がる赤褐色に染まった街であった。
    市街地のはるか手前からルート66は下り坂になり下方に、子供のころ観たジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇映画「アパッチ砦」、「黄色いリボン」、「リオグランデの砦」など有名なリオグランデ川と町の遠望が素晴らしかった。幅広い大きな「河」と思っていたが、有名なわりにはどこでもある平凡で小さな「川」だった。
    町の人に聞いてみると、
    「あれはテキサス州とメキシコの国境の境を流れているリオグランデ川で撮ったんだ」と、言っていた。
    アルバカーキーは西の方から下って、街を過ぎると今度は東へ上り坂であった。ロサンゼルスからアルバカーキーまで五日間、出来る限り、観光地らしき所を訪れながら1,200キロほど東へ入った。地図を見ればわかるが、ニューメキシコ州は東にオクラホマ州とテキサス州の二つの州が接しているが、ルート66はニューメキシコ州からテキサス州を通っている。ニューメキシコ州の州境で時計を見ると午後5時を少し回っていた。日没までにはまだ時間がありそうなので、少しでも距離を稼ごうと一時間ほど走りテキサス州のレストランでコーヒーを呑みながら、ここの時計を何気なく見ると7時前である。走っているとわからないが、ニューメキシコ州とテキサス州の間には一時間の時差があった。一日中走り続け、夕方、一時間前へ進む時差は精神的にも肉体的にも耐え難いほどの疲労がオレを襲った。
    西日を体全体に浴びながら西に向かって走るのとは反対に、大平原に星が輝き始めた夕闇に向かって走るのは、体力も気力も萎えてしまった。
    この時、人間、太陽の恵みによって生命の活力を維持していることをはじめて知った。西へ向かうほうが時間も得するので精神的にも楽であることも知った。
    テキサス州に入ると、西部劇映画に出てくる風車を広大な農家の敷地でよく見かけた。せっかくのアメリカ大陸横断旅行、ロサンゼルスを出発する前はできるだけ多くの写真を撮ろうと思っていたが、アメリカに四年も住み、アメリカの風景を見慣れていたのが原因か、テキサス州まであまり撮らなかった。だが、あのテキサスの独特な風車を見ると撮りたくなった。
    それにしても、一枚写真を撮るのに、いちいち後ろの荷台に括り付けた麻袋のロープをほどき、カメラを取りだし、撮り終わるとまた麻袋に入れロープをかけるのに結構時間を取り、一日のうちで何度もこれを繰り返すのは非常に面倒だった。それも撮らなかった一因でもあった。
    西部開拓時代、東部から移住者してきた開拓民が水をくみ上げるため使っていた風車は、今も利用している。中西部の田舎町のガソリン・スタンドで給油していると、バイクでアメリカ横断は珍しい時代で、若者たちが、私のバイクのナンバープレートを覗きこみ「カリフォルニアから来たのか?」と、驚いた表情をするので、
    「海を見たことあるか?」と、訊いてみると、
    「ない、海の水は塩辛いそうだ」と、笑った。
    東へ行くほど、多くの若者がカリフォルニア・ナンバーのバイクに気づくと、オレに語りかけてきた。そのことがアメリカの東というか、奥地へ入り込んだことを実感させた。
    テキサス州に入るとルート66に沿って、途切れることなく遠くまで,金網の柵が伸びた牧場には数えきれないほどの牛が放牧された風景に出会った。
    (つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (28)
    テキサス州に入るとルート66に沿って、途切れなく遥か遠くまで,金網の柵が伸び、その中には数えきれないほどの牛が放牧された風景があった。
    どこだったか、小規模な油田のポンプが規則正しく上下してオイルをくみ上げていた。
    空は透き通るように青く、ジェームス・ディーン、エリザベス・テーラー主演の映画「ジャイアンツ」に出てきた静かで広大な空が覆いかぶさってくるような雄大な風景が限りなく続いていた。
    疲れると今のように車の往来の少なかったルート66の路肩にバイクを停め、生い茂った草に仰向けになり、ゆっくり流れる雲を眺めながら、帰国後の自分の人生を考えていると、疲れ眠り込んでいた。
    一日中走り続け、オクラホマ州に入るとトウモロコシ畑だろうか、青々とした畑が水平線まで広がっていた。
    もともと、オクラホマ州はアメリカ中のネティブ・アメリカン(インディアン)を強制的に移住、隔離したところである。隔離された彼らは、何度となく自分たちの土地への脱出を繰り返した。ヨーロッパから移住してきた白人たちは、自分たちが定住するために大昔から定住している人々を略奪し、殺害を繰り返した。16代米国大統領リンカーンも奴隷解放の反面それには積極的だったと記されたものもある。
    そのため、アメリカ政府は彼らの命の綱である、バッファローを大平原から組織的に駆逐し絶滅に追いやり、「兵糧攻め」にして、強制的にこのオクラホマ州の保留地に定住させるようにした。学校という狭い世界しか知らない教師の「教える」歴史を鵜呑みに覚えるのは危険である。たまには疑うことも大切である。
    雨の中西部
    グランドキャニオンからオクラホマまで約1,500百キロ、この区間は大げさに表現すると、ずっと下り坂のような気がした。オクラホマ州を走っていて、やっと平地に戻ったような気分になった。
    それとともに空模様がおかしくなり、テキサス州のような青空は姿を消し雲が垂れ込め始めた。空はいつの間にか夕闇のように暗くなり大粒の雨が降り出した。
    雨の中をバイクで走った経験がないオレは、レストランで休憩しながら雨の止むのを待つことにした。日本とアメリカ中西部では雨の降り方まで違った。大粒の雨が勢いよく降りはじめ、止む気配もなく稲光が轟きはじめた。
    「トルネード(竜巻)がくるかも」と、ウエイトレスが言った。
    春から夏の終わりにかけ、この地域は特有の気象条件で雷雨が発生しやすく、トルネード・アレー(竜巻の通り道)といわれ、年間五十個以上の竜巻が発生し、この州一帯に膨大な被害をもたらすそうだ。
    だから、州の法律でどこの民家も地下に避難用の部屋があるそうだ。
    この日は一日中大雨で数10キロ走っただけでモーテルに入り、たっぷり雨水を吸い込んだ衣類やバックの中身を部屋の隅にある暖房機の上に並べ、冷え切った体をバスタブにつかりのんびりと温めた。
    モーテルの周りは見渡す限り大平原が広がり、ルート66沿いの向かい側にレストランを兼ねたガソリン・スタンドがあるだけだ。
    日記代わりに友人や知人に手紙を書き、途中で集めた観光案内パンフレットを整理し、日本へ送る作業を終えると、もうすることもなくベッドに横になり、テレビを見るしか時間をつぶす手立てはなかった。
    テレビの天気予報によると、この雨は数日続くようだ。急ぐ旅でもないが孤立した大平原のモーテルで足止めされると、先へ進めば雨も上がり見たこともない、素晴らしい風景や経験が待ち構えているような気がして、少しでも前へ進みたいという衝動が起こり、落ち着かなかった。
    アリゾナ州キングハムから一直線に東へ延びてきたルート66は、ここオクラホマから北東、時計の文字盤の2時の方向へ曲がりシカゴへと延びている。まだ、シカゴまでは1,300キロほどあった。
    夜半、雷は鳴りっぱなしで、朝になっても雨は無情に降り続き、モーテルの窓から、雨にさらされたバイクを眺めていると出発する気にならなかった。
    テレビの天気予報によると、オクラホマ州の北部カンザス州方面は曇りだという。モーテルでいつ止むかもしれない雨を待つよりは、少しでもシカゴへ近づきたいと思いが強くなってきた。
    テレビの天気予報に期待を託して、雨の降り続くオクラホマ・シティからルート66離れ、ルート35に入り、北のカンザス州を目指し走り出した。
    北へ向かうにつれ緑が多くなってきた。このあたりのハイウェイは1930年代の禁酒法時代、銀行強盗をしたギャングどもが、ピストルや機関銃をぶっ放しながらパトカーの追跡をかわし、ルート66へと「絶望的な逃走劇」を演じたところである。
    何時止むかもしれない、降り続く雨の中をびしょ濡れになりながら走るオレは、ポリスカーに追われる身ではなかったが、彼らの気持ちが理解できた。ずぶ濡れのオレは、ただ、ひたすらいらだつ気持ちを抑え、黙々と左右に続く大草原をウイチタ経由カンザスシティへと少しずつ距離を稼ぐだけだった。
    カンザスシティは、ミズーリ河を挟んでカンザス州カンザスシティとミズーリ州カンザスシティに分かれていた。カンザス州のカンザスシティがメインかと思ったが、人口も産業もミズーリ州のカンザスシティ側に集中しているらしく、理解するだけでも疲れる複雑な地名だった。アメリカでは、ほら吹きの奴のことを「あいつはカンサツだ」だという言葉があるそうだ。広島、長崎に原爆投下を許可したトルーマン大統領もミズーリ―州出身で、そう呼ばれていたのを聴いたことがある。オレがこの川の名前を知ったのも子供のころ見たチャールストン・ヘストン主演の西部劇「ミズーリ大平原」など、多くの西部劇映画に出てきた川の名前で、オレと同世代の者は誰でもその川の名前や地名は知っている。どんなに大きな川かと想像していたが、期待していたほどの大きな川ではなかったが、大雨の中アーチ型の朽ち、今にも崩れ落ちそうな鉄橋を渡ったが、その下は恐ろしいほどの濁流だった。
    カンザスシティからルート70に入り、セントルイス市内へ入るとやっと雨も上がり、ときおり青空が見えはじめた。
    オクラホマからセントルイスまでの約500キロは雨の連続で3,4日も費やし、濡れた衣類はセントルイス公園のゴミ箱に捨て、ほとんど買い替えた。
    セントルイスは、ミシシッピ河とミズーリ河の合流地点にあるミズーリ州の州都である。カンザスシティは二番目に大きな都市である。セントルイスは、ミシシッピ河とミズーリ河の合流地点にあるミ
    ズーリ州の州都である。カンザスシティは二番目に大きな都市である。
    このセントルイスで有名なのは、ミシシッピ河に面してそびえ立つ、高さ192メートルの逆三角形断面の巨大なゲートウェイ・アーチとビールのバドワイザーの本社である。このアーチは河岸に1965年完成、セントルイスの観光名所になっていた。
    アーチは頂上に向け流線形に建てられており、エレベーターはなく、ケーブルカーのような乗り物で展望台に上ってみた。
    アーチは上る途中で倒れるのではないかと不安になるほど細い。頂上展望台の小窓から外を眺めると、遮るものがない平原が地平
    線まで見えるだけであった。
    写真:ゲートウエイ横のミッシシッピー川沿いで5分5ドルのヘリコプターに乗ったがもう一機が数日前落ち客はオレだけだった。それにしても小さい。(つづく)

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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki

    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (29)
    セントルイスからルート50を北へ二時間ほど走ると、イリノイ州の首都スプリングフィールドに着いた。
    この町はケンタッキー州の丸太小屋で生まれたリンカーンが、弁護士になり大統領になるまでの25年間が住んでいた所で、「リンカーンの住んでいた家」、「リンカーンの事務所」、「リンカーンの墓」などが、「ランド・オブ・リンカーン」一色を売り物にした観光の町であった。
    オレがこの街に着いてすぐ思い出したのは、リンカーンが大統領に当選し、スプリングフィールドの駅からワシントンのホワイトハウスへ出発するとき、見送りに来た多くの市民に向かって列車から演説した挿絵を雑誌か教科書で見たことだった。その歴史的な現場にいる現実に身震いするほど驚きと感動を味わった。
    ここからシカゴまでもう約320キロだった。
    オレは一気にトウモロコシや麦畑の広がるルート50をシカゴまで飛ばした。走行距離ゲージはいつの間にか約3,300キロを示していた。
    途中から天候が悪くなり、オクラホマ州に入ってからセントルイスまでは雨に逢い思うように走れず、ロサンゼルスからシカゴまで8日間を費やした。
    たまたま通ったところが悪かったのか、大都会のシカゴはごちゃごちゃしたオレには興味のない大都会で、よくギャング映画で観た高架鉄道のガード下を走り抜けシカゴ・ターンパイクⅠ―90を東へ、この大都会シカゴを逃げるように通り抜けた。
    アメリカのハイウェイはどこも無料かと思っていたが、このハイウェイは有料だった。
    ペンシルバニア州に入ると三回目の時差、東部時間になった。
    「シルバニア」はラテン語で「森」の意味だそうで、景色は自然豊かな緑一色になった。白ペンキの柵に囲まれた個性的な色彩の民家が大草原に点在する北欧的な美しい光景が広がっていた。
    地図を見ると、私は五大湖のひとつ、エリー湖に沿ってハイウェイは走っていたが、実際はエリー湖から意外に離れていて見えなかった。
    シカゴからナイアガラの滝までは約800キロ、オレの知っている観光地というか、名所や景色はまだ日本語の観光ガイドブックも米国では手に入らず、ほとんど教科書で習ったものか、アメリカ映画で観たものばかりだった。
    ナイアガラは1950年代までは、日本では熱海や宮崎がそうでであったように、アメリカ人の新婚旅行のメッカであった。この滝はアメリカで最も大きく美しい滝で、一度は見たいと思っていた。それはマリリン・モンロー、ジョセフ・コットン主演の映画「ナイアガラ」の影響だった。だがベトナム戦争だからか、五月末の学校が夏休み前だったのが影響していたのか観光客は非常に少なく、驚きというか、寂しい風景にがっかりした。
    落雷事故
    バッファローからニューヨーク州の州都オールバニーまでは約450キロ、何事も起らなければ、簡単に一日で走行できる距離である。
    ついにニューヨーク市近くまで来たかと、畑が広がり、ポツン、ポツン農家らしい建物を横目に、一般道路を気分よく走っていると、道路に沿って延々と続く電柱だけの草原に夕闇が迫り、雷雨が始まった。びしょ濡れになりながら40キロほど先のオールバニー町を目指していると、突然、目の前で轟音と共に稲光が目の前を走り、バイクごと転倒した。
    一瞬の出来事だった。バイクは道路に横倒し、エンジンは切れ、ヘッドライトだけが大雨の中で無常に点いていた。
    雷は道路わきの電柱かバイクに落ちたのかわからなかったが、周りには避雷針はなく、落ちたとすれば電柱かバイクのどちらかに違いなかった。今度はオレに落ちるのではないかと恐怖心が全身を覆い、とっさに道路脇の溝へ飛び込んだが幸いけがはなかった。
    このときからトラウマというか、何が怖いかと言っても、雷ほど恐ろしいものはないと思うようになり、それ以来、オレは小雨のときでもゴルフの誘いは。どんなことでも断ることになった。
    しばらくすると、雷が遠ざかったので、びしょ濡れになりながら溝から這い出てバイクを点検すると、エンジン・カバーのクランクケースが割れ、エンジンが丸見えでオイルが流れ出ていた。こうなるとエンジン100パーセントかからない。40キロ先のオールバニーまで重いバイクを押して行くことも不可能である。
    バイクを道路脇に置いたまま、ヒッチハイクでオールバニーまで行き、バイク屋といっしょにバイクを取りに来ることにした。
    車を止めるため、オレは雨が降りしきる夕暮れの道路に立っていても、こんな時に限り車は来ない。時折、ヘッドライトが近づいてくるが、ワイパーを忙しそうに振り動かし、オレを蹴散らかすかのように、水しぶきを思い切りぶっかけながら無情にも目の前を通り過ぎて行く。周りは民家もない道路で夜を明かすことなどとてもできない。
    オレは降り注ぐ雨の中でびしょ濡れになりながら身動きもせず、西のほうを凝視して近づいてくるヘッドライトを待った。
    20分ほど立っていただろうか、オレには我慢の限界のように長い時間に感じられたが、前を通り過ぎた小型トラックが30メートルほど前行き過ぎ停まった。そしてゆっくりバックしてきた。
    オレも小型トラックに走り寄り、雨と寒さで震えながら窓を開けた若い運転手に事情を話し、20ドル払うからオールバニーまでバイクを運んでほしいと祈るように必死に頼んだ。「20ドルか!」と、言うなり、彼はすぐ降り続く大雨の中、トラックから降りてきて、バイクを荷台に積んでくれた。
    20ドルという金額は当時一日分の労働報酬に匹敵した。彼は勤務先からオールバニーへ帰る途中であった。30分ほど先のオールバニーまでおれとバイクを運ぶだけで、20ドルという臨時収入に気をよくしたのか、彼は残り物のサンドイッチとコーラを腹の空いたオレにくれ、雑談しながらオールバニーのYMCAまで送ってくれた。
    その夜はYMCAに泊まり、翌朝、オールバニーのバイク修理屋を探し出向いたが、部品のクランクケースがないので修理は出来ないという。しかたがないので電話帳で調べニュージャージー州チェリーヒルのヤマハに電話を入れ事情を伝えると、直ぐオ―ルバニー行きのバスで送ると約束してくれた。
    ニュージャージーからオールバニーまでは約250キロある。夕方には届くだろうと思いバスターミナルで夜遅くまで待まったが、その日は届かなかった。
    翌日は土曜日でクランクケースが届いてもバイク屋は休みである。
    月曜日までオールバニーのYMCAに滞在することを余儀なくされた。
    土、日もバスターミナルで待ったが荷は届かなかった。縁もゆかりもない町のバスターミナルで、いつ届くかわからないクランクケースを待ち続けるのは退屈極まりなく、忍耐のいる3日間だった。
    月曜日の朝、ニュージャージーのヤマハへ電話を入れると、なんということだ、ヤマハはオールバニーのバスターミナル付けでオレに送ると言ったが、どこで行き違いになったのか、クランクケースは代理店に届いていた。オレの人生で今もわからない最大のナゾである。代理店もニュージャージーのヤマハに部品を注文していたのだ。オレは3日間もバスターミナルで待たされ腹も立ったが、代理店で新しいクランクケースを見たときはホッとした。長い、長い3日間であったが、修理が終わり生き返った心地よいエンジン音を聴くと機嫌も直りニューヨークへ走り出した。
    だが、ニュージャージーのヤマハから、オールバニーのバイク屋へクランクケースが届いたのか、今でも不思議でならない。
    (つづく)

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    Oldies’60s, Hardies in California 
    & Around the world on motorcycle 
    オレの二十代
    (30)
    ニューヨーク
    ロバート・ケネディ暗殺・葬儀
    ロサンゼルスを出発してから19日目の1968年6月6日、オールバニーを出発、あと240キロほど走ればニューヨークシティであった。
    ハイウェイの道路標識には、「ボストン170マイル(272キロ)とあった。そこからは大西洋は見えなかったがアメリカ大陸の東の端まで来たという実感がわいてきた。
    オールバニーからハドソン川に沿って南へ走ればニューヨークまでは半日の距離であった。
    「ハイウェイ」は「フリーウェイ」と名を変え、交通量も急激に増えはじめた。ニューヨーク州ナンバーの車はもちろんのこと、マサチューセッツやコネチカット、ニュージャージー州などニューヨーク州と隣接した州のナンバーの車がやたらと目に付きはじめた。
    ニューヨーク市街に近づくにつれ映画や写真で見慣れた摩天楼が迫ってきた。
    走行距離は五千キロ近くになっていた。
    しかし、何か変だ。昼間というのに行き交う車はみなヘッドライトを点け、スピードを落としてゆっくりと走っていた。
    世界最大の町、ニューヨークの繁華街、42丁目と7番街のブロードウェイの交差点にあるタイムズ・スクエアに着いた。
    ここでも車はライトを点灯してゆっくりと走っていた。町は人通りも少なく静まり返り、想像していた活気ある大都会ニューヨークの賑わいはなかった。
    給油のためガソリン・スタンドに入ると、スタッフの数人が事務所の中で客のオレを無視し、テレビを観ていて出てこないので、文句を言ってやろうと事務所の中へ入ると、
    「ボブ(ロバート)・ケネディが暗殺されたんだ。お前も観ろよ」と、彼らは報道番組に夢中になりながら言った。
    オレも驚き、彼らの中に入りテレビに目をやると、ロバート・ケネディがカリフォルニアでの大統領予備選に勝利した6月5日の夜、オレの住んでいたアパート近くにあるロサンゼルス・アンバサダーホテルで祝賀会のあと、多くの支持者との混乱を避けるため、ホテルの調理場を通って会場外の専用車に乗り込もうとホテルを出ようとしたとき、パレスチナ系アメリカ人に頭を銃撃され死亡したと、テレビはくり返し、くり返しアナウンサーのヒステリックな声と生々しい現場の映像を流していた。
    オレがアメリカへ行く前年の1963年、大統領であった兄ジョン・ケネディが暗殺され、今度はアメリカを去ろうとした1968年、次期大統領間違いなしといわれた弟ロバート・ケネディ暗殺され全米が悲しみと混乱に包まれた日、オレはロサンゼルスから19日間を費やし、5,000キロをバイクで旅しニューヨークに着いた日であった。
    オレにとってアメリカ大陸横断はインドまでのバイク旅行のほんの足慣らしであり、大陸横断の達成感や疲れは全く感じなかった。
    しかし、この暗殺ニュースを聞き、何か悪いことが起こるような予感がした。マンハッタンの中心街でロバート・ケネディ暗殺のニュースを知ったオレは、ニューヨーク市内のホテルは全米はじめ、世界中からロバート・ケネディの葬儀を一目見ようと予約が殺到するに違いないと思ったオレは、直ちにホテルを確保しようとホテルを回ったが確保できなかった。
    YMCAへも行ったが、そこもラフな服装をしたヒッピーまがいの若者たちが予約を取るため長蛇の列を作っていた。
    どんなところでもいい、とにかく泊まるところを確保しようとニューヨーク市内を何時間も走り回っていると、偶然、予約できる黒人経営のホテルを見つけた。やっとホテルを確保した喜びとともに我に返ると、そのホテルの出入口には黒人がたむろし、酒ビンや新聞紙が散乱していた。
    なんとなく嫌な予感が当たるように思えた。カウンターにいるたった一人の黒人スタッフからキーを受け取り部屋へ行こうとエレベーターに乗ると、ドアは手で開け閉めする朽ちた旧式のものであった。
    五階だったと記憶しているが、エレベーターを降りると、廊下は薄暗く、人がやっとすれ違いできるほどの狭さで、部屋には古く汚いベッドとゴミ箱用の古いバケツ、それに水の出ないシャワーだけであった。
    オレは、ホテルの入り口で酒をラッパ飲みしながら、たむろしている黒人たちが夜中にオレの部屋へ押し入り、寝ているオレを襲い、下手をすると殺されるのではないかと不安と恐怖で着替えもせず、ベッドにしばらく腰かけていた。ジッと一晩中そのまま起きていられるわけがないと思い、本能的に用心のため部屋のドアのそばにゴミ箱用のアルミ製バケツを置き、ドアが開くとバケツに当たり音がするようにした。
    反面、頭のどこかで、世界一殺人の多いニューヨークでも映画であるようなことは起こるまいという思いもしたがサバイバルナイフを握って、起きておこうとベッドにもたれていたが、疲れが出たのか眠り込み、目が覚めると無事に朝を迎えていた。
    あとでわかったのであるが、そのホテルは、何と当時アメリカで最も殺人の多いニューヨークのハレム地区のホテルだった。何も起こらなかったこと自体、単にラッキーだったのかもしれない。
    この不気味な恐ろしいホテルから逃げるようにチェック・アウトしてタイムズ・スクエアへ行き、街角で「ニューヨーク・タイムス」を買い、カフェへ入り、ドーナツとコーヒーの朝食を摂りながら、ヨーロッパ行きの船を予約するため広告欄で旅行社を探していると、何社かの中にこのカフェの近くに一社、日本人が経営する旅行社があった。朝食の後、広告にあった古い高層ビルの狭い一室に、中年の日本人社長が一人で営業していた。
    社長は日本からの観光客が増え、日本の旅行社からニューヨーク観光のバスを手配する旅行社を始めてまだ三年、ヨーロッパへ船で行く客はオレが初めてだと苦笑しながら電話帳を広げ,何社かの船会社に電話をかけ続けた。
    そして、最も早いヨーロッパへは六月十日、ニューヨーク出航のリスボン(ポルトガル)行きがあるが、学校の夏休みが始まり、エコノミークラスは満席で取れないと言った。できるだけ安い船室を予約したかったが、仕方なく、一段高いツーリスト・クラスを374ドル(約13万円、当時の日本人の給料の三か月分)払い、即、予約した。
    リスボン行きの船の予約が済むと、アメリカ大陸を横断したオレのバイクを総点検しておいた方が良いと思い、ハドソン川のリンカーン・トンネルをくぐり、ニューヨークの北西約130キロ、ニュージャージーのヤマハ・ニュージャシー支社へ行った。
    ロサンゼルス・ヤマハのAさんから連絡があったらしく、インドまで走るのだからヤマハの名誉にかかわるからと、白人メカニックは時間をかけ、丁寧に整備してくれ、整備費もまけてくれた。
    その夜はヤマハ支社のある、チェリーヒルのモーテルに泊まった。
    (つづく)

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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki


    ※ご本人様の承諾を得てブログ掲載しています。

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (16)
    ひと月ガーディナーの助手をやれば、日本での半年分を稼げるアメリカは後進国日本から来た者には大きな魅力だった。そのため、観光ビザで米国に入国し、ビザが切れても不法滞在する者が多かった。彼らは移民局に捕まり、日本へ強制送還されることを非常に恐れていた。だからビザが切れようが切れまいが、ロサンゼルスに滞在する多くの日本人旅行者の最大の関心ごとは、移民局に強制送還されることなく、安心して仕事の出来る「永住権(グリーン・カード)」を如何にして手にいれるかということだった。
    日本人町の飲屋には米国永住権を持った日本女性のウエイトレスが多く働いていた。その多くの彼女たちは、戦後日本に駐留していた米軍兵士と結婚、その後、夫の米軍兵士と米国へ渡り離婚したいわゆる「戦争花嫁」と呼ばれていた女性たちだった。その彼女たちに三千ドル払えば「契約結婚」できるという噂をよく耳にした。外国人がアメリカ国籍を持っている者と結婚して一年後に離婚すると、その外国人配偶者はアメリカの永住権(グリーン・カード)が取得できた。
    その米国永住権(籍)を持った彼女たちと「契約結婚」を望む日本人旅行者が多かった。しかし、「契約」できても、事はそう簡単には運ばなかった。「結婚」後一年が経過、「離婚手続」の段になって、契約相手の「妻」が莫大な慰謝料を請求してくるのだ。この請求を呑まないと「妻」は「移民局」をチラつかせる。秘密の「契約結婚」は公にできないので、「夫」は彼女の要求を呑まざるを得ない。
    慰謝料は5,000ドル(180万円)とも10,000ドル(360万円)ともいわれ、日本では家が一軒買えるほどの額だと言われていた。
    それでも、慰謝料で解決できる離婚はまだよい方だった。観光ビザでアメリカに入国し、永住権を得るため契約結婚した女性と同じ屋根の下で生活し、一年が過ぎ離婚手続きとなったとき、「契約上の妻」が離婚届のサインを拒否し、日本から本妻や子供をアメリカに呼び寄せることもできず、蟻地獄に落ち込んだような話を直接本人から聞いたことがあった。「永住権」に無関心だったオレでも、これぐらいは知っていたのだから、当時観光ビザでアメリカに入国した日本人には、永住権を獲得することがどれほど大変だったかわかる。
    こうした不法なことをせずに、合法的にアメリカの永住権を獲得する近道は、アメリカの軍隊にボランティア(志願)入隊することだった。
    ベトナム戦争が拡大するとともにアメリカ兵の死傷者数が増加し、ロサンゼルスのいたるところに、志願兵を募るポスターが張り出された。
    志願兵は自分の希望するところに配属され、自動的に市民権が授与された。除隊後は大学の授業料が免除になるなど、いろいろな特典が与えられるので軍隊へ志願した日本奴もいた。
    日本人の志願兵がアメリカ兵としてベトナムへ配属され、休暇中に日本へ逃げ帰ったニュースが当時の新聞紙上を賑わしたのもこの頃であった。
    時は流れ、庭師の仕事は日系人の生業ではなくなった。戦後、日本人がアメリカへ渡り、そこでの生活基盤を築く象徴であったヒガ・ボーディングも日本が経済大国へと発展すると、その役目を終えたが、建物は今も残っている。
    墓地で働く
    夏の間、ガーディナーのヘルパーをして、ロサンゼルス・カウンテイー(郡)中を走り回ったオレは、九月になると州立の英語学校へ入学した。学校はボーディング(下宿屋)から車で十分程の距離にあったが、車のないオレは下宿屋からバスを乗り換え一時間のほどかかった。バス賃は二十五セントと安かったが、停留所には、行先や時刻表の表示もなく、何時どこ行きのバスが来るかわからず、車の運転できない老人やオレのような車を持たない貧乏人のための不便きわまりない乗り物であった。
    英語学校は午前と午後の二部制で、学校が始まると、ヘルパーの仕事は時間的に不可能で、オレは生活費を稼ぐため、午前中の授業を受け、午後からバイトしようと目論んでいたが午後二時半から夜九時まで授業に回された。
    夏の間、ヘルパーをして四百ドルほど稼いだが、これだけでは五か月分の下宿代にしかならず、オレは学校に行くまでの午前中、下宿屋の食堂で「羅府新報」の求人欄を見るのが日課になった。だが、狭い日系社会、求人広告も少なく、しかも午前中だけの仕事など皆無だった。
    英字新聞「LA Times」の求人広告欄は六、七ページもあった。ベトナム戦争が拡大していく時期で「Aircaft Assembler(航空機組立工)」の募集の求人広告だけでも数ページと広告も最も多かったが、英語が話せないと採用される可能性はないと思い、問い合わせもしなかった。
    学校が始まったが、仕事のない私は下宿屋の経営者、ミセス・ヒガに仕事を頼んでいた。ある朝、ミセス・ヒガが、
    「ローズ・デール・セメタリィ(墓地)で午前中だけでも働ける人手を探しているが、墓だから誰も行きたがらないけど・・・。ユー、行ってみる?」と、申し訳なさそうに言った。墓であろうが何であろうが、午前中働ける仕事はありがたかった。
    さっそくオレは下宿屋から歩いて十分ほどのローズ・デール墓地へ出かけた。入口を探すのも大変な広大な墓地は赤煉瓦の高い塀で囲まれ、入口から奥へアスファルト道路が墓石の間を細く枝分かれしていた。道路脇は見渡す限り緑の芝生の中に大小の墓石が整然と並び、周囲は色鮮やかなハイビスカスが咲き誇っていた。
    高々と伸びたパーム・ツリーの葉は爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて風にそよぎ、車の騒音も人影もなく静寂だけが支配する公園のような広大な墓地だった。
    広い墓地の中を探し探し事務所に行くとミセス・ヒガから電話で連絡があったらしく、武藤さんという七十過ぎの温厚そうな日系人が出迎えてくれた。
    写真:日本人町、市の象徴、市庁舎の近くにこんなに侘しい「日本人町」があるのが、実に不思議だった。今もその想いは変わらない。草刈りした墓。三年間はお世話になり、所得税も引かれていたが年金はもらっていない。Freeway10は建設中だった。
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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (17)
    墓地の葬儀一切は中年の白人三人が取り仕切り、武藤さんが八十エーカー(九万六千坪)の墓地の芝刈りと清掃を契約で一手に引き受けていた。
    墓の働き手は中々見つからないらしく、即、採用された。時給は1ドル70セントと悪くなかった。勤務時間は午前7時から午後4時までだが、学校があるなら12時まででもよいと、願ったり叶ったりの仕事だった。早速、翌日から働くことにした。
    作業はボスの武藤さんが幅広い墓石と墓石の間を草刈り用トラックターに乗り、墓石を傷つけないように刈って行くので墓石の周りには刈り残しができる。その墓石の周りの刈り残し部分を一個、一個、手押しの芝刈り機で刈るのがオレの仕事だった。
    仕事仲間は四人いた。いつも上半身裸で働くひょうきん者の鈴木は35,6歳、元は東京本社のエリート駐在員だったそうだが、当時は墓の草刈りのほうが給料がいいと会社を辞めた独身者、ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)で、彼はベトナム戦争のエスカレートとともに、いつドラフト(徴兵)されるかわからないと、まともな会社に就職する気にはないと墓でバイトしていた。
    タマシロは口ひげを伸ばし、太ったメキシコ人のような風貌をしていたが、いつもニコニコして愛想の良い二児の父親であった。小柄でハンサムで物静かなナカソネは夜間大学で法律を学んでおり、弁護士になるのが夢であった。
    タマシロとナカソネは沖縄からペルーへ移住した三世で、日本語はほとんど、わからなかった。鈴木以外はオレと同年代であった。
    朝、出勤すると我々は事務所で、その日当番になった奴が沸かしたコーヒーを飲みながら雑談し、そのあと、小型トラックに手押しの草刈機を積込み、曲がりくねった広い墓地の道路をその日の作業場へ向かった。
    作業場に着くとトラックから芝刈り機を下ろし、何百もの墓石が一直線に百メートル以上先まで並んでいる、ボスの武藤さんが刈り残した一個、一個の墓石の周りを手押しの芝刈機で押したり引いたりして刈りながら、先へ先へと進み、並んだ墓石の一列を刈り終えると次の列へと移る。仕事はデラノの葡萄畑やの作業やガーディナーのヘルパー仕事に比べると遊びのような楽な単純作業であった。
    楽しみは一時間ほど働くとボスの武藤さんの合図で、全員墓石に囲まれたパーム・ツリーの木陰に集まり、墓石に腰かけ当番が買ってきたコーヒーやコカ・コーラ、ドーナツを飲み食いしながら、それぞれ好きなようにコーヒー・ブレイク(休憩)するときだった。
    オレはコーヒー・ブレイク中に、戦前、日本人学校の教師だった我々のボス(雇い主はどこでもそう呼ばれていた)武藤さんが墓石に腰かけコーヒーを飲みながら、雑談の合間、合間に、戦前の日系人の生活や太平洋戦争時代の経験談を話すのを聴くのが楽しみでもあった。
    戦争が勃発するとすぐ、ボスの武藤さん日本人学校の教師という理由だけでFBIに連行され、数日間スパイ容疑で厳しい取調べを受け、その後、家財道具を二束三文で売り払い、人間としての人権まで踏みにじまれ、家族ともどもマンザナ収容所へ送られた。マンザナは日米戦争中、米本土に十ヵ所設けられた日系人強制収容所のひとつで、中部カリフォルニア、シェラネバダ山麓の砂漠の真中にあった。
    夏は気温五十度を超えるときもあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付ける空っ風で非常に寒いという劣悪な環境にあったようだ。その上、収容されていた粗末な建物は床板の隙間から砂塵が部屋の中へ吹き込み、夜はベッドに入ると屋根の隙間から星の輝きが、きれいに見えたもんだよと、懐かしそうに話してくれた。
    日本語はまったく話せないペルー三世のタマシロは歌謡曲を唄えばプロ並みにうまく、地元の「のど自慢」で優勝した経験があるらしく、コーヒー・ブレイクになると、大きな墓石の上であぐらを組み、「並木の~雨の~♪」と、「東京の人」などをよく歌っていた。ナカソネは物静かでヤツで、休憩時間でも大きな墓石を枕に寝転んで静かに教科書を広げていた。
    毎朝、我々仕事仲間は、一人他の連中より早く事務所に来て、コーヒーを沸かす当番制になっていた。この当番が実にイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤというのではなく、それを行う場所の環境に問題があった。
    平屋の事務所は周りを植木に囲まれ、中は薄暗く、前に火葬用の焼却炉があり、後日、火葬された身元不明者の身元を確認するための、デスマスクが事務所の壁に十個ほど、無造作にぶら下げてあった。
    この生ゴムで作られたデスマスクに囲まれて一人でコーヒーを沸すのだ。それに、事務所に隣接した作業場には、粗末な板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が積み上げられていた。このような環境のもとでのコーヒー当番は実に気味悪で嫌だった。
    時々、白人の作業員たちが、事務所前にある焼却炉で火葬をしていた。彼らは機械的に黙々と焼却炉の蓋を開け、火力が強く貝殻を金槌で叩き潰したように小さな粒になった骨と灰を小さなスコップでバケツに取出し、それを地面一杯に広げ、金歯を漁っていた。彼らは集めた金歯を空ビンに溜めて、ある程度溜まると、バーナーで溶かしポーンショップ(質屋)に行き売っていた。
    それは彼らのボーナスというか臨時収入であった。彼らの臨時収入はほかにもあった。葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った火葬用の棺桶にホトケさんを移し替え、上等のものは葬儀屋に引き取らせていた。
    事務所の隣にある葬祭堂の奥に遺体安置所があった。時折、二十歳前後の医大生という白人女性が中古車で来て、一体三十ドルで「死に化粧」のバイトをしていた。時々、安置所の前を通ると、その奥から彼女が、
    「入っておいで」と、彼女は笑顔で手招きしたが、気持ち悪くいつも我々は、
    「ノ、サンキュウ」と、その場を小走りに逃げていた。
    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (18)
    人種差別がひどいアメリカだったが人生の最後だけは、貧乏人、金持、白人、黒人、マイノリティーの差別なく霊柩車は同じアメリカ一の高級車、黒塗りキャデラックのリムジンで墓地へ運ばれていた。
    日本と違ったのは、霊柩車のあとに続く遺族関係者の車は昼間でもヘッドライトを点け、二台の白バイが先導され「天国までノン・ストップ」とばかりに赤信号でも止まらず、墓場へ直行していた。
    埋葬用の穴は、白人従業員がパワーシャベルで深さ六フィート(約一・八メートル)まで掘り、そのあと棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで凸凹を削っていた。しかし、ロサンゼルス一帯の地下は油脈が通っており、穴を掘ると底の方からジワジワと真っ黒な原油が滲み出て、埋葬用の穴を掘っていると、彼らの靴や作業着は油まみれになった。
    原油の滲み出る墓地に木製の棺桶を埋葬すると、棺桶の隙間から原油がしみ込み、ホトケさんが油まみれになるので、オレがこの墓地で働きだした頃は、コンクリート製の棺桶に木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。
    年中、雨は降らないと言われる南カリフォルニアも、十二月から一月にかけて雨がよく降る。雨がつづくと、芝刈り作業は危険きわまりなかった。墓地全体の芝生が雨をどっぷり吸い込み、その重みで昔埋葬された木製の棺桶が壊れ陥没することがあった。オレも草刈り作業中に足元が突然陥没して、腰まで埋まった経験がある。
    こうなれば、一人でいくらもがいても抜け出すことは不可能で、仲間全員に埋まったオレの腰回りの土砂を取り除き、引っぱり出してもらった。
    着ている物が汚れるのは仕方ないが、棺桶の中のホトケさんが油まみれの手で埋まったオレの足を墓の下深くまで引っ張るような気がして気味悪いこと、この上なかった。
    慣れとは恐ろしいもので、日々、墓地で働いていると、コーヒー沸かし当番の早朝、事務所の壁に掛かっているデスマスク以外、気味悪さは感じなくなっていった。時々、仕事仲間と戯れに事務所前で相撲を取っていた。そこには死体焼却炉と焼却後の灰を入れるドラム缶があった。ある時、相撲を取っている時、勢い余ってドラム缶をひっくり返しジンズの下半身が灰まみれになった。それを見ていた周りの者は大笑いしながら、ブラシで灰を擦り落としてくれたが、一週間ほどアパートのカーペットに白い粉が残り、掃除してもなくならなかった。
    いくら無宗教のオレでも、仏教の宗教観が自然に体にしみ込んでいることを、アメリカの墓地で働いて初めて感じたというか知った。
    日本では年寄りたちから、
    「ホトケさんが枕元にった」という怖い話や、子供のころに見た幽霊映画、お盆の夕方、線香の煙が漂う薄暗い墓など、どれもが薄気味悪い霊の存在として無意識のうちに脳にインプットされ、オレなりの仏教感が身にしみついていた。
    しかし、アメリカでは、亡くなった人の霊がベッド脇に立ったとか、雨の夜、額に三角巾を付けたあの有名な映画俳優ジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたなどという話は聞いたことはなかった。そのためか、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても、日本人のそれを見た時とは、全くと言っていいほど違う感情で怖くもなかった。
    もっとも、アメリカの墓地全体が芝生を敷いた、広々とした公園のような明るい雰囲気があったからかも知れない。
    それにしても、我々日本人には、決して想像さえできないことだが、タマシロとナカソネは作業中には、いつも便所代わりに墓石に向かって小便を飛ばしていた。
    葬儀は洋の東西を問わず厳粛なものである。毎日、埋葬や火葬、墓石に刻まれた故人の誕生から死までの歳月を見ていると、人間の一生なんて宇宙の星が瞬きする一瞬だという思いが強くなった。「死んで花実が咲くものか」、「生きているうちが華」だという思いが強くなり、自分の人生を精いっぱい生きることの大切さを知り、感じ、学んだだけでも墓で働いた価値はあった。
    日々の生活
    ある週末、英語学校の高知出身の友人がオレをラスベガスへ誘った。オレはラスベガスが「博打場」であることは、映画を観て何となく知っていたが、「博打場」という言葉のイメージに、何となくヤクザの溜まり場を想像し、興味もなく、彼が誘うまでラスベガスがどこにあるかも知らなかった。しかし、彼の強引な誘いに負け、仕方なく彼の中古車で同行した。
    ラスベガスのダウンタウンのホテル駐車場に車を置き、彼とホテルのカジノへ入った。彼が賭け事をしている横で、手持無沙汰のオレはボケっと彼の賭けを見ていると、オレの存在が気になり、賭け事に集中できないのか、彼は坂本龍馬のような高知弁口調で、
    「お前も何かやったらドナイや」と、何度もしつこく言うので、オレは前日貰ったばかりの墓の週給四十五ドルから、1ドルを嫌々ながらポケットから間違わないように注意して抜き取った。この1ドルは頼れる人間一人もいないアメリカでは、オレには無駄にできない身を切るような大切な1ドルだった。しかたなくオレは意を決して、彼のするダイスをまねして賭け始めた。
    すると1ドルチップは無くなるどころか、彼も周りも者も、オレのチップが山盛りに溜っていくので騒ぎ出した。
    オレはわけがわからなかったが、
    「もうやめたほうがエエで」という、
    彼の忠告に従いチップを現金に換えると1,000(36万円)ドル前後あった。
    アメリカの二か月分、日本の一年分の収入を三十分ほどで勝ったのである。まさにビギナーズラックであった。
    ロサンゼルスへ帰った翌週、早速、700ドルの中古車(六気筒のフォード・ファルコン小型)を買った。
    日本ではまだ、車はよほどの金持ちでないと買えない時代であったが、一気に、オレ中古車といえ車が手に入った。
    バスしか交通機関のない広いロサンゼルスでは、車がないのは足がないのと同じで、何かと不便だったが、中古車だったが手に入り移動が簡単になりうれしかった。
    ガソリンは一ガロン(3.75リットル)、20セント(72円)と安く、2ドルも入れれば仕事場の墓と学校に行くには十分であった。馴染みのガソリン・スタンドのオーナーは白いツナギの作業着に、伏しなしの眼鏡をかけ、中太りのいかにも二世という雰囲気の四十前後の男であった。
    事務所のテーブルには、この二世の彼には不似合いな「小説倶楽部」、「文芸春秋」など日本の雑誌が常に置いてあった。
    不思議に思い、ある時、彼に聞くと出版社が勝手に送ってくると言っていた。また、彼は戦争中、潜水艦で日本近海まで行き、ゴムボートで日本に上陸して、日本国民に接触して情報を集める仕事をしていたと言った。その話が本当かどうかわからなかったが、
    「戦争中、ジャパンは二言目には『大和魂』を持ち出していたが、アメリカの『物量主義』には勝てなかった」とか、
    「多くの日本軍の責任者は、多くの国民や日本兵を死にやったのに、戦争が終わる直前に詫びることなく、腹を切り、ピストルで頭を打ち抜いて死によったが、あれはサムライのすることではないわのう」と、広島弁訛りで言っていたがオレは異議なしだった。
    (つづく)

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    Oldies’60s,&
    My Goodies in California 
    私の二十代
    (19)
    車が手に入ると通学時間も短縮され、墓地で働く時間がのび、月に180ドルぐらいは稼げるようになった。
    そして、生活が軌道に乗り始めると、プライバシーのない下宿屋を出るため、アパート探しを始めた。今の時代では考えられないことだが、1960年代、日本人がアメリカに行き最初に考えることは、日本人のいないアメリカ人(白人)居住区に住むことだった。オレもその一人で、日本人の住んでいない所、白人居住区へアパート探しに出かけた。「For Rent(貸し部屋あり)」の立て札を掲げているアパートを何軒回っても、「外すのを忘れていた」と、立て札を外しながら、家主はオレの賃貸を断わった。
    今はそんなことはないと思うが、1960年代、日本でも外国人がアパートを借りに来たら、ほとんどの日本人家主は断っただろう。
    「オレは敗戦国日本人だ。白人に賃貸を断られても仕方ない」という先入観があったので、おれは「人種差別」と考えることもなく、別に気にもならなかった。そんなことにいちいち目くじらを立てていては、アメリカでは生活できない時代だった。
    アジア系のおれが白人居住区に部屋を見つけることは時間のムダであるとわかり、日系人の経営するアパートを借りることにした。
    日本人は日系人居住区に住まざるを得ない暗黙のルールがあり、そこに住むほうが気分的に気楽であると悟った。日系人居住区にも少数であるが、金持の黒人や、かつて白人居住区であったそこに住まざるを得ない、貧しい白人老人たちも慎ましく日系人と共存していた。
    アメリカは世界各国からの移民で出来た民族国家である。だから人種、宗教、肌の色に関係なく、いろいろな人種が交じり合って住んでいるのは間違いなが、実際は人種ごとに居住区を形成して暮らしていた。
    ロサンゼルスも白人居住区、黒人居住区、日本人居住区、メキシコ人居住区といった具合に、それぞれの人種ごとに住む地区が分かれていた。白人でもユダヤ人地区は別にあった。
    日系人アパートも黒人に貸すのを嫌い、「空部屋あり」と、日本語の立て札を出していた。白人のアパートの賃貸は断られたが、敗戦国の日本人の入国を受け入れる懐の広さは流石、器は大きかった。
    日本が戦勝国であったら、日本はアメリカ人を同じように受け入れただろうか。
    オレが借りたアパートは築間もない、白ペンキ塗りの二階建てで、除隊したばかりの帰米二世、幼子を三人抱えた未亡人、白人宅でメイドをしている日本人妻とテレビばかり見ている二世の年老い主人、三十過ぎのファション・デザイナーの姉妹、それにオレと同じ年頃のヤマハ新婚駐在員Aさんなどの日系人が住んでいた。
    Aさんの部屋からは、当時、アメリカでも一般の家庭にはまだ普及していないピアノがあり、新婚の奥さんが昼間よく弾いていた。あのピアノは間違いなくヤマハ製だったと思っていた。週末は同じ会社の駐在員仲間とドライブへ出かける優雅な駐在員生活に触れ、オレも将来あのような生活をしたいと刺激になった。
    話が少し横道へ逸れるが、1968年のバイク世界一周した時、バイクの使用を勧めてくれたのは同じアパートに住んでいたヤマハのAさんだった。Aさんは新婚で、奥さんがピアノを弾いていたと思っていた・・・・・。オレはそのちょっとしたことが、忘れられず、帰国後、Aさんの消息を50数年間探し求めていたところ、二年前ヤマハのOBである小柳さんという方がAさんの消息を知らせてくださった。
    早速Aさんにメールで連絡するとAさんは当時独身だったという。オレは認知症が進んだのかと薄気味悪くなった。記憶をたどっていくと、オレはピアノを弾いていたその奥さんを見たこともなく、その主人とは、ちらっとあいさつしたぐらいで顔も覚えていなかかった。Bさん夫婦が転勤し、そのあとに独身のAさん住んでいたのだ。
    アパートの管理人は歯がほとんど抜け、話すと口と顎がクニャク
    ニャと動く六十半ばの日系二世女性で、手拭いを頭にかぶれば野良仕事をしている日本のバアさんのような老女であった。
    彼女は日本には一度も行ったことがないと言っていたが、流暢な日本語を話し、「平凡」や「映画の友」など月刊誌の愛読者で、特に吉永小百合の大フアンで愛想の良い管理人だった。
    彼女には三十過ぎの独身の息子が一人いた。でっぷりと太った息子も愛想がよく、母親思いで、週末には母親を車に乗せ、よく日本人町へ日本の雑誌を買いに行き、日本映画専門の映画館へ行っていた。
    オレの部屋は、当時の日本では考えられない、ワン・ベット・ルームに居間とキッチン、シャワー付きバス、エアコン、トイレ、駐車場付でガス電気代込み部屋代は月40ドルであった。ツー・ベッドの部屋代が90ドルぐらいだった。
    キッチンには日本では見たこともないオーブンが付いており、電話代は一ヶ月5ドルで60通話かけられ、車まで持ち、日本ではできない贅沢な生活様式に私は大満足でった。
    だが、オレは学校とバイトで時間的な余裕は全くなく、アパートの日系人住民とは挨拶程度の付き合いだった。
    バイトと学校に追われる日々であったが、週末になると友人とボーリングや日本映画をよく観に行った。それが唯一の楽しみだった。ロスアンゼルスには日本映画を上映する映画館が六軒あった。ラブレアAve.とOlympic Blvdの一角には東宝直営の「東宝ラブレア」という映画館があった。
    東宝ラブレア以外の映画館はクレンショーBlvdとエクスポジションBlvdの交わる近く、LA Times 本社近く3ed St.にあったが日本の場末にある古い映画館と同じようなものだった。違いといえば英語で書かれた看板ぐらいであった。東宝ラブレアは高級な雰囲気を持ったピアノバー「チェリー・ブロッサン 」があった。
    昼間働くガーディナーの多い日系人社会、日系人経営映画館は、平日は夜七時から一回しか上映せず、週末の土、日のみ、昼過ぎから上映していた。
    当時の週末の楽しみといえば、映画を観るぐらいで、週末ともなると、これらの映画館は一世の年寄りや日本からの駐在員、留学生たちで溢れかえっていた。特に東宝ラブレアで上映される日本映画は白人や黒人、それに日系アメリカ二世、三世たちにも人気があった。
    黒沢監督、三船敏郎の名前はアメリカでも広く知れ渡っており、「用心棒」や「椿三十郎」が上映されたときは、アメリカ人観客が列を作るほどの人気だった。
    一世たちには勝新太郎の「座頭市」や「兵隊ヤクザ」のシリーズが大好評で、二世、三世たちには加山雄三の「若大将」シリーズが大好評であった。
    また、週末のこれらの映画館は日系人や日本からの留学生、駐在員の社交場でもあった。週末に映画を観に行けば下宿屋にいた頃の友人、知人、学校を去っていった友人たちとばったり会うことがあり、映画鑑賞とは別な楽しみがあった。
    久しぶりに彼らに会うと連れ立ってハリウッド近くの「インペリアル・ガーデン」へ場所を代え、ホキ徳田(『北回帰線』などの文豪ヘンリー・ミラーと結婚した日本人)のピアノの弾き語り聴きに行ったりした。彼女は陽気な性格で酔うといつも適当に歌詞を変え弾き語っていた。(つづく)
    写真:住んでいたアパート、東宝ラブレア
    左の家には広島から来た四十代の帰米二世が住んでいた。週末の夜オレの部屋で麻雀をやっていると大声でオレの部屋にわめきながら入り込んでくるやきもち焼きの女房で主人も困り果てていた。

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    My Hardies in California 
    私の二十代
    (20)
    十月に入ってもロサンゼルスは夏のように暑いインディアン・サマーが続き、それが収まると自然は正直に秋の訪れを知らせてくれた。墓地のプラタナスの葉は日々に茶色に色づき始め、一枚、また一枚と枝から放れ落ちて、墓地全体を冬の景色に変えていった。
    トランジスター(携帯)・ラジオから流れるママス・アンド・パパスの「夢のカリフォルニア」を聴きながら空を見上げると、黄色みを帯びたスモッグが空全体を覆い、太陽の光も鈍いロサンゼルスでは感傷的な気分にはれなかった。
    名ばかりの四季、渇ききったこの地では、人は心までドライにするように思えた。
    当時の日本のマスメディアは、日本人留学生は学校も行かず、働いてばかりいると、なにかにつけ留学生をこき下ろしていた。日本でも働きながら学校に行く学生は多いのに、なぜ米国留学生は働いてはいけないのだと、オレはそのような非常識なメディアに驚愕した。オレはたとえ「アメション」(アメリカへ行って小便をして帰ってきただけという、米国留学をからかった言い方)と言われようが、会社を辞め、親に迷惑かけ米国留学したオレは、世界一豊かな先進国アメリカに来たからには、何事にも興味を持ち経験して、三十歳になるまでに自分の人生の道筋を決めるようという気持ちが強かった。
    学生時代、成績の優秀なヤツは教室では、
    「オレは家では勉強もせず、遊んでいる」と、いうような顔をしていたが、天才でない限り、陰では必死に勉強していたに違いないと、アメリカで留学生活する内に努力の大切さ、必要性を学んだ。だから学校と生活を支えるため、働くことだけの日々だった。
    金銭的余裕もなく、働くだけための夏休み,旅行など思いもしなった。クリスマスやイースターの休みに、仲間とヨセミテ国立公園やサンフランシスコなどへ一泊ドライブ旅行に出かけるのが関の山だった。
    それでも日本では出来ない「豊かなアメリカ生活」の経験できることに喜びを感じ、何の不満はなかった。
    オレは二年ばかりの日本でのサラリーマン生活であったが、満員電車に揺られ、終業時間が過ぎても上司が帰らない限り退社できず、仕事が終ってからも、上司に誘われると、夜の付き合いも断ること出来ない、日本独特の会社の仕来りにうんざりしていた。がから米国での生活は全く金銭と時間的余裕はなかったが、オレにとって他人に束縛されない、自由で快適な生活を送れる国だった。だから、日本は脳裏から消え去っていた。
    オレは英語学校を一年で辞め、大学へ入学した。英語学校に残っているのはアメリカ永住権獲得までの「学生ビザ」を隠れ蓑にしている連中が多かった。
    大学へ入学すると授業料など出費がかさみ、土、日もアルバイトに精を出し、仲間と会う機会はほとんどなかった。お互いそんな暇はないというのが本音だった。学校とアルバイトのない時はアパートの隣の帰米の二世のガーディナー、博士号を取った高知出身の天才たちとマージャンするか、日本人町へ出かけるぐらいであった。オレが日本人町に足を運ぶのは「大阪屋」で食事しながら、船便で送られてくる一ヶ月遅れの「デイリー・スポーツ」を読み、「日本書店」で、これも一ヶ月遅れの「平凡パンチ」や本を買う、ささやかな楽しみのためだった。
    それと日本からロサンゼルスにボクシング修行に来て一戦、一戦強くなり知名度が上がりだした西城正三選手の試合を見に行くことだった。西城選手に最初に会ったのは、1967年12月、日本人町のレストラン「大阪屋」であった。三人の日本人ボクサーが修行のためロサンゼルスに来ていることは日系新聞「羅府新報」で知っていた。
    彼らは私の隣のテーブルに座り雑談していたので、オレから声をかけて話題の中に入れてもらった。学生時代ボクシングをやり、アメリカに来てからはテレビで毎週ボクシングの試合を見ていたオレに、
    「日本のボクサーに比べ、こっちのボクサーはどうですか?」と
    一人が訊いてきたので、
    「日本のボクサーに比べて打たれ強いですね」と、言うと、
    「倒せばいいのでしょう」と、一人の若者がアイスクリームをなめながら、表情も変えず言った。
    それが後のWBA世界フェーザー級チャンピオン西城正三、21歳であった。
    西城選手と知り合った翌年の2月、彼が世界フェーザー・ランカー、メキシコ人ボクサー、ルイス・ピメンテルとの試合を見に行った。勝ったと思ったが、僅差でピメンテルの勝ちになった。
    その判定に観衆が騒ぎだし、一か月後再試合することに決まった。
    日本人観戦者はほとんどいない時代だった。その一か月後、西條選手はKOではなかったが、文句のつけようのない判定でピメンテルを下した。
    大学に入っても、日本からの留学生が白人や黒人学生と交流はあったとしても学校内だけだった。学校以外で交流関係を持つ留学生は希だった。日常的には日系人でさえ、他の人種の家を訪問することもなかった。
    日本の平均年収が750ドル(27万円)ほどの時代、親許からの仕送りで映画のような「楽しい留学生活」を送れる留学生は希で、ほとんどの日本人留学生同士の交流する時間もなかった。留学生は学校と生活費を稼ぐのに必死で、オレなどアメリカ人学生と交流する時間もなく、そんな気持ちも起こらなかった。また、敗戦国からきた発展途上国、貧困の日本人学生が白人アメリカ人との友人関係を築き上げるには、途方もないエネルギーと貴重な時間を費やす必要があった。アメリカ人学生から友達になろうと近づいて来ることもなかった。
    明治時代、夏目漱石や森鴎外のような著名人がイギリス、ドイツ、アメリカ等の西洋に海外留学して、その国での人々との交流録を書いている。漱石はせっかくロンドンまで来たのだからイギリス人の知人、友人を作らねばと、わざわざ英語の家庭教師を雇ったそうである。
    あの当時、アジアの東の隅にある小さな国から来た背の低い彼らが堂々と留学先の西洋人と交流したとは思えない。
    小田実にしても「何でも見てやろう」によると、彼は戦後すぐフルブライト留学し、多くの米国やほかの外国の知識階級の人々と交流し、英語で討論などしているが、どこまでが本当だったのだろうか。
    オレは上手く英語でコミュニケーション出来ないことも事実であったが、アメリカで差別を受けた記憶は全くない。アパートを借りに行ったとき断られたのは、若い貧乏学生だったからかも知れない。
    差別されていると感じるのは心の問題であり、差別を感じなかったオレは鈍感なのかも知れない。
    自分の生まれた国の環境、受けた教育、文化など自分の薄っぺらな物差しで、よその国や国民を判断すべきでないと思っていた。だから、アメリカがどのような国で、アメリカ人がどのような国民であるか、意識して、アメリカはこのような国だ、アメリカ人はこういう国民だと判断する気はさらさらなかった。
    アメリカの素晴らしいところは、夜間大学卒も全日制大学卒でも同じ教育を受けている限り、就職しても日本と違い昇進に差別がないことだった。
    (つづく)


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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki

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    海外留学が自由化されていなかった1964年、外務省自費留学試験を受け、100ドルを懐に米国留学、帰路、スポンサーも付けず、米国で稼いだ自費3,000ドルを元手に『日本で最初の世界一周』ライダーの実話
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    大迫嘉昭(おおさこよしあき)
    1939年 兵庫県神戸市生まれ
    1962年 関西大学法学部卒業、電鉄系旅行社入社
    1964年 外務省私費留学試験合格、米国ウッドベリー大学留学
    1968年 アメリカ大陸横断(ロサンゼルス・ニューヨーク)、ヨーロッパ、中近東、アジアへとバイクで世界一周
    1970年 バイクでアメリカ大陸横断(ニュ—ヨーク・ロサンゼルス)
    1969〜2004年  ヨーロッパ系航空会社、米国系航空会社、米国系バンク勤務

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    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (11)
    オレの心配事は葡萄が一刻も早く熟し、その房を切り取り箱詰めするピース・ワークで稼ぐことができるかどうかであった。
    休日の葡萄畑は陸の孤島。車がなければ動きが取れず、洗濯し「ブランケット(老人たち)」と交流を図り、退屈な一日を過ごすことになった。
    洗濯は小屋の外にあるコンクリート製の古い流し台でした。日本ではホテルのような特別のところしか、蛇口から湯は出ない頃であったが、アメリカではこのような農家でさえ当たり前のように太い蛇口から出る湯は使い放題だった。
    洗濯物はロープを張って干すと太陽の熱射をもろに受け、30分ほどでスルメのように固く乾き、ジンズは折り畳むのに苦労するほどパサパサに乾燥した。
    洗濯を終えると、もうすることは何もなかった。ふと思い出して日本へ手紙を書こうとしたが、葡萄の枝葉をハサミで切る作業で指が腫れ上がっており、ボールペンを握れば指が痛く諦めた。退屈しのぎに、朝鮮半島出身老人が寝そべっているベッドに行き、映りの悪い白黒テレビを見せてもらうことにした。
    英語は理解できなかったが、秋の大統領選挙へ向けてのジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会の放送をしていた。共和党のジョンソン大統領は一年前、ケネディが暗殺され後、副大統領から格上げされた大統領であったが、政治力は民主党のゴールド・ウォーターのほうが上だといわれていた。
    さすがに人種の坩堝アメリカである。オレが作業している葡萄畑の周辺でも一票でも多く得るためアジア系有権者を対象に「金水(ゴールド・ウォーター)」と漢字で印刷したステッィカを貼った選挙運動カーが走っていた。英語が理解できないとテレビを見ていても面白くなく、ほかの老人たちの小屋を覗きに行った。彼らの小屋でもジョンソン大統領とゴールド・ウォーター候補の公開討論会のテレビ放送を流していたが、誰もそれには無関心に将棋やカードに熱中していた。
    小屋の外では、鹿児島出身のテッド老人が木陰に椅子を持ち出し、宮城県出身のケン老人の散髪を終えたところだった。
    「ユーも坊主にせんか」と言うので、オレも暑いのでテッドにバリカンで丸坊主にしてもらうことにした。彼に言われるままに半そでの下着を脱ぎ、上半身裸になり散髪が始まった。
    黙って座っていると間が持てないので、オレは南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツへ入団した、日本人初のメージャーリーガー村上雅則のことや、十月の東京オリンピックに向け、今、急ピッチで競技場や高速道路の工事が進んでいることなどを話題にし、切れの悪いバリカンに我慢しながら話題の散髪だった。
    この葡萄農家に来てから、オレの興味は、この老人たちが、どのような人生を歩んできたのかということだった。散髪してもらいながら、テッドのそれまでの人生を聞いてみたくなり、
    「何でアメリカに来たんですか。良かったら聴かせてくれませんか?」と言うと、彼は突然無口になり、切れの悪いバリカンの動きが止った。
    人には聞かれたくないものがある。
    その時、オレは聞く話題でないことを一瞬に悟ったが、とぼけたふりをして振り返って、
    「どうしたのですか」と、声をかけた。
    その時、オレができることは、バリカンの止まったままの頭を下に向け身動きひとつせず、彼の反応を待つしかなかった。
    「ユー、幾つや」
    「24です・・・」
    非常に気まずい一瞬だったが、
    「そうか」と、続けた後、テッドはため息をつき、ボソボソと小さな声で彼の今までの人生を悔やむような声で話し始めた。
    テッドが20歳の頃、アメリカで一儲けし、郷里の村に水道を敷いた人から成功物語を聴き、彼も一獲千金の夢を抱いてアメリカ行きを決行したと、語り始めた。
    ところが乗り込んだ船はアメリカに寄らずメキシコに入港してしまった。
    その船にはテッド青年のような若者が30人ほど乗り込んでいた。その中の4,5人の青年たちはメキシコに入港した船から飛び込んでメキシコへ密入国し、メキシコ人農家でタダ働きしながら北へ北へと進み、国境を越えアメリカへ密入国したそうだ。
    当時、若かったテッドは旅券さえあればどこの国にも入国できると思っていたそうで、目的地であるアメリカのビザさえ持っていなかったそうだ。アメリカへ密入国してからは早く金を貯め、「故郷に錦を飾る」日を夢見て、昼夜、鉄道工事現場や白人農場で、少しばかり蓄えが出来た。
    ある夜、仲間の日本人と酒を飲み、酔っぱらって眠込んだ隙に、苦労してため込んだ全財産を仲間に持ち逃げされ,そのことがあってから彼は自暴自棄になり、酒、バクチ、女の生活を続けた挙句、六十歳を過ぎたその時も夢を叶えるえることなく、季節労働者としてカリフォル二アの農家を転々としていると自嘲気味に言った。
    大樹の木陰で散髪しているオレの横では、いつの間にかブランケットたちが将棋盤を囲み、「金を取れ」とか「飛車を張れ」などと盛んに大声援を出し葡萄園の休日を楽しんでいたが、この老人たちの人生もテッド同様の人生を歩んだように思えた。




    Oldies’60s,&
    My Hardies in California 
    私の二十代
    (12)
    カリフォルニアの遅い夕闇が訪れると、乾燥した葡萄畑の夜空一杯に星が鮮やかに輝き始め、爽やかな風が何処からとなく現れ、昼間の葡萄畑の炎暑が嘘のように一変した。
    給料の出た週末の夕食後、テッドやブランケットの季節労働者たち四、五人がデラノのダウンタウンケンへ飲みに行くらしくオレも誘われた。飲みに行く金のないオレは断ったが無理やり誘われ、行く羽目になった。
    彼らの中ではケンだけが大事に使っている、今にもエンストしそうな50年代の古い年代のフォードに乗り込んだ。エンジンが始動すると、黒煙のにおいと爆音に驚いたのか、夕闇の農道へウサギが葡萄畑から飛びだし、ヘッドライトの前を横切った。無数のアンパンほどの大のガマガエルは微動ともせず農道に居座っていた。それをケンのオンボロ車はビシッ、ビシッとイヤな嫌な音を立て轢き殺しながら、葡萄畑の農道をデラノの飲屋へと飛ばした。
    デラノの町には、葡萄畑で働く季節労働者が相手の飲屋が多くあった。車を飲屋の裏の駐車場に止め、オレは老人たちの後について小さなバーへ入った。
    バーのオーナーは、日本に進駐していた米兵と結婚、夫の除隊と共に米国に移住、その後離婚した「戦争花嫁」と呼ばれていた中年女性が経営していた。オーナーともう一人同じ境遇の日本女性が働いていた。飲んでいるうちに、老人たちが葡萄畑で、時々、大声で口論しているのは、このバーの女性たちのことが原因であることがおぼろげながら理解できた。
    作業には日が経つに連れ慣れていったが、照りつける太陽の熱さに慣れることはできなかった。太陽は常に頭上で輝き、葡萄畑を焼き尽くすような熱さであった。スプリンクラーで捲かれた水は蒸発の勢いを増し、立ち昇る水蒸気で葡萄畑の風景は大気の中にゆらゆら動いていた。我々は激しく照りつける太陽を少しでも遮るため長袖のシャツを着て作業していたが、オレの体には火傷のようにあちこちに小さな水脹れができ、その水脹れを体中から噴き出る大粒の汗は塩の塊となって刺激し、ベッドで横になると飛び上がるように痛かった。
    葡萄畑での唯一の楽しみは、中年の白人夫婦が豆腐売りのラッパのような音を流しながら、葡萄畑の農道を午前と午後フード・トラックにハンバーガー、サンドイッチ、コーヒーやコーラなど冷えた飲物を積みゆっくりと動き回っていた。オレは老人たちに頼まれ、駄賃を貰い、何本もの葡萄棚の下を潜り抜け、農道のフード・トラックを追いかけ買いに行った。日によっては数回買いに行くこともあったので、フード・トラックの夫婦とは馴染みになり、時々、大きな紙カップに入れたアイスクリームをくれた。そんなちょっとした親切心が酷暑の葡萄畑で働くオレの心を癒してくれた。
    オレは腕時計を凝視しながら、ジョージがトラックの上からの合図を待った。ジョージの大声とともに、やっと長い一日が終った。
    キャンプへ戻るトラックの上で葡萄畑を眺めながら、また明日もここで働くのかと思うと恐怖感を覚える日々が続いた。
    季節労働者ブランケットの連中さえ、南カリフォルニアのレモンやイチゴ畑で働く方がずっと楽で、葡萄畑は暑くつらい仕事だと言っていた。
    この葡萄農家キャンプに来て、三週間が過ぎても葡萄の収穫は始まらなかった。
    ある朝、食堂で日系新聞「羅府新報」の求人欄を見ると「ガーディナーのヘルパー(庭師の助手)求む。ヒガ・ボーディング」と、載っていた。
    オレはロサンゼルスのホテルの主人が言った『ガーディナーのヘルパー』のことを思い出した。
    早速、オレはロサンゼルスのボーディング(下宿屋)に電話を入れた。ロサンゼルスの家はどこも広い庭があり、家主はガーディナー(庭師)と契約して、庭の手入れ頼んでいた。夏場は芝生の伸びが早く、その芝生を刈るのがヘルパー(助手)の主な仕事で、夏場はヘルパーが必要で、ヘルパーの賃金は一日15ドルだとボーディングの女主人は言った。
    何時ピース・ワークが始まるか分からないキャンプにいても、後一ヶ月ほどしかない夏休み中に、200百ドルも稼ぐことは不可能と判断、葡萄畑の主人サムに事情を話し、ロサンゼルスの下宿屋に入ることにした。
    このデラノの名前が一躍アメリカ中に知れ渡るような事件がレーガン・カリフォルニア知事時代(1970年代)に起こった。
    オレと同じようにデラノの葡萄農家で働いていた日系人やメキシコ人農業労働者たちが、ナショナル・ワーカーズ・アソシエイション(全国農業労働者結社)のあと押しによって、いっせいに葡萄摘みをボイコットした。
    それまではカリフォルニアの最低賃金にも満たない時給一ドルそこそこの賃金で、朝早くから夕方まで奴隷のようにこき使われ、トタンとタール紙でできた粗末なバラック小屋に寝泊まりしながら、労働契約を結ぶ請負人や仲介者の言いなりになっていた彼らが、ついに立ち上がったのである。まさに、オレが働いたデラノはスタインベックの「怒りの葡萄」の舞台そのものであった。
    そして、それまで無縁であった、医療手当、有給休暇、年金給付の権利などを、何百万人もの支持を得て勝ち取ったのである。
    時間的には短かったが、オレも「怒りの葡萄」の主人公たちと同じ場所で、同じような経験をしていたのである。
    そう言えば、第三者には取り立てて大事そうには思えないが、オレには忘れることのできない想い出がある。
    植村直己の著書「青春を山に賭けて」に、彼はオレより二か月早い1964年5月、横浜港からブラジル移民船に乗り、サンフランシスコとロサンゼルスの中間地、「パレア」の葡萄畑で働いた。何とそこはオレが働いた葡萄農家のデラノ近くであった。
    事実は小説より奇なりである。
    彼は「青春を山に賭けて」の中で彼は、「日中は40度の高温が続き、砂地の幅射熱を受けると、いても立ってもいられないほど暑いところだった」、「朝早くから働きに駆り出された」、「葡萄棚の中に巣を作っている蜂の大群に刺された」、「賃金は日本のそれとは比べ物になかった」とか、オレが同じ時期(1964年)、同じようにカリフォルニア中部の葡萄畑で終えが経験したことや感じたのと同じことを書いている。
    だから、彼も同じように、目的に向かい、百ドル前後を懐に渡米し、オレと同じデラノ近辺の葡萄農家で働いていた彼を戦友だと誇りに思っている。


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    Oldies60s & My Hardies in California
    私の二十代
    (13)
    皆さま、いつも下手な昔話を読んでい戴き感謝しております。書き手と読み手とは感じ方が違い、素人の私は、60年代アメリカが激動した時代の生き様を試行錯誤しながら書いています。読み手は長いと読む気がしなくなると思いますので、今日から今までの三分の一の長さにしてみます。ご意見頂ければ幸いです。
    ガーディナーのヘルパー葡萄の収穫期の遅れで、稼げなかったオレは、新聞広告で見つけたガ―ディナーのヘルパーをして稼ごうと、デラノからロサンゼルスへ戻り下宿した。下宿屋の経営者は沖縄から移民したヒガ(比嘉)という六十過ぎの老夫婦だった。当時、ロサンゼルスには日系人が経営する下宿屋が数軒あった。日系人はそれを「ボーディング」と呼んでいた。中でもヒガ・ボーディングはその歴史の長さと部屋数の多いことで日系人社会では知らぬ者はいなかった。
    同じ頃、あの有名な冒険家植村直己も、オレと同じようにカリフォルニア中部の農園で働いたあと、このボーディングに下宿し、ガーディナーのヘルパーをして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指して、フランスへ旅立ったと後で知った。同じ下宿屋にいたのなら、顔ぐらい合わせたかもしれない。彼も無名時代だったので、逢ったかどうかどうか確信はない。
    私が、ミセス・ヒガにデラノでの事情を話すと、「デラノで働いていたの?それじゃヘルパーはそれに比べるとイージーよ。でも、経験がないから2,3日ガーディナーについて見習いをするの。ユー、ノー(わかった?)」と、言って部屋へ案内した。
    ヒガ・ボーディングは元々白人が所有していた大きな舘で、ロサンゼルスの中心地のベニス通りとウエスタン通りの交差点近く、ベニス通りに面していた。交差点の周りにはガソリン・スタンドで有名な「76」、スーパー「SAFEWAY」やこまごました商店が軒を並べた黒人の多い街だったが、黒人街と言うほどではなかった。
    二階建ての古びた大きな館のような二棟には8、9部屋あり、各部屋には3つか、4つのベッド、それに時代物の机と椅子が備えてあるだけで、それ以外、家具らしきものはなかった。その建物の裏は広い駐車場になっていた。部屋代も新館と旧館とは違い、旧舘のオレの部屋代は、三食付き65ドルだった。下宿代を払うとほとんど残らなかった。
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    My Hardies in California 
    私の二十代
    (14)ガーディナーのヘルパー
    この年(昭和39年)4月、日本は海外渡航が解禁になり、どこで知ったのか発展途上国日本からのアメリカへ来る旅行者間では、ガーディナーのヘルパーをして稼ぐ最高の下宿屋と有名だった。特に夏場は芝生の伸びる季節で、このヒガ・ボーディングは満室だった。
    1960年代、ロサンゼルスのガーディナー(庭師)は日系人の生業だった。彼らは芝刈機、庭帚、枝切りハサミなどガーディナーの七つ道具を小型トラックに積み込み、一人で一軒一軒長期間契約している顧客の庭を手入れして回っていた。
    しかし、夏は芝生の伸びが速く、ガーディナー一人では芝生を刈ったり、花壇の手入れするのに時間を食うので、彼らガーディナーはヒガ・ボーディングの下宿人をヘルパーとして雇い使っていた。
    当時のガーディナーは終戦の1945(昭和20)年後半に「短農(短期農業実習)」という名目のもと、アメリカ政府の恩恵に与かり、日本からアメリカへ渡った「戦後移民」だった。「短農」たちはアメリカ人の嫌がる、低賃金でカリフォルニア中部のサリナス、フレスノ、デラノなどの農園で働き、契約期間が終わると米国政府から永住権を与えられ、自由の身となった彼らは、日系人の多いロサンゼルスに流れ込み、ヒガ・ボーディングに下宿した。だから、ミセス・ヒガとガーディナーたちは身内のように親しかった。そして、短農出身者は業農園で働いていた特技を生かし、ガーディナーの仕事を始め、アメリカでの生活の基盤を築いていった。
    日本人ガーディナーはまじめで仕事の出来上がりがきれいと評判だった。ビバリーヒルズ、ハリウッドなど白人金持が住んでいる地区だけでなく、ロサンゼルス郡の市や街がアメリカで最も美しいと言われているのは、オレたちがおるからだと日系ガーディナーたちは自慢気に言っていた。それは間違いではなかったが、ガーディナーたちの顧客取り合い競争も一因あったと思う。
    海外渡航自由化になり、住むところも仕事もない日本から来た者にとって、ヒガ・ボーディングはガーディナーのヘルパーの仕事を簡単に見つけることのできる職業斡旋所であり、ガーディナーにとって役に立つ仕事のできるヘルパーを採用できる所であった。そして、ヒガ・ボーディングは仕事を求め日本からの下宿人で潤い、三者の思惑がうまく噛み合っていた。
    海外渡航自由化後、多くの日本人若者たちが観光ビザでロサンゼルスに着くと、まずヒガ・ボーディングで荷を解いた。彼らの多くは賃金の高いアメリカで稼いだあと、北米や南米旅行、あるいは世界一周旅行などを志す若者たちであった。発展途上国日本ではエリートのアメリカ駐在員も、生活費を切り詰めるための下宿屋でもあった。
    写真は現在の元ヒガ・ボ-ディングの建物
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    私の二十代
    (15)ガーディナーのヘルパー
    下宿人は男性ばかりで、女性はミセス・ヒガと日系人の賄い婦数人だけであった。ガーディナーたちの朝は早かった。下宿人たちは六時頃から朝食を摂り、食堂でガーディナーが来るのを待った。
    作業着に汗で塩の噴いた野球帽を被ったガーディナーたちが、建物の広い駐車場にトラックを停め、次から次へとヘルパーを採用するため食堂へ入ってくると、ミセス・ヒガは経験豊かなヘルパ-を下宿人の中からテキパキと選び、ガーディナーに紹介していた。
    経験のないオレは、2,3日タダ働きして仕事を覚え、ヘルパー業を始めた。
    毎朝、オレはボーディングが用意してくれるサンドイッチにバナナなど果物の入ったアルミ製アメリカの弁当箱を持って、その日の雇主であるガーディナーのトラックに乗り込んだ。
    ガーディナーの中でも昔からやっている年寄り連中は、ハリウッド地区やビバリヒルス地区などの大金持ちを顧客に持ち、大きな舘の庭の手入に一日中へばりつきで、移動なく、ガソリン代も最小で済み稼ぎも良かった。一般的にはガーディナーの顧客は、広いロサンゼルス中に点々と散らばり、移動に時間がかかっていた。ガーディナーは、顧客の庭の広さや月に何回、訪問し庭を手入れするかなどを基準に、顧客と契約を交わしていた。
    この移動中、ヘルパーはガーディナーの運転するトラックの横に座り休憩できたが、ガーディンナーはガソリン代や一日で周る顧客数によっては、収入に影響していた。
    当時のロサンゼルスの街並みや白人住宅街、プール付きの家や庭は映画やテレビでしか観たことしかなく、素晴らしいアメリカの風景にダダ驚くだけだった。
    顧客の家に着くと、ヘルパーオレはトラックから、エンジン付きの重いロンモア(草刈り機)を降ろし、どの家の正方形に固定化された広い裏と表の庭の芝生刈りが主な仕事だった。
    オレが芝刈りをしている間、ボス(雇い主はそう呼ばれていた)のガーディナーは表や裏の庭木や花壇の手入れをした。芝刈りが終わると、水圧が強く、勢い強く噴き出す直径2cmほどの長いホースで庭、玄関、ガーレジのごみを洗い流し、一軒終了。これをガーディナーが一人でやると一時間ぐらいかかるが、二人でやると三十分以内で終わった。ヘルパーはテキパキと動かないと、ボスからミセス・ヒガに連絡が行き、翌日から仕事がもらえなかった。重い草刈り機と共にプールに落ち、油でプールを汚し、プールの清掃代を払う羽目になったペルパーもいた。
    芝生の伸びが早い夏は、ガーディナーはヘルパーのオレの支払もあり、日の長い夏場であり普段より多くの客を取り、目いっぱいこき使われた。
    1964年当時、1ドルは固定相場で360円だった。アメリカの最低賃金は時間1ドル5セント(378円)で、日本のバイト料の1日分に匹敵した。
    アメリカ人の平均月収は約500ドル(18万円)前後であったが、ガーディナーの月収は日本の平均年収約29万円に匹敵する700から800ドルを1か月で軽く稼いでいた。一方、ヘルパーは日給制で、一日15ドル(5,400円)、日本の10日分に匹敵したが、二世の若者など見向きもしない仕事だった。
    ハリウッドの映画俳優の庭も何軒か手入れに行った。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付き豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。ハリウッドの映画俳優の庭も何軒か手入れに行った。彼らはサクセス・ストーリーのステータス・シンボルである広い庭にプール付き豪華な家に住み、まるで映画の一シーンに飛び込んだような気分だった。
    昭和三十年代、人気テレビ映画「ローハイド」で老コック「ウイシュポン」を演じていた俳優(写真・ポール・ブラインガール)の庭も手入れした。
    彼は役のような老人かと思っていたが、実際は四十六歳で、二十七歳のワイフと六ヶ月の子供がいた。
    前年、昭和三十七・八年頃、「ローハイド」で共演していたクリント・イーストウッドたちとテレビ局の招待で日本を訪れていたので、二度目に彼の庭の手入れに行った時、オレは彼と庭先で一緒に写真を撮り、仕事が終わるとビールを飲ませてくれた気さくなオッサンだった。
    あの有名な歌手であり、女優であるドリス・ディ宅にも行ったが、目が合っただけでタダのオバさんだった。
    ちなみに、ドリス・ディといえば、「センチメンタル・ジャーニー」
    「二人でお茶を」「ケ・セラ・セラ」などの大ヒット曲で知られ、その後、女優業に力を注ぐようになった。オレが会った時は四十歳ぐらいで、この数年後(六八年)から始まる「ドリス・ディ・ショー」というこれまた人気テレビ番組開始までの、半ば引退同然のような休養中の時期だった。
    ガーディナーの中には、「発展途上国」日本から来たヘルパーを、明らかに見下しているような奴もいた。
    自分たちが米国で苦労したのであれば、あとから来た同胞日本人には親切にしてやるべきだと思うが、同朋でありながら新参者を受け入れない雰囲気があった。しかし、同国人といえ、競争相手が増えると、自分たちの職場を取られてしまうと恐れがあったからだ。だから、こうした傾向はどこの国の移民でもあったようだ。
    観光ビザでアメリカに入国して働くことは違法だった。ガーディナーたちはほとんどのヘルパーが観光ビザで入国していることを知っていた。だから、ヘルパーはボスであるガーディナーに楯突くと移民局に密告され、強制送還されることを恐れて彼を雇っているボスには文句の一つも言えなかった。ボスともめたヘルパーがボスに移民局へ密告され、日本へ強制送還された話は何度となく聞いた。今は水節約でどこの前庭も芝生ないようですね。
    (つづく)
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    引用元:https://www.facebook.com/osako.yoshiaki




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